雨のち晴れ、ところにより雪

はくまい

第1話 ねぼすけさんと後輩さん

 この高校の屋上は、呪われている。

 そんな噂を小耳に挟んだのは、今から二ヶ月くらい前。わたしたち新入生が入学して、やれ昔の友達と再会しただの部活をどこにするかだので教室が色めきだっていた頃だ。

 なんでもその屋上の鍵がこの学校が創立した頃――今から五十年くらい前からずっと壊れたままで、過去に内緒で屋上に向かおうとしていた生徒が階段で足を滑らせて大怪我を負ったり、鍵を変えようとした業者が突然苦しみ出して翌朝死亡したとか。そういう真偽不明の薄っぺらいエピソードがいくつもあるらしい。それをみんな気味悪がって、誰も屋上には近づかなくなったのだという。

 なんというか、いかにも「怪談話」といった胡散臭さをはらんだ噂だと。その時はそんなことを思いながら、ぼうっと桜が散っていく外を眺めていた。

 ――それが今は、何故かこうなっている。

「また寝てるし……」

 見下ろした先にいるのは、出入り口の役目を果たしている出っ張りの部分を背もたれにして眠る雨ヶ谷夏夢あまがやなつめ先輩だ。吹いてくるそよ風に長い黒髪を揺らしながら、山際の少し上にあるオレンジ色の夕陽を浴びながら気持ちよさそうに眠っている。そういう道に詳しいわけではないけれど、こういうのを「映え」とか何とか言うんだろう。

 スカートを下敷きにしてその隣に腰を下ろすと、眠りながらわたしが来たのを察知したかのようにこちらへ寄りかかってくる。これで起きていない……要するに無意識だというのだから質が悪い。なんとなく隣を見やると、かなり暑いのに汗一つかいていない安らかな寝顔が見えた。恐らく天然ものなのだろう長いまつ毛とシャープな鼻筋や顔の輪郭が作りだすその表情は、普段の先輩の所業を鑑みたとしても素直に綺麗だというほかなかった。食生活はそれほど変わらないはずなのに、いったいどこで差がついたというんだろう。

 いつもより近くにある無駄に綺麗な顔が目に毒で、顔を逸らして耳にワイヤレスイヤホンを突っ込もうとすると、雨ヶ谷先輩が突然顔をしかめて「ゔ~ん……」という小さな唸り声をあげだした。さっきまで安らかだったはずなのに、急になんの夢を見始めたんだと心配していると、そのまま苦しげな寝言が続けられた。

 

 ――晴宮はるみや、早く逃げて……。蝉が……校庭からでっかい蝉が……食べられる……。


 どんだけデカい蝉なんだ。というか蝉って肉食なのか、怖いな。なんて、思わず寝言に突っ込んでしまいそうになる。どうやら結構な悪夢を見ているらしい。こんな心地良さそうに寝ているくせに。災難なことだ。

 ……待て、さらっと流してたけどなんか死にそうになってないか、そっちのわたし。


 ――なに言ってんの……晴宮を置いて逃げるなんて……そんなこと……。

 

 え、なになに。わたしなにしてんの。なんでわざわざそんなバケモンに立ち向かってんの。無謀すぎるでしょ。わたしそんな「ここはわたしに任せて早く逃げろ!」とかそういうこと言うキャラじゃないんだけど。虫苦手だし、なんなら一目散に逃げ去るタイプなんだけど。しかもなんか雨ヶ谷先輩までキャラ変わってるし。そんな状況に出くわしたことはないけれど、貴方だってわたしを置いて逃げるタイプでしょ。夢の中だからってなにいい子ぶってんですか。


 ――待って、晴宮!晴宮……。


 涙ぐんだような声でそう言い残して、寝言が途切れた。その後に続くのは、寝言が始まる以前の気持ちよさそうな寝息だった。ただしその寝息とは裏腹にその目尻には涙が浮かんでいて、結局そっちのわたしの最期は分からずじまいだった。

「結局わたしはどうなったんだ……」

 気になる心を留められず、独り言のように呟く。すると、それに呼応するように雨ヶ谷先輩の目が少し開いた。どうやら起こしてしまったらしく、わたしの肩から頭を離して大きく伸びをしながら欠伸をした。

「ふあぁ……んぇ?」

 まだ寝ぼけているのか、蕩けたような笑顔を浮かべながら、わたしの方を焦点が定まっていない瞳で見つめて言った。

「あれ、晴宮。めずらしーね。まだ授業中なのに」

 その様子からしてどうやら先程の夢のことは既に忘れてしまっているらしい。結末が気になるからそれだけ教えてほしかったんだけど、残念ながら望めなさそうだった。

「もうとっくに終わってますよ」

「え、マジ?」

「大マジです、ほら」

「ん~?」

 呆れたように言いながらワイヤレスイヤホンをしまって、ロック画面を表示させたスマホを眼前に突き付けてやった。先ほど確認した限りだと五時前のはずだ。スマホの画面を見つめている雨ヶ谷先輩の眠たげな目がほんの少しだけ開かれて、そこに驚きの色が混じっていく。別に珍しくもないものだけど、なんだか少しだけ面白かった。

「……うわマジじゃん。昼休みの間だけにするつもりだったのに」

「嘘つかないでください。この間だって今ぐらいまで寝てたでしょうに」

「それは晴宮が起こしてくれなかったのが悪い。いつも起こしてくれてるのに」

「起こしましたよ。前回も今回も、わたしが離れた後に二度寝かましたんじゃないですか」

「そうだっけ」

「そうですよ……」

 小さくため息をつきながら雨ヶ谷先輩から目を離してグラウンドの方を見やると、そこそこ強いらしいうちの野球部が部活動に勤しんでいた。守備のポジションにそれぞれ三、四人ずつがついて、一人ずつ顧問の先生のノックを受けている。遠く離れているはずなのにここにまで響いてくる大きな掛け声と金属バットの快音がなんだか痛快で、見ている限りは面白かった。

 グラウンドとその外を区切るネットの向こうには、交通量がほとんどない川沿いの道路が見える。そのほかには森みたいに木々が茂っているくらいで、ここら一体の田舎っぷりを如実に物語っていた。そのほかにあるものと言えば、はるか遠くに小さく見えている精米機が入った小さなプレハブ小屋くらいだった。

「そういえば晴宮、部活とかやってないの?」

 そんな声が聞こえてふと隣を見ると、先輩もさっきまでのわたしと同じように野球部の練習をぼうっと見つめていた。その表情は無駄に綺麗な顔のせいでなんだか物憂げに見えるけれど、多分ほぼ何にも考えていない。なんか目についたから話に出してみるか。なんて、大方そんなところだろう。そんな付き合いが長いわけではないけれど、それくらいは分かっているつもりだ。

「突然どうしたんです?」

「いやさ、うちの学校って部活活発でしょ?運動できそうだしどっか入ってるのかなって思ってたけど、私と同じでここに入り浸ってるみたいだから」

「なんか今更ですね……」

 そういえば四月の始めにあった新入生対象のオリエンテーションで、様々な部活のチラシを大量に貰ったのを何となく覚えている。イベントの一つとして新入生勧誘会みたいなものがあって、それぞれの部活の代表者らしき人たちがわらわらとわたしのような新入生のもとへ集まってくるのである。正直結構怖かった。まぁ、わたし自身はもともとどこに入るつもりもなかったから、その熱意には答えられなかったんだけど。

「どこにも入ってませんよ。部活しながら先輩のお世話をするバイタリティは流石にありませんから」

「お世話て」

「別に間違いじゃないでしょう。……そういえば、出席日数とか大丈夫なんですか?」

「大丈夫だよ。晴宮が起こしてくれるから」

「はぁ?」

 明らかに年上の先輩に向けたそれではない声が、ひとりでに口から飛び出した。もう二度もやらかしてしまっているくせに、どうしてそれでわたしが納得するとでも思っているんだろうか。というか自分で起きろ。なんでわたしに起こしてもらう前提なんだ。

「二度寝常習犯のくせしてなに抜かしてるんですか。何の保証もありませんよねそれ」

「晴宮ってパッと見まともそうだけど、実は結構口悪いよね」

「ええ、そうですね。こんなに本音で話しても罪悪感のない人なんて先輩ぐらいですよ」

「先輩だけは特別ですよってことかな」

「殴りますよ」

「なんだ、やるかー?」

 雨ヶ谷先輩が好戦的な表情を浮かべながら、ボクシングの構えに似たポーズをとっている。それを見ただけでも分かる、わたしの言葉はまるで届いていないようだった。その相変わらずのマイペースな姿にだんだん怒っているのが馬鹿らしくなってきて、ため息とともに怒りが抜けていく。こうやって、わたしの感情はいつも雨ヶ谷先輩にコントロールされてしまうのである。自覚出来ているだけに悔しいが、どうしようもないものでもあった。

「あ、そうだ。晴宮」

「……なんですか?」

「昼ご飯食べ忘れちゃったんだけど、なんか食べ物持ってない?」

「はい?」

 わたしにも聞こえてくるくらいの大きなお腹の音とともに、お腹をさすりながら雨ヶ谷先輩が言う。先程までのやり取りで力が抜けてしまったところに予想外の頼みが飛び込んできて、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。

「待って晴宮、違うの。呆れないで。絶対に頂戴っていうわけじゃなくて、あればいいなー。って感じのあれだから。無ければ無いでいいからさ」

「なんの言い訳なんですかそれ」

「いや、流石に申し訳ないかなって」

「先輩の『申し訳ない』の区切りは一体どこにあるんですか……いやまぁ、ありますけど」

「あるんだ……」

 渋々といった感じで、潰れないように通学鞄の横ポケットに入れてある五枚入りのチョコチップクッキーを取り出して手渡す。可愛げのある柄物の袋と小さな赤いリボンで綺麗にラッピングされていて、いかにも彼氏か友達へのプレゼントといった感じだ。少なくともわたしに似合うものではないと思う。

「この袋、なんか滅茶苦茶かわいいんだけど。晴宮ってもしかしてこういうの好きなの?」

「違いますよ。そのラッピングは友達の趣味です。中身は今日の家庭科が調理実習だったので、それで作りました。」

「ほえー、すっごい偶然……」

 そう呟きながらクッキーを受け取った雨ヶ谷先輩は、何故か意味ありげな顔でわたしを見つめていた。

「どうしたんです?」

「あ、いや。晴宮、私以外に友達いたんだなって」

 ……やっぱり一発痛い目に合わせた方がいいんじゃないのか、この人。多分そうしないと分からないんだろうし。

「あげる気失せたのでやっぱり返してください。捨ててきますから」

「待って待って、だってさっき言ってたじゃん。本音で話せるの私くらいだって」

「クラスでもこんな話し方なわけないじゃないですか。自分の性格くらい知ってますし、わたしだって少しは周りに合わせますよ」

「ああ、そういう。いや何それ。めちゃくちゃ見たいんだけど」

「えぇ……まあ先輩の勝手ですけど、もし来たら本気で怒ります」

「行っちゃ駄目なやつじゃん……」

 少し落ち込んだ表情を浮かべながら雨ヶ谷先輩は袋のリボンをほどいて、中身のクッキーをかじった。するとその表情はたちまちに驚いたようなそれに切り替わり、一枚目を食べ終えたかと思うともう二枚目に手を出していた。どうやらかなり美味しいらしい。正直に言うと出来が少し不安だったが、うまくいっているようだった。まぁ、うまくいったからなんだという話だけど。

「え、うまっ。晴宮、もしかして料理できる人?」

「ええ、まあ。両親が共働きですから。といっても作るのはほとんどご飯なので、お菓子作りはあまり慣れてないんですけど」

 わたしがお菓子を作るときといえば年に一度、家族にバレンタインチョコを作る時くらいだ。わたし自身はあまり上手く出来ているとは思えないものの、何故か毎年好評を博している。これをゆっくり食べるためにバレンタインデーは何をしてでも早く帰ってくるんだ。というのが、わたしの両親の談である。身内びいきなのか本音なのかは分からないけれど、悪い気はしない。

「慣れてなくてこれ?凄いね」

「そういうわけではないです。同じ班の人たちと共同で作りましたから」

「……ああ、そうね。そりゃそうだ」

 わたしがそう言うと、何故か雨ヶ谷先輩はほんの少しだけ表情を曇らせた。いやほんとになんでだよ。お腹空かせてるんだろうし、美味しいならそれでいいんじゃないのか。それとも量が足りなかったか。

「今度、晴宮が一人で作ったお菓子も食べてみたいかも」

 五枚のクッキーを食べ終えた後に、首をかしげるわたしに向かってそんなことを言ってきた。

「わたし一人でですか?あまり美味しくないと思いますけど」

「大丈夫大丈夫、その分愛情をこめて作ってくれればいいよ。唯一本音で話せるこの私に向けて、ね」

 そういう好意的な意味で言ったわけでは断じてないんだけど、雨ヶ谷先輩はそう捉えたらしい。……めんどくさい人だな、ほんとに。

「わかりました。今度とびっきり苦くてまっずいビターチョコクッキーを作ってきます」

「愛がないなぁ……。っと、もうこんな時間か。そろそろ帰ろ、晴宮」

 雨ヶ谷先輩がそう言いながら立ち上がる、それと同時に、すぐ隣から大きなチャイムが聞こえてきた。スマホで現在時刻を確認すると『18:00』と表示されている。最終下校時刻まであと十五分だ。わたしも立ち上がり、大きく伸びをしている雨ヶ谷先輩を横目に鍵のかかっていないボロボロの扉を開けて、屋上を出ていく。二人分の階段を下りる音が、静かな校舎に響いていた。わたし達の足音以外に聞こえてくるのは、微かに届く野球部の掛け声だけだ。どうやらまだ練習は続いているらしい。

「今日はクッキー、ありがとね。今度お礼に何かおごるから付き合ってよ。空いてる日とかある?」

 校門へ向かう際中、雨ヶ谷先輩がそう訪ねてくる。珍しい。お礼なんて今までされたことないのに。

「別にお礼なんていりませんよ。大したものでもありませんし」

「いやいや。あれで大したものじゃないとか全国のお菓子屋さん泣くよ?」

「え、そんなに美味しかったんですか?」

「うん。それに私、食べ物の恩は絶対に返すって決めてるんだ」

「なんですかその微妙な誓い。そうですね……じゃあ、これからは昼ご飯を食べてから寝るように努力してください。まぁ、本当なら寝てほしくもないんですけど」

「えー……昼ご飯はともかく、後者は無理だと思うけど……」

 なんだそれ。お礼がしたいというのなら、せめて反省しようとする気概くらい見せてほしい。出席日数足りなくて留年なんかになったらシャレにならないし、同級生になって気まずくなるのも嫌だから、わたしとしてはもう少しちゃんとしてほしいところなんだけど。

「今度からは思いっきりビンタして起こしましょうか」

「精一杯頑張らせていただきます」

「よろしい」

 そんなつまらない会話をしていると、いつの間にか靴箱に辿りついていた。上靴を履き替えて外に出る。校門まで来るとお互いの家は真反対の位置にあるので、そこでお別れだ。

「あれ、もうか。そんじゃね、晴宮。また明日」

「はい、また明日」

 雨ヶ谷先輩が手を振ってくるので、それに軽く応える。これがいつもの別れ方だ。わたしのそれより少し細い華奢な背中はゆっくりと遠ざかって、やがて曲がり角へと消えていく。それを確認してから、わたしは先程まで座っていた屋上を見上げる。わたしたちが背中を預けていたあの出っ張りを、蜂蜜みたいな色をした夕陽が仄かに照らしていた。

 ――呪いの屋上。

 この高校において、あそこはそんなふうに呼ばれているらしい。いかにもわたしくらいの年頃の人たちが好きそうな響きだ。胡散臭くてたまらない。そもそも入り浸っているわたしたちがいる時点で噂なんてあってないようなものだというのに。まぁでも、噂のおかげで誰も近づいてこないのはわりと感謝している。

 あの屋上で先輩と一緒にいて、お互いに何も考えずにただ浮かんだ言葉をそのまま垂れ流す。そんな時間はなんというか、程よくウザくて気怠い。今日みたいにわたしを理不尽にキレさせてくることも初めてではないし、たまに手が出そうになる時もある。こう挙げていくといいことなんて何もないけれど、なぜかわたしの脚はひとりでに、いつもあそこに向かってしまう。なんとなく惰性で向かっているのか、あの怠惰な人を救わなければという無意味な義務感に駆られているのか、それとも実は先輩といる時間が楽しかったりするのか。答えは未だにまとまっていない。

 分かることといえば一つだけ。あそこはきっと、わたしと先輩の二人以外がいるべき場所ではないということ。理由は分からないけれど、なんとなくそう思う。自分自身のことなのに、分からないことだらけだった。

「語彙力ねー……」

 誰にも聞こえないような声で小さく呟くと、なぜか少しだけ口角が上がった。国語の成績はそこそこいいはずなのに、自分の感情さえなかなか言葉では言い表せない。人間の心は往々にして複雑で、大いにめんどくさいものだった。最も、先輩の場合は心と口が真っすぐな管で繋がっていそうな気がするけれど。

 屋上から目を離して、先輩が帰った方角の逆に足を向けて歩き出す。もう陽が沈みかかっているというのに気温はあまり下がらず、空気はじとっとしていて少しだけ蒸し暑い。

 六月の中頃。一学期末のテストがだんだんと近づいてくる中で、夏の足音はもうすぐそこまで迫ってきていた。



「ただいま」

 静かな部屋に響くドアが閉まる音を聞きながら、小さな声で呟く。何の意味も無いことは分かっているけれど。家に帰ってくると条件反射のように口を突いて出てきてしまう。誰もいない空間からは返事なんて返ってこなくて、私を迎えるのはずっとつけっぱなしにしてあるエアコンの駆動音だけだった。

 これにちゃんとした返事が帰って来たのは、一体いつまでだったっけ。まぁ、もうどうでもいいことだけど。

 スイッチを探り当てて部屋の電気をつけると、最低限の家具だけが揃った無機質なワンルームが姿を現した。通学鞄を机の脚に立てかけ、ベッドを背もたれにして座りこむ。

 身体を縮こませるように下を向いてぼうっとしていると、まだお風呂はおろか晩ご飯さえ済んでいないのに眠気が襲ってきた。

 近頃の夜は、いつもこんな感じだ。何もかもより先に、睡眠欲が顔を出してくるのである。

 でも、今日は何故か、普段とは違っていて。

 ――なんか、あったかいな。

 お腹の底に心地よい、暖かいものが宿っているような、そんな感じがする。

 まどろみに包まれていく頭を回転させて今日一日を振り返ってみるけれど、そういった感覚をもたらしてくれるものを食べた覚えはない。食べたものといえば朝ごはんに食べた総菜パンと、寝ていて買い忘れた昼ごはんの代わりにもらった晴宮のクッキーくらいだった。……我ながら自分の身体が心配になってしまうものだけど、それで足りてしまうのだから仕方がない。現に今だってお腹が空いているわけではないのだから。

 ――あぁ、でも。

 あのクッキーは、本当に美味しかった。また食べたいと、心からそう思えるほどに。思えば、そういうものに出会えたのは本当に久しぶりのような気がする。それがあの暖かさを生んでいるのだと思うと、少しだけ心が軽くなった。

 このまま眠れば、夢にも晴宮が出てくるのだろうか。あの屋上のようにたわいも無いことを話して、クールなように見えて案外表情豊かなあの子の怒った顔とか笑った顔とかそういったものを、夢の中でも見られるのだろうか。

 だとすれば、それはきっととても楽しいことなんだろうなと。ふとそんなことを思う。

 すると何故か、私が思っていたこととは裏腹に、さっきまで私の体を覆っていた眠気が少しずつ晴れて、体が軽くなっていく。それとともに、先程までは全くなかったはずの空腹感が突然襲いかかってきた。

 身体が本能的に生を求めるように、私を突き動かし始める。気づけば私は台所に立って、何か食べるものを探していた。といっても私は料理が出来るわけではないので、食べられるものといえば備蓄用にとっといてあるカップ麺くらいしかないのだけど。

「……まあいいか。お腹に溜まれば別に変わらないし」

 気持ちを切り替え、ポットに水を入れてお湯を沸かし始める。

 その頃には、私の意識を覆い尽くそうとしていたはずの眠気は、きれいさっぱり無くなっていた。

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