第3話 夏風邪とねぼすけさん
――夢を見た。
最初に聞こえてくるのは、私の知らない誰かの悲鳴と強く降りしきる雨の音。
燻んだ視界に見えてくるのは、周りを囲む人々の恐怖に満ちた表情。
どうしてそんな目で私を見るんだと、その人たちに向かって手を伸ばそうとしても、その身体は指一本動かない。口すら動かせずに、声も出せない。
感じられるのは何か温かいものに浸っているような感覚と、誰かと繋いだ手の暖かさだけ。
そうしてしばらく騒がれた後、名前も知らない皆が離れていって。
自分の身体が冷たくなっていくのを感じながら、手の暖かさすら遠のいて、やがて一人になる。
孤独がもたらすあらゆる負の感情を無理やりまとめて流し込んでくるような、そんな夢を。
それは間違いなく、初めて見るもの。だけどどこか既視感があって、心を針で突き刺されるような痛みを伴っていて。
目覚めた私の目には、眠くもないのに涙が浮かんでいた。首だけを動かして窓の外を見ると、明け方の青みがかった暗い空が見えた。
眠くはなかったのでぐっと身体を起こそうとするけれど、なぜか力が入らない。
諦めてもう一度ベッドに身体を戻すと、そのまま沈み込んでいくような身体の重さを自覚した。
朝は寝起きの気怠さでいつもしばらく起き上がれないのだけど、今は重さに加えて全身が肌寒くて気分が悪い。ブランケットを被っているのに、身体の底が冷え切っているような感覚が、私の身体を包み込んでいた。
この感覚に覚えはない。けれど、それがどういうものによって引き起こされたものなのかは私でも流石に知っている。
要するに私は、生まれて初めて夏風邪を引いてしまったのだった。
*
「うぅ……きもちわるい……」
自分のものとは思えないような掠れた声が、喉の奥から漏れてくる。起き上がるのダルいし寝てれば治るかな、なんて思って今まで二度寝を貪っていたのだけど、予想に反して症状はさらに重くなってしまった。
肌寒さが酷くなるのと一緒に頭や喉の痛みが引き起こされて、時々何の前触れもなく、咳やくしゃみが飛び出てくる。風邪なんて引いたことなかったから分からなかったけれど、こんなのを皆は何度も経験しているのだろうか。
首から上だけを動かして壁に掛けてある時計を見ると、針はもう昼過ぎを指している。学校に連絡はできていないから、またサボりだと思われるのだろう。
それは少し嫌だけど、こういうのは自分から連絡しても意味がない。それに、今年は晴宮のおかげで去年より授業の寝過ごしも減っているはずだから、欠席日数だってまだ余裕がある。
――あぁ、でも。もうすぐ中間テストなんだっけ。
カレンダーの方へ目を向け、熱に浮かされた視界の中で小さな赤丸を見つめる。まだ余裕があると思っていたのに、その印がつけられた日まではいつの間にか二週間を切っていた。
まあ多分いつも通りにやれば問題はないとは思うけれど、今まで引いたことのないこの風邪がどうテストに影響するのかは未知数だった。
そういえば最近、クラスの皆の表情が少しだけ沈んでいたように思っていた。その時は何故か分からなかったけれど、テスト週間に入って部活が無くなったからだと今になって気づく。単純にテストが近づいてきた、というのもあるのだろうけど。
……部活、か。
身体を元に戻して、天井を見上げる。
私は生まれてこのかた、そういうものに所属したことがないから分からないのだけど、無くなったら落ち込んでしまうくらいには楽しいのだろうか。私は……多分、楽しめないと思う。身体的にも、精神的にも。
だからこの間、野球部の練習を見ながら、晴宮に何か部活をやっていないのかを聞いてみた。晴宮は別にあの屋上にとどまる理由なんてないし、私のように痩せこけているわけでも、運動が苦手という訳でもなさそうだったから。
返事を一字一句すべて覚えているわけではないけれど、確か私のお世話をしながら部活に勤しむ元気は流石にないと。そんなことを言っていたような気がする。興味があるのかどうかは分からなかったけれど、少なくとも今は何処かに入るつもりはなさそうだった。
肝心の晴宮の表情は呆れたようだったから、あの子は嫌味のつもりで言ったのだろうけど。その言葉を聞いた時は嬉しくて、何より本当に有難いと思った。
――誰かに起こしてもらえて、何の意味もない会話を交わせる。
そんな生活、本当に久しぶりだから。
「ふふ……っ」
思わず、小さな笑いが漏れてくる。
これを晴宮に見られていたら「なに一人で笑ってるんですか気持ち悪い」なんて言われるんだろうか。一度想像してみたけれど、それはそれで悪くはない。そういう変に気を使わないところが好きなのだから。
……いやでも、本当に気持ち悪いかもしれないな、私。
自分自身の軽率な思考を咎めていると、枕元に置いていたスマホが突然通知音を鳴らす。繋がりのある友達も親戚もほとんどいない私にとって、スマホの通知音は割と珍しいものだった。
つられるように寝返りを打って画面を見ると、デフォルトのままのホーム画面にメッセージアプリからの通知が来ていた。顔認証でロックを解除すると、内容と送り主の名前が表示される。
噂をすればなんとやら、というわけではないけれど。そこに書いてあったのは晴宮の本名と『起きていますか?』という短い文章だった。
その前にメッセージのやり取りをしたのは、五月にあった中間テストの初日。冗談半分でモーニングコールを頼んだら本当にしてくれた時のもので、かれこれ一ヶ月半くらいはメッセージのやりとりをしていないことになる。
屋上で毎日会っているのだから、何か伝えたいことがあるのならそこで言えばいいというのは分かるけれど。その期間の空き具合には、なんだか据わりの悪さを覚えるものだった。
画面左上にある時刻表示に目をやると、丁度一三時――昼休みが終わるまであと十五分であることを示していた。きっと起こしに来たら屋上に私がいなかったから、もしや寝坊して、そのうえ授業をサボっているんじゃないかと思って連絡をくれたんだろう。
直接言葉にしたらきっと否定されるだろうけど、やっぱり晴宮は優しい。私なんかほっといて、始まったばかりの高校生活を謳歌することだって出来るだろうに。
それに甘えてしまっている私も、私だけど。
『ちゃんと起きてるよ、風邪引いちゃって家にいるだけ。ごめんね、心配かけて』
『別に心配してたわけじゃないですよ。ただ、もうすぐテストのくせしてなに寝過ごしてんだこの馬鹿は。と思っていただけですから』
『馬鹿じゃないし。こうして風邪引いたんだから。それに私、こう見えて成績は結構いいんだけど?』
『風邪を誇らないでください。見栄を張っても虚しくなるだけでしょうに』
『信用してないな、このやろー』
『信用しろって方が難しいと思いますけど』
次々と文字に起こされていく晴宮のいつも通りの台詞に、思わず頬が緩んでしまう。血管を伝うように私の全身に広がる心地よさは、晴宮のクッキーを食べた日の夜に感じた温かさによく似ていた。
……だけど、その安心感は同時に、部屋の静けさと孤独感をさらに引き立ててしまって。
『ね、ちょっとだけ通話しない?』
気がついたら、そんな文章を送っていた。
いつもはこのあたりの時間に起こしに来てくれるのだけど、こうして家にいる今、そばにあるのは晴宮の顔ではなくメッセージアプリのやり取りだけで。
贅沢なお願いなのは分かっているけれど、どうしても物足りなくなってしまう。
たとえごく短い間だけで、時間が経てば帰ってくるものなのだと分かっていても。
慣れ親しんだ何かが自分の傍に無いというのは、どれだけ経験しても、どれだけ時間が経っても慣れられることではなかった。
『スマホ見てるくせに時間見えてないんですか?もう昼休み終わるんですけど』
『お願い、五分だけでいいからさ。駄目?』
『それ絶対五分で終わらないじゃないですか。何か話したいのなら、放課後にかけてきてくれれば付き合いますから。病人は大人しく寝ていてください』
『えー』
『えーじゃないです。じゃあわたし、もう戻りますから。くれぐれも無理しないように』
ささやかな抵抗として、アプリにデフォルトで備わっている、涙を流す謎のキャラクターのスタンプを送りつける。けれどそれに既読はつかず、本当に教室に戻ったらしかった。
あの子としては突き放したつもりなのだろうけど、言葉の節々から優しさが漏れて出てきているのが分かる。なんだかんだ言いながら、結局は私に付き合ってくれるのも晴宮らしい。
もっともそれがどうしてなのかは、かれこれ三ヶ月くらい一緒にいる今でもわからないのだけど。
「……私、あの子に何も返してあげられてないな」
スマホの電源を切って、その手の甲をそのまま、視界を覆うように額に当てる。視界を覆う暗闇は、普段なら眠る直前のような心地よさをもたらしてくれるのだけど。今の私に与えられたのは漠然とした不安だった。
当然だけど、今の私が晴宮と一緒にいられているのは当たり前のことではない。
人と人が一緒にいられるのは、お互いがお互いにとって必要であるからこそだから。
もちろん私は晴宮を必要としているし、出来るだけ一緒にいたい。でも、晴宮が私をどう思っているのかは分からない。むしろ晴宮の普段の言動を鑑みれば、そう思っていない可能性の方が高いとすら思う。
だから、私が晴宮と一緒にいるには、相応の対価が必要なはずなのだけど。それの払い方が私には分からない。
それに、晴宮は何が好きなのか、何をすれば喜んでくれるのか。そういうことを私は何も知らない。
この間、クッキーのお礼をしようと遊びに誘ってみたけれど。晴宮は躊躇なく、別にお礼なんて必要ないと言っていた。
でも、それでは私の気が済まなくて、面白くもない嘘をついてまで返そうとした。
その結果、得られたのは「昼ご飯を食べてから寝てください」なんていう、私じゃなければ誰でも出来るような頼み事だけ。
あの時はなんとか普通に受け答えできたし、晴宮に直接言われたわけではないけれど。改めて、突きつけられたような気分になった。
……晴宮は、きっと私に何も期待していない。
私が何もできないことを前提として、何か返ってくることもないのに根気よく付き合ってくれている。
今まで見て見ぬ振りをして、晴宮に甘えていたけれど。これからも一緒にいようとするのなら向き合わざるを得ないのだと思う。
――晴宮が私の傍にいる意味なんてものは、この世界のどこにもないんだってことに。
「……やだな、それは」
逃げるように目を瞑って、小さく呟いた。
視界が暗闇に覆われて、身体にまとわりつくような眠気が襲ってくる。普段なら何も感じないはずのそれが、今はとても気分の悪いものに思えてならなかった。
だけど、身体から離れていく意識を引き戻すことは出来なくて。
いつの間にか、私はまた眠りについてしまった。
*
今度は夢を見ることもなく、自然に目が覚める。
寝惚け気味で薄く開いた視界に映るのは、電気の付いていない真っ暗な部屋だった。どうやらもう日は暮れているらしく、暗闇に慣れてきた視界に見える時計の針は、今が二二時過ぎであることを示している。少しだけ首を動かして窓の外を見ると、真っ暗な夜空にぽつぽつと星が浮かんでいた。
たくさん寝たからかは知らないけれど、風邪の症状がいくらか軽くなっている気がした。お昼に起きた時は起き上がるのも億劫だったけれど、今なら何とかなりそうだ。
「……お腹、空いたな」
小さく呟きながら、ゆっくり身体を起こした。いくら私でも、朝から何も食べていないとお腹が空くらしい。ベッドから降りて床立つと、身体が少しぐらついた。
症状自体は軽くなったと思うけれど、空腹感と合わさって気分は相変わらず悪い。もどす物なんて何もないのに、喉の奥が焼けるような感覚がした。
壁を支えに歩いて、何とか台所まで辿り着く。コップを一つ取り出して水を飲むと、身体に水分が行きわたって、身体が息を吹き返していった。
――今の私でも食べられる物、何かあったっけ。
冷蔵庫は相変わらずほとんど空っぽで、いつも朝ご飯に使っているジャムやマーガリン以外は何もない。肝心の食パンは、間が悪く昨日で切らしてしまっていた。向かいの棚にはカップ麺があったけれど、空腹感に反して食欲が湧かない。無理矢理に詰め込むことは出来そうだけど、今それを食べたら、変わり果てた姿で器の中にもどしてしまいそうだ。
何かをお腹に入れるのは諦めて、ベッドに戻ろうと視線を元に戻すと。視界の端に、まだ一度も使っていない炊飯器が目に入った。ここに住み始めたのが高校に入学してからだから、もう一年と三ヶ月くらいは経っている。
理由もなく蓋を開けてみるけれど、勿論そこにはなにも入っていない。新品同然の黒くて冷たいご飯釜が、真っ暗な部屋に紛れているだけだった。
まだ時間はそれほど経っていないはずなのに、この釜の中で炊き立ての白いご飯が湯気を上げていた時のことが、ひどく遠いものに感じられた。
――お母さんか叔母さんがいれば、お粥でも作ってくれたのかな。
言葉には出したくなくて、心の中で呟く。
楽しかった思い出と、思い出したい記憶。その二つはほとんどの場合、イコールで結ばれているように思う。
だからこそ今を生きる皆は昔を懐かしんだり、気が向いた時にアルバムを見返したりするのだろうから。
……けど、私は違う。
わがままが許されていた。こんな私の傍にいてくれた人たちの元で、何の気も遣わずに走り回っていた私。
一緒に笑い合える友達に囲まれて、このままどこまでも、皆と一緒に走って行けるはずだと信じて疑わなかった私。
ずっとそばにいてくれると思い込んで、お父さんにも、お母さんにも、叔母さんにも。ろくに何も返してあげられなかった私。
本来なら振り返ればひとときの救いになるはずの、楽しげな記憶。
でも、その中ではいつも、無知な私が薄っぺらな笑顔を浮かべていて。
今でさえ、その無知な私でいる事でしか、晴宮と一緒にいる術を知らなくて。
思い出す度に、それを咎めるような鈍い頭痛とひどい耳鳴りに襲われる。
「いぁ……っ」
喉の奥から動物の鳴き声のような、くぐもった声が漏れた。両手で頭を押さえながら、ぐっと歯を噛み締める。
高校に入ったばかりの頃は毎日のように思い出していたけれど、晴宮と一緒にいるようになってからは少なくなっていた。
その間隔の空いた分を帳尻合わせしているのか、風邪で早く、強くなった脈拍に合わせて、頭痛は際限なくひどくなっていく。頭をバットで殴られ続けているようだった。
やがて身体に力が入らなくなって、その場にぺたりと座り込んだ。悲しさと、寂しさと、空しさと、自分の至らなさ。その全てが混ざり合って頬を伝う。
滲む視界では、子供の頃の思い出と変えようがない現実がぐちゃぐちゃになって。
痛みと一緒にすうっと意識が遠のいていくような。そんな感覚がした。
――丁度、その時。
「え……?」
ベッドがある方向から、聞き慣れない音楽が鳴り出す。いつも朝に鳴り響くうるさい黒電話の音とは違うけれど、温度を感じない無機質な音だった。
記憶がおぼろげだけど、確かこれは、私が使っているメッセージアプリの電話の着信音だった気がする。
シンクの端を掴んで無理矢理立ち上がって、音が鳴っているをほうを見やる。すると、真っ暗な部屋の中で、枕の横に置いてあるスマホの画面だけが明るく光っていた。どうやら私の予想は当たっているらしい。けれど、ここからでは誰からの電話なのかが見えなかった。
その音に導かれるように、片手で痛む頭を押さえながら壁をつたってベッドに戻る。スマホを手に取って、着信元を確認した。
「あ……」
ほとんど吐息に溶けたような声が、ひとりでに口をつく。
そこにあった名前は、晴宮のものだった。
それを見て、身体の底から湧き上がってくるように、お昼過ぎに交わした約束を思い出す。
放課後になったら私から電話をかけるつもりだったのに、そのことを忘れてしまったうえに寝過ごしてしまっていた。
痺れを切らしたのか、それともこんな遅くまで電話がなくて心配してくれたのかは分からないけれど。晴宮がこうして、私なんかに電話をかけてきてくれたという事実が何よりも嬉しい。私が忘れられていないという、確たる証拠だから。
だけど今は、いつもの元気な私でいられるのか分からない。それでも私には、応答ボタンを押そうとする手を止めることが出来なかった。
「もしもし、晴宮?」
『おはようございます。体調は如何ですか?』
もう丸一日聞いていない声が、スマホのマイクから流れてくる。本物とは比べ物にならないけれど、その声は晴宮のものに違いなかった。
「まだちょっと気持ち悪いかも。多分熱は下がったと思うけど」
『え、熱測ってないんですか?』
「うん。というか、どこにあるか分かんない。これまで風邪引いたことなかったしね」
『ということは、薬も?』
「飲んでないよ、一日中寝てたから」
『……そうですか』
呆れ果てたような声音で晴宮が言う。
普通の人なら腹が立ってしまうところなのかもしれないけれど。私はこういう晴宮が、誰よりも好きなんだ。
『というか、ご両親は帰ってきていないんですか?いくら先輩が大雑把とはいえ、風邪薬の場所くらい知ってると思いますけど』
「……いや、まだ。うちのお父さんとお母さん、今日は帰ってこないんだ。仕事が忙しいみたいで」
『じゃあ、風邪を引いたことも、ご両親には伝えてないんですか?』
「うん。二人ともお偉いさんだから、言っても今更予定は変えられないだろうし。ただ心配をかけちゃうだけだと思うから」
本当のことを言ったわけでもないけれど、完全な嘘をついたわけでもない。そんな言い訳をしてみるけれど、針を刺したような心の痛みからは逃れられなかった。
『……なんですかそれ。先輩らしくもない』
「らしくもないとはなんだ。私だって誰も彼もに甘え散らかしてるわけじゃないんだけど」
『どうして親に甘えられないのにわたしには甘えられるんですか。わたしより先に親に甘えるべきでしょ』
「そう……なのかな。ごめん、よく分かんない」
『――っ』
電話の奥で、晴宮が息を呑むのが聞こえた。表情が見えないから、晴宮が今何を思っているのかは分からないけれど、きっとよく思ってはいないだろう。見えなくてよかった。なんて、そんなことを真っ先に思った自分が嫌になりそうだった。
……駄目だ。今は、元気な私でいなきゃ。
『雨ヶ谷先輩』
頭痛を抑えようと小さく息を吐くと、晴宮が何かを決意したような声音で私の名前を呼んだ。
「なに?」
『どうせ先輩のことですから、朝から何も食べてないんですよね。さっきから、お腹の音も通話に乗ってますし』
「え、うそ」
思わず自分のお腹のあたりを押さえて、そちらに意識が向く。相変わらず病的なくらいに凹んでいて、パジャマの上からでもはっきりわかるほど肋が浮いていた。
『嘘じゃないです。どんだけお腹空いてんだよってくらい、ずっと』
「えぇ……。先に言ってよ、恥ずかしい」
『先輩にも恥ずかしいなんて感情あったんですね。……って、今はそんなことどうでもよくて』
「え?あ、そうなんだ」
私にとっては全くどうでもいいことではなかったのだけど、熱がこもった晴宮の声に押されて、異議を申し立てられなかった。
『そうですよ。……改めて、雨ヶ谷先輩』
「は、はい」
『家の住所、教えてください』
「……え?」
『だから、家の住所ですよ』
「えっと……なんで?」
本当に理由が分からなくて問い返すと、すぐに答えが返ってきた。
『親……いえ、ご両親には甘えられないんでしょう?だったら今日は、わたしが先輩を甘やかします。作って欲しいものがあるなら作りますし、看病して欲しいなら出来る限りは請け負います。あんまり長引かせて、先輩のテストに影響が出たら気分が悪いですし』
「……つまり、晴宮がうちに来るってこと?」
『当たり前です。風邪引いてる人をわざわざうちに招くわけがないでしょうに』
その言葉を聞いた途端、すうっと、身体中の血の気が引くような感覚がした。
本来なら、願ってもないことだった。家にいながら晴宮と一緒にいられるなんて、これまで想像もしていなかったから。けれど、初めてそれを想像してみると、なんで恐ろしいことをしようとしているのかに気づく。
晴宮が想像する私の部屋というのは多分、個人的な趣味に溢れた――まだお父さんとお母さんがいた頃の私の部屋だと思う。そんな中で今のこの部屋を見たら、間違いなく違和感を抱かれるだろう。それにここはただのワンルームマンションで、私の両親はもう二度と帰ってこない。それはつまり、私の嘘がバレてしまうことに他ならない。
それだけは、なんとしても避けたかった。
「いやいや、別にいいよ。申し訳ないし」
『雨ヶ谷先輩のくせしてなに遠慮してるんですか。言っておきますけど、わたしの負担的には昼休みに毎日起こすのとそんなに変わりませんからね。もしかして、何か後ろめたいことでもあるんですか?』
「そういうわけじゃないけど……」
『なら大丈夫でしょう。早く教えてください』
何とか断ろうとしてみるけれど、今の晴宮は圧がすごい。晴宮がクールなように見えて結構感情豊かなのは知っているけれど、ここまで感情的になっているのは初めてだと思う。心なしか、いつもより声音が刺々しい感じもする。
「でも晴宮、家のこととかあるんじゃないの?親の帰り、遅いんでしょ?」
『うちの親ならもう帰ってきてますし、やることも全部終わってます。というか、終わったからこそ電話したんですし』
「そ、それに私のうち、道具も材料もないよ。ご飯作ろうと思っても何も作れないと思うけど……」
『なら食材は買っていきますし、道具はある程度うちから持っていきます。こう見えてもある程度貯金はしていますし、遅くまで空いてるスーパーなら知っていますから』
「でも、でも……」
足りない頭を回して私の素を隠したまま断る理由を探してみるけれど、それ以上は見つからない。最も今の晴宮は、どんな理由を並べても踏み越えてきそうな雰囲気があるけれど。
『断る理由はそれで終わりですか?それなら早く教えてください。あまり遅くなると親が心配しますから』
「うぅ……なんか今日の晴宮、圧凄くない……?いつもならもう少し優しいのに……」
『……そんなの、当然じゃないですか。子が親に甘えられないなんて、そんなことあってはならないんですから』
「え……?」
小さな声で呟かれた思いがけない答えに、少しだけ戸惑う。
晴宮にはしょっちゅう怒られているけれど、今の声には怒りだけじゃなくて。悲しさとか、寂しさとか、悔しさとか。そういったものを無理やり全部混ぜこぜにしたような、そんな重さがあるように思えた。
私はそれにどうやって返したらいいか分からず、晴宮もそれ以上は何も言わなくて。お互いがなんと言おうか考えているような沈黙が流れる。それは屋上での心地よい沈黙とは違って、ある種の気まずさのようなものを孕んでいた。
『雨ヶ谷先輩』
けれど、その沈黙はほんの少しの間だけで。
妙にはっきりと私の名前を口にする晴宮の声が、膜を破るように耳に届いた。
『今から少しだけ、先輩にとってあまり良くない話をします。聞きたくなかったら今言ってください』
「……ううん、大丈夫。聞くよ。話したいんでしょ?」
さっきの晴宮の言葉からして、晴宮の話はきっと彼女の両親に関することなんだろうと思う。確かに私はそういった話をするのは出来れば避けたいし、耳に入れたくはない。また、あのひどい頭痛に襲われるかもしれないから。
でも、どうせ断るにしても、その話を聞いてからにしようと思う。あの晴宮の声音からして何か重要なことなのだろうし、今日の晴宮の押しの強さにも関わってくるのだろうと思ったから。それも聞かずに断るのは、きっと道理に合わない。
『ありがとうございます。……雨ヶ谷先輩もご存知の通り、わたしの両親はいつも帰りが遅いです。それは今に始まったことじゃなくて、入学式にも卒業式にも、運動会にも、授業参観にも来てくれたことはありません。そういう日にはいつも、休めない仕事が重なっていました』
そこで一瞬、言葉を選ぶように一呼吸を置いた。私が不快な思いをしないようにしてくれているのだろうか。そんなの、気にしなくてもいいんだけどな。
『――それでもあの二人は、確かにわたしを愛してくれています。休みの日には時々外食に連れて行ってくれますし、貴重な休みのはずなのに、お盆休みには旅行にも連れて行ってくれます。その上で『もっと甘えていいんだ』なんて言ってくれたりもします。けれど、わたしはその愛情を、素直に受け取れてはいません。無理をさせているんじゃないかと、何かを返さないといけないとずっと思い続けて。せめて家事を担当することで、二人が与えてくれるものになんとか応えられていると自分に言い聞かせながら生きています』
「――っ」
今度は、私が息を呑んだ。
形は違えど、私とほとんど同じ悩みを、私なんかとは全然違う晴宮が抱えていたのだから。
そういえば以前、本音で話しても罪悪感がないのは私くらいだと。そんなことを言っていたような気がする。察するにあれはその場限りの嫌味というわけではなく、嘘偽りのない本音だったんだろう。
『確かに、子供が健全でいるためには、無償の愛を与えてくれる誰かがいることも大切だとは思います。ですが、何よりも大切なのは、その誰かに素直に甘えられることなんだと。わたしは心からそう思います。ほとんどの場合はその誰かが親にあたるのですが、中にはわたしのように、何かしらの問題を抱えて甘えられなくなった人もいます。たとえ大きなお世話だったとしても、そういう人をこそわたしは助けたい。それがわたしの手の届く範囲にいるというのなら尚更です』
――晴宮は、ずるい。
話を聞いてから、ちゃんと断ろうと思っていたのに。
そんな正直に、真っ直ぐにぶつかられたら、断らなきゃいけないことも断れなくなる。
『雨ヶ谷先輩がどんな問題を抱えているかなんて、わたしには分かりません。ですから、先輩も遠慮なんてしないでください。そんなもの、された方がますます腹立ちますから』
元々、私は遠慮しているわけではなかった。私が晴宮の申し出を断ろうとしていたのは私の問題で、ただ本当の私を晴宮に知られるのが怖かっただけだ。
話を聞いた後でも、その怖さが消えたわけじゃない。
――でも、今は。
今まで知らなかった……知ろうともしなかった、火傷してしまいそうな晴宮の想いに少しでも応えたい、前に進みたいと。そう思う。
先程とは違う涙が一筋、頬を伝っていくのが分かる。キッチンの前で襲われたはずの頭痛と耳鳴りは、私が知らないうちにどこかへ消え失せていた。
直前まで欠片も感じられなかった空腹を感じさせたり、ひどい頭痛や耳鳴りまで治してしまったり。一体晴宮には、どんな魔力が宿っているのだろう。それとも、人の真っ直ぐな本音というものはみんな、こんな力を持っているのだろうか。
まだ三ヶ月くらいしか一緒にいないけれど。これからもずっとそばにいてくれたとしたら、いつかはこんな今の私も見せられる日が来るのかな。なんて、そんな途方もないことを思った。
そこまで晴宮が私に付き合ってくれる保証なんて、どこにもありはしないのに。
だけど、ほんの少しだけ。
ここまで本音を叩きつけてくれる晴宮なら、最後までいつも通りに付き合ってくれるんじゃないかと。
そんな幻想を、心のうちに抱いた。
――たとえ、私の過去を知られてしまったとしても。
「……珍しいね。晴宮がこんなに熱くなるなんて」
『別にいいでしょう。わたしだって人間なんですから』
「そうだね。普段のクールな晴宮も好きだけど、さっきまでの晴宮はもっと好きかも」
『なっ……そ、そんなことはどうでもいいんです。いいから、早く住所送ってください』
「そうだね、ごめん。今送るから待ってて」
そう言ってから、通話を繋いだまま晴宮とのトーク画面に移り、位置情報の共有機能を使って、晴宮に現在位置である私の家を教える。
なんだかさっきよりも素に戻ってしまっている気がするけれど、それこそもう今更のような気がした。
『ありがとうございます。食材を買ってから向かうので、大体三、四〇分くらいかかると思いますけど、それで大丈夫ですか?』
「わかった、ちゃんと起きて待ってる」
『子供みたいですね……別にいいですけど。じゃあ、一旦切りますね』
「うん、また」
私のその言葉を最後に、通話が切れた。それでも余韻はまだ胸のうちに残っていて、風邪によるそれとは別に私の心臓を高鳴らせた。
もうすぐ、私の部屋に晴宮が来る。今まで想像できなかった……というか想像したくなかった光景が、もうすぐ現実になる。
そう思うと、寝ようと思っても寝られない。その時を迎えたい気持ちと迎えたくない気持ちが拮抗して、眠気を感じる余裕なんてなかった。
腰掛けていたベッドから立ち上がって、まだ少しふらつく足でなんとか玄関先まで歩く。手探りで見つけた電気のスイッチをつけると、パッと部屋が明るくなる。
それを見て、小さく呟いた。
「……晴宮は、どう思うのかな」
私の部屋には一人用の小さなテーブルとシングルベッドに、教科書やアルバムを納めている本棚が置いてあって、それ以外はほとんど何もない。以前の私の部屋は確かゲーム機とか漫画とかが置いてあって、あとは壁に当時好きだったアニメのポスターなんかも貼ってあった気がする。
きっとこのままの関係を続ければ、どのみち近いうちに私の過去は晴宮にバレるだろう。その後がどうなるのかなんて、今の私には分からない。けれど、ああやって本音を話してくれたのだから、私も晴宮の想いにはできる限り応えたい。
そんな私に出来ることといえば、今の関係がなるべく崩れないようにと願うことだけだった。
シンクまで歩いて、一度使ったコップに水を注いで一息にあおる。
その水はさっきのものよりもほんの少しだけ塩辛いような、そんな気がした。
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