第四章 お菓子と槍と剣の強襲
まずいなとジルは感じていた。原因はハディスだ。
「今日の
「そ、そうみたい、ですね……」
「ソースで食べるのもいいんだが、チーズやゆでた卵と
食堂の長細い
差し出されるまま受け取ったジルは、一口食べてむせび泣きそうになった。
「おいしいかい?」
「は、はい、とても……! それはもう本当に、とてもおいしいです……!」
「それはよかった。……で、僕に恋をしたか?」
小首をかしげられて、ジルは白けた顔を返す。
「なりません。何回するんですか、その話」
「当然、君が
にこにこハディスは笑っているが、その目は完全に
(なんか変な方向に目をつけられた気がする)
だが、ご飯がおいしい。そしてハディスは、それをいいことにひたすらジルの胃を
ベイル
帝都に
(本気にされても知らないぞ、それ)
それだけならこの若き皇帝は
最初は毒殺をふせぐためかと思ったら、どうも
「せめて、どんな男が好みなのかくらい教えてくれないか?」
あろうことか今、ジルは口説かれているらしい。
それがこの変わりよう──原因がさっぱりわからないジルは、
「十歳の子どもにそんなことを真顔で聞かないでください」
「十歳だろうがひとりの女性だ。
「大変立派なお考えですが、
「妻を口説くなって言うのか? ひどい、夫に対する
むくれた口調に、思い切り冷たい目を向けてやる。
そうするとなぜか
「最近、君に冷たい目で見られるのもいいなって思うようになってきた」
やっぱり変態じゃないのか、この男。じと目になったジルの顔を、
「僕を好きになってくれたら、君の好物を毎日作るって約束する」
「物で人を
「まだデザートがあるのに?」
物で釣られたジルは、無言で着席し直した。
「あぁ、いたいた。ジルちゃーん……と、やっぱり一緒にいるのねぇ皇帝陛下」
ふたりとも、北方師団の制服こそ着ているが、階級を示すバッジをはずし、
それを示すように、ふたりそろって
「我らが
「皇帝陛下もおられるとは知らず、失礼しました。……迎えにきたぞ、解散だ解散」
「そうか……もうお別れの時間か……さみしいな」
しょぼんとしたハディスに、ジークが顔をあげて後頭部をかく。
「そんな
「そうよぉ。アタシたちと一緒に待ちましょ陛下、ね。お留守番よ、お留守番」
「わかった。君たちはいつも
ハディスが差し出したクッキーにカミラとジークが目を
「あなたたちまで
「やあねぇそんな
「そうだ、僕だけ仲間外れは
嬉しそうなハディスに、ものすごく
その予感をいきなりジークがぶち当てる。
「で、今回はどうだ? 少しは進展したのか、うちの隊長と」
「今ひとつなんだ。何がたりないのかわからない。
「あーそればっかりじゃ駄目よ、色んな角度から
「ちょっと待ってください。あなたたち、いったい皇帝陛下に何を教えてるんです……!?」
頭痛をこらえるジルに、カミラとジークが顔を見合わせる。
「何って女の口説き方、と言いたいんだがそれには相手が小さくてこう、俺らも正直どうしていいかわからん。ただ
「そうよねぇ。皇帝陛下ってば可愛いし」
「そ、そうか。僕は可愛いか……」
「陛下はそこで嬉しそうな顔をしないでください! もうわけがわからない……!」
ジルが両手で顔を
「ひょっとして……可愛い男は君の好みじゃないのか……?」
「やだージルちゃんが陛下いじめてるー」
「いくら
「ってなんでわたしが悪くなってるんですか、あなたたちは陛下じゃなくわたしの味方のはずでしょう!? わたしに剣を
幸せに生きてくれるのならカミラもジークも部下にする気はなかったのだが、軍港の一件でハディスに
ラーヴェ
未練かもしれないが、また新しい関係を築けるならそれはそれで嬉しい。
だが、それが今、思わぬ方向でジルを危機に
「気にするな、陛下。隊長は信じられんことに、お前に気があると俺達は見ている」
「本当か!?」
「そうねぇ、脈はあるとアタシも思うわ。
「え? そ、そんなわけがないだろう……!」
「ぼ、僕が紫水晶を、好きなんて、そんな……! す、好き……僕が、紫水晶を。ぼ、僕が、好き……紫水晶を……!?」
「……おい、まさかこの
「僕が好きだなんて……え? 紫水晶は、僕が好き……いつのまに!?」
「待って待って陛下、そこ勝手に入れ
わかった、とハディスが素直に頷く。ジークとカミラが大きくため息をついているが、ジルからすれば同情の余地はない。
文句を言いつつもちゃっかりハディスの手料理をたいらげたジルは、ぴょんと
「ご馳走様でした、陛下。では時間ですので、失礼
「わかった。チーズケーキを作って待ってる」
うぐっとつまったが、にこにこしているハディスに手を振られてしまった。なんだか
「あれで自覚がないとはな……さて、どうしたものか」
「でも自覚させたらああいうの
「陛下とわたしで遊ぶのはやめてください」
背後についてくる騎士ふたりをじろりとにらんだら、カミラが大きく目を見開いた。
「何を言ってるのよジルちゃん! あなた、いくら強いって言ったって、ここじゃ仮想敵国の人間なのよ? 後ろ
「そうだ。主人であるお前の立場を強固にするのも、部下の仕事だからな。いいか、あの
おそろしくまっとうな意見を部下達から返されて、中庭の真ん中で思わずたじたじとなる。
「て、手籠めって……」
「お前ならできるだろう。ベイル
「そうよーちゃちゃっと押し
「十歳の子どもに何をさせようとしてるんですか!?」
「アタシたち、ジルちゃんを子ども
「そうだな。それにあの皇帝のためにあそこまでしたんだ。嫌いではないんだろう?」
ジークの冷静な質問に、今度は視線をうろうろさせるはめになった。
「そ、それは、もちろん。ただ、わたしと陛下はそういうのではなくて」
「これは忠告だがな。嫌なら、食事に
「う。それは……だって食べ物に罪はないし、おいしいし、本当においしい……!」
「でも男に期待させるわよぉ、そういう態度。陛下とは形だけですって言うなら、きっぱり断らなきゃだめよー」
「そ、そうなんですか……?」
だんだん自分の対応に自信がなくなってきた。
しどろもどろになっていくジルに、カミラが目をまばたく。
「こっちも意外ねぇ。自覚なくやってるの?」
「逆に
「でもアタシたちはジルちゃんの味方よ。皇帝陛下といえど、あんな
「そ、そんなこと簡単に言われても……男性に口説かれるなんて初めてなので、対処がわかりません」
言っている間に
背後も
「やーん可愛い~! 可愛い、ジルちゃん可愛い!」
「なんだ、あと一押しじゃないか。おままごとみたいな
「だ、だから、早とちりしないでください! 夫婦になるからこそ、愛だの
言い切ると、ぎゅうぎゅうジルを抱きしめていたカミラの
「ずいぶん
そんな、思うだけでしあわせで、
「……もう経験しました、十分です」
「うっそぉ! 早すぎでしょ! どういうことよ!?」
「俺に聞くな。まあ……何があったかは知らんが、結論を
ぽん、と頭の上にジークの手がのった。
(でもそのせいで、お前たちまで巻きこんで、わたしは)
不意にこみあげた
だから今度は、間違えるわけにはいかないのだ。
「ジル様! ジル様、大変です……! あっ!?」
スフィアが、
「しっかりしなさいよぉ、スフィアちゃん。ジルちゃんの先生なんでしょ」
「う、うう……失礼しました、急いでいて……」
ベイル
スフィアはハディスの決定に異を唱えず、いきなり降ってきた次代侯爵選びという重責からも
そう願うスフィアは、ハディスへの
だが、そのお茶会で
総合すると、こんなことでは
そのスフィアが走ってやってくるなんて、何事だろうか。
「あの、先ほどジル様
スフィアが
白い
ジルが今、ラーヴェ帝国に、しかもベイルブルグにいるなんて、家族も
何より、見覚えのある
びりっと
「ちょ、ちょっとジルちゃん、どうしたの。息してる!?」
「だ、
「おい風に飛ばされるぞ、手紙……あ」
「──これはこれは。
先ほどまでの明るさをそいだ、低い声にジルはぎこちなく
片づけて東屋から出てきたのだろう。足元に落ちた手紙を拾いあげたハディスが
それはもう、ジルも思わず
「一国の王太子がここまで情熱的だとは。僕も見習わないといけない。そう思わないかい、僕の紫水晶」
「そ、そういったことでは、ないような、あるような」
「さあ、楽しい
笑顔のハディスの目が笑っていない。
ジルは脳内でかつての
(なんで諦めないんだ!? わたしを反逆者扱いするならまだしも──)
『今から君を
ジェラルド・デア・クレイトスという自著に残る筆跡の
同時に、クレイトス王国からの使者も
公的な扱いではなく、話し合いの場も帝都ではなく明朝に到着するだろうここ水上都市ベイルブルグで、ということだった。時間も心の準備もあったものではない。というか、させる気がないのだろう。
「ジル様、目の
非公式だが王太子との会談だ。
言われたとおり、ジルは頰を無理矢理あげてみる。
「こうですか?」
「……完全に悪役顔です」
「ではこう」
「もっとだめです。
「では、こういった感じは」
「……もう、無表情のほうがましなんじゃない」
出入り口のほうから飛んできたカミラの忠告に、スフィアが
周囲の反応に、申し訳なさがこみあげてきた。
「すみません、
「足をみせるのですか? そうですね……そういった流行もありますし、ジル様は子どもですから
「いえ、そうではなくて足技がかけられないです。あとは太ももの辺りに暗器を仕込めるようガーターを」
「おい。戦場に行くんじゃないぞ、会談だ。それだと、護衛の立場がない」
ジークの意見はもっともだが、ジルとしてはできれば会談相手の息の根を止めたい。スフィアが
「……お顔がますます凶悪になっているのですが……」
「地です」
「ジル様は可愛らしい方ですよ。
「一息で殺すためには、やはり回し
「……本当にジェラルド王太子がお
武器、という言葉にジルは少し反応した。
「事情はどうであれ、クレイトス側ではジル様は
「……はい」
「そうでないと否定するならば、ジル様は幸福でなければなりません。
すっと両手を合わせて
びりっとジルの背中に何かが走る。
(いつものスフィア様じゃない)
「どうでしょうか?」
「……スフィア様の言っていることはわかりました。
スフィアが
「足の開けるドレスを選んできます。理由はともかく、少しでも気持ちを楽にできるほうがいいですから」
そう言ってスフィアはハディスがジルのために用意した衣装部屋に入り、ジルが望むようなドレスを
そのあとはひたすら支度だ。
新しく城に
全身鏡で見た際にはちょっと
(あとは笑顔、笑顔……!)
頭の中で念じながら、護衛に立つジークとカミラのあとをついて歩く。
大理石の
ハディスはマントを
(……
努力しようと思った笑顔が、今度は別の意味で消えた。
「ジル様をお連れしたわよん、
カミラに声をかけられたハディスがこちらへと向くなり、笑顔になる。
「スフィア
うきうきとした口調でハディスがしゃがみこみ、ジルと目線の高さを合わせて微笑む。
「すごく可愛い。髪も今度、編みこんだらどうかな。僕、そういうの得意だ」
長い指が
「い、今はいいです! 大丈夫です、陛下のほうが可愛いですから!」
「……それは僕が君の好みの男じゃないって話か!?」
「おい、頭がおかしくなる会話はあとにしろ。護衛は本当に部屋の外だけでいいのか」
「あ、ああ……問題ない。公的なものではないそうだし、向こうも王太子ひとりだ」
そりゃあそうだろうとジルは冷めた目で思う。ジェラルドは強いのだ。
(わたしでも試合で勝てたことがない。……何かしかけてこられたら)
ジルの前でしゃがんでいたハディスが、すっと立ちあがる。
「クレイトス側は君が僕に
両の
「申し訳ございません、陛下。
「そ、そうか……だが、向こうは君を迎えにきてるんだぞ? 少しは気持ちがゆらいだり」
「しません。そもそもジェラルド王太子の本当の目的が、わたしであるはずがありません」
それだけは、はっきりと言い切れる。
「必ずお守りしますので、わたしのそばを
「……あっ、ちょっと陛下!?」
よろめいたハディスが、心臓あたりに手を当てる。陛下、とジルも
「こ、呼吸が……苦しい……!」
「おい
「ちょっとジルちゃん、こんなときに陛下の心臓をもてあそんじゃだめよ」
「は?」
なぜ自分が
「そろそろ時間だ、行こうか」
「本当に大丈夫ですか? ジェラルド王太子と
「……まさか君は、僕があの王太子に負けるとでも言いたいのか?」
「そ、そんなことはありません」
「ならいいが」
前を向いたハディスの金色の目の奥に光が宿る。目の前で、
(……色々あぶなっかしいが、こういうところはちゃんと大人なんだな……)
じいっと見ていると、人差し指で
「まだ何か不安でも?」
「可愛い
ハディスがふと目を
「……君、さっきから僕よりあの王太子のことで頭がいっぱいじゃないか?」
「は? やめてくださいそんなわけないでしょう、
「でも、愛と
とんでもない言いがかりを否定しようとしたが、ハディスの目が
「……何かあるんじゃないのか、あの王太子と。
「いいえまったくこれっぽっちも何もありません、あるわけがありません」
事実だ。少なくとも今、この時点でジルとジェラルドは、内定していた婚約が
だが、ハディスはいらだたしげにジルを廊下におろした。
「予定
「は!? そ、そんな、危険です陛下!」
慌ててジルはハディスのマントを両手で引っ張る。振り返ったハディスもマントを取り返そうとつかみ、引っ張り合いになった。
「僕ひとりで行くと言ってるだろう……! 君は留守番だ!」
「それじゃあ、わたしが陛下に誘拐されたって誤解をとけないじゃないですか!」
「それでもだ! 絶対に王太子にはわたさない、君は僕のお
「そうですよ! だから陛下をひとりで行かせるなんてできないんです! カミラ、ジークも陛下を止めてください!」
「隊長の言い分は正しいんだがな……なんでもめてるんだ、こんなことで」
「ジルちゃん、
「え!?」
ハディスとそろって
しんと廊下に
「……」
「ふたりそろってこっちを見るな。自分達で解決してくれ」
「これから仲睦まじい夫婦アピールしなきゃいけないってこと、忘れちゃだめよー」
はっとジルは気づく。もめている場合ではないのだ。時間ももう
「あ、あの陛下、ひとまずここは、仕事ですから」
「……わかっている。君の頭をいっぱいにできない、僕がふがいないだけだ……」
しょげているハディスに、ジルのほうがじわじわ
「あ、あの、陛下……わ、わたし……い、いっぱい陛下のこと、心配してます、よ?」
「それって僕が
そういうわけでもないと思うのだが、うまく言葉にできない。その間にもハディスは地の底まで落ちていく。
「いいんだ。僕は確かに
「えっ!? そ、そういうことは早く言ってください!」
「教えてください、ぜひ」
「で、でもだめだ。
今度はそわそわしながらハディスが目をそらす。だがジルは食いついた。
「どんな荒療治でもわたしは
「だ……だまされないぞ。また真に受けて、
「怒りませんし嫌がりません! 勇気を出してください、陛下」
「……。絶対に怒らないし、嫌がらない?」
「はい、お約束します!」
ちょっと考えこんだあと、ハディスはジルを抱きあげた。
「……絶対に絶対に絶対か?」
何度も念押しされて、少し笑ってしまう。積極的に口説こうとしていたようだが、ジルに嫌われるのを怖がるところは変わらないらしい。
「絶対に絶対に絶対に、大丈夫です。わたしに二言はないって、陛下はご存じでしょう?」
「……わかった。君を信じる」
「具体的にどういった策なんでしょうか、陛下」
気合いを入れてハディスを見つめると、ハディスが静かに答えた。
「簡単だ。君の頭を僕でいっぱいにすればいい」
「へ──んぅっ!?」
がしゃんと物を落とす音が聞こえた。ジークかカミラだろう。
視界をハディスの顔でいっぱいにふさがれたジルは、その音で我に返る。何が起こっているのか、一息もつけないことで理解する。
口づけされているのだ。こんな人前で、
「──ほら、僕にすぐ
間近で
大事そうにジルを
「これで
「お、大人の男性として、今の所業はどうかと思うわよ陛下……今のは反則よ……」
「おい、さすがに今のは一発
「だってジェラルド王太子に仲を見せつけるには、これが一番だ。僕のことで頭がいっぱいですって顔になればいいんだ」
怒らない。嫌がらない。約束した。だがひとことだけ、
「……は……初めて……だった、のにっ……!」
歩き出そうとしていたハディスと目が合った。ぽっと
「……その……あとで、ふたりきりで、やり直す?」
だが殴らないとは約束していなかったな、とジルは思い出した。
「いきなりの訪問にもかかわらず、こうして対応していただけたこと、感謝を申しあげる。それで、話し合いの内容なのだが……」
広い応接間のテーブルを
会談に現れた
「どうした? 話を続けてくれ」
なのにハディスがにこにこしているので、
「いえ……ではまず、ジル・サーヴェル
「だそうだよ」
「話すことなどありません」
冷たい声に、ジェラルドは
「すまない。ここにくる前、
「痴話喧嘩!?」
「お客様の前だよ」
思わず
「ジェラルド王子、僕の婚約者はまだ幼い。
「……どういう意味か、わかりかねるのだが」
「彼女を
確かにそんな話はあった。だがどこに
「帰りたいのかと聞いたら、愛を信じてくれないのかと殴られてしまった」
そんな話は断じてなかったが、ジェラルドの目がすうっと細くなっていくのを見て、ジルは
ジルがこうして怒っているのを、ハディスはそういう話に仕立てあげる気なのだ。皇帝なのだ、
だが、さすがと思うのも腹が立つ。だまされたと思うともっと腹が立つ。
何より、ハディスの
(もう絶対に油断しない、隙を見せない、やり直させない……!)
心中で
「サーヴェル家への
「……。皇帝が小さな子どもに殴られるなど、どういった風の
「僕は妻にはひざまずく皇帝だ」
堂々と言い切ったハディスは、組んでいた足をほどき、立ちあがった。
「では、失礼させてもらおう。私的な訪問だってね。ゆっくり観光していってくれ」
「話はまだ終わっていない」
「痴話喧嘩の
ジェラルドはジルを見て、舌打ちした。どうやら痴話喧嘩説を信じたらしい。
そのおかげで、
(こういうやり方もあるのか)
こういう場では愛らしい
「……別に、仲裁など必要ありません。陛下が誠心誠意、謝ってくだされば」
「ああ、いくらでも謝ろう。どうやって君のご
「……別にご機嫌取りなんて、していただかなくても」
「本当にいらない?」
頭の中にご飯とお
背筋を
「そういうことですので、わたしへの心配は無用です。ご
「……クレイトスに
「陛下はわたしを必要としてくださっているので」
答えたジルに、ジェラルドが
「必要、か。なるほど。……では必要がなくなればいいわけだ。そうだな、皇帝陛下」
ハディスは応じなかった。だがジェラルドはソファに背をあずけて続ける。
「十四歳未満で、あなたが示す何かが見えるのが婚約の条件だそうだな。
ハディスが
「
「皇帝の呪いは、解けていないと言ったら?」
「
「先の軍港の一件は私の耳にも入っている。ベイル
こん、と
だがハディスは迷わなかった。
「入れ」
「ご
入ってきたのはミハリだ。先の戦いでハディスの信を得たものの、守りに
ミハリは敬礼したあとに、ジェラルドを見た。客人に聞かせていいことではないが、急いで知らせなければならないと思った、というところか。ハディスの判断を待っているのだ。
ハディスはジェラルドから目を
「ベイル侯爵が死んだのか?」
背筋を伸ばし、はいとミハリが応じる。
自殺しないよう持ちこむ物も厳重に管理されているベイル侯爵は、看守の前で、自らの手で首を
様子見に町におりてもらったカミラ達から噂を聞いたジルは、自室で大きく嘆息した。
「やっぱり皇帝陛下の呪いだ、ということになってるんですね……」
「マズイ空気よ。呪いはやっぱりおさまってない、ここはベイル侯爵の領土だから町の住民は
「軍港で北方師団──ヒューゴと話をしたが、町で
「ジェラルド王子が連れてきた連中が煽ってるんでしょうね」
ジルのつぶやきにカミラが首をかしげた。
「どうしてジェラルド王子? 確かにこのタイミングはあやしいとアタシも思うけど……」
「陛下に反目する連中とジェラルド王子がつながっているとすれば、どうですか」
ジェラルドは武人だが、知略にも
「そもそも、後ろ
「……皇太子派が勢いを増すってわけね。で、ジェラルド王子は皇太子派を後押しするために動いてるんじゃないかって、ジルちゃんは疑ってるわけね?」
実際、ジルが知るこの先で、ジェラルドは反皇帝派を煽り、情報を
それはラーヴェ
「でも、実際どうなんだ。呪いは
ジークが本質を突いた疑問を投げる。カミラはそれよねぇと
「ベイル侯爵の死に方が
「
このふたりには言っておいたほうがいいだろう。ラーヴェのこと、その祝福のことをかいつまんで話す。はずれない
カミラは
「にわかには信じがたいけど……皇帝陛下が婚約者候補に何が見えるか
「俺はもともと魔力とかそういうのわからんからな。隊長がそう言うならそうなんだろうと判断するが……だが、それだと呪いは間違いなくあるってことにならんか?」
「その前に、
カミラの意見に、
「呪いが、なんなのか……」
「そう。呪いで流されちゃってるけど、それって結局なんなわけ? どうして
「……神話を事実だと想定すれば、
ジークから出た名前に、ジルは
「やっぱりそうなるのかしらねぇ……竜神ラーヴェ様自体、神話の存在だし……」
「
「え? ちょっと待ってください。なんですかそれ?」
ジルの質問に、ジークとカミラが顔を見合わせる。ふたりにとっては当たり前の話らしい。
「そういえば、ジルちゃんはクレイトス王国出身だっけ。あら、じゃあひょっとして言い伝えが
「どうなんでしょう。気にしたことがなくて……昔、女神と竜神の間で人間の
人間を愛で守るか、それとも
その教えはそれぞれの国に加護という形で現れている。魔力という愛で守られなんでも実るクレイトスの大地と、知識という理で守られ
「俺達が言っているのは経典にのるような話じゃない、いわゆる民話なんだが……」
「クレイトスとラーヴェはもとは大地と空をふたりで
「そうそう、そういう
女神の呪いは竜妃がいればふせげる、というのは確かにジルの状況と同じだ。
「呪いを無効にされて女神は
「槍って……女神の
「女神の聖槍は実在するのか、クレイトスに。こっちの竜帝の
ジークが感心している。やはり、クレイトスとラーヴェで情報に差があるらしい。
「クレイトス王家に聖槍は実在します。
「何百年か前に
武器好きのジークは
(てっきり、戦場で陛下が使っていたのは天剣だと思ってたんだが……)
まだ戦争が始まっておらず、表に出てきていないのだろうか。カミラが話を
「そこらへんは色々、神話と現実がまざってるんじゃない? で、女神は
神話だ。神話だが、女神の聖槍は実在する。現にジルは、六年後にジェラルドからその武器で
(……それに、ジェラルド王子なら本物の女神の聖槍を持ち出せる)
そのせいで女神の呪いが再発したのだろうか。
ジークが大きなため息と一緒に、
「だが神話だからな。安易に信じるわけにはいかんだろう。呪いの内容も違う。皇太子の連続変死は、皇帝陛下の
「──ですが、こうも考えられます。そんな
ラーヴェの言うとおり、皇太子が
「そう言われると、そうねェ……今回のも結局陛下には不利に働いてるし……」
「それに、神話どおりなら呪いの最終目的は竜妃……隊長の命ということになる。それだとますます状況がわからん。魔法の盾があるってことなのか?」
「少なくともわたしは、そんなもの作った覚えはないです。それに、わたしが死んでもクレイトス王国とラーヴェ帝国に
だが、そんなことをしてジェラルドになんの得があるだろう。皇太子派の手助けにはなるだろうが、あまりに
(……そういえば、
歴史的に見るなら、ハディスの
そして今、過程は違えどベイル
なぜ、なんのために、誰が──いやそれよりも先に気にすべきは、ベイルブルグの無理心中を引き起こしたと言われている人物ではないか。
「……スフィア様はどちらに?」
「え? ああ……陛下と
「あんな父親でも、死ねば思うことはあるだろう。そっとしておいたほうがいいだろうな」
ジークの言うことはもっともだ。だが
「さがしにいきます」
「ええ? ジルちゃん、ちょっと……あら」
椅子から飛び降りると、
「戻ってきてたのね、スフィアちゃん。お
「……はい」
「もう休んだらどうだ。疲れただろう」
「……でも、ご
ふらりと左右にゆれるようにしてスフィアがカミラとジークの間をすり抜け、ジルのほうへと
見開かれたままのスフィアの目が真っ黒になっている。そしてスフィアの全身から
「危ない!」
カミラの
「カミラ、ジーク、気をつけろ! 何かがスフィア様の中にいる!」
よく転ぶ
「ちょロちょろ、と、
「──誰だ」
にたりと
「わたシは、私は……私こそが、竜帝の、妻。お前は──
スフィアの服の
宙返りしたジルは、スフィアの背中を
(この槍だけ自立して動くのか! むしろこいつが本体か!?)
スフィアを
「陛下!」
黒い槍の存在をかすませる光り
それがためらいもなくスフィアの心臓を
「陛下、スフィア様は何かに操られて──」
「それごと殺す」
明確なハディスの殺意に、ジルは説得の言葉を
「殺す? 私を? あなたを愛してあげられるのは私だけなのに!」
「おい隊長、うしろ!」
振り向いたときは先ほどよけた槍がこちらに飛んできていた。だがそれがジルの背中に突き刺さる前に、ハディスがつかむ。
「陛下……!」
「──ふふ、
スフィアのつぶやきと一緒に、ハディスの手から腕へとつきまとうように槍が
まるで
「あなたには、私しかいないのよ」
背後からジルはその黒い女の首をつかんだ。
目も何も判別できないそれと、はっきり視線をかわす。告げるのは一言だけだ。
「うせろ」
魔力をこめる。
ぱんと派手な音を立てて黒い女が
「いなくなった?」
矢をかまえたままカミラに
「気配は消えました。……陛下、手に
「どうして助けた? 君がかばわなければ殺せた」
ハディスの冷たい声と目に、ジルは気絶したスフィアを抱く腕に力をこめる。
「スフィア様は何者かに操られていました。本人に罪はありません」
「そういう問題じゃない。あれは
「スフィア様を傷つけずとも対処する方法をまず考えるべきです!」
「それを判断するのは僕だ、君ではない」
「ならせめて事情を説明してください! さっきのはなんですか。あの黒い
「説明する必要はない。いいからスフィア
「では、さっきの者が
ハディスは眉ひとつ動かさなかった。それどころか、ジルを見てすらいない。
「わたしは聞く権利があるはずです、陛下!」
「……まさか
返答につまったジルに気づいているのかいないのか、ハディスは一歩離れた。
「まあいい。あれの動きを
呼びかけに扉の向こうからミハリが姿を現す。
「北方師団に命令だ。ベイルブルグの女性をすべて城に連行しろ、今すぐに」
「は、はい?」
「町にはふれを出せ。女性にとりつく化け物が入りこんだ。特に十四歳以上の女性に気をつけろ。もし暴れたら
小さなハディスのつぶやきに、ジルは息を吞む。
本来の姿に
(竜神が実在するんだ。なら、女神だって実在してもおかしくない)
狡猾な女。ハディスは確かにそう言った。それは存在を認めている言葉だ。
(つまり、十四歳未満というあの条件は……)
──女神が器にできない、決して女神にはならない女性。女神をはじくための条件だ。
「例外は
「陛下、そんなことをしたら住民の反発を招きます! ただでさえ、
「だからなんだ。殺さなければ文句はないだろう。これでも君に
反論を許さない声で言い切って、ハディスは
あの
「何がっ、妻にはひざまずくだ、あの
ひとり、
時刻は深夜だ。ハディスはあれきり、夕食時も姿を現さなかった。住民の避難と
(……
枕を抱いたまま、横に転がった。何かあったときのため、
呪いだか女神だか黒い槍だか、ともかく今、何かがこちらを
それ
(……でも黒い槍のまま動いてたよな? つまりあれは魔力の
意思を持った武器なんて、どう考えても女神クレイトスの聖槍ではないだろうか。
だとすれば、竜帝の妻だなどと言い放ったことも頷けるものがある。
「女神クレイトスと竜帝ラーヴェは
(早まった。なんでわたしはもう少し、考えて動けないのか……)
──僕を愛してもいない君から。
そのとおりだ。なのにどうして手を出した。ただスフィアを助けるだけで、ハディスがあの黒い何かを追い払うのを見ていればよかったのだ。
それなのに──そこから導かれる結論なんてひとつしかないではないか。
(ちょっと冷静になろう、自分。どこがいいんだ。血を
でも、料理がおいしい。うさぎの
部下ではない、本当の夫婦になろうと、願ってくれた。
(……つまりわたしは、期待しているのか)
今度こそ、利用されたままで終わらずに、お
「……そういえば、助けてもらった礼を陛下に言い
手の怪我は
まず話をするべきだ。それが無理でもせめて、礼くらいはしよう。そう思ってジルは起き上がる。ハディスがもう休んでいたら、引きさがればいい。
何より、自分の気持ちを確かめたい。でなければ結論が出せない。
いつもの上着を羽織り、
「陛下?」
目を丸くしたジルと同じくらい
「……どうしたんですか」
「……き、君こそ」
「だー何やってんだよ、よかったじゃねぇか嬢ちゃん起きてて! ほらいけ謝れ!」
いきなりハディスの背後から飛び出たラーヴェが、その後頭部をべしっと
「謝れって……僕の判断は
「いいから謝るんだよ、こういうときはなんでもいいからまず謝っとくんだよ! お前、顔はいいんだから
それを本人の前で言ってどうすると思ったが、ハディスはふんとそっぽを向いた。
「そういうの、どうかと思うな僕は。感心しない」
「お前、いいところは顔だけのくせに
「失礼な、僕はずっとまともだ。だから僕は悪くない」
「……で、つまり何をしにいらっしゃったんですか」
ジルの一言にハディスがひるんだ顔をした。ハディスの
「俺には強気で言い返すくせになー……嬢ちゃんを前にするとこれだよ」
「うるさいラーヴェ。……僕は、悪くない。間違ったことは言ってない。でも」
皇帝らしい冷たい目をしていたハディスのまなじりが、いきなりさがった。
「……君に、
「今度は逆ギレかよ……」
「……。陛下、手を見せてください」
「手当てはなさったんですか?」
「べ、別に痛くないし……
「そういう問題じゃありません。痛くないわけないでしょう。──
低く告げたジルに、どこかそわそわしていたハディスがぴたりと動きを止めた。
「……。お、
「せめて
扉をあけて、部屋の中へと手をひく。だがハディスは動かなかった。
「……今は、
あげく、ハディスが弱ったように言うものだから、かちんときた。
「でしたら陛下も軽々しく謝りになんてこないでください」
「あ、謝りにきたわけじゃない。ただ……」
「ただなんですか、
「ま、惑わす? 君を? ちょっと待て、話がよくわからな──」
「何が僕を好きになってくれですか、ふざけないでください。わたしが気づいてないとでも思っているんですか。──お前は、わたしの名前を呼んだこともないじゃないか!」
ハディスが金色の両目を見開いた。肩で息をしたジルは舌打ちしたくなる。
形だけの夫婦。その一線をどちらが
「
「ラーヴェ、やめろ。いいんだ」
その
「……君は正しい。僕なんて、好きになるな。僕だって君を好きになんてならない。──そんなもの、
ジルの目の前から、ハディスが一歩さがる。それは
彼の夢の幕引きであり、現実の幕開けだ。
「皇帝陛下! おられますか!?」
「どうした、こんな時間に」
「ベイルブルグの町から火があがっております。風の勢いもあって火の回りが早く、しかも一部の住民が皇帝陛下の
「北方師団を消火にあたらせろ。だが、城門はおろしたままだ。決して女性たちを出すな」
「陛下! そいつらは」
「ラーヴェ、彼女を
ジルが
気づいたときには三人、
「ひっ……の、呪いだ、やっぱり皇帝の呪いだ!」
「い、いいから
おののいた残りが逃げ出す。ハディスは追わずに、剣を持ったままつぶやく。
「まだ生きているのだから、
「……返せ」
ハディスの足を、
「妻を……生け
「保護だと説明したはずだが。まあ、呪われた皇帝の言葉など信じる理由はないか」
素っ気なく言って、ハディスは男の手を
「皇帝陛下、今、悲鳴が……っこ、これは
「おそらく町の住民だ。女性たちを取り
「えっあ、はい! あと……その、住民が城に向かってきておりまして……陛下はジル様をつれて
「そういうわけにはいかないだろう。彼らが
皇帝の顔だ。見る者すべてを
「妻は安全な場所に逃がした。暴動を止めるのは僕の仕事だ」
「と、止めるとは……それは……」
ハディスは答えない。血で
青ざめたジルは
「陛下! ──ミハリ、カミラとジークは!? 皇帝陛下を止めてください、このままだと陛下は……ミハリ?」
ぎゅっと
「聞こえねぇよ、嬢ちゃん。だってここは世界一安全な、
背後から聞こえた声に、ジルは振り向く。
空中にふわりと
「ごめんな。俺達は、嬢ちゃんを失うわけにはいかないんだ」
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