第2話 夏のお出かけと後輩さん
「あっつー……」
待ち合わせ場所に決めていた最寄り駅の改札前の壁にもたれかかってぼそりと呟く。屋根が遮ってくれるのは日差しだけで、うだるような蒸し暑さは防いでくれない。肌にまとわりついてくるそれらはポータブル型の扇風機をもってしても振り払えず、本来なら涼しさをもたらすのであろう風を生温い、サウナの熱風に似たそれへと変貌させていた。
休日の昼前にもかかわらず、都会の駅であれば絶え間なく鳴り続けているのであろうICカードをタッチした時の電子音や切符が改札を通り抜ける音が全く聞こえてこない。眩しいくらいの日差しが照っている外を見てみても人通りはほぼなく、あるものといえば駅前にある塾へ駆け込んでいく、夏期講習にでも通っているのであろう小中学生くらいだった。
そう、本来ならばこんな日は自宅に引きこもって家族へのご飯を作るなり授業の予習をするなり趣味に時間を使うなりしているはずであり、するべきなのである。
なぜわざわざこんな暑い日に外に出なければならないのか。それを考えた途端にぱっと頭の中に浮かんできた雨ヶ谷先輩の、まるで何も考えていなさそうな顔に少しイラっとした。
ため息をつきながらスマホを取り出すと、丁度その時にメッセージアプリから通知が飛んできた。送り手の欄には『Amame』と、その下には『もうすぐ着く。どこいる?』とシンプルな文章が表示されていた。連絡先を交換した時に教えてもらったけれど、この『Amame』というのが雨ヶ谷先輩のハンドルネームであるらしい。
それをタップしてトーク画面に入り、改札前にいる旨を伝えると、わたしが入ってきた方とは逆の入り口から雨ヶ谷先輩らしき人が駅に入ってきた。
まだ遠かったのでわたしにははっきり見えなかったけれど、先輩側は気づいたようで、目が合った途端に小走りでこちらへ近づいてきた。
「ごめん晴宮、待った?」
初めて見た雨ヶ谷先輩の私服は、ふわりとした白いスカートに淡いブルーのTシャツと薄手の黄色いカーディガンを合わせた、どこか可愛げがあるものだった。腰回りの細さが、服の上からでもうかがえる。
部活もせずにいつも屋上でだらけているはずのくせになんでそんな綺麗な体を維持できているのか聞いてみたいけれど、意識していることなんて何もないのだろうな。という根拠のない確信があった。
わたしの場合は外行きの服があまりないから、迷った末に黒のノースリーブシャツと白のロングパンツというシンプルな服装で来たのだけど、先輩の場合はきっといつも着てるからとかそういう理由で選んだのだと思う。それでばっちりはまってしまうのだから、やっぱり美人は得だ。
「べつに。わたしも今来たところですから」
「そ。よかった、遅刻してなくて」
少し安心したような声音でそう言いながら、雨ヶ谷先輩は何故か意味ありげな表情を浮かべてわたしをじっと見つめる。つい最近になって分かってきたけれど、先輩がこういう顔をする時はたいてい何かろくでもないことを考えている時だ。だからつい、何を言われるのだと少し身構えてしまう。
「晴宮」
「……はい」
「その服、似合ってんじゃん。かっこいい」
「え?」
表情を保ったまま雨ヶ谷先輩が口にしたのは何の変哲もない、あまりにも普通の誉め言葉だった。
普段とは別の意味で驚いて、思わず少しの間呆けてしまう。まあ正直言って嫌味にしか聞こえないのだけど、先輩がそういう駆け引きをしない人……というかできない人だということはこの短い付き合いの中でも理解できているつもりだ。
だから多分お世辞とかではないのだろうけど、それはそれで嫌だ。そんなこと、友達はおろか家族にすら言われたことが無いから。
「晴宮?」
「……あぁ、ごめんなさい。初めて言われたものですから」
「え、マジ?みんな見る目無いね」
けろりとした顔で、そんなことを言われた。その顔を見るにきっと何も考えていないのだろうし特別な意味なんて何もないのだろうけど、少し、ほんの少しだけ顔が火照ってくる。そんなチョロい自分と見てくれを整えても中身が相変わらずの先輩になんだか腹が立って、ひとりでに眉間に皺が寄っていった。
「なに怒ってんの?」
「べつに怒ってません。先輩の将来が少し心配になっただけです」
「なんでよ」
「自覚してないならそれでいいですよ。そっちの方が先輩らしいですし。さ、そろそろ行きましょう。電車、もうすぐ来ますよ」
「やっぱ怒ってるじゃん……」
雨ヶ谷先輩の戸惑いを纏った声を無視して歩き出し、改札を抜ける。少し遅れて先輩も改札を抜けて、わたしの隣に並ぶ。アナウンスの音声だけが流れる駅舎に、少し感覚の空いた二つの電子音が響いた。
行き先は雨ヶ谷先輩が昨日の夜に「やっぱりお礼はちゃんとしたいから」と提案してきたので行くことになった、電車で二、三十分ほど行った先にあるショッピングモールだ。なんでも、遊びに出かけるついでにお昼ご飯を奢ってくれるらしい。
遠いうえに決して安くない交通費がかかってしまうけれど、悲しいことにわたし達の住んでいる町には遊べるところがほぼないのだから仕方がない。
ホームで電車を待っている最中に何となく気が向いて、頭一つ分くらい高いところにある雨ヶ谷先輩の顔を見上げてみる。昼休みにいつも寝ているあたりこの時間帯にも眠くなっていそうなものだけど、雨ヶ谷先輩の目は珍しくぱっちりと開いていて、眠気をかけらも感じさせなかった。
「そういえば、意外ですね」
「なにが?」
「先輩の事ですし、どうせ寝坊して一、二時間くらいは遅刻するだろうと覚悟していましたから」
「あぁ、そういう。大丈夫だよ。私も楽しみにしてたし、寝過ごさない。それに今日は晴宮へのお礼で、私から誘ったんだから。私が遅刻するのは違うでしょ」
「……そうですか」
そんなことを自信満々に言うのはやめてほしい、あとその「私、今いいこと言ったでしょ?」みたいな笑顔も。
後半だけならまだ結構いいセリフになったかもしれないのに、前半のせいで台無しになっている。その遊びに対するモチベーションをほんの少しでも学校生活に向けてくれれば、きっと寝過ごすことも少なくなるだろうに。勿体ない。
「晴宮、今なんか嫌なこと考えてるでしょ」
「そんなことありませんよ。ただ、やっぱり今度からは引っぱたいて起こした方がいいのかなと思っただけです」
「え、なんで。いいこと言ったじゃん私」
そんな会話をしていると、聞きなれた駅メロとともに電子掲示板に電車が到着する旨のメッセージが表示され、ほどなくホームに電車がやってくる。開いたドアから乗り込んですぐ左にあった二人掛けの座席の奥側に座ると、雨ヶ谷先輩はその隣に腰を下ろした。
人があまりおらず、冷房がかかっている車内の空気はひんやりとしていて涼しいけれど、薄くかいた汗に冷気が触れて少しだけ肌寒い。しばらく乗っていると、あまりにもな外との温度差に思わず身体が震えた。
こんなことなら雨ヶ谷先輩のように、何かしらの上着でも羽織ってきた方がよかったかもしれない。それはそれで外が地獄になってしまうからあれなのだけど。
「晴宮、もしかしてちょっと寒い?」
「……まぁ、少しだけ」
「そっか。ならこれ、あっちに着くまで貸すよ。これからしばらく降りられないんだし、辛いでしょ」
そう言って雨ヶ谷先輩は、自分が羽織っていたカーディガンを脱ぎ、わたしの肩にかけてくれる。先輩に貸しを作るのはあまり好かないけれど、肌寒いのは事実なのだから仕方ない。袖を通すと、薄手とはいえ寒気が少しマシになったような気がした。
一つ息をつこうと軽く息を吸うと、いつも屋上にいる時に感じられる匂いが鼻腔をくすぐる。それは明らかに、雨ヶ谷先輩のカーディガンから漂ってきているものだった。何故かと問われても絶対に答えたくはないけれど、少しだけ頬が熱くなったように感じられた。
「先輩は、寒くないんですか?」
「私?大丈夫だよ。なんか昔からそういうのには強いんだよね。風邪ひいたことないし」
「……馬鹿は風邪を引かないってことですね」
「そういう嫌味は顔を赤くしながら言うもんじゃないと思うけど」
雨ヶ谷先輩がわたしの顔を見つめながら言った。どうやら顔に出てしまっていたらしい。……あぁ。いつも通り本当にムカつく。今回は珍しくまっとうなことを言われて反論できないのだから猶更だ。
「晴宮って、案外初心だよね」
「うるさいです。ちょっと黙っててください」
「はいはい」
その軽くあしらうような声音と視界の端に映るしたり顔に、得も言われぬ敗北感を覚えた。そこからなんとか気を逸らそうと窓枠に肘をついて、まだ梅雨にも入っていないにもかかわらず馬鹿みたいに日が照っている外の景色を眺めながら、朝からずっと疑問に思っていたことに思考を傾ける。
――なぜ、こんな誘いを受けたのだろう。
わたしは元々インドア派だし、夏はあまり好きじゃない。汗で肌がベタつくし、無駄に蒸し暑いし、虫は多いし散々だ。何かしら部活……特に運動部にでも入っていれば夏に大会か何かがあって、そこに向かって頑張れるのだろうからまだマシなのかもしれないけれど、そういうものに所属していないわたしにとっては夏の利点なんて夏休みがあることくらいで、それ以外は何もない。その夏休みだって毎年恒例となっている家族との旅行以外はほとんど家にいて、家事やら趣味やらに勤しんでいるだけなのである。それなのに、今日の誘いは何故か受けて、今こうして電車に揺られている。あの屋上にいるときのように、雨ヶ谷先輩にイラつかせられることを分かっているのにも関わらず、だ。本当に、分からない。
雨ヶ谷先輩と出会ってから、自分が自分でわかりにくくなったように思う。今まで家族にすら見せてこなかったわたしを、恋人はおろかまだ友達ですらない人にこうして見せている。その違和感が引っ掛かり続けて、わたし自身を見えづらくしているのかもしれない。
周りの人たちから見ればわたし達はごく普通の友達に見えるのかもしれないけれど、それはたぶん違う。
わたしは、雨ヶ谷先輩についてほとんど何も知らない。知っていることといえば寝ることが大好きで、一見すると賢そうなくせに頭が空っぽであるということぐらいで、寝ているとき以外にしていることとか好き嫌いとか、行きたい場所とか。そういったものを何一つ知らない。
そういう関係はきっと、友達とは呼ばないだろう。人にもよるのだろうけど、少なくともわたしはそう思う。ならかわりになんと呼べばいいのかは分からないけれど、とにかくそういうことなのである。
雨ヶ谷先輩ならこの関係をなんと呼ぶのだろうと想像してみるけれど、きょとんとした顔をして「え、友達じゃないの?」なんて言っている姿しか浮かんでこなかった。尊敬できるところなんて何一つないけれど、そういうところだけは少し羨ましい。余計なことを考えずに生きられるというのも一つの才能なのだと、そんなことを思った。
――ふわぁ……あふ。
ふと、隣から小さなあくびが聞こえてくる。頬杖から顔を離して視線をそちらへ向けると、雨ヶ谷先輩が背もたれに身体を預けてぼんやりとしている。身体から力が抜けきっていて、座席と背中がくっついているようにすら思えた。瞼が閉じかけていて、目尻には涙まで浮かべている。端的に言って、すごく眠そうだ。
「眠くなるの早くないですか?」
「あぁ、ごめん……私、休日のこの時間はいつも、昼寝の準備してるから……」
つい先ほどまでわたしをからかっていた人と同一人物とは思えないくらいに声がか細く、小さくなっている。その横顔はいつもよりいくらか幼なげで、眠気を我慢する子供を彷彿とさせた。まぁ、中身が中身だから別に違和感はそれほどないのだけど。
「さっきまでわたしへのお礼云々はどうなったんです」
「大丈夫……あっちに着くころには、復活してるから……。じゃあ、おやすみ……」
そう言っている間に元々閉じかけていた瞼が完全に閉じて、間もなく寝息が聞こえてくる。軽く呼びかけたり体を揺らしたりして見るけれど、反応がない。いつも通り、無駄に綺麗な顔をして眠っている。これが先程まで『今日はお礼だから』とかなんとか言ってドヤ顔をしていた人だというのだから驚きだ。朝起きられてもここで寝てしまうのなら意味がなくなってしまうというのに。
これが屋上なら引っぱたいてでも起こしてやりたいところだけど、電車内ではそうもいかず、仕方なく頬杖をついて窓の外に視線を戻す。車窓から見える景色はわたしの知っている街並みを通り越して、緑が目立つ田舎から都会へと姿を変えつつあった。
――着くまでに起きなかったら、その無防備なおでこに思いっきりデコピンを喰らわせてやる。
頬杖をついていない右手でデコピンの素振りをしながら、心の中でそう独りごちた。
結果から言うと、雨ヶ谷先輩は目的地の駅に着く直前で目を覚ました。いや、わたしからすればせっかく準備万端だったデコピンを披露できなかったのだから、覚ましてしまったと言った方が正しいのかもしれない。途中で停車する駅のアナウンスでは眉一つ動かさなかったくせに、目的の駅にもうじき着く旨のアナウンスが流れた途端、眠りながらそれを察知したかのように瞼を開けたのである。なんて無駄に高度なスキルなのだろう。……まぁ、先輩のように眠ることそのものを趣味とする変わり者の間では必須なのかもしれないが、一体どこの器官で起きるタイミングを判別しているのだろうか。
それはともかくとして、雨ヶ谷先輩はわたしの怒りを込めたデコピンを食らうことはなく、駅前のショッピングモールにも無事到着し、時間もちょうどいいからとフードコートでお昼を食べようということになった。
……なった、のだけど。
「なんですか、それ」
雨ヶ谷先輩の前に置かれているのは、店頭に並んでいる天ぷらをほとんど全種類、これでもかとトッピングしたのち、無料でかけられる天かすとねぎをがばっと盛った特盛の肉うどんだった。衣のきつね色とねぎの緑色にうどんの白が埋め尽くされていて、見ているだけで胃がむかむかしてくる。器に書いてあるお店のロゴと、隣に添えてある明太子とおかかのおにぎりが無ければ、新しいタイプの天丼か何かだと勘違いしてしまいそうだ。……いや待て、そのおにぎりも食べるつもりなのか。
「うどんだけど?」
「そういうことじゃなくて。全部食べられるんですか、それ」
「そりゃね、自分で頼んだんだし。晴宮こそ、それだけで本当に足りる?私の奢りなんだから、もっと食べればいいのに」
「これくらいが普通なんですよ……」
一つため息をついてから手を合わせ、同じお店で頼んだうどんをすする。それに合わせるように、雨ヶ谷先輩もうどんのつゆに少しだけ沈めたいも天にかぶりつき始めた。わたしが注文したのは並盛のかけうどんに海老天と野菜のかき揚げを載せて、天かすとねぎを少しだけ添えたものだ。わたしとしてはこのくらいでちょうどいいし、一般的な女子高生の昼食からすればむしろ多い方なんじゃないかと思うけれど。目の前の天ぷら地獄を見ているとこれでも少ないのではないかと錯覚してしまいそうだった。
「いくらしたんですかそれ。」
「別に大したことないよ。えーっと……多分、三千円くらい?」
「っ!?――げほっ、げほっ!」
驚いた拍子に天かすが気管に入って、激しくせき込む。自慢してるのかと思って恨めしげに雨ヶ谷先輩を見ると、当の言った本人はきょとんとした、自分の発言に何の違和感も持っていないような表情を浮かべていた。そこに自分の裕福さを見せびらかすような下卑た悪意は一切見られない。
思わずうどんを頼んだお店へ顔を向けると、丁度カウンターに立っていた店員さんと目が合う。予想通りというか何というか、困ったような苦笑いを浮かべていた。
――もしかしてこの人、本気で言ってるのか?
「……雨ヶ谷先輩」
「ん?」
「月のお小遣い、いくら貰ってますか?」
「五万円。親がほとんど家にいないから、食費とかもろもろ合わせて多めにもらってるんだ。使い道が無くて、いつも八割がた余っちゃうんだけど」
「ごま……っ!?」
一瞬、目が眩みそうになる。わたしのお小遣いの丁度十倍だ。……まぁ、両親が家にいないのなら、仕方ないところがあるのかも知らないけれど。
「まぁ、経済的に大したことないのは分かりました。でも、それでなんでそんな食べるんですか。いつもお昼は惣菜パンで済ませてるくせに」
「それが私にも分かんないんだよねぇ。晴宮といると、なんでかお腹が空くんだよ。この間だってそうだったし」
「えぇ……?」
雨ヶ谷先輩の中のわたしがいつも以上に分からなくなる。いったいどういう存在になっているのだろう。一緒にいるとお腹が空くって、捕食者と獲物の関係みたいじゃないか。
「というか、そんなに食べて太らないんですか?カロリーも馬鹿にならないと思うんですけど」
「それは大丈夫。私、昔から食べてもそんなに太らない体質だから」
「は?」
反射的に目が見開いて、思わず眉間に皺が寄ってしまう。けれど、そのこちらを害そうとする気が一切見られない表情を見ていると、怒るに怒れなくなってしまった。きっと雨ヶ谷先輩にとっては本当に、ただ事実を言っているだけなのだろう。
普通の人が言うと嫌味にしか聞こえないのに、この人が言うとそうは聞こえないのだから不思議だ。美人は得だと昔から言われているけれど、こういうところでも得をするのは本当にずるいと思う。
「どうしたの晴宮。手、止まってるけど」
「いえ、なんでもないです。先輩は悪くないですし。世界は残酷なんだなって、そう思っただけですから」
「ふうん。……あっ」
雨ヶ谷先輩が何かに気づいたような声を上げたあと、朝にも見せたような意味ありげな表情をしてわたしを見る。あぁ。と、心の中で何かを察した。やっぱり今朝が特別だっただけで、この表情は何かろくでもないことを考えているときのそれなのだ。本当に、付き合いたくない。
「晴宮」
「なんですか」
「羨ましいなら素直にそう言いなよ」
「……そうですね。その頬を思いっきり引っぱたいてやりたくなるくらいには羨ましいですよ」
「今日なんか引っぱたきたがりじゃん」
自棄になりそうな気持ちを抱えながら、無言でうどんをすすっていく。美味しいけれど、それと同じくらい悔しい。わたしのような一般人は食べた分だけ運動しなければすべて身体に出てしまうというのに。
本当に、得をしすぎだ。
「あ、そうだ。この後のことだけど、行きたいところとかある?無ければとりあえずゲーセンにでも行こうかなって思ってるんだけど」
先程までもちゃもちゃしていたうどんを飲み込んでから、雨ヶ谷先輩が言う。その器を見ると、そこにはもううどんのつゆしか残っていなかった。隣に添えられていたはずのおにぎりも、いつの間にかそれを包んでいたはずのラップだけになっている。
量も量だけど食べるの早いな。わたしのでさえまだ残ってるのに。
「あー……はい。別にいいですよ。特に行きたいところもありませんし」
「おっけ。じゃ、決まり」
行きたいところを争うこともなく、さらっと次の行き先が決まった。
我ながら、女子高生らしい雰囲気というか、煌めきというか。そういうものが一切ない会話だと思う。
でも、本当に行きたいところなんてないのだから仕方ない。化粧品とか服とか、そういう洒落たものにはあんまり興味がないし、本とか調理用具を店で見て回るのは好きだけど、誰かと遊びに来ている中でわざわざ足を運ぶほど好きというわけでもないのだから。
要するに、わたしは致命的に誰かと行く外遊びに向いていないのである。だったらもう雨ヶ谷先輩に全部任せてしまった方がいくらか気楽でいいだろうと思う。
「ごちそうさまでした」
最後のうどんを飲み込み、手を合わせる。ちらっと雨ヶ谷先輩の器を見てみると、もうつゆすら残っていなかった。奴の胃袋はブラックホールか。
「おそまつさまでした、じゃあ行こっか」
「先輩が作ったわけじゃないでしょ……まぁ、奢られはしましたけど」
ため息をつきながら呟いて立ち上がり、お店の返却口にトレーを返却する。ごちそうさまでした、と一言かけると、すぐそばにいた店員さんが会釈してくれた。
「あ、ごめん晴宮。ちょっとお手洗い行ってくる」
「分かりました。じゃあそこで座って待ってますね」
「おっけ、ありがと」
雨ヶ谷先輩はわたしと同じことをした後にそう言って、フードコートを出てすぐにあるトイレに向かって歩いていく。一瞬食べすぎて下痢でも起こしたのかと思ったけれど、走ってもなかったし、特に急を要する感じではなかったから多分大丈夫だろう。
少し歩いて、先程わたしが指定した二人がけのスツールに腰掛ける。やることもなかったのでぼうっと人混みを見ていると、子供の頃にやった夏祭りのスーパーボールすくいを思い出した。あれの密集具合も、確かこのくらいだった気がする。そこそこ規模は大きいけれど、こんな地方のショッピングモールによく人が集まるものだと思う。正直、あまり理解できるものではなかった。
今のところ、わたしにこの人混みに紛れてまで欲しいと思うものはない。今周りにある物で十分満ち足りているし、本を読むのは好きだけど、いちいち買いに行くのが面倒で最近はもっぱら電子書籍に頼っている。それに、仮に何かが欲しいと思ったのであれば通販を使えばいい。便利なもので、今の時代は条件こそあれど、購入ボタンをポチればほとんどの商品を翌日には届けてくれるサービスがあるのだから驚きだ。
将来の事はあまりわからないけれど、少なくともこの女子高生という立場に甘んじている間は、この人混みの中へ突貫することはあまりないのだろうなと。そんなことを思いながら、雨ヶ谷先輩が帰ってくるまで意味のない人混みの観察を続けていた。
丁度、その時だった。
「――何、あれ」
視界の隅に一つ、強烈な違和感を覚える。
そこに目を向けると、絶えず動き続けているはずの人混みの中で、その場に留まり続けている何かと目が合った。その瞬間に、モール内の喧騒がすべて遠ざかっていくような――頭に薄い幕を張られたような気味の悪い感覚に襲われる。それは今いるフロアのほぼ反対側にいて、わたしの視力ではかろうじて人間の姿をとっていることくらいしか分からない。しかし、理解できることならあった。
そこにこもっている感情まではくみ取れないけれど。
それは口元に薄い笑みを浮かべて、確実にわたしを見つめていた。それを自覚した途端。背中に悪寒が走る。
いや、それはまだいい。何より異常なのは、誰もその存在を認識していないことだ。
このフロアの反対側には映画館があって、特に人の出入りが多い。そんな中でずっと立ち止まっている人なんかがいたら、お客さんからすれば迷惑極まりないはずだ。にもかかわらず、誰にも気にされていないように見える。いないものとして扱われているかのように、皆がすぐ傍を通り過ぎていく。
それが、何よりもうすら寒い。なのに目が離せない。
やがて、わたしの視界からそれ以外の人々がすべて消え失せた。
迷子を知らせる館内放送の声が不自然に途切れて、館内BGMや遠くから聞こえてくるゲームセンターの陽気な音楽だけが、がらんとしたショッピングモールに混ざり合って反響している。お化け屋敷のように薄暗いわけでも恐怖を煽るような音楽がかかっているわけでもないのに、それの何十倍も不気味に感じる。気づけば息が切れていて、額が汗でびっしょりと濡れていた。
それでも目を逸らせずにずっと見つめていると、笑みを崩さないままに、その口が動きだすのが見えた。読唇術なんて勿論身に着けてはいない。けれど何故か、そこから発される言葉が完璧に理解できた。
それを聞いてはいけないと、引き留めるように身体中が、頭が叫んでいる。けれど目を逸らすことはおろか、身体を動かすことすらままならず。
やがて小さく、ゆっくりと、確かに言葉を紡ぎ始めた。
――『で』
――『て』
――『い』
――『け』
『でていけ』と。
確かに、そう言っているように思えた。
意味が分からない、分からないはずなのに、頭が勝手に理解を進めていく。その圧倒的な矛盾が頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、熱を伴った吐瀉物が身体の底からせり上がってくる。
ふと、目の奥が痛みだした。針で直接視神経を突き刺されるような、鋭い痛み。それは見つめるほどに増していって、意識が混濁していく。底から無理やり引っ張り上げられるように、涙がひとりでに溢れてくる。
それと同時に、テレビの電源を切ったように視界が暗転した。何も見えず、何も聞こえない。そんな中で、視界の中心にわたしをあざ笑うかのような表情を浮かべたそれが現れる。邪魔がなくなったからか、先程まではよく見えていなかったものがだんだんと見えてきた。
白い矢絣の柄が入った、紫色の着物。
腰の帯より少し下くらいまで伸びた、墨のように黒く輝く髪。
雪のような白い肌と、精巧な彫刻のように整った顔つき。
光の見えない、大きな、黒々とした瞳。
名前も知らない。その姿にも、見覚えはない。
――けれど、どこかなじみがある。
そんな、とてもきれいで、きみょうなひと。
そのひとが、わたしにむかって、てをのばす。
すこしずつ、すこしずつ、ちかづいて。
もうすぐ、そのゆびが、わたしのむねに、ふれる。
――その、直前。
ぐいっ、と。突然、後ろに身体が引っ張られた。
その瞬間、視線の圧から抜け出したかのように、先程まで蝋人形のように固められていた身体が動きを取り戻した。それにつられるように本来のモールの喧騒が戻ってきて、現実が急速に息を吹き返していく。
気づけばわたしは、先程まで座っていたスツールの後ろに転がり落ちていた。
咄嗟に立ち上がって突き動かされるように周りを見る。その頃にはすべての光景が現実に戻ってきていて、通りすがりの何人かが奇異の視線をわたしに向けていた。それに軽く苦笑いをしながら会釈をして映画館の方へ視線を移すと、先程までいたはずの何者かは跡形もなく消えていた。
まるで、元からそこには何もいなかったかのように。
何が起こったのか分からずにそのまま呆然としていると、雨ヶ谷先輩が帰ってくる。
「おまたせ〜晴宮……晴宮?どうしたの、その汗」
そちらへ顔を向けると、雨ヶ谷先輩が訝しげな表情をしてわたしを見つめながらそう言っていた。それにつられて自分の頬を触ってみると、手のひらにべったりと汗がついていた。服の中にも汗をかいているようで、べたべたとして気持ちが悪い。
「……あまがや、せんぱい」
その名前を呼ぼうとするけれど、ろくに声が出てこず、代わりに出てきたのは風邪の引きはじめのようなしわがれた声だった。
気づけば痛みは完全に消えていたけれど、先程の出来事が夢ではないことを物語るように、喉がからからに乾いていた。
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