7話 星夜
「なんだ……このでかい屋敷は」
「これでも……小さいのにしてくれたんだと思う」
セルマはターヴィといっしょに馬車へ押し込まれ、王が直々に用意したという『愛の巣』へ向かわされた。言いたいことは山程ある。しかし相手が王である時点で、どれもこれも口にしてはいけない言葉だった。なので、あまりにも想定外なでかさの白い建物に到着し降車したとき、万感の思いを込めて「くそったれ」と吐いた。
おそらくとても価値のある、四階建ての古い建造物だ。王のコレクションのひとつだったのかもしれない。アワーバは煉瓦に漆喰の建物が多いが、この屋敷は一部木造建築のようだ。たとえば正面入口の二本の柱は、美しい彫刻が施され白く塗られた太い樹の幹だった。工芸美術に詳しくなくとも、相当手が込んでいることはセルマでもわかる。
「――勘弁してくれ、こんな、どこもかしこも傷をつけちゃいけないような家に、一晩だって住めるものか」
セルマは、ずっと天井すらない場所で寝起きする生活をしてきたのだ。山小屋ですら上等だと常々思っているのに、こんな高級なところに滞在できるわけがない。そう思って踵を返したとき、視界に入ったのは屋敷の門に立つ儀仗服の騎士たちだった。監禁するつもりかよ、とつぶやいてセルマは空を仰いだ。
「おかえりなさいませ」
観念したセルマが、壊さないよう気をつけながらドアノブを下げ、玄関扉を開くとそんな声がかけられた。声の主は右手を胸に当てこちらへ頭を下げている。黒いお仕着せからして、執事なのだろう。灰色の整えられた短い髪に切れ長な空色の瞳、横長の眼鏡をかけている。そして、あの王が配属しただけあって、美しい男だった。セルマはげんなりした。
「ターヴィ様、セルマ様、ご挨拶申し上げます。こちらの屋敷の管理を拝命いたしました、マティアスと申します。今後、手足として用いていただければと存じます。なんなりとお申し付けくださいませ」
「ああ、うん、はい……」
ターヴィが態度を決めかねた様子で返事をした。セルマは破れかぶれの気持ちになった。
ため息と共に中へ入る。ターヴィもここを訪れるのは初めてらしい。きょろきょろと物珍し気に見回して、ひと言「こりゃあ、すごい」と言った。
「……天井の模様とか見ると、たぶんキセート時代の建築物じゃないかな。四百年くらい前。こんなに綺麗に保存されて、人が住める状態にしてあるなんて、とんでもないことだよ」
「あー、あー、最悪だ。あたしは庭で野宿するぞ」
うんざりとしてセルマが宣言すると、執事のマティアスは慇懃な態度を崩さずに口を開いた。
「床や内壁は、近年に打ち直されたものです。傷を着けても替えが利きますのでご安心ください」
「そうかよ。ぜんぜん安心できんな」
「うわあ、よかったー。こんな値打ちのある建物、僕だって怖いよ」
ターヴィは片脚を上げて床を見た。足跡も着けてはいけない気分なのは、セルマにもわかった。マティアスが薄い笑顔で尋ねる。
「お食事も入浴の準備も整ってございます。どちらになさいますか?」
「お風呂!」
「メシ」
セルマの言葉に、ターヴィは慌てて「僕も、いっしょにごは……メシ!」と言った。
食堂へ案内され、席へ着いた途端に現れた数人のメイドたちが、並んで一礼した。マティアスが端から名前を言って紹介したが、覚える気がないセルマは適当に流す。ターヴィは律儀にも「よろしくお願いいたします」と言っている。
そして案の定、セルマの大嫌いな、一皿ずつ運ばれて来る食事だった。文句のひとつも言ってやりたいが、ここにいる人たちは皆雇われて仕事をしているだけだ。よってぐっと抑えて黙々と食事をした。
風呂は風呂で、手伝おうとメイドがやって来る。うんざりしすぎて言葉が出なかった。ただ身振りで出て行くように指示した。
(――ああ、ムリだ。あたしは、こんな生活できやしない)
半日も経たない内にセルマはそう思った。ひさしぶりの湯船すら、セルマの心労を取り去ってはくれない。着替えとして渡された服も、セルマの常の様子を見て用意されたのか、飾り気のないシャツとスラックスであることはよかった。しかし、質が高すぎる。こんなものを身に着けたら拒否反応を起こして皮膚がただれるのではないかと、戦々恐々としながら袖を通した。
そして、夜。
「なんかそんな気はしてたよ」
セルマのその言葉に、ターヴィは真っ赤な顔で身を小さくした。二人が寝室として案内されたのは同じ部屋で、もちろんベッドはひとつだった。しかも、絶対にこのベッドで共寝をするように、これだけ広い屋敷だというのに他にベッドはないらしい。
セルマはため息をつきながら部屋から出た。そして「マティアス!」と声を上げた。
「はい、こちらに」
「汚してもいい敷布とかある?」
「は。お持ちいたします」
仕事のできる男だと、その点はマティアスについてセルマは感心した。すぐにどこかから、折り目正しくたたまれた真新しい白いシーツを持って来る。受け取ってセルマは玄関へ向かった。ターヴィは慌てて着いて来た。
「セルマ、どこへ行くの」
「庭で寝る」
「えーっ」
庭が広く、近隣に建物がないからか、夜空の星がはっきりと見えた。ここ数年は瘴気に阻まれて全く見えなかった景観だ。芝生の上にシーツを広げ、寝転がる。
「じゃ、じゃあ、僕も」
「ほら、もう一枚ある」
「え?」
「ほんと、嫌味なくらい仕事できるな、あの男」
マティアスは二枚の敷布を持たせてくれた。最初からこうなると予想していたのだろうか。
子どもの頃を思い出した。天井などない荒野。名前もよく知らない人たちと、肩を寄せ合って生きて来た。毎晩のように教えてもらった星座がたくさん見えたが、由来も名前も全て忘れてしまった。
ターヴィもセルマの隣りにシーツを敷いて横になる。同じく夜空を見上げて、しばらくの後に「綺麗だね」とつぶやいた。
「おまえが取り返した空だ」
「セルマが居なければできなかったよ」
「もういいよ、そういうの」
「本当なんだって」
鼻で笑ったセルマへ、ターヴィは切実な声色で言った。考え込むように沈黙した後、もう一度口を開く。
「――あのとき、僕の名前を呼んでくれたでしょう」
語りかけるような、胸の内を告げるような、そんな声色だった。
「もうダメだと思ったんだ。瘴気に飲み込まれて、きっとなにもかも終わってしまうと。思ったように楔を入れられなくて、でも視界はどんどん狭まって行って」
楔とはなんだろう。言葉の意味を考えると、なにかをそこに留めるための物だと思うが、よくわからない。セルマはターヴィへ、どのような方法で瘴気の『源泉』を小さくしたのか尋ねていない。どのみち自分では理解できない難しい計算の上で行われたのだろうから。きっと城の頭のいい人がターヴィから聞き取って、書面にし代々語り継いで行くのだろうと思っている。
「セルマの声が聞こえて。はっとして。僕が諦めたら、一番に被害を受けるのはセルマだって気づいて。思いっきり打ち込んだ。そしたら、核が壊れたんだ」
核とはなんだろう。瘴気に、なにか形のある部分があったのだろうか。あまりにも知らないことだらけだが、セルマはそれでもいい気がした。ターヴィは『源泉』へ乗り込み、そしてその拡大を防いだのだ。それでいい。
「ずっと僕を呼び続けてくれたね。だから、入り口を見つけられた。あなたが差し伸べてくれた手があったから、僕は戻って来れた」
ターヴィはそれきり黙った。星が綺麗だった。セルマは多くの言葉を知らなくて、ただこの空が、綺麗でよかったと思った。夜風が気持ちよくて、次第に眠気を誘った。こんな風に、周囲の脅威を気にせず眠るなど、セルマの人生で初めてかもしれなかった。
寝入り端に、ターヴィがささやいた。セルマへ聞かせる気持ちはなかったのかもしれないし、反対に聞いてほしかったのかもしれない。
「――好きだよ。セルマ。本当に。ずっと。ずっと……前から」
ターヴィの声が夜風にかすかに溶けて消えていく。セルマはその言葉が、心の中で響いているように感じた。しかし、答えなかった。答えられなかった。言葉が出ないのは、眠気のせいでも疲れのせいでもなく、ただその瞬間、言うべき言葉が何も見つからなかったからだ。
セルマの人生はあまりにも荒涼としていた。愛情や優しさとは無縁の、厳しい世界でこれまで生き抜いて来た。人並みの生活がどんなものかすら知らない。
ターヴィのその言葉は、あまりにも温かく、あまりにも心地よく、自分が触れてはいけないのではとセルマには思えた。繊細な硝子細工のように、壊してしまうかもしれない。
こんな、汚れた手では。
そして同時に、腕を伸ばしても手の届かない、遠いもののようにも感じられた。
「......寝るぞ、ターヴィ」
セルマは結局、それだけを言った。そして、静かに目を閉じた。セルマは多くの言葉を知らなくて、答える言葉も持たなくて、ただ、よくわかんねえなあと思った。言葉の意味も、その気持ちの意味も。――自分の気持ちも。
ターヴィも、少しの沈黙の後、目を閉じたようだった。
いつか、理解できる日が来るんだろうか。そして、自分はそれを望んでいるんだろうか。それすらも、やはりよくわからなくて、こんなに綺麗な空の下なのに、心が霞んでいるようだった。
夜は更け、風が優しく通り過ぎていく。今はただ、静かに眠りにつくべきだとセルマは思う。張り詰めた気持ちが途切れたのか、ここ数年の疲れがようやく体を追い越してきたような感覚だった。
うつらうつらとしながら、セルマはこれまでの自分の生き方をぼんやりと思った。誰にも告げたことのない過去。不器用で、愚かだった。他の生き方を知らなかった。
それでも、今この瞬間は、穏やかで、温かい。
静かな夜の中、セルマとターヴィは眠りについた。夢で互いのことを考えながら。
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