第8話 塩と琥珀

 ホップス氏が貸してくれたのは、小さな手漕ぎ船だった。小さいとはいえ人が5,6人乗れるぐらいはある。3人が実験をするには十分な大きさだ。

 漕ぐのはもちろんマシュー。スオラはマシューに、発明したタルの使い方を熱心に語っている。

 マシューはほとんど聞き流しているかに見えたが、説明がひと段落したところでこう言った。


「それ、ロープ1本でよくないか?」

「え?」

「1本のロープにして、タル、石、コルクの順で結んどくんだ。最初にちょっと引っ張ったらコルクが抜けて、もう少し引っ張ると石がほどけて、最後に樽を引き上げる」


 はたで聞いているレオンには中々いい改善案のように思えた。船を漕ぎながらちゃんとスオラの話を聞いて理解しているのは大したものだ。

 しかし、発明者としては思うところもあるようで。


「力の加減が難しくない? 最初に引っ張りすぎて石までとれちゃったら」

「慣れればいけるだろ」

「今日作った道具に慣れるも慣れないもないわよ。そのうち改良するわ」


 なんだかんだ言いつつも、それなりの利点は認めたらしい。

 そんな微笑ましいやり取りが終わったところで、マシューがオールを止める。


「このあたりでいいだろ」


 まだ漕ぎ始めてそれほど経っていない。振り返ればまだ港が見えるぐらいの距離だ。


「近くないか?」

「近いけどな、この辺だけ20ファゾムぐらいあるんだ」

「20ファゾムって言われてもな」


 深さの単位だということは分かるが、どれぐらいの長さかという感覚がつかめない。そんなレオンに、スオラが両手を真横に広げてみせる。


「これが1ファゾムだよ」

「スオラのよりもうちょっと長い」


 マシューの補足に、スオラが頬を膨らませる。つまるところ、大人が両手を広げたぐらいの長さなのだろう。


「潜るのが得意な奴でも底まで着くのが厳しいぐらいだ」


 スオラはここで実験することには異論がないようなので、レオンも頷いておく。

 タルが海に沈んでいく。桟橋の時は一気に投げ込んでいたスオラだが、今回は慎重に少しずつロープを送っている。

 ロープが足りなくなりそうだなと思ってカバンからロープを取り出す。顔をあげると、同じようにロープの束を持ったマシューと目があった。タルから伸びるロープは2本あるので、2人で1本ずつ結んでおく。

 マシューはさらにロープの端を船に結びつけた。これでスオラがうっかりロープを離しても、タルを回収できる。


「底まで降りたみたい。ん、違うか?」


 ロープが一旦たるんだ後、また真っ直ぐに伸びる。しかし、またすぐにたるんだ。


「なんかに引っかかってたのかな? 今度こそ、底だと思う。20ファゾムと半分ぐらいだし」


 きっちり水深も測っていたらしい。それぐらい深ければ、実験としては十分だろう。

 スオラが1本目のロープを引く。深いからか、泡が上がって来るまで少し間があった。


「そろそろいいんじゃないか?」

「そうだね」


 泡が止んだのを見計らい、スオラは2本目のロープをくるりと手に巻きつける。

 重りの石を外すためにちょっと勢いをつけて引いた、その瞬間。


「えっ⁉︎」


 ロープが引かれる。海の方から。スオラの身体が船の外へと大きく傾いだ。

 そのまま海に落ちるより早く、マシューがスオラをつかむ。

 出遅れたレオンは、スオラの手からロープを奪い取った。

 その瞬間、もう一度引き込まれる。レオンはあえて転んで姿勢を下げる。舷側に足を踏ん張っていれば、海に引きずり込まれるほどの強さではない。

 ロープを引く力は一旦弱まったが、また強く引かれる。

 1回、2回、3回。


「登ってる?」


 根拠はない。根拠はないが、海底にいた『何か』が、ロープを伝って登ってきたら、こんな風に感じるのではないか。レオンの脳裏にそんな想像が広がる。


「登ってるって、何が!」


 悲鳴のようなスオラの問い。この海で生活してきたスオラやマシューが分からないのにレオンに分かるわけがない。


「タルを捨てろ!」

「やだ! 捨てちゃダメ!」


 マシューの判断を、スオラの執着が否定する。どちらにせよ、もう遅いとレオンは感じる。

 『何か』がロープを引く振動は、もうかなり近い。

 ロープは左手で握ったまま、右手でカバンの中を漁る。

 マシューも腹をくくったか、船底に転がっていたモリを拾って、へたり込んでいるスオラの前に立った。


 波立つ水面、激しい泡。

 突き出て来た物は、最初は氷のように見えた。

 しかし、海底から氷が浮いてくるわけがない。季節も合わない。

 

 さらに姿を現したソレは、透き通っていて、ゴツゴツと硬そうな表面をしており、その奥に白い繊維がうごめいている。

 異様な姿ではあるが、殻の形だけなら見覚えがなくはない。


「エビ? 透明なエビ⁉︎」


 スオラの言う通り、形だけなら海沿いの街の居酒屋で普通に出てくるエビのハサミに見える。続いて水面から出てきた柄のある眼も、エビに近い。

 だが、問題は大きさだ。ハサミだけで、スオラと同じぐらいある。

 エビはその巨大なハサミを振り上げ、マシューめがけて振り下ろした。

 マシューは横にズレてかわすが、船がミシリと嫌な音を立てる。

 お返しにとマシューが打ち込んだモリは、エビの殻を削るだけ。


「しょっぱっ! 塩なの?」


 エビの殻のカケラを浴びたスオラが声を上げる。


「塩のエビ? 聞いたことないぞ、そんなの!」


 聞いたことがあろうとなかろうと、今襲ってきている事は変わらない。

 レオンはカバンから赤い根菜を取り出す。人前で見せたい魔法ではないのだが、非常時だ。


「これでもくらいなっ!」


 葉から炎を吹き出して飛んだ人参。狙いは顔面だが、左のハサミに阻まれた。


「一発じゃ足らんか」


 ハサミの殻に大きく何筋もヒビが入るが砕くには至らない。

 レオンは次弾を求めてカバンに手を入れる。


 そこで、マシューのモリが左のハサミの付け根に突き刺さった。関節の殻を砕き、中の身まで突き通る。

 エビが左のハサミを大きく振ったため、マシューはモリを離して後ずさる。

 レオンは叫んだ。


「あほうが!」


 マシューが下がり過ぎたせいで、スオラの方がエビに近い。スオラを守る方が優先だろうに。

 罵声はレオン自身にも向いていた。カバンに入れていた人参は1本だけ。なんでもいいから代わりにとつかみ出したのは、スオラの母からもらったまだ読めてない呪文書だ。


 エビがまだ無事な右ハサミを引いて構える。狙いはスオラ。まだ座っているスオラが避けられるはずがない。


「ええい、こっちだ!」


 せめて呪文書を投げつけたら注意を引けるのではないか。そんな考えでレオンが振りかぶったとき。


 表紙の琥珀が輝いた。


 エビがハサミを突き出すより一瞬早く、鈍い音がした。

 一拍おいて、エビがはねる。

 エビの右ハサミが根本から落ちる。関節を砕かれたのだ。

 砕いたモノは……


「魔女の、人形?」


 大雑把に人の形をした、黄色く透き通った琥珀色の何か。

 海から船に上がってきた琥珀人形は、まだ動くエビに対して拳を構える。

 顔面に一発。殻がヒビで白く染まる。

 眼に一発。そこだけは黒かった眼球が弾ける。

 エビもまだ動く。横薙ぎに振った左のハサミが人形の頭部をとらえた。砕けた琥珀の塊がバラバラと船底に撒き散らされる。

 琥珀の人形は力を失い、水面に落下する。


 そこで、スオラが動いた。

 コルクに結んでいた1本目のロープ。いつのまにかエビの脚に絡んでいたそれを思い切り引く。

 バランスを失ってよろけるエビ。そこに駆け寄ったマシューが、まだ左のハサミに刺さっているモリを押し込む。

 ハサミを突き抜けた穂先が、エビの頭部、琥珀人形の打撃でヒビの入っていた甲殻を砕いた。

 力を失ったエビは仰向けに倒れ、海の中へと沈んでいった。


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