第五章 愛と理の竜帝攻防戦

 遠く、町の方で火の手があがった。夜のやみがす赤いほのおだ。軍港のじようへきから見える火の姿に、カミラはおどろくよりあきれてしまう。ジークも無言で頭をかいて、つぶやく。

「隊長の読みどおりってことだな」

「……ほんと、何者なのかしら、ジルちゃん」

 主君と決めた相手にそんな疑問を持つのは不敬だが、そう思うのはしかたない。

 夕刻ごろみような槍におそわれたジルは、おびえるでも護衛を増やすでもなく、まずカミラとジークに質問をした。

「水上都市を火の海にするために火をつけるとしたら、どこからか、か……まさか実はジルちゃんがしゆぼうしやじゃないでしょうね」

「それなら、皇帝陛下にだまって俺達を走らせたりしないだろう」

「よう、そこの化け物チビちゃんのども」

 気楽な声をあげながら城壁の梯子はしごをのぼってきたのは、賊の頭目──今はちゃっかり北方師団の軍人ですという顔をしているヒューゴだ。

「ご心配の放火だが、犯人はつかまえといたぞ。約束どおり、がらはこっちな」

「何が手柄よ、燃えてんじゃないのよ」

「そう言うなって。同時多発の放火をほとんど止めたことをほめろ。でも俺らがベイルこうしやくに指示されてた案とほぼいつした火のつけ方だってのは、ぞっとしたねさすがに。こりゃ、あのチビちゃんの言うとおり、生きてるかもしれないなぁ」

 ベイル侯爵が火をつける計画を立てていたかもしれない、それをヒューゴが知っているかもしれない──と言ったのもジルだ。

「消火、一カ所だけ間に合わなくてな。しかもこの風だろ、火の回りが早い。人が死ぬ前に消せると思うんだが、パニクって暴動起こしかけてる住民のほうに手がとられちまって」

 ヒューゴの説明に、カミラはしんみよううなずく。火事は確かにやつかいだ。だがこの火事は、あからさまにこうていへのきようや不満をあおり立てるためにつけられた火種だった。

せんどう者はいた?」

「ああ、黒いフードをかぶってるあやしげな連中だ。こっちに逃げこむようゆうどうしてる。これで北方師団としては上々の働き──と言いたいが、おのだの包丁だの持って、住民共が城に向かってやがってなー。俺はそっちで皇帝陛下をお守りしないといけないわけだ」

「やけに落ち着いているが、裏切る気じゃないだろうな?」

 ジークにすごまれても、ヒューゴは軽くかたをすくめるだけだ。

つなわたりにもしゆにも慣れてるもんでね。それに、皇帝陛下に助けていただいたっつーにんしきはあるわけよ、俺らにも。ほんとに北方師団に任命されたときは、この皇帝アホかって思ったぞ。いくら北方師団に人が残ってなくて、俺らしかいねぇっつってもなぁ」

 それはカミラも内心、驚いていた。高貴な方々というものは、すぐ約束をにする。特に下々の者との約束など、おくにすらとどめない者がほとんどだろう。

 なのに、この国で一番尊いかたがきちんと約束を守ったのだ。

「まっとうな人生に戻るチャンスだ。給料分の仕事はするさ。それに、皇帝陛下だけならまだしも、あのチビちゃんにはかわないほうがいいと俺のかんが言っている。本当に暴動が起きて町が火の海になるところだったんだぜ。こわすぎるだろ、未来でも見えるのかよ」

「でもまだ、ふせげたわけじゃないわ」

 まだ暴動は起きたところだし、火は消えていない。カミラの言葉に、ヒューゴは頷く。

「そうだ。そして暴動を止めて町が無事で終わりってわけじゃない。暴動の対処によっちゃあの皇帝はざんぎやくていの道をまっしぐらだ。いやぁ楽しみだなー」

「あなたねェ……北方師団なんでしょ。皇帝陛下を信じなさいよ」

「そういう話はあとだ。例のクレイトスの王太子様はどうした」

 ジークの質問に、ヒューゴは表情を改めた。

「黒いやりを持ってる確証は取れずじまいだ。ただ看守やら何やら証言者のがらは確保した」

「わかったわ。ここからはりゆう殿でんの命令を受けたアタシたちがけ負う。北方師団は町を守ってちょうだい」

りようかいだ。襲うはずだった俺らが消火とか、おもしろいよなぁ人生は」

 ふとヒューゴが視線を動かした。そこには燃え広がろうとする火と、それを消し止める人々と、目の前の火事よりも恐怖をぬぐうために武器を持って城までの大通りへと集まろうとする住民がいる。

「皇帝陛下もむくわれないよな。町、守ろうとしてんのに、全部裏目に出てやがる」

「……そうね。のろいだのなんだのがせめてなければねェ……」

「でも、もしこっから逆転させられたら、意外と名君になるかもしれない。今が歴史が変わるしゆんかんってやつかもしれないんだ。だから死なない程度には見守るよ」

 言いたいだけ言って、部下に呼ばれたヒューゴは戻っていく。

 黙って見送ったあと、先に口を開いたのはジークだった。

「確かにあの皇帝陛下は色々底が知れないが。歴史が変わる瞬間なんて、そうあるか?」

「そんなもの、あとから結果だけを見た人間が勝手に決めることでしょ」

 それもそうかとジークはあっさり頷き返す。その目がするどくなったのを見て、カミラも立ちあがった。

 カミラとジークが見張っているのは軍港の向こう側、クレイトス王国の王太子が宿しゆくはくしている船だ。そこへ暴動を扇動したやからがきっとげこむ。それを追って、カミラ達は船の中まで入る。他国の、王太子の乗ってきた船にだ。

 綱渡りのとんでもない作戦だ。だが、向こうも町の扇動と王太子の護衛とで人手をさかれて、うすになっている。その間に船を制圧するのだ。他国の、王太子が逃げる船を。

「おいでなすったぞ。隊長のねらいどおりだ」

「あらやだ。ほんと、なんなのかしらねージルちゃん」

 何人か、町から走ってくるかげがある。ヒューゴの言うとおり、フードをかぶって姿を見せないようにしているあやしげな一団だ。

 さあさがせ、竜妃殿下の望む者を。一度その姿は見ている。のがさないはずだ。

「──いたわ。ベイル侯爵」

「隊長が言うことを信じてなかったわけじゃあないが……本当に生きてるとはな」

 カミラは弓をつがえて、さらに声をひそめた。

「しかも王太子もいつしよにいらっしゃるんだけど? 最悪じゃない、これ」

「意外と働き者なんだろう、あの王子様は。──火をつける気だな、港に」

 一団は油やらたいまつやらを用意し始めていた。住民を港から逃がさないためだろう。そしてその間に自分達は逃げる、という算段だ。

「王子様がいてもやることは同じだ。何せ、竜妃殿下のお望みは死んだベイル侯爵を生き返らせることだからな」

 ジークがたいけんいてつぶやく。楽しそうな口調にカミラは呆れた。

「王太子にさせちゃよ。アタシたちはあくまで、町を扇動する輩とその主謀者であるベイル侯爵をばくしにきた。王太子殿でんはだまされてます、お守りしますってていさいでいくんだからね。ベイル侯爵を取られたら元も子もないわ。むやみに敵視しないで」

「いくぞ、あいつらが火をつけたら決まりだ」

「聞きなさいよ」

 文句を言いながらも、カミラは一団から目をはなさない。

 ここで火をつけたら、町に火をつけたぞくを竜妃殿下の騎士が止めにきたという構図ができあがる。現行犯たいだ。それでも他国の王太子にふっかける以上、問題はさけられない。だがこれを命じたということは、責任を請け負うかくがあの少女にはあるのだろう。

 幼くともりゆうとして、神童と名高いクレイトスの王太子とやり合うつもりなのだ。

 最高だ。

「聞けんな。あの王太子は敵だと、俺の勘がそう言ってる」

めずらしいわね、あんたが勘とか」

「前世で殺されたのかもしれんな」

 何を鹿なと思ったが、カミラも王太子を見逃す気はまったくない。

 弓を引きしぼると、くちびるえがいた。

ぐうね。アタシもよ」


   ***


 音は聞こえる。ゆかにもとびらにもさわれる。けれど、だれもジルの姿が見えないし、声も届かない。

 りよくも使えない。

 城のバルコニーに出るジルをラーヴェは止めなかった。町が燃えて、赤くそまっていく。血にうようなさけびが、ここまで届いていた。争いが始まる合図だ。

「──ラーヴェ様! わたしを出してください!」

 り向いたジルと少しきよをとって、ラーヴェが宙にいている。

「だめだ」

「でも、このままだと陛下が……!」

「ハディスの心配なら、必要ない。こんな町、あいつがその気になればいつしゆんで焼け野原だ」

「そんなことをしたら陛下が今以上にりつします、それでもいいんですか!?」

 ラーヴェは答えなかった。ジルは唇をんで、額に手を当てる。

(落ち着け、ラーヴェ様はこれから陛下がやろうとすることをもう承知してるんだ。説得するとしたら、そうじゃない……!)

 きっと糸口はある。ラーヴェはジルとハディスの仲を取りなそうとしてくれたのだ。

 それはきっと、ハディスがひとりぼっちにならないようにするためだろう。

「──ベイル侯爵を、カミラとジークにさがしに向かわせました」

 ぱちり、とラーヴェが小さな目をまばたいた。思わぬことだったらしい。ジルはそのままたたみかける。

「呪いはわたしがいれば起こらないという話でしたよね。何より今回はタイミングがよすぎます。あの黒い槍──あれが原因だとしても、あやつれるのは女性だけなら、ベイルこうしやくを操って自死させることはできないはずです。ベイル侯爵の死亡かくにんに行ったスフィア様にとりついていたことからも、そうの可能性が高いと判断しました」

「……よくもまあ、たったそれだけの情報でそこまで手を回したなぁ」

「ジェラルド王太子が何かしかけてくるのはわかっていたので。……この混乱にまぎれてベイル侯爵は始末されるか逃げるかするでしょう。だったら、ベイル侯爵が生きているところを見せれば、このそうどうは陛下の呪いではなく仕組まれたものだと説明できます」

「聞いてもらえる気がしねーけどな。どっちにしろ、あの槍が持ちこまれた以上は、スフィアじようちゃんみたいなのが出続けて、手がつけられない」

 ふよふよと浮いたままラーヴェがテラスから部屋へと入る。それをジルは追いかけた。

「なら、もっとわたしに説明をしてください。対処を考えます! あの黒い槍はがみクレイトスのせいそうなんですか?」

「そうだ。正確には女神の一部だな。俺と同じようなもんだ。嬢ちゃんがよめになって、ハディスの守護が強まって、手出しできなくなってあせって、りよくていさつにきたんだろう」

 思いがけない返事に、ジルは立ち止まる。くるりとラーヴェがこちらを向いた。

「ラキア山脈のほうたての話は、クレイトスには伝わってるんだっけか?」

「……カミラたちから聞きました」

「なら話は早い。もとの姿にもどれなくなった女神クレイトスは、自分の生まれ変わり──うつわの適合者をさがして復活しようとしてる。条件は十四歳以上の女だ。でも、器の適合者じゃなくても、十四歳以上の女なら操ることができる。スフィア嬢ちゃんは後者だった。そんで嬢ちゃんは、ハディスを女神クレイトスの愛から守る魔法の盾ってわけだ」

 ん、と思わずまゆがよった。

「……愛?」

「そう、愛だよ。クレイトスは愛の女神だ。愛しているなら、何をしてもいいとクレイトスは考えている。俺は、ことわりりゆうじんだ。愛してるからって何をしてもいいとは思わない」

 ラーヴェが部屋の中にあるこしかけるよう、うながした。

「女神クレイトスの狙いはりゆうていふうになることだ」

 けんのあたりに指をあてて数秒、ジルは考えた。

「……つまり、ラーヴェ様があのやりけつこんすれば解決するということですか?」

「おお、見事に俺を売り飛ばそうとしたなー。でも残念、あくまで相手は竜帝だ。つまりハディスのことだよ。俺は竜神で、竜帝になる人間の守護というか、武器だし」

「なら陛下があの槍と結婚すればいいのでは!? 槍ならかざっとけばいいだけでは!?」

 雑な解決を提案したジルに、ラーヴェが苦笑いを浮かべる。

「それですむわけねぇだろ。クレイトスはものすげーしつぶかいぞ。ハディスの全部を手に入れようとする。ラーヴェ帝国はほろぶだろうし、下手すりゃこの大陸から女が全員いなくなるだろうよ」

「なんでそんなきよくたんなんですか!?」

「だから愛さえあれば何やってもいいって考えなんだよ、あっちは。ついでに言うと、ハディスが女神を受け入れたとして、嬢ちゃんは死ぬと思うぞ。前妻とか許すと思うか?」

 思わない。得てして神というのは非情である。

「……まともな説得が現状不可能なのはわたしも同意します。ですが、わたしをこんなところに閉じこめてなんになるんですか」

「そうだよなー俺もそう思うわ」

「はい?」

 けらけら笑ったラーヴェがふと表情を改めた。思わずジルは身構える。

「……俺は竜神だ。理の神だ。だから同じちがいはしない。だけど、あっちは違う。ハディスもそれを知ってるはずだ。嬢ちゃん、神話のおさらいだ。黒い槍に化けてしんにゆうしてきた女神を退けるにはどうすればいいかわかるか?」

「どうって……その、神話では、竜妃が天剣で自分をつらぬいて女神をふうじ……えっ」

「女神クレイトスは必ず嬢ちゃんを狙う。そういう女神だ。竜妃の指輪をつけてる嬢ちゃんを見失うこともないだろうよ」

 思わず金の指輪を見る。

(目印ってそういう意味か!)

 ふっとラーヴェの体のりんかくがほどけていく。なめらかなたいが、白くかがやく銀の刀身に変化していくのを見て、ジルは息をんだ。

 その武器がなんなのか、言われなくてもわかった。

 ──竜帝のてんけんだ。女神の聖槍とも打ち合える、ゆいいつ無二の神器。

せんざいいちぐうのチャンスってやつだよ。わかるだろ』

 頭の中でラーヴェの声がひびく。小さなひとみはないけれど、まっすぐえるように、白銀の切っ先がジルののどもときつけられる。

 なるほど、とジルは笑った。背中の冷やあせかくして、不敵に。

「わたしごと女神をる。そういうことですか。──最初からそのつもりで、わたしを竜妃にしたのですか?」

『違う──ってのはうそになるよな。少なくとも、俺はこの展開を想定はしてたよ』

 ちよう気味なラーヴェに、先ほどのハディスの姿が重なった。自分など好きになるな、というあの背中も。

「だったら、わたしをどうして守るんですか」

 理の竜神はちんもくした。ジルは続ける。説得しかここから出る方法はない。

「この中でわたしを守ることと、女神のおとりにすることと、行動がじゆんしています」

『……嬢ちゃんを守って女神のいかりをあおるためかもな』

「それならすでにけんを売ったのでご心配なく。結界をといてください。そうすれば女神がわたしをねらいにくる。閉じこめる必要なんてどこにもない。どうしてそうしないんですか?」

『どうしてだと思う?』

「それを聞いているのはわたし──」

 ふっとひらめいたことにジルはきつもんを止めてしまった。

 こいも愛もわからない。──そんなふうに言っていた、あの竜帝は、まさか。

鹿だよなあ、あいつ。わからないはずがないんだ。こんな簡単に、女神を殺せる方法が目の前にあるってことに』

「……」

『どうするつもりなんだろうな。俺もなしに聖槍とやり合うなんて、ただじゃすまないってわかってるはずだ。そもそも、嬢ちゃんを嫁にしたのはなんのためだ? 女神からの盾に、囮になってもらうためだろ』

 そうだ、ハディスの行動はおかしい。本当にジルを利用する気なら、今、使うべきなのに。

『気づいてないんだよ』

 やさしく、その守護者である竜神は、すべてを斬り捨てる剣の姿のままで言った。

『でも、俺までそういうわけにはいかねぇだろ。俺はあの馬鹿を守ってやらないと』

「──だったらなおさら、わたしをここから出してください!」

 立ちあがったジルをけいかいするように、剣の切っ先がさらに近づいた。

『だめだ、嬢ちゃんがただの女の子じゃないってことはもう知ってる。本気でげられたら追うのも大変だ。だから結界にいれることに俺は同意した』

「逃げません、わたしが女神を退けます!」

『無理だ。女神の聖槍と戦えるのは竜帝の天剣だけだ』

「じゃあ、わたしがあなたを使えばいいだけじゃないですか!」

 ほんの少し剣がたじろぐ気配がしたが、すぐに反論がきた。

『それでも無理だ。いや、嬢ちゃんのぼうだいりよくなら、ある程度は俺を使えるだろうが、それ以上に、女神に勝つ条件が──』

たくはいい、さっさと行くぞ!」

 れたジルはって天剣を手にする。おどろいたらしく、刀身が生意気にも左右に暴れた。

「時間がないんだ! それをぐだぐだぐだぐだと! 女神をたおせばいいんだろう! それでばん解決だ!」

『け、結論が雑すぎるだろ!』

「わたしは未来を知ってる!」

 ぴたりと天剣が──ラーヴェが動きを止めた。

「ベイルブルグがかいめつするだけで終わらない。皇太子派がジェラルド王子とけつたくして陛下を追いめにかかる。ここで片づけない限り、いずれクレイトスとも開戦する。なのに陛下は国を守りながら、周囲にうとまれ続けるんだ。そんな未来を許すのか!?」

『……』

「ここで止めるんだ。信じられないならそれでもいい。わたしが女神に負けたら、その場でうしろから突きせ!」

 ただし、とジルは手にしたラーヴェを見つめる。

「それまで協力しろ」

『……いいのかよ、それで? 俺らはじようちゃんを囮にしようとしたんだぞ』

「そのほうがマシだった!」

 あっけにとられたらしく、ラーヴェがおとなしくなった。ジルは勢いのまま怒りをき出す。

「なんで最後までわたしを利用しないんだ。それならいつものことだ。すぐさま見切りをつけてやった! なんでわたしを守ろうとする。──わたしはどうして、囮に使われたことじゃなく、助けてくれと言われなかったことにおこってるんだ!」

 だまったラーヴェを手にして、そのままテラスへともどる。

 城門前に住民達が集まって、丸太を運んでいた。城門を破るつもりなのだろう。

 さすがに城門を破られたら死傷者が出る。だが今ならまだ間に合う。

『……嬢ちゃんさぁ、まさかハディスを……』

「怒ってますよ。こうかつな女って言ってましたよね。親しげに」

『い、いや、すげぇきらってるからそこは! 子どものころからめいわくしてるから!』

「長いお付き合いなんですね。愛とにくしみはかみひとって陛下もおつしやってましたよ。現に、わたしのことを少しも見ようとしなかった」

 ラーヴェが沈黙を選んだ。正しい判断だ。

 何を言ったってジルのかんさわるだけだ。

(──ああもう、どうしてわたしは先に好きにならないなんて決めたのか)

 恋をしていい相手かどうかなんて、まだわからない。

 でも、好きだから助けにいく。それが間違っているだなんて、神にも言わせない。

『……あのさ、ハディスが嬢ちゃんの名前を呼ばなかったのは、嬢ちゃんの存在を少しでもがみに気取られないためだからさ』

「だから女神が直々にわたしを殺しにきたんですよね、わかります」

『本当は呼びたかったんだよ、あいつ。俺だってそうだよ』

 そんなことをすれば女神が余計に怒るのがわからないらしい。本当に神でもこうていでも、男はどうしようもない。

 そしてそんな馬鹿な真似まねいとおしく思う自分も、どうしようもないのだろう。


   ***


 ──どうしてぼくには、父上も母上も兄弟も、いるのにいないの?

 ある日たずねたハディスに、生まれたときから唯一変わらず自分のそばにいてくれるりゆうじんはこう答えた。

 ──ごめんな、お前がこんななのは、俺が悪いんだ。お前が、俺の生まれ変わりだから、俺のしたことのツケをはらうことになってる。

 ラーヴェを謝らせたくなかったから、ハディスはこう思うことにした。

 これはきっと、女神のせいだ。愛という名前のそののろいが、ハディスからみんなを取りあげてしまう。だから呪いさえなんとかすればいい。だれも悪くなんてない。

 いつか呪いがとける日がきたときのために、立派な皇帝になれるよう、たくさん勉強しておこう。みんなを女神から守れるくらい強くなろう。それが自分の生まれた意味だ。

 自分は、誰にも見えない育て親を泣かせたりなんかしない。

 時折、ラーヴェの目をぬすんでハディスの様子を見にくる女神は笑う。

 ──あなたを必要とする人なんているかしら。あなたを愛する人なんて現れるかしら。本当は知っているでしょう? だってほら、見回してご覧なさい。だあれもいない。今までだってこれからだって、あなたを心から愛してあげられるのは私だけ。

 ラーヴェが追っぱらって、耳を貸すなと言う。

 ──だいじようだ、あいつはお前にりゆうができたらもうやってこない。それまで俺がいつしよにいるから、吞まれるな。愛に流されて、ことわりを忘れるな。

 だからハディスはうなずく。ラーヴェを心配させないように、ちゃんと笑う。

 初めて会った父親が「殺さないでくれ」と玉座から転がり落ちてたのんでも、おびえた兄弟達に目を合わせてもらえなくても、目の前で首をかき切った母親の返り血がほおにはねても、皇帝らしくぜんと対処し、大丈夫だまだあきらめない、未来はきっとあると笑ってみせる。

 でも、そのたびに女神も笑う。

 ──愛しているわ。ほかの誰があなたを愛さなくても、私だけは愛しているわ。あなたを誰にもわたさない。ねえ、だから私だけを見て。そうしたら楽にしてあげる。だって知っているのよ、私だけは竜神も知らない本当のあなたを知っている。

 ──本当は明るい未来なんて、信じるふりをしてるだけだってこと。

 ──しあわせにすると言ってくれた小さな女の子をおとりにする、人でなしだってこと。

 そんなあなたを愛してあげられるのは、私以外誰もいない。ねえ、あなただって気づいてるんでしょう? あなたはどうしたって私から逃げられない。

 姿を現さなくても、ハディスの胸底にこびりついたやみにまぎれて、女神はいつも楽しそうに笑っている。

(ああ、そうだな。結局、僕を愛しているのは、お前だけだ。兄上だって本当は僕をきらっている。僕は誰にも望まれない。期待されない。生きていることすら)

 ──わたしがいるって、言ってくださいね。

 ふとあわはじけるように、意識が現実に引き戻った。どうして彼女を閉じこめたのか、とうとつに疑問がわいた。

(……いや、まだ彼女を失うわけにはいかないから、だろう?)

 今回のそうどうは十中八九、女神の血族であるジェラルド王子に守られ、物理的に運ばれてきた女神のせいそうが原因だ。竜妃がいる以上、女神本人はほうたてを──国境をこえられない。

 だから、ラーヴェの結界の中に彼女を閉じこめた。

 だがかしこい彼女はもう気づいただろう。自分が囮に使われたこと。

 もう、好かれるどころではない。嫌われただろうなと、心のかたすみで思った。当然だ。別にそれでいい。最初からこうなることはわかっていた。いつしゆんでも何かを期待した自分が、今はおかしくてならなかった。

 それでもしばりつけなければならない。彼女ほどのいつざいは見つからない。とにかくまず女神をなんとかしなければならないのだ。自分の判断はちがっていない。

 でもそれなら、どうして女神の聖槍にねらわれた小さな背中を、守ってしまったのだろう。

 あのとき自分はラーヴェを──りゆうていてんけんを持っていた。あそこで彼女をおそわせてり捨てていれば、女神は復活でもしない限り、当分動けない状態になったはずだ。

 今だって、ラーヴェに守らせるより、もっといい使い方があるのではないか。

「……よく、わからないな」

 つぶやきが、ごうにかき消える。ざされた城門を住民達がかいしようとしているのだ。城の中央にちんする、町を一望できるバルコニーでハディスはそれを見おろしていた。

 女がうばわれた、取り戻せ。

 竜帝は国を呪いでほろぼす気だ、国を守れ。

 殺せ殺せ、あんな皇帝は必要ない、誰も望んでいない。死んでしまえ、死んでくれ。

(それでも僕が皇帝だ。でなければこの国は竜神の加護をなくし、女神にじゆうりんされる。そうなったらラーヴェはきっと、神格を落としてでも、この国を救おうとする……)

 わかっているのに──全部殺してしまおうか、と心のどこかでつぶやいた。

 どんなあり方だろうと、ハディスは竜帝であり、皇帝だ。だったらなんだっていいではないか。向こうがいらないというなら、こちらだっていらない。そう切り捨てていって、何が悪いのか。

 ──ラーヴェ。僕は、いつまで未来を信じているふりを続ければいい。

 きっとそう口にした、そのときが最後だ。

「……不幸だな」

 ふと、苦笑いがかんだ。自分に、そしてこれから自分がおさめていく、国に、たみに。

「おい皇帝陛下、まだこんなところにいるのかよ!」

「北方師団を引かせろ。城に残るのは僕だけでいい」

「は?」

 そんな態度がけきらないヒューゴが、げんな顔をする。おそらく自分が動かないものだから、ミハリに頼まれたのだろう。

(彼らを巻きこんではいけない)

 ふと、そう思った。良心のひとかけらみたいだった。

 そう、自分は──最後の最後まで、たったひとりになっても、立っていなければいけない。

 誰にも愛されず、誰も愛さず、女神をたおすその日まで。

「全員、軍港に転移させる。……住民も軍人には手を出さないだろう」

 だからそのためには、彼女を囮に使って──ああ、ちがう。囮にしてしまったら彼女は。

 胸が痛い、と思った。そういえば今日はようの薬湯も飲んでいないし、もうねむる時間もすぎている。きっと明日の体調は最悪だ。

 けれど、今から命を奪われる彼らにくらべたら、なんでもない苦痛に違いない。

「おいちょっと待て、それだとあんたはどうなる」

「かまわない。ほうっておけ」

 ばきり、と音がした。城門が破られる音だ。一度目を閉じて、開く。ここまでだ。

 もう彼らを止めるすべなどない。

 呪いというならば、この現実こそが呪いだ。

「僕は化け物だ」

 ひとりごちてから、思い出した。そう言ったことがごく最近なかったか。

(そうだ。船が襲われたとき。そうしたら、彼女が)

 ──しあわせにすると言っただろう?

 とつぜんだいおんきようで城のしようろうが鳴りひびいた。

 ハディスは大きく目を見開く。

 よどみきった空気をき飛ばす、んだかねの音だった。けんそうぞうもすべて打ち消して町中に響く。間違うな、正気にもどれとさけぶような、たましいの響きだった。

 まっすぐまくを、心をふるわせる、美しい声。


「出てこい、がみクレイトス!!」


 鐘の音もかき消すような大声が響きわたる。

 おいおい、とヒューゴが一歩み出した。争いの手もせいも何もかも止めて、みなが彼女を見あげていた。

 焼けた風になびくかみと、小さな体。まっすぐゆるがない、むらさきひとみ

 鐘楼の屋根に立っている、囮でしかないはずの、少女を。


「わたしはジル・サーヴェル。しようしんしようめい、竜帝の妻だ! 町を燃やすな、女たちをのろうな。お前が本当に用があるのは、わたしひとりだろう!」


 竜帝の天剣をりかざし、ジルは叫ぶ。


「ハディス・テオス・ラーヴェはわたしのものだ。奪いたければ正面からこい、お前にはわたさない!」


 そう、あのとき彼女は言った。

 守りますと、よりにもよって竜帝たる自分にちかったのだ。



 ジルの宣言を聞いたあとで、ラーヴェが真っ先に叫んだ。

『いやじようちゃん、こっちからけん売ってどうするんだよ!?』

「こう言えば、放火も陛下の呪いも全部、女神のせいだってわかるだろう!」

『マジかよぉ』

 情けない声をあげるラーヴェを──天剣をにぎり、ジルはじっと港のほうを見つめる。

 くるはずだ、という確信があった。女神なんてあがめたてまつられた女が、欲しい男を自分のものだと宣言されておこらないわけがない。

 その期待にこたえるように、港から一直線に何かが飛び上がった。

『ほんとにくるしなあ、あっちも! ──嬢ちゃんは本来の使い手じゃない。本領発揮は無理だし、もって数分だからな!』

「わかってる!」

 こちらにまっすぐ、雲をき破って向かってくる黒い槍に目をこらす。

 下から声が響いた。顔色を変えたハディスだ。

「なぜ君がここにいる!? ラーヴェはいったい何をして」

「うるさい、賞品はだまって待っていろ!」

「しょ、賞品!? まさかそれは僕のことか!? こうていだぞ!?」

「なら皇帝としてやるべきことをやれ! 女神だかなんだか知らないが、よその女に勝手にまどわされてるんじゃない! 幸せ家族計画はどうした!?」

 目を白黒させて混乱しているハディスを、いつかつした。

「お前はわたしより強い男なんだから、最後までやりげろ!」

「──ジル!」

 なんだ、ちゃんと名前を覚えているじゃないか。

 思わず笑ったそのときは、すでに目前に黒いやりせまっていた。

 天剣の刀身で槍先を受け止める。ぶつかりあったりよくばくはつして、鐘楼のあるとうが町中を照らした。

 屋根をったジルは空を飛んでげる。思ったとおり、黒い槍はジルを追いかけてきた。

(ものすごい殺気だな)

 町にがいを出すのは好ましくない。じようしようしようとしたジルは、横を追い抜いていった槍に舌打ちする。速度はあっちのほうが上だ。

 上をとった槍は、そのまま落ちてくるかと思いきやぶんれつした。

 星のようにジルの心臓目がけて、槍が降ってきた。天剣の刀身と魔力でそれを受け止めるが、押されて背中から落ちていく。

 押し切れないことにれたのか、槍がものすごい勢いで増えた。町をおおうような数だ。舌打ちしたジルは、魔力を全開にして町中の上に結界を張る。

 降り注ぐ槍が、町の上空で爆発した。花火のようだ。

 だれもが武器をおろして、その光景を見あげている。

(そうだ、見ろ。お前たちの敵はこれだ、陛下じゃない)

 呪いなんてない。あるのは、はためいわくな女神の愛。自分達は目に見える敵にしゆうげきされているのだと、自覚しろ。

 槍の数が減ってきた。一点こうげきあきらめたのか、ぐるりとジルを取り囲んでいつせいおそいかかってくる。けんを握り直したジルは、空を飛び回りながらそれらをたたき落とした。そのたび魔力がほしくず欠片かけらのように落ちていく。

『つ……強すぎないか、嬢ちゃん……』

「でも魔力のしようもうがひどいです。本体を叩かないと……しょうがない」

 ぐるりと天剣を逆手に持ったジルは、そのままとうてきした。

 えええええ、と叫ぶラーヴェの声が飛んでいく。案の定、黒い槍は好機とばかりに一本になってまるごしのジルに向かってきた。

「ジル!!」

 真っ青になったハディスの叫びがいっそ心地ここちよかった。

 自分の心臓目がけて飛んできた槍を両手でつかまえたジルは、くちびるはじを持ちあげる。

「二度目ましてだな。そっちが覚えているかどうか知らないが」

 答えを期待してはいなかったが、じわりと、両手から思念が伝わった。

『オ前、ナゼ、覚エテイルノ』

 両眼を見開いたが、同時に疑問が氷解した。

 どうしてジルの時間が巻き戻ったのか。女神だ。女神の力で時間が巻き戻ったのだ──それもこの言い方から察するに、女神も予想しなかったことらしい。

『ナゼ、ヨリニヨッテオ前ガりゆうニ!』

 不意に笑い出したくなった。思えばこのじようきようはあの夜そっくりではないか。

 ──さあ、今このしゆんかんから、やり直すのだ。今度はうばわれないように。

「まさか女神様ともあろうかたが、しつくるってわざわざ海を渡っておいでになるとは」

『返セ、返セ返セ返セ返セ返セ返セアノ方ヲ返セエェェェ!!』

「そもそもお前のじゃない!」

 叫んだジルはていこうする槍を両手で持ちあげて、力をこめる。ばちばちといなびかりのように周囲に魔力がき散らされた。抵抗といつしよに、伝わる叫びも大きくなっていく。

『アノ方ガ愛シテイルノハ、私ダケ』

 かちんときたジルは、槍を握る両手に一気に力をこめた。

「ふざけるな、そうなるのはわたしだ!」

 ばきんと音を立てて、黒い槍が真ん中から折れた。

「わかったら二度と人の夫に手を出すな!!」

 勢いよく振りかぶったジルは、折れた槍をそのまま海の彼方かなた、つまりはクレイトス王国に目がけてぶん投げた。夜のやみを切りいた槍が、星のように遠くで光って消える。

 かたで呼吸をしながら、ジルはうなる。

「これだから、女の、嫉妬、は……っ!」

 くらりとめまいを感じたあとは、もうおそかった。

(しまった、魔力を使いすぎた)

 いかりできわめをちがった。あっという間に全身から力がけ、体が落ちていく。なんとか視線だけでも動かそうとしたそのとき、息をんだ。

 こちらに向けられた黒曜石の瞳。あの黒い槍とそっくり同じ色を持つ、ジェラルドがこっちに向かって飛んできて、空中でジルを受け止める。

らしい。やはり君は連れ帰る。妹も、君なら受け入れるだろう」

「……っ」

 こぶしなぐってやりたかったが体が動かない。そのジェラルドの横顔を弓矢がかすめていった。

「ジルちゃん!」

 カミラだ。その横で、大剣をかまえたジークが軍港のじようへきから飛びかかってくる。

「何してんだお前!」

 ジェラルドが視線を向けた。だめだ、とジルはさけぼうとするが、声は出ない。

 黒曜石の瞳が光ると同時に、魔力のかたまりにジークがはねのけられる。かべにぶつかった部下の姿に、その光景に、手をばそうとするが、できない。

「……あのふたりの命と引きえに、というのはどうだ?」

 ふたりを助けようとするジルの仕草に気づいたのか、笑ってジェラルドが問いかける。

(くそ、動け! 動けないと、またみんな)

 でも届かない。せっかくつかんだと思ったのに。

「君が私に従うなら、あれくらい助けてやっても──」

 やさしげに言っていたジェラルドがはっと顔をあげた。瞬間、背後からぼうだいな魔力を叩きつけられて、ジェラルドの体がき飛ぶ。

 ふわりと背後から優しくき留められて、ジルはまばたいた。そのままていねいに地上まで運ばれて、まず見えたのは、白いりゆうじんの姿だ。

「よー嬢ちゃん、さっきは俺をごうかいに捨ててくれてどうも」

「ラーヴェ、おしゃべりはあとだ」

 静かな声に、竜神が姿を変える。りゆうていの天剣。

 そのかがやきを覆うように、上からかげが覆いかぶさった。ジェラルドだ。もつれそうな舌で、ジルはやっと叫ぶ。

「陛下!」

 右手にジル、左手に天剣を持ったハディスはまゆひとつ動かさず、ジェラルドの槍をはじき飛ばした。そのままその場で、すさまじい槍と剣のけんげきり広げられる。

 ジルはハディスとジェラルドのち合いをなんとか目で追えているが、周囲にはばくふうが吹きれているようにしか見えないだろう。ここがふんすい広場だったからよかったものの、誰も近づけない有様になっている。

 ハディスはジルをかたうでで抱いたまま、片手でジェラルドの攻撃をすべてしのいでいた。むしろ押し始めている。それを喜べないのは、ひとえにハディスの顔のせいだ。

 無表情を通りして目から光が消え、何かをこらえているようだった。

(た、戦いの最中になんでそんな顔を)

 ジェラルドが舌打ちした。ジェラルドが持っている黒い槍──聖槍の模造品レプリカゆいしよある名器か、いずれにせよジェラルドの魔力も付加されていてなみたいていの武器ではないはずだが、相手は天剣だ。当然のことながら、槍のほうがもたなくなってきている。

 勝負をかける気だろう。大きくみこんできたジェラルドに、ほんの少しあごを引いたハディスが、かっと金色のひとみを見開く。

 その瞬間、風圧に吹き飛ばされたジェラルドがゆかに手をつく。だがすぐさま転がった槍を手にしようとして──止まった。

 天剣をのどもときつけられて、ジェラルドがひびの入った眼鏡の奥から、視線をあげる。

「……我が国に宣戦布告でもするか? 皇帝陛下」

「まさか。このたびは……──」

 そこでそっと顔をそらしたハディスは、肩をふるわせ始めた。ジルもジェラルドもまばたく。

「お、折れ……め、がみの、槍が……」

「……陛下?」

「お、折れてしまった女神に、おいを」

 口元をおおい、必死で笑いをかみ殺しながら言うハディスに、ジルはぽかんとする。

 まさか、さっきからこらえていたのは笑いか。

 天剣から姿をもどしたラーヴェも、震えながら顔をそむけた。

「お、おま、その言い方。やめろ、笑いが止まんなくなるだろ、俺だってまん……折れ……女神が、女神なのに、真ん中から、ばきぃって……!」

「ラ、ラーヴェ。笑っては、いけない。た、大変なことだ。め、女神が折れたなんて、一大事だぞ。……女神って折れるんだな……!?」

「──我が国の女神をじよくするか!?」

 青筋をたてたジェラルドが立ちあがろうとする。だがすぐさま転身した天剣の切っ先を突きつけられて、止まった。

「養生するよう、伝えてくれ。──今度は、妻をおとりになどしない。僕が相手になる」

「……」

けつこん式には呼ぼう。折れた姿で、これるものならくるがいい」

 ほおを引きつらせたジェラルドの体がき上がった。ジェラルドだけではない、軍港のほうからもいくにんか浮いている。クレイトス王国からきた者達だ。

そうどうを起こした者についてはこちらで引き取るから、安心して国にげ帰ってくれ。私的な訪問だったし、見送りはいらないだろう?」

「な、ん……」

「言ったはずだよ。僕と君では格がちがう」

 頰をひくつかせたジェラルドに向けて、ハディスが大きくてんけんる。その風圧に吹き飛ばされるようにして、浮き上がっていた人物達が明け始めた空の果てに飛んでいった。

「……。あの、あれ、どこに」

「たぶんラキア山脈の山頂付近あたりに落ちるんじゃないかな」

 事もなげにハディスは言ったが、今のラキア山脈はすでに雪で覆われている時季である。

そうなんして死ぬんじゃ……)

 ひそかにラーヴェていこくに入国したクレイトス王太子がそのまま行方ゆくえ不明になったら、とてもまずいような──ジェラルドにはりよくがあるからだいじようだと思おう。

 ほっとしたら、周囲のざわめきが聞こえてくる。

 おそるおそるこちらをうかがっていた住民達が顔を出す。目を回しているベイルこうしやくを引きずって、カミラもやってくる。ジークもミハリに肩を借りて、ちゃんと立っている。消火活動にいそしんでいたらしい北方師団が、笑って手を振っていた。

「けが人はいるが、死人は出なかった。──君はすごいな」

「わ、わたしは別に、何も」

「いいや。みなが女神からこの町を守る君の姿を見たから、おさまったんだ」

 そう言って、ハディスがジルを地面におろした。

 そしてだれよりも真っ先に、ジルにひざまずいた。

「僕と結婚してほしい」

 誠実な、心からの言葉に目をみはった。

 金色のれいな瞳がまっすぐ、ジルだけを見つめている。

「もっとほかに言うことがあるだろうと思われているだろうが。今は胸がいっぱいで、それしか言葉が出てこないんだ」

 苦笑い気味にハディスが首をかたむける。

 やみを振りはらうような心地ここちいい海風に吹かれているその顔は、とても美しく輝いていた。

 そう、戦場で見あげたあの白銀の魔力のように。

「返事をくれないか、ジル」

 名前をいとおしげに呼ばれて、ジルは深呼吸する。

 先に好きにはならないと決めていた。でももう、認めるしかない。落ち着こうとしても心臓はうるさいし、今向けられているがおが本物なのか知りたいし、名前を呼ばれるだけでうれしいのだから。

(へ、陛下もそういうこと……なんだよな?)

 両思い、なのかもしれない。

 そう思うと、頰が赤くなって胸がいっぱいになってきた。

 でも、だまって囮に使ったことはひどいと思うから、ほんの少しだけしゆがえしをしたい。

 くやしまぎれに少し顔を背けて、ジルは口を動かす。告白に心臓が飛び出てしまいそうなのが、ばれないように。

「……しょ、正直に言うなら……別れたいです」

 でも、わたしはあなたが。

 そうジルが続きを告げる前に、心も体も弱い竜帝は、心臓を止めた。

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