蟻になった信二

@Oshiritetsu

蟻になった信二

尾尻信二(おしりしんじ)は、ごく普通のサラリーマンだった。毎朝、満員電車に揺られ、黙々と仕事をこなし、夜遅くに帰宅する。家では妻の硝子(しょうこ)娘の結弦(ゆずる)が待っているが、顔を合わせる時間はわずかで、最近ではほとんど会話もなかった。彼はただ、与えられた業務をこなすだけの毎日を送り、心のどこかで、自分が何のために働いているのかを忘れかけていた。「これが俺の人生なのか?」と思いながらも、彼は誰に文句を言うわけでもなく、ただ流されるように働いていた。

 ある日のこと、信二はいつものように仕事を終え、疲れ果てて帰宅した。寝室に入ると、突然の強烈なめまいに襲われ、そのままベッドに倒れ込んだ。目を開けたとき、彼は驚愕の光景を目にした。自分の手が、脚が、そして体全体が小さくなり、硬い殻に包まれていた。信二は、なんと自分が蟻になってしまったことに気づいたのだ。「これは夢か?」と彼は思ったが、その感覚はあまりにもリアルだった。周囲は巨大な迷宮のように見え、彼はその中で何をすべきかもわからず、ただ混乱していた。やがて、同じように小さな蟻たちが近づいてきて、彼を誘導し始めた。何かに突き動かされるように、信二はその蟻たちと共に働き始めた。

 巣の中は驚くほどの秩序が保たれていた。すべての蟻が役割を持ち、無駄な動きひとつなく働いていた。信二は、何も考えずに他の蟻たちと同じように働き始めた。食料を集め、巣を広げ、女王アリを守ることが彼の新たな使命となった。蟻としての生活は、単調でありながらも充実していた。人間としての記憶は次第に薄れ、信二は蟻としての本能に支配されていった。

 ある日、信二は巣の外に出る任務を与えられた。地上は広大で、明るく、そして恐ろしい場所だった。巨大な生物たちが彼の周りを行き交い、そのひとつひとつが彼の命を脅かす存在だった。だが、信二は怯むことなく働いた。蟻としての使命感が彼を支えていたからだ。その中で、彼はある巨大な影を目にする。それは、かつて彼が属していた人間だった。人間は何も知らずに歩き、蟻の列を踏みつぶしていく。人間の足が止まったかと思うと、人間は腰を下ろし、1匹1匹蟻をつぶしては食べていった。その光景を見たとき、信二の中で何かが蘇った。人間としての記憶が、突然彼の意識の中に渦巻き始めたのだ。

   「俺は、かつて人間だった… 俺の仲間たちを食べているあの人間は結弦...?その横に立っているのは硝子...?」

だが、その記憶は一瞬にして消え去った。信二は再び蟻としての使命に集中し、何も考えずに巣へと食料を運んだ。彼は、かつての自分がどんな人間であったかを一瞬にして意識の中から飛ばした。今や彼はただの蟻だった。

 巣の中での生活は、どんどんと単調さを増していった。信二は日々、巣を守り、女王アリのために働いた。時間の感覚はほとんどなく、ただ黙々と与えられた仕事をこなしていた。それが彼にとっての「一生」だった。

 だが、ある日、巣が危機に瀕した。外敵が巣に侵入し、女王アリを狙っていたのだ。信二は、自らの命を投げ打ってでも女王アリを守ろうとした。彼はその時、蟻としての使命を全うすることに何の疑いも持っていなかった。命をかけて働くことが、彼にとっての唯一の存在理由だった。

 信二は、何度も敵と戦い、最後には自らの体を犠牲にして巣を守り切った。しかし、その戦いの中で彼の体は深く傷つき、もう二度と元のように働くことはできなくなっていた。

巣の中で、信二は静かにその生涯を終えようとしていた。彼は疲れ果て、もう動くこともできない。それでも、彼の中には不思議な感覚が広がっていた。蟻としての一生が終わろうとするその瞬間、彼の心にかつての人間としての記憶が蘇ったのだ。

彼には家族がいた。愛する妻と、幼い娘。その姿が彼の意識の中に浮かんだ。彼は家族のために働いていた。そして、その家族に対して、もっと何かできたのではないかという後悔が彼を襲った。

「俺には、まだやるべきことがあった…」

その思いが彼の中で渦巻いたが、もう遅かった。信二の体は限界を迎え、彼の意識は次第に遠のいていった。

信二の体は、他の蟻たちによって巣の奥深くに運ばれた。彼の死は、蟻たちにとっては特別なものではなく、ただの自然の一部だった。巣は何事もなかったかのように、再び静かに動き続けた。

                     「うぅん....」重く閉ざされていた瞼をゆっくりと開くと、現実の風景が徐々に視界に現れた

 

「信ちゃん!信ちゃんが起きた!」結弦が飛び跳ね、叫んだ。

彼はゆっくりと体を起こし、周囲を見回した後、目をこすりながら「おはよう」とつぶやいた。その瞬間、寝室の外からドタドタと足音が聞こえ、硝子が勢い良く扉を開けて入ってきた。彼女は涙を流しながら信二に飛びつき、思い切り抱きしめた。

「信ちゃん、あなたが目を覚ましてくれて、本当に良かった…!もう、もう心配で心配で、どうしようかと思ったんだから!昨日の夜から今日の夜まで全然起きなかったんだよ?」

全身がじんわりと温かくなっていく。自然と涙が溢れてきた。

「信ちゃん?なんで泣いてるの?」結弦が不思議そうに信二の顔を覗き込んだ。

「いや、泣いてないよ。」信二は笑顔でこたえて、結弦の頭を撫でた。ついでに蟻をむやみに食べてはいけないことを伝えた。

体は元に戻っていたが、その手には未だに蟻としての感覚が残っていたように感じた。彼は大きく息を吸い込み、自分がまだ生きていることを実感した。「俺には愛する家族がいたんだ…家族のために、俺は転んでも立ち上がらなければいけない。」

信二はそう強く決意した。今までの自分がどれだけ家族を蔑ろにしてきたかを反省し、これからは家族にとってのヒーローになろうと誓った。それと同時に、自分が蟻の人生を体験したことにより、生き物には優しくしようと思った。会社に行く準備をしながら、彼は新しい気持ちで家を出た。これからも困難はあるだろう。しかし、彼は蟻としての経験を通じて学んだ。どれだけ辛い状況でも、立ち上がり、前に進むことが大切なのだと。

彼はまるで蟻が巣穴を掘るように、一歩一歩、確実に前に進んでいくつもりだった。そして今度こそ、家族のために全力で生きることを決意したのだった。

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