1日目


 私はEと偶然にも出会った。私は予備校からの帰路についた所だった。いつも通り電車を降りて、プラットフォームから改札口へ降りていく階段に差し掛かった時、Eから声を掛けられた。

 その時私は衝撃を受けた。写実・自然主義から印象派に移り変わる様に、私の見える世界に光がもたらされた様だった。色味がほんのり付いていた程度の世界が、更に色彩がもたらされた様に映った。

 小学校の時のEとは全く違っていた。唯一声だけが聞き覚えのあった程度だ。

 それは大層緊張した。鼓動が早くなった。顔をチラリと見て、それからは視線を合わせられ無くなった。

 Eは明らかに遊び帰りの格好だった。遊び帰りとはいいなと思いつつ、緊張して何も気の利いた返事が出来なかった。話しかけられて、初めは誰か分からず、名前を聞き、そして私からは話を振る事が出来ない。全くもって嫌な男である。

 会話が出来ない私の最後の手段は、素早く階段を降りて、改札を出てさようならを言う事であった。このままでは私は気をおかしくしてしまう。

 素早く階段を降りて、改札を出るところまでは上手く行った。だがこの男は最後が決めきれなかった。Eは改札を出て、バイバイと言ってくれた。私は何を思ったか、お疲れ様と口走って別れた。

 意味が分からない。何がお疲れ様なんだろうか。さようならの日本語も言えなくなったのか。小学校の時の自信はどこ吹く風。この男はEに失礼な事しか出来ないのだろうか。

 Eと別れた後、私は動悸が治らなかった。老人なら今すぐにでも"救心"を飲むべきなのだろうが、18歳だ。これが恋なのかと疑問に思った。それまで一切恋などした事が無かったから要領が掴めない。一目惚れなのだろうか。胸が高鳴るだけで、Eの事を欲している訳では無かった。やっぱり"救心"を飲むべきなのだろうか。


 私の世界に新たな色彩がもたらされた。明らかに昨日より今日の世界の方が綺麗に見えた。やっぱり恋なのか。恋となれば、Eの事が頭から離れないような事を指すのだろう。だが、今私はその様に頭から離れないような感じでもないと思っている。そのように思い込んでいるだけであろうか。堂々巡りである。


 私は夜な夜な考えて一つの見解に至った。これを恋と定義づけよう。そうすれば、今悶々とした気持ちも晴れて寝れると言うものだ。だが、言うは易し行うは難し。未だに悶々としている。これが恋の病かと結論づけた。そうしたら簡単に寝れた。恋ではなくとも、病には違いないと腑に落ちた。


 そうして私は恋に落ちたのではなく、恋の病を患ったという事にした。

 

 では恋は病なのだろうか。私の恋の見解は、彼女が頭から離れない状態であろう。つまりは絵画で言えば後期印象派の様に、まさに彼女を中心として己の世界に彼女をデカデカと描く。更に進んで危険な恋と言った言葉もある。こちらも絵画で言えば野獣派の様に、己の世界がより乱暴に、また強烈に色鮮やかになるのではないだろうか。

 私は恋に落ちたのではないとしてしまったので、写実・自然主義から印象派の間に生きており、未だ抜け出せない。私が勝手に壁を作ったのではあるが、私にとっては恋は高次元にある様に感じる。低次元が高次元を表せられないのと同様に、私の筆も恋を正確に表す事が出来ない。そんな事を考えながらいつの間にか寝た。

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