5話 昔噺

 セルマは、両親の記憶がない。気がついたら一人で、多くの知らない人々と共に荒野で寝起きをしていた。若者はいない。周囲には自分と同じくらい幼い子どもか、怪我や病気で動けない者たちばかりだ。

 食べ物はない。週に三度ほど、貴族のような綺麗な身なりをした人たちが炊き出しを行っていた。その長蛇の列に並んで、やっと食事にありつける。飢餓が横行していて、自分を含めた子どもたちは皆、特有の膨れた腹をしていた。常に渇いていた。水たまりを見つけたら、泥水でもすすった。絶えず腹が空いていた。それも自覚できないほどだった。

 少し大きくなったときに、自分たちが棄民と呼ばれていることを知った。セルマが生まれたらしい国と他の国で、大きな戦争があったらしい。どちらが勝ったのかは知らない。ただ、棄てられたのだという事実だけがある。


 片脚のない中年男性がいた。彼はセルマをかわいがってくれていて、ときどき文字を教えてくれた。あまり興味がなかったが、それでも自分の名前を書けると、少しだけ嬉しかった。男性の名前も教えてくれたが、長くてよく覚えられなかった。音がおもしろくて何度も発音したので、姓だけは覚えられた。コティペルト。綴りを覚えて、自分の名前と並べて書いた。大きな手が頭を撫でてくれた感触は、今でも思い出せる。

 そんな状況で生活していたから、実際自分がいくつなのか、セルマとは誰が名付けたものなのか、よくわからない。それでも、ざっくりとセルマが八歳のとき、また戦争が起こった。綺麗な服の人たちは来なくなって、炊き出しの食べ物はなくなった。セルマは他の子どもたちといっしょに、一番近い街や山へ行って食べられそうな物を取って来た。そして動けない者たちと分け合うのだ。

 他の子どもたちは各々自分の親の元へ帰る。けれど、セルマはコティペルトのところへ行った。


 やがて、ちゃんと両手足のある男が、セルマたちが寄り集まっている場所へ来た。そして食べ物を集める係の子どもたちを連れて行った。騒いだ大人たちは殴られておとなしくなった。セルマはコティペルトに言われて、彼の背中に当てて丸めてあった布に包まり、小さくなっていた。だから連れて行かれなかった。

 子どもたちの人数は半分になった。それまでも食べ物を探すのは困難だったのに、もっと大変になった。そもそも、子どもの足ではそう遠くへは行けない。街はすでに人の影がなかったし、山も穫るには限界がある。集まりの大人たちの間で諍いが絶えなくなった。死人がよく出た。埋葬する体力は、誰にも残っていなかった。

 残った子どもたちで確保できた食べ物は、雑草ですら全員で分け合った。あるときセルマは、山でおそらくリスが埋めたであろう木の実を掘り当てた。全部で六つで、きっとコティペルトも喜んでくれるだろうと思った。だから、みんなの前には提出しなかった。

 コティペルトは、あの大きな手で撫でてくれた。そしてセルマが食べるようにと言ってくれた。けれど、歯が生え替わっている最中だったセルマには固くて、食べられなかった。だからひとつだけ口の中に入れてずっと舐めていた。すると、他の子どもにバレた。

 それは、騒動になった。食べ物はすべて一度提出するという決まり事があったのだ。それはつながりのない集まりの中では唯一とも言える法律で、セルマがそれを破ったことで、大人たちは怒り狂った。

 しかも、セルマは親のない子だ。ただコティペルトと共にいるだけだと誰もが知っている。だから行儀が悪いのだ、と、折檻しようという声が上がった。セルマは恐ろしいという気持ちを初めて覚えた。

 だから、呼んだ。コティペルトを「おやじ」と。他の子どもが、自分の父親を呼ぶのと同じように。コティペルトは泣いた。そしてセルマを掻き抱いて「これは俺の娘だ」と言ってくれた。

 子の罪は親の罪とされた。コティペルトは引きずり出されて、棒で三回打たれた。それで元々良くなかった具合いが、ますます悪くなった。

 棄民のその集まりは次々と人が死に、外から来る者もなく、だんだん小さな規模になって行った。誰もが明日どうなるかわからない。それでも、命ある限り生きようとした。


 あるとき、また両手足のある男が来た。今度は皆子どもを隠した。しかし、誰かがセルマの存在を密告したようだった。セルマはコティペルトの背後から引きずり出され、担がれる。コティペルトが必死に抵抗し、殴られる様子を見て、セルマはやめてと何度も叫んだ。

 結局、セルマはその男に堂々と誘拐された。セルマの名前を呼ぶコティペルトへ、何度もおやじ、と叫んだ。乗せられた馬車が発車したとき、セルマは初めて泣いた。悲しかった。

 連れて行かれたのは軍隊だった。男の言葉少ない説明によると、足りていない人員を子どもで補っているらしい。体重が軽すぎる子どもは武器の作成と手入れへ、比較的体が整っている子どもは少年兵に。セルマは、身長自体は小さかったが、大丈夫だと思ったのか少年兵の部屋へ投げ込まれた。

 そこでは、以前棄民の集まりから連れて行かれた子ども二人と再会した。他の子どもたちは、皆戦場で死んだと聞いた。野ざらしで虫にたかられる自分の姿を想像して、セルマは絶対にそうならないと固く心に誓った。


 戦場は、悪夢だ。


 何の訓練も説明もなく、セルマは武器を持たされた。防具はない。武器といっても、長い棒の先に尖った石をくくりつけただけの物だ。それでどうやって、向かってくる大人の兵隊と戦えと言うのだろう。

 おそらく戦果を期待されていたのではなく、敵の良心に訴えかけるための駒として扱われたのだ。それでも、二度、三度と生き存え、戻って来ることができれば慣れもした。それに、軍隊では毎日一食の薄いスープにありつける。

 戦場で死んだ者には、鳥がたかった。棄民の集まりでは、たかった鳥を捕らえて食べるのが日常的だったため、学習した鳥はやって来なくなってしまっていた。しかし、戦場には多すぎる死体がある。毎日獲ったところで鳥は動じない。捕まえて絞めて捌いていると、賢いと褒める大人と、薄気味悪いと言う大人がいた。どちらでもよかった。腹を満たせるなら。スープでは足りない分を、子どもたちはそうやって自分で補った。

 栄養を摂れたからか、セルマは体の調子が良かった。けれどある日、股ぐらから出血し動揺した。少年兵の監督者へ、傷の手当てをしてもらえないかと頼んでみた。男は意味ありげな眼差しでセルマ見て手を引くと、武器庫の陰でセルマを犯した。


 やがて、みっつの狼煙が一度に上がった。大人たちは嘆いたり笑ったりした。意味もわからぬまま、セルマを含めた生き残りの子どもたちは野に放逐された。

 右も左もよくわからなかった。けれど、棄民の中から生き残ったセルマともう一人の子どもとで、あの集まりへ帰ろうと話し合った。彼はとても抜け目なく、鳥を狩る際に死体から換金できそうな物を少しずつ掠め取っていた。セルマもだ。

 着の身着のままであることは変わりなかった。それでも、自分たちの居た場所へ戻れるのは嬉しかった。共通の話題といえば戦争のことしかなかったけれど、二人でのその道中は楽しかった思い出としてセルマの中で記憶されている。


 しかし、戻った場所には、なにもなかった。なにも。


 心のどこかで覚悟ができていたようだった。互いに何も言わず、手をつないで一晩をそこで過ごした。次の日には、よく食べ物を盗りに出かけた街へ向かった。人々が戻って来ていて、けれどコティペルトの姿はなかった。

 戦場で盗って来た物を、二人で親の形見だと言って売り払った。たぶん違うとわかっていただろうけれど、店主の男はなにも言わなかった。集まりに居たときのように、二人で分け合った。そして、別れた。それがいいと思えたから。

 子どもが大人の支えなしで生きて行くのは、とても難しい。二人でいるならなおのことそうだ。セルマは、兵役から戻って仕事にあぶれた者たちが、傭兵組合を結成したと耳にした。主に貴人宅や商隊の用心棒を斡旋するらしい。そこへ行って『セルマ・コティペルト』と名を書いた。生き方なんてわからなかった。

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