第四章 お菓子と槍と剣の強襲

 まずいなとジルは感じていた。原因はハディスだ。

「今日のかもにくのローストは我ながらぜつみようの火加減でできたと思う」

「そ、そうみたい、ですね……」

「ソースで食べるのもいいんだが、チーズやゆでた卵といつしよにバゲットにはさんで……こうそうを入れるのもまたいいんだ。さあ、どうぞ」

 食堂の長細いしよくたく──ではなく、中庭のあずまに持ちこんだ編みかごの中からハディスが食材を並べ、鴨肉のローストがはさまったバゲットサンドを作って差し出してくれる。

 差し出されるまま受け取ったジルは、一口食べてむせび泣きそうになった。

「おいしいかい?」

「は、はい、とても……! それはもう本当に、とてもおいしいです……!」

「それはよかった。……で、僕に恋をしたか?」

 小首をかしげられて、ジルは白けた顔を返す。

「なりません。何回するんですか、その話」

「当然、君がうなずくまで」

 にこにこハディスは笑っているが、その目は完全にものけものの目になっている。

(なんか変な方向に目をつけられた気がする)

 だが、ご飯がおいしい。そしてハディスは、それをいいことにひたすらジルの胃をしようあくしにかかっている。

 ベイルこうしやくの一件が片づいてすぐ帝都に向かうかと思いきや、ハディスは「むかえがこない」という理由でベイルブルグの城にとどまってしまった。そして城の使用人もすべて面接し直し、北方師団もヒューゴをふくめて編制し直し、軍港復興の予算をベイル侯爵家からき出させ、どうせだったら貿易都市にしたいと商会と話し合いを始め、事後処理も含めすさまじい事務処理能力を発揮して、あっという間にベイルブルグの新しい領主として君臨した。

 帝都にもどらなくていいのかと聞いたら、こうていの自分がいるところが帝都なので迎えがないならせんしようなどと言い出した。この間、『帝都せんめつ戦』なる作戦案を作って遊んでいるのを見かけてしまった。ひまを持て余した高貴な方の遊びだ。

(本気にされても知らないぞ、それ)

 それだけならこの若き皇帝はおそろしくゆうしゆうなのだなと感心するだけですむのだが、に有能な皇帝はきちんと時間をやりくりしてジルの食生活を管理し始めたのである。

 最初は毒殺をふせぐためかと思ったら、どうもちがうとすぐ気づいた。

「せめて、どんな男が好みなのかくらい教えてくれないか?」

 あろうことか今、ジルは口説かれているらしい。

 きらわれたくない、好かれたい。散々そう聞いていたが、今までは嫌われたくない思いのほうが強かったのだろう。ハディスはこつにしかけてこなかった。

 それがこの変わりよう──原因がさっぱりわからないジルは、けんせいするしかない。

「十歳の子どもにそんなことを真顔で聞かないでください」

「十歳だろうがひとりの女性だ。ねんれいを言い訳にするべきじゃない」

「大変立派なお考えですが、けつこんするなら、好みとかどうでもいいんじゃないですか?」

「妻を口説くなって言うのか? ひどい、夫に対するぼうとくだ」

 むくれた口調に、思い切り冷たい目を向けてやる。

 そうするとなぜかうれしそうに微笑ほほえみ返された。好みの顔なのが腹立たしい。

「最近、君に冷たい目で見られるのもいいなって思うようになってきた」

 やっぱり変態じゃないのか、この男。じと目になったジルの顔を、りずにハディスはのぞきこんでくる。

「僕を好きになってくれたら、君の好物を毎日作るって約束する」

「物で人をろうとするのどうかと思います、ごそうさまでした! ではわたしはこれで」

「まだデザートがあるのに?」

 り返ると、ハディスが紙に包まれたパイを取り出す。

 物で釣られたジルは、無言で着席し直した。

「あぁ、いたいた。ジルちゃーん……と、やっぱり一緒にいるのねぇ皇帝陛下」

 くやしいのでひたすら食べていると、カミラが中庭の小川をえてやってきた。ジークも一緒だ。

 ふたりとも、北方師団の制服こそ着ているが、階級を示すバッジをはずし、かたからかざひもきの短いマントを羽織って一見そうだとわからなくしてある。転職したからだ。

 それを示すように、ふたりそろってひざまずく。ハディスではなく、ジルに。

「我らがひめぎみにおかれましてはごげんうるわしく。でもお勉強の時間よ、ジルちゃん」

「皇帝陛下もおられるとは知らず、失礼しました。……迎えにきたぞ、解散だ解散」

「そうか……もうお別れの時間か……さみしいな」

 しょぼんとしたハディスに、ジークが顔をあげて後頭部をかく。

「そんなおおな……一、二時間だけだ。菓子でも作って待つのはどうだ、皇帝陛下」

「そうよぉ。アタシたちと一緒に待ちましょ陛下、ね。お留守番よ、お留守番」

「わかった。君たちはいつもやさしい……そうだ、よかったらこれを食べてくれないか」

 ハディスが差し出したクッキーにカミラとジークが目をかがやかせる。ジルは思わずうなった。

「あなたたちまでづけされてどうするんですか……! あと陛下に敬語! れい!」

「やあねぇそんなかたくるしいのはなしでって言ったの、ジルちゃんじゃない。皇帝陛下だけ仲間外れにしたら可哀かわいそうよ。ねー」

「そうだ、僕だけ仲間外れはだ。君たちは色んなことを僕に教えてくれるし」

 嬉しそうなハディスに、ものすごくいやな予感がした。

 その予感をいきなりジークがぶち当てる。

「で、今回はどうだ? 少しは進展したのか、うちの隊長と」

「今ひとつなんだ。何がたりないのかわからない。いつしようけんめい、レシピを考案してるんだが」

「あーそればっかりじゃ駄目よ、色んな角度からめなきゃ! 次はおくり物なんてどう? ジルちゃんだってとしごろの女の子なんだし、可愛かわいいぬいぐるみとか!」

「ちょっと待ってください。あなたたち、いったい皇帝陛下に何を教えてるんです……!?」

 頭痛をこらえるジルに、カミラとジークが顔を見合わせる。

「何って女の口説き方、と言いたいんだがそれには相手が小さくてこう、俺らも正直どうしていいかわからん。ただこうしんおさえきれない」

「そうよねぇ。皇帝陛下ってば可愛いし」

「そ、そうか。僕は可愛いか……」

「陛下はそこで嬉しそうな顔をしないでください! もうわけがわからない……!」

 ジルが両手で顔をおおうと、ハディスは目をぱちぱちさせたあと、肩を落とした。

「ひょっとして……可愛い男は君の好みじゃないのか……?」

「やだージルちゃんが陛下いじめてるー」

「いくらりゆうとはいえ、相手は皇帝陛下だぞ。もう少し言い方に気をつけろ」

「ってなんでわたしが悪くなってるんですか、あなたたちは陛下じゃなくわたしの味方のはずでしょう!? わたしに剣をささげた『竜妃の』なんですから……!」

 幸せに生きてくれるのならカミラもジークも部下にする気はなかったのだが、軍港の一件でハディスにほうしようたずねられたふたりは、『竜妃の騎士』になることを願い出た。

 ラーヴェていこくでは皇帝にりゆうていというべつしようがあるように、そのきさきは竜妃とも呼ばれる。その竜妃に忠誠をちかった親衛隊のことを『竜妃の騎士』と呼ぶらしい。

 かたきこそ立派だが、完全なめい職でつぶしがきかない。なおしようしんを願えばいいのに、なんでまたそんなものになりたがったのか聞けば、カミラは「楽しそうだから」、ジークは「強さにれた」と言う。嫌ならこばめるとハディスに言われたが、ジルはふたりを受け入れた。

 未練かもしれないが、また新しい関係を築けるならそれはそれで嬉しい。

 だが、それが今、思わぬ方向でジルを危機におとしいれている。

「気にするな、陛下。隊長は信じられんことに、お前に気があると俺達は見ている」

「本当か!?」

「そうねぇ、脈はあるとアタシも思うわ。おうえんしてあげるから頑張って! ジルちゃんはアタシたちの大事なご主人様だし。ジルちゃんのこと、好きなんでしょう?」

「え? そ、そんなわけがないだろう……!」

 たんにうろたえたハディスが、顔を赤らめて視線をうろうろさせながらつぶやく。

「ぼ、僕が紫水晶を、好きなんて、そんな……! す、好き……僕が、紫水晶を。ぼ、僕が、好き……紫水晶を……!?」

「……おい、まさかこのじようきようで、そこからなのか」

「僕が好きだなんて……え? 紫水晶は、僕が好き……いつのまに!?」

「待って待って陛下、そこ勝手に入れえちゃだめよ! ヤバい男になっちゃうから」

 わかった、とハディスが素直に頷く。ジークとカミラが大きくため息をついているが、ジルからすれば同情の余地はない。ごうとくだ。

 文句を言いつつもちゃっかりハディスの手料理をたいらげたジルは、ぴょんとあずまから飛び降りた。

「ご馳走様でした、陛下。では時間ですので、失礼いたします」

「わかった。チーズケーキを作って待ってる」

 うぐっとつまったが、にこにこしているハディスに手を振られてしまった。なんだかはんこうするだけ無駄な気分になって、さっさときびすを返す。

「あれで自覚がないとはな……さて、どうしたものか」

「でも自覚させたらああいうのおもしろいわよぉ、絶対遊べるわー」

「陛下とわたしで遊ぶのはやめてください」

 背後についてくる騎士ふたりをじろりとにらんだら、カミラが大きく目を見開いた。

「何を言ってるのよジルちゃん! あなた、いくら強いって言ったって、ここじゃ仮想敵国の人間なのよ? 後ろだては陛下のちようあいだけしかないのよ!?」

「そうだ。主人であるお前の立場を強固にするのも、部下の仕事だからな。いいか、あのこうていを確実にめにしろ」

 おそろしくまっとうな意見を部下達から返されて、中庭の真ん中で思わずたじたじとなる。

「て、手籠めって……」

「お前ならできるだろう。ベイルこうしやくれいじようより簡単じゃないのか、あの皇帝」

「そうよーちゃちゃっと押したおしてものにしちゃいなさいよぉ」

「十歳の子どもに何をさせようとしてるんですか!?」

「アタシたち、ジルちゃんを子どもあつかいしないことにしたから」

「そうだな。それにあの皇帝のためにあそこまでしたんだ。嫌いではないんだろう?」

 ジークの冷静な質問に、今度は視線をうろうろさせるはめになった。

「そ、それは、もちろん。ただ、わたしと陛下はそういうのではなくて」

「これは忠告だがな。嫌なら、食事にさそわれてもほいほい男についていくな」

「う。それは……だって食べ物に罪はないし、おいしいし、本当においしい……!」

「でも男に期待させるわよぉ、そういう態度。陛下とは形だけですって言うなら、きっぱり断らなきゃだめよー」

「そ、そうなんですか……?」

 だんだん自分の対応に自信がなくなってきた。

 しどろもどろになっていくジルに、カミラが目をまばたく。

「こっちも意外ねぇ。自覚なくやってるの?」

「逆にねんれい相応じゃないのか? 俺達も感覚がおかしくなってる気がするぞ」

「でもアタシたちはジルちゃんの味方よ。皇帝陛下といえど、あんなような求愛だもの。そんなに重く受け止めずに、いつもみたいにクールに流しちゃえばいいじゃない」

「そ、そんなこと簡単に言われても……男性に口説かれるなんて初めてなので、対処がわかりません」

 言っている間にほおに熱があがってきた。

 背後もだまってしまったせいで、ちちちと小鳥のさえずりが聞こえる。と思ったらとつぜん背後からカミラにきつかれた。

「やーん可愛い~! 可愛い、ジルちゃん可愛い!」

「なんだ、あと一押しじゃないか。おままごとみたいなふうだが」

「だ、だから、早とちりしないでください! 夫婦になるからこそ、愛だのこいだの持ちこむつもりはないんです。陛下がちがえたとき、いさめられなくなるので」

 言い切ると、ぎゅうぎゅうジルを抱きしめていたカミラのうでから力がけた。

「ずいぶんれた言い方するのねぇ……年齢差はともかく、あの皇帝サマ、すごくかっこいいのに。きゃーってなったり、ぼわわーってなったりしないの?」

 そんな、思うだけでしあわせで、がんれて、胸がはずむ恋心なんて。

「……もう経験しました、十分です」

「うっそぉ! 早すぎでしょ! どういうことよ!?」

「俺に聞くな。まあ……何があったかは知らんが、結論をあせることはないんじゃないか。お前は実際まだ子どもだし、あの皇帝も中身が子どもだしな」

 ぽん、と頭の上にジークの手がのった。

(でもそのせいで、お前たちまで巻きこんで、わたしは)

 不意にこみあげたこうかいに、くちびるをかむ。そう、ジルの初恋は色んなものを巻きこんで、すべて駄目にした。

 だから今度は、間違えるわけにはいかないのだ。

「ジル様! ジル様、大変です……! あっ!?」

 スフィアが、かいろうから中庭へみ出すなり、頭からこけた。カミラがそれを助けにいく。

「しっかりしなさいよぉ、スフィアちゃん。ジルちゃんの先生なんでしょ」

「う、うう……失礼しました、急いでいて……」

 ベイルこうしやくは後妻達とかつてスフィアがすごしたべつていりようようすることになった。まだ侯爵はごくちゆうで取り調べ中だが、次の侯爵をスフィアの婿むこようにする公文書はすでに提出されている。

 スフィアはハディスの決定に異を唱えず、いきなり降ってきた次代侯爵選びという重責からもげようとしなかった。それどころか、ジルの家庭教師をつとめながら、婿さがしをしたいと逆手に取ったことをハディスに願った。

 そう願うスフィアは、ハディスへのおもいをち切ったらしい。父親の助命を感謝してしまう自分にはもうその資格がないと、ジルとふたりでお茶を飲んだときに言っていた。

 だが、そのお茶会でしゆうにさそわれたジルがしぶしぶ針を取ったところ、スフィアはめまいを起こして「ダンスは!? 詩は!? れい作法は!?」とさけびだした。

 総合すると、こんなことではきゆうていで生きていけません、というのがスフィアの評価だ。実際に帝都の宮廷で生き抜いたスフィアが言うと説得力しかなく、ジルはスフィアからしゆくじよのなんたるかを学ぶことになったのである。

 そのスフィアが走ってやってくるなんて、何事だろうか。

「あの、先ほどジル様あてにこんな手紙が届いて……急いでお知らせせねばと」

 スフィアがにぎっていた手紙を受け取ったカミラはジルに差し出す。

 白いふうとうにはブルーブラックのインクで、ジルの名前があて書きされていた。

 ジルが今、ラーヴェ帝国に、しかもベイルブルグにいるなんて、家族もあくしていないはずだ。スフィアが急いで知らせにきたのもわかる。

 何より、見覚えのあるひつせきに、いやな予感がした。

 びりっとはじを破ったジルは、中を開く。そして絶句した。あまりのしようげきに、手から封筒と手紙が落ちてしまう。

「ちょ、ちょっとジルちゃん、どうしたの。息してる!?」

「だ、だいじよう、です……ちょっとこう、現実とうしたくなっただけで」

「おい風に飛ばされるぞ、手紙……あ」

「──これはこれは。あきらめないだろう、と思っていたけどね」

 先ほどまでの明るさをそいだ、低い声にジルはぎこちなくり向く。

 片づけて東屋から出てきたのだろう。足元に落ちた手紙を拾いあげたハディスが微笑ほほえむ。

 それはもう、ジルも思わずのどを鳴らすほど、きようあくさを増したがおで。

「一国の王太子がここまで情熱的だとは。僕も見習わないといけない。そう思わないかい、僕の紫水晶」

「そ、そういったことでは、ないような、あるような」

「さあ、楽しいかんげいかいの準備をしよう。受けて立つよ。愛は戦争だ」

 笑顔のハディスの目が笑っていない。

 ジルは脳内でかつてのこんやく者をなぐりながら頭をかかえる。

(なんで諦めないんだ!? わたしを反逆者扱いするならまだしも──)

『今から君をむかえに行く』

 ジェラルド・デア・クレイトスという自著に残る筆跡のくせは、今も未来も変わらない。



 同時に、クレイトス王国からの使者もとうちやくしていた。今後の両国の関係について話し合いたい、というさきれだ。ジル宛の手紙もこの使者が持ってきたものらしい。

 公的な扱いではなく、話し合いの場も帝都ではなく明朝に到着するだろうここ水上都市ベイルブルグで、ということだった。時間も心の準備もあったものではない。というか、させる気がないのだろう。

「ジル様、目のしようてんがあってません。もっと、淑女らしい笑顔をお願いします」

 非公式だが王太子との会談だ。たくを手伝ってくれることになったスフィアが、ジルの顔を見るなりそう言った。

 言われたとおり、ジルは頰を無理矢理あげてみる。

「こうですか?」

「……完全に悪役顔です」

「ではこう」

「もっとだめです。ものを前にして舌なめずりしているようです」

「では、こういった感じは」

「……もう、無表情のほうがましなんじゃない」

 出入り口のほうから飛んできたカミラの忠告に、スフィアがたんそくする。

 周囲の反応に、申し訳なさがこみあげてきた。

「すみません、可愛かわいい笑顔は苦手で……あの、足を動かせるドレスはあるでしょうか。それなら気も休まるのですが」

「足をみせるのですか? そうですね……そういった流行もありますし、ジル様は子どもですかられんというより可愛らしくていいかもしれません」

「いえ、そうではなくて足技がかけられないです。あとは太ももの辺りに暗器を仕込めるようガーターを」

「おい。戦場に行くんじゃないぞ、会談だ。それだと、護衛の立場がない」

 ジークの意見はもっともだが、ジルとしてはできれば会談相手の息の根を止めたい。スフィアがまゆをよせた。

「……お顔がますます凶悪になっているのですが……」

「地です」

「ジル様は可愛らしい方ですよ。きんちようせず、もっと自信を持ってください。お好きなドレスの色や形はありますか?」

「一息で殺すためには、やはり回しりができるドレスがいいです」

「……本当にジェラルド王太子がおきらいなのだとよくわかりました。ですがジル様、笑顔というのは淑女の武器のひとつですよ」

 武器、という言葉にジルは少し反応した。

「事情はどうであれ、クレイトス側ではジル様はされたというにんしきなのですよね」

「……はい」

「そうでないと否定するならば、ジル様は幸福でなければなりません。ゆうに、気品をそこなわず、自分はここでぐうされているのだと、笑うのです──このように」

 すっと両手を合わせてれいな姿勢をとったスフィアが、あごを引いて美しく微笑んだ。

 びりっとジルの背中に何かが走る。

(いつものスフィア様じゃない)

 おだやかに、見る者をほっとさせるようなやさしさのこもったれんな微笑だ。この笑顔を見せられたら幸せなんだろうな、とそのまま信じてしまう。

「どうでしょうか?」

「……スフィア様の言っていることはわかりました。がんってみます。……スフィア様はお強いのですね」

 スフィアがうれしそうに顔をほころばせる。そうするといつものスフィアだ。

「足の開けるドレスを選んできます。理由はともかく、少しでも気持ちを楽にできるほうがいいですから」

 そう言ってスフィアはハディスがジルのために用意した衣装部屋に入り、ジルが望むようなドレスをつくろってきてくれた。大きなリボンのついた、可愛い色合いのドレスだ。確かに足は動かせそうだが、レースとフリルがたくさんついているので、せんとうになった際は引っかけて破らないように気をつけなければならないと決意を新たにした。

 そのあとはひたすら支度だ。はだをしっとりさせるやくざいを入れて乳白色になったに入り、水をほおや額にたたきこまれ、乳液を全身にばし、こうかみをすく。コルセットはいらないと言われてほっとした。子どもだからしよううすく、だが健康的に見えるように、唇はみずみずしさが出るようみつる。

 新しく城にやとわれた使用人達もよくよく心得ていて──というか完全にジルをおもちゃにして、それはもうらしいおひめさまを作りあげてくれた。

 全身鏡で見た際にはちょっとだれだかわからなかったくらいだ。

(あとは笑顔、笑顔……!)

 頭の中で念じながら、護衛に立つジークとカミラのあとをついて歩く。

 大理石のろうの先、大きな両開きのとびらの前で、ハディスが立っていた。

 ハディスはマントをごうしやなものにえたくらいで、ほとんどいつもと変わらない。なのに元がいいので、立っているだけでりんほこる花のように美しい。真顔だとなおさらだ。

(……かざると逆にわたしがかすむやつだ、これ……)

 努力しようと思った笑顔が、今度は別の意味で消えた。

「ジル様をお連れしたわよん、こうてい陛下」

 カミラに声をかけられたハディスがこちらへと向くなり、笑顔になる。

「スフィアじようの見立てか? いつもの君もいいけれど、ドレスの君もいいな」

 うきうきとした口調でハディスがしゃがみこみ、ジルと目線の高さを合わせて微笑む。

「すごく可愛い。髪も今度、編みこんだらどうかな。僕、そういうの得意だ」

 長い指がみみたぶ付近の髪をからった。不意打ちにジルはあわててげる。

「い、今はいいです! 大丈夫です、陛下のほうが可愛いですから!」

「……それは僕が君の好みの男じゃないって話か!?」

「おい、頭がおかしくなる会話はあとにしろ。護衛は本当に部屋の外だけでいいのか」

「あ、ああ……問題ない。公的なものではないそうだし、向こうも王太子ひとりだ」

 そりゃあそうだろうとジルは冷めた目で思う。ジェラルドは強いのだ。

(わたしでも試合で勝てたことがない。……何かしかけてこられたら)

 ジルの前でしゃがんでいたハディスが、すっと立ちあがる。

「クレイトス側は君が僕にゆうかいされたと言っている。そうではないという証明もかねて君を同席させるが、君は基本、にこにこしているだけでいい……んだが…………なぜ、どんどんこわい顔になっていくんだ?」

 両のこぶしにぎり、ジルは両目をきつく閉じる。

「申し訳ございません、陛下。てきしゆうだと思うと、殺気がおさえきれず……!」

「そ、そうか……だが、向こうは君を迎えにきてるんだぞ? 少しは気持ちがゆらいだり」

「しません。そもそもジェラルド王太子の本当の目的が、わたしであるはずがありません」

 それだけは、はっきりと言い切れる。

「必ずお守りしますので、わたしのそばをはなれないでください、陛下」

「……あっ、ちょっと陛下!?」

 よろめいたハディスが、心臓あたりに手を当てる。陛下、とジルもけよった。

「こ、呼吸が……苦しい……!」

「おいだいじようか、これからだっていうのに……中止にするか?」

「ちょっとジルちゃん、こんなときに陛下の心臓をもてあそんじゃだめよ」

「は?」

 なぜ自分がしかられるのだろう。ジークに背中をなでられ、カミラに差し出された水を飲んだハディスは、深呼吸をしてジルをきあげた。

「そろそろ時間だ、行こうか」

「本当に大丈夫ですか? ジェラルド王太子とわたり合うのに体調不良では……」

「……まさか君は、僕があの王太子に負けるとでも言いたいのか?」

 とつぜん、ひやりとくる口調で言われ、ジルは慌てて首を横にった。

「そ、そんなことはありません」

「ならいいが」

 前を向いたハディスの金色の目の奥に光が宿る。目の前で、せいしやの顔に変わった。

(……色々あぶなっかしいが、こういうところはちゃんと大人なんだな……)

 じいっと見ていると、人差し指でえりもとを直したハディスがげんそうに見返した。

「まだ何か不安でも?」

「可愛いがおえんがない自分がふがいないだけです。陛下となかむつまじいふうだと信じさせねばならないのに、ジェラルド殿でんへの殺気がほとばしりすぎて……!」

 ハディスがふと目をすがめた。

「……君、さっきから僕よりあの王太子のことで頭がいっぱいじゃないか?」

「は? やめてくださいそんなわけないでしょう、すみやかに息の根を止めたいだけです」

「でも、愛とにくしみはかみひとっていうじゃないか」

 とんでもない言いがかりを否定しようとしたが、ハディスの目がわり始めている。

「……何かあるんじゃないのか、あの王太子と。こんやくが内定していた以外にも」

「いいえまったくこれっぽっちも何もありません、あるわけがありません」

 事実だ。少なくとも今、この時点でジルとジェラルドは、内定していた婚約がたんしただけの関係である。

 だが、ハディスはいらだたしげにジルを廊下におろした。

「予定へんこうだ、君は置いていく。王太子には会わせない」

「は!? そ、そんな、危険です陛下!」

 慌ててジルはハディスのマントを両手で引っ張る。振り返ったハディスもマントを取り返そうとつかみ、引っ張り合いになった。

「僕ひとりで行くと言ってるだろう……! 君は留守番だ!」

「それじゃあ、わたしが陛下に誘拐されたって誤解をとけないじゃないですか!」

「それでもだ! 絶対に王太子にはわたさない、君は僕のおよめさんだ!」

「そうですよ! だから陛下をひとりで行かせるなんてできないんです! カミラ、ジークも陛下を止めてください!」

「隊長の言い分は正しいんだがな……なんでもめてるんだ、こんなことで」

「ジルちゃん、ちからわざじゃだめよ。陛下はやきもちいてるんだから」

「え!?」

 ハディスとそろっておどろいたせいで、マントがはらりと手から離れてしまった。

 しんと廊下にせいじやくが落ちる。

「……」

「ふたりそろってこっちを見るな。自分達で解決してくれ」

「これから仲睦まじい夫婦アピールしなきゃいけないってこと、忘れちゃだめよー」

 はっとジルは気づく。もめている場合ではないのだ。時間ももうせまっている。

「あ、あの陛下、ひとまずここは、仕事ですから」

「……わかっている。君の頭をいっぱいにできない、僕がふがいないだけだ……」

 しょげているハディスに、ジルのほうがじわじわずかしくなってくる。

「あ、あの、陛下……わ、わたし……い、いっぱい陛下のこと、心配してます、よ?」

「それって僕がたよりないってことだろう。僕はかっこ悪いって思われてるんだ、君に」

 そういうわけでもないと思うのだが、うまく言葉にできない。その間にもハディスは地の底まで落ちていく。

「いいんだ。僕は確かにがない……君が気にしている、可愛かわいい態度とやらにも対処方法はあるのに、言い出せなくて……」

「えっ!? そ、そういうことは早く言ってください!」

 はじはすべて背後にっ飛ばすことにして、ジルはハディスにめ寄る。

「教えてください、ぜひ」

「で、でもだめだ。あらりようすぎるし、僕らにはまだ早い」

 今度はそわそわしながらハディスが目をそらす。だがジルは食いついた。

「どんな荒療治でもわたしはえてみせます! やってください、足手まといはいやです!」

「だ……だまされないぞ。また真に受けて、おこられたり嫌がられたりしたら……」

「怒りませんし嫌がりません! 勇気を出してください、陛下」

「……。絶対に怒らないし、嫌がらない?」

「はい、お約束します!」

 ちょっと考えこんだあと、ハディスはジルを抱きあげた。

「……絶対に絶対に絶対か?」

 何度も念押しされて、少し笑ってしまう。積極的に口説こうとしていたようだが、ジルに嫌われるのを怖がるところは変わらないらしい。

「絶対に絶対に絶対に、大丈夫です。わたしに二言はないって、陛下はご存じでしょう?」

「……わかった。君を信じる」

「具体的にどういった策なんでしょうか、陛下」

 気合いを入れてハディスを見つめると、ハディスが静かに答えた。

「簡単だ。君の頭を僕でいっぱいにすればいい」

「へ──んぅっ!?」

 がしゃんと物を落とす音が聞こえた。ジークかカミラだろう。

 視界をハディスの顔でいっぱいにふさがれたジルは、その音で我に返る。何が起こっているのか、一息もつけないことで理解する。

 口づけされているのだ。こんな人前で、みやくらくもなく──混乱がしゆうになり、いかりとまざりあいかけたとき、ねらいすましたようにハディスがひとみをあけた。のどもとを食いちぎらんばかりのそうぜつな色気をたたえた金色の瞳に、身動きがかなわなくなる。

「──ほら、僕にすぐすきを見せる。君は可愛いな」

 間近でようえん微笑ほほえまれ、呼吸困難もあわせて、ぼんっと頭から湯気がき出る。そのままぐたりとハディスの首元によりかかった。たぶん、こしけた。

 大事そうにジルをかかえ直したハディスがささやく。

「これで初心うぶで愛らしい少女のできあがりだ。そのままとろけていればいい」

「お、大人の男性として、今の所業はどうかと思うわよ陛下……今のは反則よ……」

「おい、さすがに今のは一発なぐらせろ、大人として」

「だってジェラルド王太子に仲を見せつけるには、これが一番だ。僕のことで頭がいっぱいですって顔になればいいんだ」

 怒らない。嫌がらない。約束した。だがひとことだけ、うらみ言を言いたい。

「……は……初めて……だった、のにっ……!」

 歩き出そうとしていたハディスと目が合った。ぽっとほおを赤くそめたハディスが、おずおずたずねる。

「……その……あとで、ふたりきりで、やり直す?」

 だが殴らないとは約束していなかったな、とジルは思い出した。



「いきなりの訪問にもかかわらず、こうして対応していただけたこと、感謝を申しあげる。それで、話し合いの内容なのだが……」

 広い応接間のテーブルをはさんで向かい合ったジェラルドは、を弱めた。眼鏡の奥に、こんわくかんでいる。それはそうだろうなと、ジルは思った。

 会談に現れたこうてい陛下の左頰に、くっきり手のあとがついている。小さな平手の形をしているし、何より派手に音が鳴ったはずなので、ジルに殴られたのだと察するのはたやすい。同じ横長のソファに座っているのに、ジルがハディスから顔をそむけているのでなおさらだ。

「どうした? 話を続けてくれ」

 なのにハディスがにこにこしているので、めあぐねているようだった。

「いえ……ではまず、ジル・サーヴェルじようのお話をうかがいたい」

「だそうだよ」

「話すことなどありません」

 冷たい声に、ジェラルドはまゆをよせる。だがハディスは調子をくずさない。

「すまない。ここにくる前、げんをしてしまったんだ」

「痴話喧嘩!?」

「お客様の前だよ」

 思わずったジルに、ハディスが言い聞かせるように告げる。こんなときばかり大人の顔をするのが、いっそう腹立たしい。

「ジェラルド王子、僕の婚約者はまだ幼い。のがしてくれないか。君の責任でもあるんだし」

「……どういう意味か、わかりかねるのだが」

「彼女をむかえにくるなんて言うから、つい僕も妬いてしまってね」

 確かにそんな話はあった。だがどこにしつがあるのかというゆうの表情で、ハディスは長い足を組み直す。

「帰りたいのかと聞いたら、愛を信じてくれないのかと殴られてしまった」

 そんな話は断じてなかったが、ジェラルドの目がすうっと細くなっていくのを見て、ジルはだまった。

 ジルがこうして怒っているのを、ハディスはそういう話に仕立てあげる気なのだ。皇帝なのだ、かんけいですらないこれくらいのごまかしはできて当然だろう。

 だが、さすがと思うのも腹が立つ。だまされたと思うともっと腹が立つ。

 何より、ハディスのおもわくどおり、ジルの頭の中がハディスのことでいっぱいになってしまったのが、一番腹立たしい。長いまつげだとか、うすいのにやわらかかったくちびるかんしよくだとか、こしくだけにされた声のひびきだとか、油断するとのうよみがえる。そのたびに押さえこむのに必死だ。

(もう絶対に油断しない、隙を見せない、やり直させない……!)

 心中でり返すジルをよそに、ハディスはゆったりとほおづえいた。

「サーヴェル家へのれんらくおくれたのはこちらのぎわだ。そこは謝罪しよう。だが、ゆうかいだと疑うのはかんべん願いたいな。反対の頰も殴られてしまう」

「……。皇帝が小さな子どもに殴られるなど、どういった風のき回しなのだか」

「僕は妻にはひざまずく皇帝だ」

 堂々と言い切ったハディスは、組んでいた足をほどき、立ちあがった。

「では、失礼させてもらおう。私的な訪問だってね。ゆっくり観光していってくれ」

「話はまだ終わっていない」

「痴話喧嘩のちゆうさいでもしてくれるのかな」

 ジェラルドはジルを見て、舌打ちした。どうやら痴話喧嘩説を信じたらしい。

 そのおかげで、みようにすっきりした気分になった。

(こういうやり方もあるのか)

 こういう場では愛らしいがお以外ふさわしくないというのは、どうもジルの思いこみだったらしい。おおやけの場ではないからこそできた態度だろうが、視野のせまさを自覚して、ジルはハディスを見る。いつまでも怒っているほうが負けな気がしてきた。

「……別に、仲裁など必要ありません。陛下が誠心誠意、謝ってくだされば」

 ちがったことは言っていないのに、なぜか頰が赤くなってきた。本当に痴話喧嘩をしているようないたたまれなさを感じる。なのにすべての原因であるハディスは余裕顔だ。

「ああ、いくらでも謝ろう。どうやって君のごげんをとろうか。こういうなやみっていいな」

「……別にご機嫌取りなんて、していただかなくても」

「本当にいらない?」

 頭の中にご飯とおが浮かんだので、あわてておいしいもうそうはらう。ハディスは笑いをかみ殺しているようだった。それを横目でにらみつつ、ジルは深呼吸する。

 背筋をばし、何やら難しい顔をしているジェラルドをえた。

「そういうことですので、わたしへの心配は無用です。ごめいわくをおかけしたことは謝罪いたします。家族にもわたしから連絡致しますので」

「……クレイトスにもどる気はないと? 君は私のこんやく者に内定していた。王太子になる未来も家族も故郷も捨ててまで、なぜ?」

「陛下はわたしを必要としてくださっているので」

 答えたジルに、ジェラルドがあわれむように目を細めた。

「必要、か。なるほど。……では必要がなくなればいいわけだ。そうだな、皇帝陛下」

 ハディスは応じなかった。だがジェラルドはソファに背をあずけて続ける。

「十四歳未満で、あなたが示す何かが見えるのが婚約の条件だそうだな。りゆうじんが見えるりよくを持った少女をさがしているのだと思うが。それはのろいをふせぐためだろう?」

 ぎようしたジルに、ジェラルドはめずらしく微笑んでみせた。

 ハディスがたんそくいつしよに、ジルの横に座り直す。

じゆつ大国クレイトスの王子らしいどうさつ力だ。否定はしない」

「皇帝の呪いは、解けていないと言ったら?」

こんきよがなければ話にならないね」

「先の軍港の一件は私の耳にも入っている。ベイルこうしやくを生かしたそうだな。政情を考案した英断だ。呪われた皇帝というのはうわさだけのことらしいと、住民はあんしている。だが呪いが健在なら、ベイル侯爵は死ぬはずだと私はぶんせきするが、どうか」

 こん、ととびらたたく音が聞こえた。こういうときの知らせは悪いものと決まっている。

 だがハディスは迷わなかった。

「入れ」

「ごかんだん中、失礼致します」

 入ってきたのはミハリだ。先の戦いでハディスの信を得たものの、守りにてつする方がしように合っているとさとったらしく、北方師団から近衛に転職し、今は城の警備をになっている。

 ミハリは敬礼したあとに、ジェラルドを見た。客人に聞かせていいことではないが、急いで知らせなければならないと思った、というところか。ハディスの判断を待っているのだ。

 ハディスはジェラルドから目をはなさないまま先に尋ねた。

「ベイル侯爵が死んだのか?」

 背筋を伸ばし、はいとミハリが応じる。

 ちんもくの広がる部屋で、ジェラルドだけがソファに背をしずめておもしろそうに笑っていた。



 自殺しないよう持ちこむ物も厳重に管理されているベイル侯爵は、看守の前で、自らの手で首をめて死んだ。助けてくれと言っていたと、看守が証言している。

 かんこうれいはしいたが、噂というものはあっという間に広まる。すでに城内だけでなく町にまでベイル侯爵の不可解な死は伝わっていた。しかも、色々ひれがついてまわっている。

 様子見に町におりてもらったカミラ達から噂を聞いたジルは、自室で大きく嘆息した。

「やっぱり皇帝陛下の呪いだ、ということになってるんですね……」

「マズイ空気よ。呪いはやっぱりおさまってない、ここはベイル侯爵の領土だから町の住民はみなごろしにされるとかおおなことになってて、みんなおびえてるわ」

「軍港で北方師団──ヒューゴと話をしたが、町であおってるやつがいるようだな」

「ジェラルド王子が連れてきた連中が煽ってるんでしょうね」

 ジルのつぶやきにカミラが首をかしげた。

「どうしてジェラルド王子? 確かにこのタイミングはあやしいとアタシも思うけど……」

「陛下に反目する連中とジェラルド王子がつながっているとすれば、どうですか」

 ジェラルドは武人だが、知略にもけている。ベイル侯爵がハディスに反目するばつかかわりがあったのはあきらかだった。だが、それをたどる前にベイル侯爵を始末されたうえ、一度おさまったと思われるハディスの呪いの件をふんしゆつさせられたのだ。

「そもそも、後ろだてもない陛下があの若さですんなりこうていになれたのは『そうすれば呪いがおさまる』と周囲が考えたからでしょう。その前提が崩れれば、今度は呪いをなくすため、そのげんきようである陛下の命をうばおうとする連中が出てきます」

「……皇太子派が勢いを増すってわけね。で、ジェラルド王子は皇太子派を後押しするために動いてるんじゃないかって、ジルちゃんは疑ってるわけね?」

 実際、ジルが知るこの先で、ジェラルドは反皇帝派を煽り、情報をき、利用してきた。

 それはラーヴェていこくの国力をぐための当然の戦略だ。

「でも、実際どうなんだ。呪いはちようではなく、本当に存在するものなのか」

 ジークが本質を突いた疑問を投げる。カミラはそれよねぇとうなずく。

「ベイル侯爵の死に方がつうじゃないことだけは確かだもの」

しようさいはわからないですが、陛下はわたしがいればおさまる呪いだと言っていました」

 このふたりには言っておいたほうがいいだろう。ラーヴェのこと、その祝福のことをかいつまんで話す。はずれないりゆうの指輪も見せた。

 カミラはりよううでを組んで、けんのしわをもむ。

「にわかには信じがたいけど……皇帝陛下が婚約者候補に何が見えるかなぞかけをするっていうのは、アタシも聞いたことあるわ。それが竜神ラーヴェ様が見えるかどうかの判断だったってことなら、疑問はひようかいするわねぇ」

「俺はもともと魔力とかそういうのわからんからな。隊長がそう言うならそうなんだろうと判断するが……だが、それだと呪いは間違いなくあるってことにならんか?」

「その前に、かくにんしなきゃならないことがあるでしょ。呪いってなんなのかってことよ」

 カミラの意見に、に座ったままのジルは顔をあげ、はんぷくする。

「呪いが、なんなのか……」

「そう。呪いで流されちゃってるけど、それって結局なんなわけ? どうしてりゆうていけつこんすることによっておさまるって仕組みになってるの? それに、呪いって言うからには呪ってる奴がいるはずでしょ」

「……神話を事実だと想定すれば、がみクレイトスの呪いだろう」

 ジークから出た名前に、ジルはなおおどろいた。カミラがよこがみをくるくる指にからめて、しかめつらになる。

「やっぱりそうなるのかしらねぇ……竜神ラーヴェ様自体、神話の存在だし……」

よめが竜神のたてになってるくだりが今のじようきようとそっくりだ。関係ないとは言えんだろう」

「え? ちょっと待ってください。なんですかそれ?」

 ジルの質問に、ジークとカミラが顔を見合わせる。ふたりにとっては当たり前の話らしい。

「そういえば、ジルちゃんはクレイトス王国出身だっけ。あら、じゃあひょっとして言い伝えがちがったりする?」

「どうなんでしょう。気にしたことがなくて……昔、女神と竜神の間で人間のあつかいについて意見が対立して争ったんですよね。それで、ひとつの大陸がふたつの国に分かれたって」

 人間を愛で守るか、それともことわりで導くか。

 その教えはそれぞれの国に加護という形で現れている。魔力という愛で守られなんでも実るクレイトスの大地と、知識という理で守られりゆううラーヴェの空。

「俺達が言っているのは経典にのるような話じゃない、いわゆる民話なんだが……」

「クレイトスとラーヴェはもとは大地と空をふたりでべるふう神になるはずだったとか、そういうことなら、クレイトスでも聞いたことはあります」

「そうそう、そういうたぐいの民話よ。女神との対立で大地のめぐみが呪いに変わって、ラーヴェの土地に何も育たなくなった時代があったらしいの。でも、竜帝はすごく魔力の強いお嫁さんを──竜妃をもらって、ラキア山脈の山頂にほうの盾を作って女神からの大地の呪いをふせぐことに成功したのよ。このときの魔法の盾が今の国境って言われてるわ」

 女神の呪いは竜妃がいればふせげる、というのは確かにジルの状況と同じだ。

「呪いを無効にされて女神はおこった。でも女神は本来の姿だと盾にはじかれちゃうから、黒いやりに化けて、王国の人間に運んでもらって海をわたって遠路はるばるこっちにくるのよ」

「槍って……女神のせいそうのことですか? クレイトス王家に代々受けがれてる?」

「女神の聖槍は実在するのか、クレイトスに。こっちの竜帝のてんけんとあわせて、伝説だとばかり思っていたが」

 ジークが感心している。やはり、クレイトスとラーヴェで情報に差があるらしい。

「クレイトス王家に聖槍は実在します。しきで使ってるのは模造品レプリカですが。ラーヴェにはないんですか、天剣」

「何百年か前にとつぜん消えたって話だ。拝めるなら拝んでみたいもんだな、聖槍も天剣も」

 武器好きのジークはきようしんしんだが、ジルは内心で首をかしげてしまう。

(てっきり、戦場で陛下が使っていたのは天剣だと思ってたんだが……)

 まだ戦争が始まっておらず、表に出てきていないのだろうか。カミラが話をもどす。

「そこらへんは色々、神話と現実がまざってるんじゃない? で、女神はらしい槍ですって竜帝夫婦にけんじようされたところで、竜妃をしちゃうの。槍の正体に気づいた竜妃は、天剣で自分の胸をつらぬいて、自分のかげに女神を閉じこめるのよ。その結果、魔法の盾もしようめつしたけれど、女神様は元の姿に戻れなくなり、大地の呪いもなくなりましたって話。理を守った竜妃の話よ」

 神話だ。神話だが、女神の聖槍は実在する。現にジルは、六年後にジェラルドからその武器でこうげきされた。

(……それに、ジェラルド王子なら本物の女神の聖槍を持ち出せる)

 そのせいで女神の呪いが再発したのだろうか。

 ジークが大きなため息と一緒に、あごに手を当てて思案する。

「だが神話だからな。安易に信じるわけにはいかんだろう。呪いの内容も違う。皇太子の連続変死は、皇帝陛下のそくを助けたようなもんだし」

「──ですが、こうも考えられます。そんなのろいなどなくても皇帝になるはずだった皇子を、呪われた皇子としてりつさせて、皇帝にした」

 ラーヴェの言うとおり、皇太子がだれひとり死なずともハディスが皇帝になる運命にあったのだとしたら、皇太子の連続変死は完全にいやがらせだ。

「そう言われると、そうねェ……今回のも結局陛下には不利に働いてるし……」

「それに、神話どおりなら呪いの最終目的は竜妃……隊長の命ということになる。それだとますます状況がわからん。魔法の盾があるってことなのか?」

「少なくともわたしは、そんなもの作った覚えはないです。それに、わたしが死んでもクレイトス王国とラーヴェ帝国にみぞが入るくらいでしょう。でも、皇帝陛下を孤立させていくのが目的なら……」

 だが、そんなことをしてジェラルドになんの得があるだろう。皇太子派の手助けにはなるだろうが、あまりにえんな方法だ。考えこんで、ふと気づく。

(……そういえば、いまごろ起こったんじゃないか? ベイルブルグの無理心中……)

 歴史的に見るなら、ハディスのしゆくせいは人々にきようを植えつけた。皇太子派との対立も相まって、ハディスはうとまれ、孤立したはずだ。

 そして今、過程は違えどベイルこうしやくが死んだ。それがハディスの呪いからくるものだということで、同じ結果が生まれかけている。

 なぜ、なんのために、誰が──いやそれよりも先に気にすべきは、ベイルブルグの無理心中を引き起こしたと言われている人物ではないか。

「……スフィア様はどちらに?」

「え? ああ……陛下といつしよにベイル侯爵の身元確認に行ったみたいよ。もうそろそろ戻ってくるんじゃない?」

「あんな父親でも、死ねば思うことはあるだろう。そっとしておいたほうがいいだろうな」

 ジークの言うことはもっともだ。だがみようむなさわぎがした。

「さがしにいきます」

「ええ? ジルちゃん、ちょっと……あら」

 椅子から飛び降りると、とびらたたく音がした。失礼しますという声と一緒に入ってきたのは、まさに今からジルがさがそうとしていた人物だ。

 むかえたカミラが、やさしいみをかべる。

「戻ってきてたのね、スフィアちゃん。おつかれ様」

「……はい」

「もう休んだらどうだ。疲れただろう」

「……でも、ごあいさつを、しないと」

 ふらりと左右にゆれるようにしてスフィアがカミラとジークの間をすり抜け、ジルのほうへとみ出す。ジルはスフィアの足取りにまゆをひそめ、視線をあげると、どうもくした。

 見開かれたままのスフィアの目が真っ黒になっている。そしてスフィアの全身からもやのように立ちのぼっているのは──ひょっとしてりよくではないのか。

「危ない!」

 カミラのさけび声よりも早く、スフィアの右手に集約した魔力が黒い槍に変わった。その切っ先をさけて、ジルはきよを取る。だがものすごい速さでスフィアが追いついてきた。

「カミラ、ジーク、気をつけろ! 何かがスフィア様の中にいる!」

 よく転ぶにぶい女の子の動きではない。黒い槍をり下ろす動作も、踏み出す一歩も歴戦の武人のそれだ。なのにどうこうが開きっぱなしのスフィアの目はどこも見ていない。

「ちょロちょろ、と、むすめが」

「──誰だ」

 にたりとくちはじだけを持ちあげて、スフィアが振り向いた。その動きでさえおかしい。あやつり人形のようだ。

「わたシは、私は……私こそが、竜帝の、妻。お前は──にせものだ」

 スフィアの服のすそだけをれいにカミラがき、家具にい止めようとする。だがそれを引きちぎり、うでをつかんだジークも振りはらい、スフィアがまっすぐとつしんしてきた。

 宙返りしたジルは、スフィアの背中をめにする。だがスフィアの手から落ちた黒い槍がぐるりと反転してその切っ先をジルに定める。

(この槍だけ自立して動くのか! むしろこいつが本体か!?)

 スフィアをき飛ばし、ジルはまっすぐ飛んできた槍をかんいつぱつでよける。だが、いつの間にかもうひとつ部屋に増えていた影に、目をみはった。

「陛下!」

 ゆかに転がったスフィアに、ハディスが剣を振り下ろそうとしている。

 黒い槍の存在をかすませる光りかがやく白銀の剣──戦場で見た、いつせんで大地をわる神器。

 それがためらいもなくスフィアの心臓をねらう。床をったジルはスフィアをいてハディスの剣をよけ、床に転がった。

「陛下、スフィア様は何かに操られて──」

「それごと殺す」

 明確なハディスの殺意に、ジルは説得の言葉をむ。腕の中でスフィアが笑い出した。

「殺す? 私を? あなたを愛してあげられるのは私だけなのに!」

「おい隊長、うしろ!」

 振り向いたときは先ほどよけた槍がこちらに飛んできていた。だがそれがジルの背中に突き刺さる前に、ハディスがつかむ。が焼けるような嫌なにおいとけむりがあがった。

「陛下……!」

「──ふふ、がさないわ」

 スフィアのつぶやきと一緒に、ハディスの手から腕へとつきまとうように槍がからみついていく。ゆうかいした黒い靄は、やがてジルの目の前で女の形になって、ハディスのほおに手をばした。

 まるでこいびとにすりよるように。

「あなたには、私しかいないのよ」

 背後からジルはその黒い女の首をつかんだ。

 目も何も判別できないそれと、はっきり視線をかわす。告げるのは一言だけだ。

「うせろ」

 魔力をこめる。

 ぱんと派手な音を立てて黒い女がれつし、床に黒いみを落とした。だがその染みもすぐに蒸発するようにしてかき消える。

「いなくなった?」

 矢をかまえたままカミラにたずねられ、ジルはうなずく。

「気配は消えました。……陛下、手にをなさったのでは」

「どうして助けた? 君がかばわなければ殺せた」

 ハディスの冷たい声と目に、ジルは気絶したスフィアを抱く腕に力をこめる。

「スフィア様は何者かに操られていました。本人に罪はありません」

「そういう問題じゃない。あれはこうかつな女だ。今だって彼女の中にひそんでいるかもしれない」

「スフィア様を傷つけずとも対処する方法をまず考えるべきです!」

「それを判断するのは僕だ、君ではない」

「ならせめて事情を説明してください! さっきのはなんですか。あの黒いやりは? がみクレイトスのせいそうですか」

「説明する必要はない。いいからスフィアじようはなせ、こうてい命令だ。苦しませはしない」

「では、さっきの者がりゆうていの妻だと名乗ったのはどういうことですか? わたしを偽者だとも言いました。あなたの妻は、りゆうは、わたしのはずです」

 ハディスは眉ひとつ動かさなかった。それどころか、ジルを見てすらいない。にくにくしげにただ、あの槍が消えたあとめつけている。だからジルは大声を出した。

「わたしは聞く権利があるはずです、陛下!」

「……まさかうわをとがめるようなことを言われるとは思わなかった。僕を愛してもいない君から」

 返答につまったジルに気づいているのかいないのか、ハディスは一歩離れた。

「まあいい。あれの動きをふうじるのが先決だ。カミラ、ジーク。君たちは引き続き僕の妻の警護を。ミハリ、いるか」

 呼びかけに扉の向こうからミハリが姿を現す。

「北方師団に命令だ。ベイルブルグの女性をすべて城に連行しろ、今すぐに」

「は、はい?」

「町にはふれを出せ。女性にとりつく化け物が入りこんだ。特に十四歳以上の女性に気をつけろ。もし暴れたらそくに殺せ。……女神のうつわに適合する女性など、ラーヴェにいるとは思えないが、復活されたらやつかいだ」

 小さなハディスのつぶやきに、ジルは息を吞む。

 本来の姿にもどれなくなった女神クレイトス。その女神が目覚めたのは十四歳だ。それらがただの神話ではなく事実をなぞっていたとして、りゆうじんと同じように女神も生まれ変わるのだとしたら、ラーヴェにハディスがいるように、必ず女神にも人間の器がいる。

(竜神が実在するんだ。なら、女神だって実在してもおかしくない)

 狡猾な女。ハディスは確かにそう言った。それは存在を認めている言葉だ。

(つまり、十四歳未満というあの条件は……)

 ──女神が器にできない、決して女神にはならない女性。女神をはじくための条件だ。

「例外はいつさい認めない。こばめば反逆罪とみなす。名目はなんだ。僕の結界内でかんする。スフィア嬢もそこへ」

「陛下、そんなことをしたら住民の反発を招きます! ただでさえ、のろいだなんて言われているこんなときに!」

「だからなんだ。殺さなければ文句はないだろう。これでも君にじようしたつもりだよ。僕は妻にはひざまずくと決めているからな」

 反論を許さない声で言い切って、ハディスはきびすを返す。

 あのぎやくさつを命じた戦場と同じだ。金色のひとみはもう、ジルなど映していない。



「何がっ、妻にはひざまずくだ、あの鹿夫!! 話をする気すらないくせに……!」

 ひとり、しんだいの上でジルはやわらかいまくらを振り上げてはおろす。八つ当たりだとはわかっていても、腹の虫がおさまらない。

 時刻は深夜だ。ハディスはあれきり、夕食時も姿を現さなかった。住民の避難としようして深夜にもかかわらずみないそがしく走り回っている。それらの作業に、ジルは一切かかわらせてもらえなかった。スフィアもハディスが決めた保護先に連れて行かれてしまった。

(……いやな予感がする。っていうか嫌な予感しかしない)

 枕を抱いたまま、横に転がった。何かあったときのため、は着ていない。

 呪いだか女神だか黒い槍だか、ともかく今、何かがこちらをめてきている。ハディスの言葉を信じるならば、十四歳以上の女性にとりついて操れるらしい。

 それゆえに、ハディスの策は単純明快だ。ひとまず目につく女性を全員城に閉じこめて、監視するというのである。

(……でも黒い槍のまま動いてたよな? つまりあれは魔力のかたまりで、人にも取りつくが、意思を持ってるんじゃないのか)

 意思を持った武器なんて、どう考えても女神クレイトスの聖槍ではないだろうか。

 だとすれば、竜帝の妻だなどと言い放ったことも頷けるものがある。

「女神クレイトスと竜帝ラーヴェはふう神になるはずだった、というあのぞくせつは正解だったわけか……つまり、わたしはそれに巻きこまれているわけか?」

 かんべんしてほしい。長いため息が出た。だが、ハディスにまとわりつくあれを追いはらったのはジルなのだ。手を出してしまった以上、確実に敵としてにんしきされただろう。

(早まった。なんでわたしはもう少し、考えて動けないのか……)

 ──僕を愛してもいない君から。

 そのとおりだ。なのにどうして手を出した。ただスフィアを助けるだけで、ハディスがあの黒い何かを追い払うのを見ていればよかったのだ。

 それなのに──そこから導かれる結論なんてひとつしかないではないか。

(ちょっと冷静になろう、自分。どこがいいんだ。血をいてたおれるし、周囲の評判や男性としてのたよりがいだけなら、ジェラルド王子のほうがいいぞ。嫌だけど)

 でも、料理がおいしい。うさぎのりんを作ってくれた。とうされてもジルの希望をかなえてくれた。愛を求めてくれた。

 部下ではない、本当の夫婦になろうと、願ってくれた。

(……つまりわたしは、期待しているのか)

 今度こそ、利用されたままで終わらずに、おたがいに助け合い支え合うような、こいをできるのかもしれないと──このじようきようになっても。

「……そういえば、助けてもらった礼を陛下に言いそこねたな」

 手の怪我はだいじようだろうか。ちゃんと手当てしたのだろうか。そう考えると落ち着かなくなってきた。

 まず話をするべきだ。それが無理でもせめて、礼くらいはしよう。そう思ってジルは起き上がる。ハディスがもう休んでいたら、引きさがればいい。

 何より、自分の気持ちを確かめたい。でなければ結論が出せない。

 いつもの上着を羽織り、しんしつの大きなとびらを押し開いたら、その先にひとかげがあった。

「陛下?」

 目を丸くしたジルと同じくらいおどろいた顔で、ハディスが息をんで固まっている。どうも寝室の扉の前にっ立っていたらしい。

「……どうしたんですか」

「……き、君こそ」

「だー何やってんだよ、よかったじゃねぇか嬢ちゃん起きてて! ほらいけ謝れ!」

 いきなりハディスの背後から飛び出たラーヴェが、その後頭部をべしっと尻尾しつぽたたいた。

「謝れって……僕の判断はちがってない」

「いいから謝るんだよ、こういうときはなんでもいいからまず謝っとくんだよ! お前、顔はいいんだからふんでごまかせ!」

 それを本人の前で言ってどうすると思ったが、ハディスはふんとそっぽを向いた。

「そういうの、どうかと思うな僕は。感心しない」

「お前、いいところは顔だけのくせにいまさらまともぶるな!」

「失礼な、僕はずっとまともだ。だから僕は悪くない」

「……で、つまり何をしにいらっしゃったんですか」

 ジルの一言にハディスがひるんだ顔をした。ハディスのかたの上でラーヴェがたんそくする。

「俺には強気で言い返すくせになー……嬢ちゃんを前にするとこれだよ」

「うるさいラーヴェ。……僕は、悪くない。間違ったことは言ってない。でも」

 皇帝らしい冷たい目をしていたハディスのまなじりが、いきなりさがった。

「……君に、きらわれるのは…………………………。……だったら君はどうなんだ!?」

「今度は逆ギレかよ……」

「……。陛下、手を見せてください」

 らちがあかないと、ジルはひとりで百面相しているハディスの左手を取った。ジルを守るために黒いやりをつかんだ手のひらには、はっきりとやけどのあとがあった。

「手当てはなさったんですか?」

「べ、別に痛くないし……明日あしたになれば治ってる」

「そういう問題じゃありません。痛くないわけないでしょう。──れいな手なのに」

 低く告げたジルに、どこかそわそわしていたハディスがぴたりと動きを止めた。

「……。お、おこってる……の、かな?」

「せめてなんこうりましょう。あと、包帯も一応……中に入ってください」

 扉をあけて、部屋の中へと手をひく。だがハディスは動かなかった。

「……今は、やさしくしないでくれ。どうしていいか、わからなくなる」

 あげく、ハディスが弱ったように言うものだから、かちんときた。

「でしたら陛下も軽々しく謝りになんてこないでください」

「あ、謝りにきたわけじゃない。ただ……」

「ただなんですか、こうていなら皇帝らしくつらぬいてください。……大体、陛下はいつも、わたしに嫌われたくないとか好かれたいとか、まどわすようなことばかり……!」

「ま、惑わす? 君を? ちょっと待て、話がよくわからな──」

「何が僕を好きになってくれですか、ふざけないでください。わたしが気づいてないとでも思っているんですか。──お前は、わたしの名前を呼んだこともないじゃないか!」

 ハディスが金色の両目を見開いた。肩で息をしたジルは舌打ちしたくなる。

 形だけの夫婦。その一線をどちらがえたがっているのか、これではわからない。

 ちんもくを破って頭上から聞こえた声はラーヴェだった。

じようちゃん、それは──」

「ラーヴェ、やめろ。いいんだ」

 そのさとった物言いにジルはかっとなって、そらしていた顔を向ける。けれど、ハディスの顔を見て、勢いをなくした。

「……君は正しい。僕なんて、好きになるな。僕だって君を好きになんてならない。──そんなもの、ごくの始まりだ」

 ジルの目の前から、ハディスが一歩さがる。それはきよぜつではない、と思った。

 彼の夢の幕引きであり、現実の幕開けだ。

「皇帝陛下! おられますか!?」

 ろうに飛びこんできた兵士の声と複数の足音に、ハディスが体ごと向きを変えた。

「どうした、こんな時間に」

「ベイルブルグの町から火があがっております。風の勢いもあって火の回りが早く、しかも一部の住民が皇帝陛下ののろいだと、暴動を起こしてこちらへ向かっています」

「北方師団を消火にあたらせろ。だが、城門はおろしたままだ。決して女性たちを出すな」

 おくれて顔をあげたジルは、兵士の顔に見覚えがないことに気づく。いやそれ以前に、ここの階のじゆんかいはミハリだ。なぜ、彼より先に──と思ったそのとき、ひとりが後ろ手にかくし持っているたんけんに気づいた。

「陛下! そいつらは」

「ラーヴェ、彼女をたのむ」

 ジルがばした手の先に、見えないかべが立ちはだかった。同時に、ジルの目でもとらえきれない速さで、ハディスがこしけんく。

 気づいたときには三人、られてゆかに転がった。

「ひっ……の、呪いだ、やっぱり皇帝の呪いだ!」

「い、いいからげろ、女達をさがすのが先だ……!」

 おののいた残りが逃げ出す。ハディスは追わずに、剣を持ったままつぶやく。

「まだ生きているのだから、いつしよにつれて逃げてやればいいだろうに。……なんでもかんでも呪いと言えば、便利だな」

「……返せ」

 ハディスの足を、たおれた男がつかんだ。ハディスは無表情でそれを見おろす。

「妻を……生けにえになど……させな……」

「保護だと説明したはずだが。まあ、呪われた皇帝の言葉など信じる理由はないか」

 素っ気なく言って、ハディスは男の手をり払う。やっとさわぎに気づいたのか、ミハリが廊下の曲がり角から飛び出てきた。

「皇帝陛下、今、悲鳴が……っこ、これはぞくですか!?」

「おそらく町の住民だ。女性たちを取りもどしにしのびこんできたんだろう──町に火がついているというのは本当か?」

「えっあ、はい! あと……その、住民が城に向かってきておりまして……陛下はジル様をつれてなんされたほうがよいのではと」

「そういうわけにはいかないだろう。彼らがねらっているのは僕の首だ」

 うすく笑ったハディスに、ミハリが言葉をつまらせる。

 皇帝の顔だ。見る者すべてをとうすいさせ、させ、ひざまずかせる姿。

「妻は安全な場所に逃がした。暴動を止めるのは僕の仕事だ」

「と、止めるとは……それは……」

 ハディスは答えない。血でよごれた廊下をくつぞこみつけ、歩いていく。

 青ざめたジルはさけんだ。

「陛下! ──ミハリ、カミラとジークは!? 皇帝陛下を止めてください、このままだと陛下は……ミハリ?」

 ぎゅっとくちびるを引き結んだミハリは、ジルの声など聞こえないかのように、たおれた三人の出血具合を確かめ、武器を取りあげて廊下のすみしばる。そして、そのままハディスを追っていってしまった。

「聞こえねぇよ、嬢ちゃん。だってここは世界一安全な、りゆうじんラーヴェ様の結界の中だ」

 背後から聞こえた声に、ジルは振り向く。

 空中にふわりとき上がる光りかがやく竜神は、困り顔で言った。

「ごめんな。俺達は、嬢ちゃんを失うわけにはいかないんだ」

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