第三章 ベイルブルグ軍港奪還戦

「ほら泣かない泣かない。このお兄さん嫌みっぽくて上から目線でだけど、ただのツンデレで難しいこと考えられないからたてに便利よ!」

「オイ、本気でり捨てるぞ、そこの男女」

はちの巣にしてやるからそこ座れ」

「ほぉ、手をしばられたこの状況でどうやってだ?」

「それはてめぇも同じだろうが、このせんとうきよう

 六年後と同じようにけんを始めたふたりに、ジルはあきれる。喜びをみしめている場合ではないと、顔をあげた。

 今のふたりは部下ではないから、命令はできない。だが、スフィアがさっきから脅えてこうちよくしている。

「やめてください、ふたりとも。スフィア様が脅えています」

「フン、それがどうした。ガキはだまって──」

 すっと立ちあがったジルは、自分の両手首にはめられたてつかせをその場で引きちぎった。

 しんとその場にせいじやくが満ちる。

「まずおたがいの情報をすりあわせましょう」

「おい待て、すずしい顔で何をやったお前!? 手品じゃないだろうな!?」

「……りよくを持ってるのね、あなた。ってことはクレイトス王国からきたのかしら?」

 冷静なカミラに、ジルは正直にうなずく。

 ラーヴェていこくで魔力を持つ人間はそう多くない。逆説的に魔力を持った人間はクレイトス王国出身が多い、ということになる。

「おい……ってことはこのガキ、例の」

「あなたたちは、北方師団に勤めている兵士であっていますか?」

 ジークとカミラ、そしてまだ目を回している見張りの兵士の制服を見て、ジルはかくにんする。

「そうよ、なりすましじゃなく本当の兵士。このさわぎ、北方師団もやばいやつよねェ……あなた、今どういう状況かわかる?」

「敵は北方師団の兵士になりすましてせんにゆう、軍港をせんきよし、ベイルこうしやく家のスフィアおじようさまひとじちにしたところまでわかっています。そうですよね、スフィア様」

「は、はい。あ、私、スフィア・デ・ベイルと申します……」

 ジルに確認を求められ、スフィアが頭を軽くさげる。カミラがジルを見て笑った。

「ちっちゃいけどしっかりしてるじゃない。でも、アタシたち北方師団をきらってるベイル侯爵のお嬢様が、北方師団が警備する軍港でてきしゆうに巻きこまれて人質ね。あらやだ、んでる」

「つ、詰むって。これは、クレイトスからきた女の子の手引きだって……」

「そこからあやしいだろうが。ぞくを手引きしたっていうガキを賊がさがしてるんだぞ。そこの見張りの話を信じるなら、だがな」

「ど、どういうことですか」

「う……」

 スフィアの疑問に答える前に、ゆかに転がったままの見張りの兵士が身じろぎする。目をさましたらしい。

「ここ……は……はっ、あの女の子はどこに!? どうして上着だけになって!?」

「あらいいタイミングで起きたじゃない。見張りクン、アタシたちのこと覚えてる?」

「あ……はあ、あなた方は騒ぎを聞きつけて、助けにきてくれた……」

 見張りに顔を見られないよう、ジルはそっとスフィアのとなりに移動した。

「あの……つまり、どういうことですか? 私達をここに閉じこめた賊達が、手引きした女の子をさがしてる……?」

「起こり得る結果を考えれば簡単よ。しゆうげき者はまず北方師団になりすまして入りこみ、ベイル侯爵のお嬢さんを人質にとって、軍港に立てこもった。きっとベイル侯爵家の私軍が動くでしょうね。ここまではお嬢様でも戦闘狂でもわかるわね?」

「余計な一言をつけないと説明できない病気か、お前は」

「で、見事ベイル侯爵の私軍が賊をち取ったら? 役立たずの北方師団は価値なしと判断されて、ベイルブルグから引きあげることになる。しかもこうてい陛下の連れてきた子どもが手引きしたなら、北方師団の失態もあわせて陛下の大失点よ。こうしやくれいじようが死んだ日には、しばらくはベイル侯爵の天下になるかもね」

 さっとスフィアが顔色をなくした。ジークがそれを鼻で笑う。

むすめは尊いせいか。お貴族様が考えそうなことだ。……胸くそ悪い」

「同感。でもそれが侯爵の立派な働きによるものならまだいいのよ。問題はそこじゃない。アタシたちが見張りクンの悲鳴を聞いてけつけたとき、なんきん部屋の中にみつていの女の子はいなかった。敵もおおあわてで、見張りクンに女の子はどこだってたずねてる有様だった。そうよね?」

「は、はい。敵は私にいったいどこへ行ったのかと何度も尋ねて……ですが私もさっぱり、気づいたらこの状態で」

 ジルの上着をひろげて、見張りの兵士が首をかしげる。カミラがかたをすくめた。

「つまり女の子の手引きは敵のうそなんでしょ。でも、女の子が手引きしたと噓をついても賊になんの得もない。つまり賊のうしろにだれか指示をした人間がいる。なら誰が賊を手引きしたのかしら。この場面で、最後に得をすることになっているのは……?」

「お父様……」

 呆然とスフィアがつぶやく。ジークが「言い方」とくつの先でカミラをいたが、カミラは意味深に笑うだけだ。見張りの兵士が、何度かまばたいて確認する。

「では、我が北方師団も利用されたということですか?」

「今日はやたら警備がうすだった。つまり、貴族のぼつちゃん方は買収されたんだろうよ。残ってるのは後ろだてのない平民組ばかり。内部から見れば、あからさまにてきだ」

「今は例の女の子が見つからないって騒ぎで、アタシらみたいにつかまるだけですんでるかもしれないけど、いずれそっちも殺されるでしょうね。生かしておく理由、ないものねー」

 ジークとカミラの言に見張りの兵士はうなだれる。どっかりと座りこんで、ジークが声をあげる。

「ベイル侯爵の軍がきたどさくさで国外とうぼうでもするしかないな」

「こ、皇帝陛下に事実を申しあげればいいのでは!?」

「無理よ。見張りクン、こんなびんぼうくじ引いたってことはあんたもアタシたちと同じ平民組でしょ? 誰が聞いてくれるの。北方師団の死体に参加するだけよ」

「わ……私が、聞きます」

 スフィアの言に、ジークとカミラが静かな目を向けた。それは貴族という特権階級に対する疑いのまなしだ。人のよさそうな見張りの兵士でさえ、不安げにしている。

「だから助けろってなら無理な話だ、お嬢様。このじようきようじゃ俺達も生き残るのにいつぱいでね」

「そ、そうではありません。みなさんは、どこかにかくれてください。こ、国内がだめなら国外でもいいです。わ……私は、そう、皇帝陛下のお茶友達ですから」

 目を丸くする三人に、つっかえつっかえ、スフィアが説明する。

「私はそう簡単には殺されないはずです。密偵の女の子が見つからないならなおさら、がいしやである私の証言が必要でしょう。どうにかして、事実を皇帝陛下に伝えます。陛下はこんなこと、捨て置く方ではないです」

「でもねえ、北方師団のおとがめはまぬがれないでしょ。蜥蜴とかげ尻尾しつぽ切りもありえるわ」

「でも、ちゃんと話せばわかってくださる方です。誰も、あの方と話そうとしないだけなんです。私がお話しして、皆さんは何も悪くないことをわかってもらいます。ですのでげる際は、私を置いていってください」

 誰が見ても無理をしているとわかる顔で、スフィアが微笑ほほえんだ。

 ジークとカミラが、息をむ。見張りの兵士も両目を見開いていた。

 スフィアは、自分が足手まといだから置いていけと言っているのだ。

(……ああ、ひょっとしてジークとカミラがラーヴェ帝国を捨てた原因は、彼女か)

 あの六年後の世界で、スフィアは死んでいる。多少事件の中身は変わっているだろうが、北方師団の失態をねらってベイル侯爵が何か事件を起こしたのだろう。ジークとカミラはそれに巻きこまれた。ふたりともさといから、ベイル侯爵のきようげんを疑ったにちがいない。そして、けいはどうであれ、スフィアは今と同じようなことを言ってふたりを逃がした。

 だが、彼女の言は父親に受け入れられなかった。それどころか、皇帝陛下のこんやく者候補を殺して回るという罪を着せられ自死させられたのではないか。あげく自分で殺しておきながら娘は無実だと責任をとれとこうがんにベイル侯爵が言ってのけたなら、ハディスがベイル侯爵家の断絶というれつな制裁にまでみ切ったのも理解できる。

 そのあとジークとカミラはクレイトス王国でようへいになり、ジルと出会った。つまりふたりはラーヴェ帝国にもどらなかったのだ。ふたりともクレイトス王国にきた経緯をあまり語らなかったが、もしこれが原因なら当然だろう。

 自分達を無事逃がすためにたったひとり残った少女が、めいを着せられて死んだ。助けることはできなかった。そんな話、自分が情けなくて口にしたいものではない。

 ただの想像だが、そうはずれていない気がした。

「そんなことをしなくても、全員、助かる手はあります」

 全員がジルを見た。ジルは見張りの兵士に声をかけた。

「見張っていた女の子の顔を覚えてますか?」

「わかります。あっ──わかりました、その子をさがして証言してもらう!?」

「さがす必要はありません」

 かぶっているぼういだ。ピンを引きいて首をると、かみが流れ落ちる。見張りの持っている上着をうばい取って、そでを通した。

 ぽかんとそれを見ていた見張りの兵士とスフィアが、同時にさけんだ。

「あー!? ど、どこに逃げたのかと思ったら!」

「あ、あの、あのときの、ハディス様がつれてきた女の子……!」

「やっぱりね、女の子だと思った」

「まあそうだろうな。クレイトスからきたガキがそう何人もいるわけがない」

 ジークとカミラはおどろくよりもすっきりしたという顔だ。

 ジルはぐるりと周囲を見回す。

「ジル・サーヴェルといいます。お察しのとおり、わたしがみつていあつかいされてる子ども。つまりわたしもあなたたちと同じ、はめられた側です。でも、敵はまだわたしに気づいていません」

 ジルは座りこんでいるジーク達に振り返る。ぎりぎり、見おろす目線の高さだ。

「これは勝機です。策も単純明快でいい。とらわれているほかの兵士たちを助け、スフィア様を守り、賊から軍港を取り戻します」

「……被害者のスフィアお嬢様を助け、軍港を取り戻すことであなたの密偵わくを晴らすってわけね」

「それだけではありません。ベイルこうしやくの私軍がくるまでにスフィア様を守って軍港を取り返せば、北方師団も汚名返上ができるでしょう。その状況なら誰がわたしに密偵疑惑をかけようとしたのかも、必ず問題になります。そうすればベイル侯爵も簡単にもみ消すことはできません。──ですがスフィア様、かなめはあなたです」

「は、はひっ?」

 スフィアがどうようしきった声をあげた。ジルはスフィアの前でかたひざをつき、大きなひとみをじっと見すえて、言い聞かせる。

「どんな原因であれ、あなたが死ねば、そこを必ずベイル侯爵はついてくる。だからわたしは、あなたを守ります」

「あ、あなたが、私を、ですか……?」

「はい。ですがあなたには、お父上を告発していただくことになります」

 さっとスフィアの顔が青ざめた。

「できますか。できなければあなたもいずれ、始末されます」

 できないなら、スフィアを助けても無意味だ。かくを決めてもらわねばならない。

 スフィアは取り乱さなかった。そうな決意をした顔で口を動かす。

「ひとつだけ……かくにんしていいですか」

「わたしで答えられることであれば」

「ど、どうして私を助けるんですか? 私はあなたのこいがたきのはずです!」

「わたしは今のところ陛下にこいをする予定がないので、スフィア様の恋敵ではありません」

「えっ」

 スフィアのほうがほうけた顔になった。

 ここのしこりをのぞいておかねばあとあとめんどうになるので、ジルはていねいに説明する。

「わけあってこんやく……というかもう結婚したようですが、それはそれ、これはこれです。形だけのふうです。れんあい感情はたがいにありません。むしろこうてい陛下がわたしに──十歳の子どもに恋愛感情があったら問題では?」

「じゃ、じゃあハディス様は……何か深い事情があって、あなたを……?」

 そういうことにしておこうと、はっきり答えずにす。カミラが笑い出した。

「か、形だけの夫婦って、最近の子どもはすごいこと言うのね!?」

「おい。ならお前が皇帝陛下にじきしても、信じてもらえないんじゃないのか」

「そ、そうです。あなたがハディス様を裏切る可能性だって……」

「形だけであっても、互いにそれぞれを選んで夫婦になった理由があります。皇帝陛下はわたしを手放さないはずです」

 のろいをふせぐため、ハディスにはジルが必要だ。ジルはジェラルドとの婚約をかいするためにハディスが必要だ。

「それに、しあわせにすると約束しましたので」

「……ハディス様を?」

「はい。ですから、わたしはスフィア様と同じ、陛下側の人間です。それを信じていただけませんか」

 スフィアは苦痛をこらえるような顔でだまる。迷わせてやれる時間はあまりない。

 だが、ジルは待った。ジークもカミラも、見張りの兵士もせかさない。

 父親を告発するのだ。それが正しい行いだとしても、かつとうがあって当然だ。ここで迷わない人間のほうが信用ならない。だが、決断できない人間も助けられない。

 そしてスフィアは、重い決断から逃げなかった。

「あなたを信じます、ジル様。私はお父様を……告発します」

 ならば、ジルはその決断の重さにこたえられる人間でありたい。

「わかりました。わたしがあなたを全力でお守りします。──あなたの勇気に敬意を」

 胸に手を当てて、の礼をする。スフィアはほおを赤くそめて、何度もまたたいた。

「ふ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

「おい、本当に十歳のガキか? しかも男じゃなく女?」

「男女もねんれいも関係ないわよ。ああいう手合いは生まれつきだから」

「では行動を開始しましょう。時間がありません。ベイル侯爵の私軍が着くまでにカタをつけなければ、がらを横取りされかねないので」

 背後でひそひそ言っているのは放置して、まずスフィア、そしてジーク、カミラ、と順番にかせで引きちぎる。

 自由になった手を見て、感心したようにジークが言った。

「ガキでもこんなに簡単に鉄を引きちぎるのか。聞いてはいたが、りよくあなどれんな」

「そんなわけないでしょ、この子ちょっとおかしいって」

「こ、皇帝陛下の婚約者にその言い方はまずいのでは……」

「そういえば、まだあなたの名前を聞いていませんでした」

 くさりに手をかけたジルに、見張りの兵士が不思議そうな顔をしたあと、おずおず答えた。

「さ、先ほどからカミラ殿どのに呼ばれてるとおりであります……ミハリ、と申します」

「え」

「……うそから出たまことってやつだな」

「も、もしかして知らずに呼ばれていたのでありますか!? なぜ……あ、見張り!?」

 見張りクン、もといミハリが情けない声をあげる。それを聞いてスフィアが少し笑った。

 立ちあがったジークがじゆうなん体操をしながらつぶやく。

「それで、どうするんだ。武器はちゆうで奪うとしても、これだけの戦力ではしゆうをかけてげるのがせいぜいだぞ」

「まずここを出て、わたしたちと同じようにらえられている北方師団を解放、戦力になってもらいます。どこか一カ所にこうそくされているか立てこもっていると思うのですが」

 ばっとミハリが自由になった手を垂直にばした。

「わ、我々以外の兵は聖堂で拘束されていると聞きました! ただ、負傷者が多いとも聞きましたが……」

「戦力にならなさそうよね。やっぱりアタシたちだけで逃げたほうがよくなぁい?」

「北方師団を見捨てるべきではありません。さかうらみされて、あとからわたしたちがみつていでスフィア様がだまされているのだと言われでもしたらやつかいです」

 北方師団と協力し、全員でスフィアを守ったのだという認識が必要だ。すずしい顔で告げるジルにジークとカミラが顔を見合わせる。

「策があるなら、まぁいいけど」

「のりかかった船だ。お手並み拝見といこうか」

「では、ミハリは案内をお願いします。ジークとカミラはスフィア様の護衛を」

「かまわんが、お前の護衛はどうするんだ」

 きょとんとジルはジークを見返した。うわあ、とカミラが痛ましそうな顔をする。

「完全に自分は対象外っていうこの顔……。しゆ慣れしてるんだろうけど、クレイトスではこんな子どもまで魔力があれば軍属させるの?」

「そういうわけではありませんが……その、家の方針で。あの、心配しなくてもわたしは」

「確かにお前には魔力がある。お手並み拝見とも言った。だが、まだ子どもだろうが。策だけ言えば俺達がやってやる。下手に目立って敵に目をつけられたら、足手まといだしな」

 素っ気なくジークに言われ、カミラに頭をなでられ、ミハリに何度もうなずかれた。

 どうしたものかと思っていると、スフィアに手をつながれる。

じやしないでおきましょう」

「そうよぉ。それに敵の情報にだまされることなく未来の皇后を守ったとなれば、アタシたちの功績として評価されるんだから」

 スフィアとカミラの言葉に、ジルは自分の立場を考え直す。確かに、北方師団にスフィアだけではなくジルも守ったという功績をあたえるのはありだ。

 それに、ジークとカミラの実力をジルは疑わない。

(ふたりの魔力の開花訓練したのはわたしだからな……その点だけカバーすればいけるか?)

「……では、お言葉に甘えてたよらせてもらいます」

「ふん。最初からそう言ってればいいんだ。──さて、まずどうやってだつしゆつするかだな」

「ただし、かべはぶち破りますね」

 固まったスフィアの手をはなし、ジルは倉庫の壁に手をれる。カミラがあわてた。

「えっちょっと本気? そんなことできちゃうの? まっ──」

「時間がないので、泣き言はあとで」

 右こぶしを魔力といつしよに思い切り壁にたたきつける。いつしゆんせいじやくのあと、ものすごい音を立てて倉庫の壁がほうらくした。

「ちなみにわたし、おにぐんそうと呼ばれていたことがあります」

 お前たちに、という言葉は持ちあげたくちはじかくす。

 敵の悲鳴とごうがあがる中で、ぼうぜんとしているみなにジルはり向いた。

「皆さんの働きに期待します。だいじよう、死なない程度にフォローしますから」


   ***


 外がさわがしいと、他人ひとごとのように彼は思っていた。

(どうでもいい。人生、終わった……皇帝陛下が無能だったばっかりに)

 どうも、皇帝陛下のつれてきた子どもの手引きでぞくが軍港に入りこみ、あろうことかせんきよされてしまった。こうしやく家のれいじようひとじちになったらしい。これはもう、せいえいうわさされるベイル侯爵の私軍が出てくる。

 助けがくるという希望はあまり持てなかった。軍港の占拠に加え、侯爵家の令嬢が死にでもしたら、北方師団の責任がついきゆうされる。真っ先に処分されるのは下っの自分達だろう。

 北方師団はていこく軍だ。学もなく技能もない、ただ若さと体力だけがまんの自分ができる仕事のなかで、一番給料がよかった。家族に多く仕送りができたら、それでよかった。こんなめいな死に方をするのは、ただ運がなかっただけだろう。

 いや、本当は不自然に思っているけれど──どうして捕らえられているのは、平民出身ばかりなのだろう。いつもお前らとはちがうのだとお高くとまっていた貴族連中は、どこへ行ったのだろう。

 でも真相を知ることはないのだろう。そういうことは、ある。

 もし自分が生き残ったとしても、のろわれた皇帝陛下め、帝国はもうだと飲んだくれながらかげとうするくらいしかできない。

 結局それが、自分のような人間にはお似合いの人生なのだろう。

 そう思っていたから、聖堂のてんじようがあいたとき、目を疑った。ましてそこから例の密偵だという少女が飛び降りてきたときには、声も出なかった。

「おま、どこからっ──!?」

 中を見回っていた敵のふたりのうちひとりが、壁にぶん投げられて気絶する。それをぽかんと見ていたら、とつぜん後頭部をつかまれて体を折り曲げられた。その上を、もうひとりの見回りのけんがはしる。助けられたのだ、と気づいたときは、その見回りも腹部にりを入れられてひざからくずれ落ちていた。

「助けにきました」

 それはこんなじようきようだからこそ、腹の底までしみる、救いの言葉だった。

 ぶちっと音がして、紙のようになわが引きちぎられた。小さな手を差し伸べられ、ようやく自由になった上半身を起こす。

 まだ子どもだった。けれどりんとしたまなしが、うすぐらい聖堂の中で強く自分をく。

「今から四人、聖堂に入ってきます。そのうちひとりは、ベイル侯爵家のスフィア様です」

「た……助け出したのか?」

「はい」

「でも、君は……みつていの少女なのでは」

「ジル・サーヴェルと言います。こうてい陛下の命によりあなた方を助けにきました」

 今まででいちばん大きくざわめきが広がった。

「まさか、皇帝陛下が?」

「あの呪われた皇帝が、人を、しかも平民の俺達を助けるなんて鹿な……」

「これはベイル侯爵による自作自演のしゆうげきです。北方師団をおとしめ、皇帝陛下のばんを崩すためのわなです。スフィア様はそうとは知らずこまにされました。わたしは、密偵わくをかけられています」

 ですが、と決して大きくはないがよく通る声で、彼女は語気を強めた。

「このようなれつ真似まね、決して許されることではない! いや、許してはならない!」

 それは少女の声ではない。上に立ち、導く者の声だった。

「動ける者はスフィア様を聖堂に保護だい、バリケードを作れ! 負傷兵、貴君らの傷は名誉の負傷だ、じることはない! 全員、帝国のため、皇帝陛下のおんために戦っていることを忘れるな! 軍港は我らの手で取りもどすぞ──総員、せんとう準備!」

 背筋をばし形ばかり覚えた敬礼を、皆が返す。

 初めて北方師団が敵に立ち向かうという姿勢を見せたしゆんかんだった。



 りよくを感知して、ハディスは顔をあげた。軍港のほうだ。

「ハディス! ハディス聞けよ、よめがおもしろすぎる!」

 ジルを見にいくようにたのんだ相棒が、ちゆうぼうの壁をすりけて現れる。

 げらげら笑っているその姿にはりゆうじんげんもへったくれもなく、生クリームの加減を見ていたハディスはつい冷めた目を向けた。

「彼女を守れと僕は言わなかったか? こうしてかんげいの準備もしているのに」

「だっていらねーって言われたし。すげーよ、実際いらねーわあれ。自力で脱出して俺が見つけたときには聖堂で敵と交戦してた」

 思わぬ返答に、ハディスは生クリームをあわてる手を止めた。

「は? 交戦? なぜ彼女が?」

「今は手が離せないから、お前のとこに戻れって言われてさー竜神をじやものあつかいだぜ!」

 ひいひい笑ってラーヴェがかざり用に切っておいたももを一切れ、勝手に食べた。

「んーうまい。何作ってんだよ」

「桃のムース。つまみ食いをしてないで答えろ。どういう状況なんだ?」

「スフィアじようちゃんは聖堂で守られてる。生き残ってる北方師団が、嫁の指揮でがんって敵を押し返してるぜ。軍港を取り戻すんだってさ。すげーすげー」

「軍港……それを本気で言ってるのか、彼女は」

「本気で言ってるし、やってるな」

 あれだけの魔力を持っていて戦えるのだから、自力脱出くらいは想定内だ。だが軍港を取り戻すなんてことまでは期待していなかった。

「皇帝陛下の御為にって演説ぶちかましてんの。北方師団、お前が自分達を助けるために嬢ちゃんをよこしてくれたって信じてるぜ。お前の株、嬢ちゃんにつられて爆上がり中」

「……だから全部助けろってことか。なんてぼうなことを考えるんだ……」

 あきれつつも、ハディスはムースと生クリームを混ぜ合わせながら考える。

 これで北方師団の面子メンツも立つ。ハディスだけではどうにもしてやれない、スフィアを助ける道筋も見えてきた。

「襲撃してきた連中にげられる可能性は? 町へのがいは出るか?」

「軍港内で暴れてるだけだから被害は出てない。嬢ちゃん、あちこちぶっこわして退路を断ってるな。そうそう、港にあった船もぶっ壊してたぞ」

「襲撃者をらえて、ベイル侯爵の言いのがれをふせぐためか。僕のお嫁さんがゆうしゆうすぎる」

 めい返上どころか、功績まで立てるところまで視野に入れているのだ。それなら軍港を占拠されたことも、北方師団の失態ではなく作戦のひとつだったと言い張れる。

 さらに、ベイル侯爵が裏で糸を引いているところまで引きずり出せたら。

(スフィア嬢を連れて逃げてくるくらいは考えていたが……想像以上のいつざいだ)

 だが、いったいどれだけのかいが行われたのか。その損害額を試算しようとして、ちゆうでやめた。

「再建費用はベイル侯爵家からしぼり取ろう。一家断絶よりはましなはずだ」

「お、じゃあ丸くおさめられそうか?」

「丸いかどうかは知らないが、落としどころはある」

「よかったな」

 ムースを型に流し入れていたハディスは、意味がわからずまばたく。

「これでスフィア嬢ちゃんも北方師団もベイル侯爵家も、全部あきらめて見捨てたり殺したりしなくていいってことだろ。きよう政治せずに、みんなにきらわれない皇帝陛下になれるかもな」

 びっくりして目が丸くなってしまう。おくれて、そわそわした気持ちがこみあげてきた。

「……つ、つまり僕は……みんなに好かれる皇帝陛下になれる、のか……!?」

「いや、そこまで言わねーけど。でもいい嫁じゃねーか。案外、ほんとにお前をしあわせにするかもなぁ」

「や──やめてくれ、そんな」

 いきなりはねあがった心音に、口元をおさえる。

「き、気分が悪く……み、水……」

「あぁうん、おめーもその残念さをどうにかしような……ふられるぞ」

「し、心臓に悪いことを言うんじゃない。なぜそうなるんだ」

「だっておめー、今のとこなんにもしてねーじゃん」

 動きが止まったせいで、かたむけた水差しからぼたぼたとエプロンに水がこぼれていく。

「おいこぼれてる! タオルタオル、れたら風邪かぜひくだろーがお前は!」

「……い、いや、僕は桃のムースを作っていたぞ……それじゃ駄目なのか!? はっ今からベイル侯爵の私軍をかいめつさせるのはどうだ!?」

「まだ何もしてねぇ軍を私情で壊滅させるな、恐怖政治に戻ってんだろうがそれ……」

「だったら何をすれば彼女に嫌われないんだ!? わからない、難しい!」

「あーもうわかんねぇなら、せめて嬢ちゃんの望みをかなえてやれよ!」

「わかった、ムースを完成させればいいんだな!?」

「ちが──いやちがわない気がするな!? え、待ってくれよ俺ってお前と同レベル……?」

 頭をかかえた竜神を横目に、濡れたエプロンをはずしたところで、厨房のとびらが開いた。

 わらわらと入ってきたのは、兵隊だ。制服のそでにベイルこうしやく家のもんしようが入っている。

 つまり、ベイル侯爵の私軍だ。

「失礼いたします、皇帝陛下。ベイル侯爵より護衛をおおせつかりました!」

「護衛? 僕は今、ムース作りでいそがしい。ほこりを立てないでくれ」

 に頼んだのだが、ふんと鼻で笑われた。

「軍港をせんきよしたぞく達がこの城を目指しているとの情報が入りました。念のため、こうてい陛下には安全な場所になんしていただきたいとのことです」

 北方師団が軍港をだつかんする可能性が出てきたせいであせったのだろう。ジルと会わせないための時間かせぎ、その場しのぎの策にハディスは呆れる。

 だが、それだけベイル侯爵にとってこの事態は想定外なのだろう。たかが十歳の女の子にこうもり回されるのはいかがなものかと思ってから、ふとくちびるえがいた。

(それは僕もか)

 まさか夫の自分がベイル侯爵と同じでいいはずがない。

 兵士達はけんつかに手をあててずっとけいかいしている。ハディスを逃がしたりしないよう、やとい主であるベイル侯爵に言われているのだろう。おかしなことだ。

 皇帝が逃げる理由などどこにもない。

 ムースは冷やすだけだ。飾りつけはあとにしよう。

「埃を立てられては困るな。──そのまま、僕にひざまずけ」

 さんかくきんをはずす。金の両眼が光り、あしもとからさざ波のように広がった魔力が、城をゆらした。


   ***


 いつしゆん地面がゆれた気がして、ジルは思わず動きを止めた。

しん……いや、魔力?)

 まさか、ハディスに何かあったのではないか。ラーヴェがついていれば平気だと思ったのだが、そもそもラーヴェが戦えるのかかくにんしていなかった。

 ハディスはものすごく強いはずなのだが、勝った瞬間に血をいてたおれそうで、ジルの不安をやたらとかき立てる。今度こういう事態におちいったときは、真っ先に夫の安全を確保しようと決めた。でないと、目の前の戦いに集中できない。

 あの男はおいしいご飯とおを作って、おとなしくジルの帰りを待っていてくれれば、それでいいのだ。

「おい、急げ! 聖堂のほうがいつまでもつかわからんぞ!」

 大剣をひとり、ジークが道を切り開いてさけぶ。背後で弓を引いたカミラが荷台の太いひもいて、丸太を転がして足止めをする。

 今は、ハディスの心配をしている場合ではない。

「今ので最後の船です! もどりましょう!」

 ジークとカミラのえりくびをつかんで、ジルはちようやくする。うお、とジークが叫んだ。

「飛ぶのはひとこと言ってからにしろ、舌をむだろうが……!」

「ほんと、ジルちゃん何者なの!?」

 建物の屋根を伝いながら聖堂に戻るジルに苦情が飛ぶが、時間がない。

 できるだけ敵に姿を見られないようじようへきって聖堂の屋根に飛び移り、天窓から中へと飛び降りる。

 すわ敵かときんちようした中から、スフィアがむかえてくれた。

「ジル様! みなさんも」

じようきようは?」

 立ちあがったジルに、ミハリがはいっと声をあげた。

「ご命令どおり、出入り口と窓をふさいで防戦しております。とはいえ、囲まれているだけですが……隊長達が外に出られる前と状況は変わりありません」

「……隊長?」

 自分の顔を指でさすジルに、ミハリやほかの者までうなずく。

「先ほど、皆で決めました。お名前で呼びかけると敵に正体が知られてしまいますし、指揮をとっていただいてますし……」

「なるほど。では、お言葉に甘えて──諸君のづかいに感謝する」

 倉庫を出た時点でジルがここにいることは敵に知られているだろうが、それはそれだ。気遣いと期待にこたえて、口調を変え、敬礼を返す。

 しかし、せんきようはよくない。聖堂にいる半数が負傷兵なのだ。戦える者はジル達を入れて十人ほどしかいない。

 だが、同じ動けないかんきようでも味方に囲まれているのと、敵にとらわれているのでは精神的負担が違う。動ける者はバリケードを作るのを手伝ったり、聖堂の奥から使えるものがないか探し出してくれた。武器を手にした者の士気もあがっている。

「あっちも船を失ったからな。簡単には逃げられない。いよいよてつていこうせんだな」

「そんなことしたら負けちゃうでしょ、これだから脳筋は」

「そのために船をぶっ壊して退路を断ったんだろうが。それ以外になんの理由が──」

しゆうげき者たちがベイル侯爵の私軍がめてきたときに、すぐに軍港から逃げ出せないようにするためです。向こうはベイル侯爵の軍に殺されないよう、手を変えてくるはずです」

 裏で手を組んでいたとしても、表向き彼らはベイル侯爵の敵だ。北方師団がこうして戦っている以上、ベイル侯爵の私軍は襲撃者達に必ずこうげきをしかける。それは、どさくさにまぎれてくちふうじされる可能性が高くなったことを示している。

 向こうは今から、ベイル侯爵に始末されない道をさくするはずだ。

「だが、やけになってこっちにっこんでくる可能性もあるだろう」

「わたしたちをぜんめつさせるまで働くとは思えません。雇われたようへいたちにとって大事なのは実利です。今からとうそう経路を確保するためにほんそうするか、それとも……」

「おい、北方師団。俺がこいつらを率いてる頭目だ──取り引きをしようじゃないか!」

 説明する前に、外から声がひびいた。思ったより若々しさがある声だ。

「そっちにみつていのガキがいるだろう? そいつを差し出してくれないか。そうしたら、侯爵家のおじようさんには手を出さず、このまま軍港から引きあげる。でなきゃ聖堂に火がついちまうかもな」

「こちらをねらってかまえている弓兵が見えます! 火矢も……」

 聖堂のながふさいだ窓のすきから、外をかんしていたひとりが報告してくれる。

 カミラがしぶい顔になった。

「ここ、かべれん造りだけど、木造部分も多いわ。火矢を投げこまれればあっという間に燃えるでしょうね」

「……いきなり全滅の危機か。どうするんだ、隊長。軍港を取り戻すどころじゃない」

「そんなことはないですよ。やっと敵の将が出てきてくれました」

「いいか、四十待ってやる! その間にガキをしばりあげて、つれてくるんだ」

 いーち、と声が響く。ジルはふと周囲を見回してみた。

 だれも、ジルから目をそらそうとしない。この不利な状況で、ジルを敵に突き出そうと考える者はいないようだった。負傷兵の手当てを手伝っているスフィアも、ジルと目が合うなり引き止めるように首を横に振った。

(なんだ、見込みがあるじゃないか。全員)

 むしろ指示をくれと待っているようにも見える。そういう目をされると、こたえたくなるのがしようぶんだ。

「わたしが行きます」

「ちょっと。アタシらはあんたも守らないといけないって話を忘れたの?」

「そうです! ジル様だけをせいにするなら、私も……!」

だいじようです、スフィア様。ここで計画を台無しにするようなヘマはしません」

 立ち上がりかけたスフィアがまばたく。

 縛ってくれと両手首を合わせて出すと、舌打ちしたジークが動ける兵に命じてなわを持ってこさせた。カミラがけんにしわをよせながら、ジルの両手首を縛る。

「大丈夫なのね?」

「はい。……スフィア様をお願いします」

 カミラにだけ聞こえる声でそっとささやく。

「ベイルこうしやくに対してより効果的な切り札になるのは、密偵役のわたしよりがいしや役のスフィア様です。あきらめるとは思えません」

「……聖堂内に敵がいるかもってことね?」

「神父がいたはずなんです。お願いします」

 ジルの目を見て、カミラは頷いた。そのままジークにも耳打ちにいく。これでスフィアは大丈夫だ。

「ミハリ。わたしを突き出す役をお願いします。──隊長命令だ」

 そう言うと、ミハリは言いたげにしていた何かをみこんで、頷いた。

 数は三十をすぎたころだ。ころいだろう。

「ぶ、無事、お戻りくださいね……!」

 小さくミハリがそうつぶやいて、数をかぞえる声にかぶせて叫ぶ。

「取り引きに応じる! そちらに密偵の子どもをわたす、わたすから、やめてくれ!」

 ふるえている声が逆にらしくていい。

「よーし、なら出てこい」

とびらを開いたしゆんかん、攻撃したりしないだろうな!?」

「もちろんだ。こっちはそろそろげる準備をしたいんでね、あんたらを全滅させる時間がしい」

 ぎい、と内開きの扉があいた。

 ジルの背後では、皆が作り直したバリケードの中で身をひそめている。

 まだ外は明るい。頭目らしき男が一歩、前に出た。頭目というには、まだ若い男だった。けいはくそうだがいいつらがまえをしていると、のんびり観察する。

「よし。確かにそのガキだな。ご苦労さん」

 確認したたん、北方師団の服を着たままの頭目が片手をあげた。背後にいた兵が正面から火矢を構える。

「そしてお別れ──」

 地面を蹴ったジルは、火矢が放たれるより早く、頭目の顔面にひざりを入れた。そのまま背後を取り、首をめあげる。

「お前らのかしらの命が惜しくば全員引け!」

「はったりだ! 俺にかまわずこんなガキころっ──」

 ぶんと右手をって、周囲にいた敵をすべてき飛ばした。ついでに聖堂正面にあった見張り台が真っ二つに折れ、別の場所から火矢を放とうとしていた集団のほうへと落ちていく。

「な、ん……?」

「ちなみに船をこわして回ったのはわたしだ」

 頭目の背中をみつけ、ばきりとジルは指を鳴らしてみせる。

「選べ。ここで全員死ぬか、おとなしくていこうをやめてこうふくするか」

「……っはは、油断したな! おい、今だ、こうしやくれいじようを──」

 聖堂の中に向かってさけんだ頭目がちゆうでやめた。ジークにり飛ばされ、スフィアの相談にのっていた神父が聖堂の外に転がる。

「残念、スフィアお嬢様なら無事よ」

「神父がもの持っておそいかかるとはな。世も末だ」

 カミラとジークの言に、踏みつけていた頭目の体から力がける。

「……俺だけでいいはずだ。部下は逃がしてやってくれ」

 なかなか男気があることを言う。ジークとカミラも顔を見合わせた。ジルはたんてきに答える。

「お前が誰とつながっているのかをけば」

「……。わかってんだろ。ベイル侯爵だよ」

「それをこうてい陛下に言えるな?」

「俺の言うことなんざ、そんなに重要かねぇ。おえらいさんにとっちゃゴミみたいなもんだろうよ、俺らは」

「お、お頭ぁ! お頭、ベイル侯爵が攻めてきやがった! 約束が、ちが……!」

 そこで走ってきた男は、矢で胸をかれて絶命した。聖堂の中から出ていたスフィアがかんだかい悲鳴をあげる。

 頭目が走り寄ろうとするのをジルは押さえこむ。殺気だったその目にささやいた。

「こらえろ」

「てめぇ……!」

「全滅したいのか! お前たちが捨てごまなのはわかってる、わたしのできる限りで助けてやるから、今はこらえろ……!」

 頭目が両目を見開く。たおれたぞくのうしろから、団が出てくる。整然ととうそつのとれた動きはとても私兵とは思えない。よほど訓練されているのだろう。

「……お前が皇帝陛下をたぶらかした子どもか」

 整列した立派な騎士達の中から、ひとりだけ馬にのった男が進み出てくる。お父様、とスフィアがか細い声で言った。

 せいかんな男だった。こちらを見おろす視線にあざけりがまじっている。よくクレイトス王城でもこんな目で見られた。

「幼くともクレイトスのじよというわけか。化け物め」

 だから笑い返してやる。

「はじめまして、ベイル侯爵。軍港は北方師団が取りもどしました。助けにくるのが一歩、おそかったですね」

「何を言う。間に合ったのだよ、私は」

 ジルは踏みつけていた頭目を、ジークのほうへほうり投げた。せっかくのがらを横取りされるわけにはいかない。

 にたりと笑ったベイル侯爵が、片手をあげる。と同時に、上からいきなり大きなかげがかかった。

 何かと見あげた先には──りゆうがいた。その口から吐き出されるほのおは、ただの炎ではない。魔力をも焼きくす、竜神からあたえられた裁きの火だ。

「貴様らを始末すれば、それで終わるのだから」

「全員、聖堂の中へ退たいしろ!」

 ジルがひとりよけるだけなら問題ない。だが、よければ聖堂が燃える。防ぐしかない。

 両足を開いて見あげた。上空から竜が口をあける。

(くる!)

 竜の口からぷすんと音を立ててけむりが出た。

 ジルがまばたいている間に、つばさを広げたまま竜が地面についらくする。そのきよたいに、ベイル侯爵の軍が押しつぶされた。つちぼこりがあがり、馬のいななきがあがる。

 悲鳴が飛びう中、落馬したらしいベイル侯爵のごうひびいた。

「ど、どうした、とつぜん! 起きろ、こうげきするんだ!」

「そんなことをできるわけがないだろう、りゆうていの僕を前にして」

 背後からよく通る声が響く。だが、こわいろほど気配はやさしくない。

 冷水を浴びさせられたように混乱が静まった。とりはだが立つほどの、圧と魔力。クレイトス王国のときと同じだ。ごくりとジルはつばをのむ。

 竜の体から上半身だけい出てきたベイル侯爵が、あえぐように言った。

「こ、皇帝陛下が……なぜこちらに」

「妻を置いて、僕だけが安全な場所になんできるわけがない」

 すっとびたりよううでに、ジルはうしろからきあげられる。

はないかい、僕の紫水晶」

「は、はい。陛下こそ、体調はよろしいのですか?」

 ラーヴェの姿が見当たらないことを気にしながら目をあげると、ハディスがうれしそうに口元をゆるめた。

「心配してくれたのか、嬉しいな。ところで、軍港はどうなった?」

 ジルは急いでハディスのうでから飛び降りようとしたが、押さえこまれてかなわなかった。無言でにらむと、ハディスはがおを返す。放す気はないらしい。

 しぶしぶ、ジルは抱きあげられたまま報告した。

「……申しあげます。軍港をせんきよされたというのは、敵のかくらん情報です。北方師団の方々はわたしとスフィア様が敵にらえられたと知るなり救出作戦を立て、わたしたちを守りながら軍港を賊から取り戻してくださったのです」

「陛下! その少女はみつていだとまだおわかりにならないのですか。現にその少女は軍港を占拠したやからと手を組んでおります」

 そう言ってベイルこうしやくが、頭目を指さした。ただジークに腕をつかまれているだけで、こうそくもされていない状態だ。

 ただの悪あがきだとしても、ベイル侯爵に指をさされた頭目がどうもくしたあと、皮肉っぽい笑みをかべたのを見て、ジルはくちびるんだ。

 頭目にとってベイル侯爵の軍は、目の前にある危機だ。ジルが密偵だと証言すれば、ベイル侯爵はたとえ一時的であってもこの頭目を守るだろう。それ以上の利をジルが提示しなければ、頭目がベイル侯爵を告発する意味がない。頭目はベイル侯爵のがなければ、ハディスにしよけいされるだけなのだ。

 下半身は竜に押しつぶされたままのけな格好で、ベイル侯爵は勝ちほこった顔をした。

「軍港内はまだ敵が残っております。我々を信じて陛下は城でお待ちください。その子どもがただ賊に利用されただけのあわれな子だとおつしやるなら、それもよろしいでしょう。私が周囲にそう説明するのも、やぶさかではない」

 遠回しにジルを助けるかわりに事とだいをうやむやにしろとおどしをかけている。その抜け目のなさにジルがり返そうとしたとき、ハディスがぽつりとつぶやいた。

きよう政治はやはり一理あるな……」

「……今、なんて仰いました陛下?」

「あ、いや、なんでもない──ラーヴェ、うるさいわかってる。僕も今となっては妻帯者。妻のがんりを無にするわけにはいかない……恐怖政治ダメ、絶対」

 体の中にいるラーヴェと話しているのか、よくわからないことをぶつぶつ言いながら、ハディスがジルをおろした。

 そのままジーク達のほうへ向かっていく。

 ハディスが何をする気なのかさっぱりわからず、ただジルは見守るしかない。

「よく頑張ってくれた。ジーク、それにカミラに、ミハリか」

 名前を呼ばれたジークとカミラが顔を見合わせ、ミハリが声をふるわせる。

「……平民の我々の名前を、皇帝陛下が、なぜ……」

「なぜって。北方師団はていこく軍のひとつ。そこに勤める者たちの名前と顔くらい、覚えていないほうがどうかしている」

 ハディスはぽかんとしているジーク達から頭目へと視線を動かした。

「そして──君も北方師団のひとりだ」

「は? 何言ってるんだ、こいつは……お、おいっ!?」

 ジークから頭目をもぎとったハディスが、その首を片手でつかんで、持ちあげる。

「急なにんだったから、君が僕の顔を知らないのは当然だな。やあはじめまして、僕が君たちの皇帝だ」

「な、んっ……俺、は──がっ」

 みしりと頭目ののどからいやな音がなった。ハディスがさわやかに続ける。

「北方師団の制服がよく似合っている。赴任早々、大変だったね。よく生き残ってくれた。さあ、君と君の部隊が見聞きしたしゆぼうしやの情報を僕に報告してくれ」

「あ、あの、皇帝陛下、いったいどういう……」

 うろたえるミハリに答えず、ハディスは頭目を地面に投げ捨てた。げほげほときこみながら、頭目がハディスを見あげる。

「僕の妻はどうも、捨てごまも何もかも、すべて助けたいらしい」

 はっとジルはハディスを見つめる。頭目は目を白黒させていた。

「僕は妻にはひざまずくと決めている」

 ハディスは冷めた目で頭目を見おろし、けんつかに手をかける。

「だが、僕は気まぐれだ。すぐに気が変わるから、早く決めたほうがいいよ」

「……」

「へ、陛下! 何を仰っているのですか、まさか──」

「……本日付けで正式に北方師団に着任しました、ヒューゴと申します」

 青ざめるベイル侯爵をさえぎり、頭目──ヒューゴが、ハディスの前にひざまずいた。

「なんなりとおおせのままに報告いたしましょう、こうてい陛下」

 それはヒューゴがハディスの駒になるという意思表明だった。ハディスはうす微笑ほほえむ。

「さて、これでひとつ片づいた。僕の妻は無実。次は君だ、ベイル侯爵」

「こ、このようなこと、だれも認めるわけが──っ」

 ベイル侯爵の言葉は、頭をみつけられたせいでちゆうで消えた。くつぞこをベイル侯爵の後頭部に預けたハディスが、子どもをしかるような口調で言い聞かせる。

「君はもう死んだも同然だ。死人はしゃべらないものだよ」

「……こ……侯爵である私にこのような真似まねをして、皇帝陛下といえど、ただでは」

「僕は言ったはずだ。妻が無実であった場合、それ相応のつぐないはしてもらう、と。というか、こんな鹿馬鹿しい策で僕をおとしめられると本気で思ったのか? 竜帝をあなどるにもほどがある」

 さて、とハディスは小首をかしげた。

「どんな処刑方法にしようか。むすめを変死させて皇帝の批判材料にしようとする父親を苦しめる方法なんて、なかなか思いつかないな。それとも、後妻とその娘は別なのかな?」

「……っ」

「おや、顔色が変わった。どんな人間でもやはり情はあるらしい。よかった、人というものに絶望せずにすみそうだ。よし、まずはそちらからにしよう。火あぶりか、ごうもんか。無能な君のせいだよ。可哀かわいそうに」

「こ、この……っ」

「だが僕は誰彼かまわず傷つけるしゆはない。だから、こういうのはどうかな? 君は、みっともなくいのちいをするんだ。僕にベイルブルグを差し出してね」

 ハディスが独裁者の顔で、深く笑う。

 それを見たカミラが鳥肌の立った両腕をなでていた。

「やだ、心を折りにいくタイプなのね、皇帝サマ……きゅんときたわ」

「甘いんじゃないのか。のがすべきじゃないだろう、こんなさわぎ」

「え? あ、あの……つまり、お父様はこれからどうなるのでしょうか」

「皇帝陛下は、罪をすべて認めてベイルブルグを差し出したら助けると仰ってます」

 ジルの小声の説明に、スフィアが希望を得たように両手を組む。

 だが、そのいのりをベイル侯爵のこうしようがさえぎった。

「慈悲をみせたつもりか!? さすが、母親を自殺させた皇帝はおやさしい!」

 ベイル侯爵のあざけりに、その場がこおりつく。ハディスが無表情になった。

「お前が皇帝になるまで何人死んだ? どれだけ殺した! 私は正しいことをした! のろわれた皇帝から国を、領地を守ろうとしたんだ! この人の皮をかぶった化け物から!」

「……」

「私に同情する者はいても、お前をようする者などおるまいよ。この国でお前が皇帝であることを望む人間などいないのだからな。生きていてほしい人間すら、いないだろうよ!」

 全員がかたんでハディスの反応を注視している。

 呪われた皇帝。そのうわさこうていするようなちんもくにジルが一歩踏み出そうとしたとき、ハディスが静かに答えた。

「そうだろうな」

 信じられない返答に、ジルは瞠目した。

「だが、僕が皇帝だ。お前たちが望む望まざるにかかわらずね。理解しろとは言わないよ」

 それは甘えだ。かき消された優しいつぶやきを聞いたのは、ジルだけだろうか。

「ジーク、カミラ。ベイル侯爵をつれていけ」

 ハディスの命令に、ジークとカミラはまどいつつも従う。

 ベイル侯爵は笑いながら引きずられていった。その声が届かなくなってから、ハディスはこちらにり返り、ジルの前を横切って、スフィアに視線を向ける。顔を真っ青にしたスフィアは、震えながら前に出た。

「あ……あの、ハディス様、父が、申し訳──」

「心配しなくていい。命をうばう気はない」

 スフィアが、ありがとうございますと申し訳ございませんをこうり返して跪く。

 ハディスは微笑んで首を横に振っていた。

 その横顔をジルはじっと見つめる。

 その顔がいつか本音を見せないかと思っていたけれど、すべての後始末を終えても、ハディスは皇帝の顔をくずすことはなかった。



「無理してんじゃねーかって? そりゃしょーがねーだろ」

 ベイル侯爵の城──皇帝陛下にじようする予定の城で夕食も湯浴みもすませたあと、道案内としようして現れたラーヴェは、ジルの頭の上にのっかったまま言った。

 ほかに人はいない。夕食にハディスも現れず、ジルはもものムースをひとりでたいらげることになった。ベイル侯爵の使用人をそのまましんらいするわけにいかないのだから、しかたない。

 現在、城主の住居区画からはすべてひとばらいをしている。その住居区画も城のまるまる五階部分を使っているので、ラーヴェにしんしつまで案内してもらっているのである。

「いちいち傷つきましたって顔してらんねーだろ。あんな鹿でも皇帝なんだから、甘くみられないよう、その辺はわきまえてるよ。皇帝になるだけの能力もうつわも当然、最初から持ってるしな。……でもだんのあいつ見てれば、意外か」

「はい。もっとなおな方のように思っていたので」

 もっとおこるかどうようくらいすると思ったのだが、いつさいそんな表情も仕草も見せなかった。

ざんにんな顔やおどしができると思っていなかったので、それも意外でした」

「あれは……うん、きよう政治はしない方向で修正中だから……」

「でもあんなふうに、人から傷つけられたことをなかったことにするのは、よくないと思うんです。いずれはそれが当たり前だと何も感じなくなり、自分にも他者にもどんかんになって……それは陛下自身のためにもよくないことなんじゃないかと」

 そしてざんこくになっていく。悪意を向けられるのが当然で、何にも傷つかないから、平然とぎやくさつも命じられるような人間になる。

「なるほどなぁ。確かにあいつ、人と関わってこなかったからきよかんおかしいんだよ。なんでも真に受けがちだし、きよくたんだし。のろいさえなんとかなればみんなに好かれるって期待してるしなー、友達も百人できるって信じてるぞマジで。幸せ家族計画もそのいつかんだ」

「なんでそんな育て方しちゃったんですか……絶対に反動きますよ」

「しかたなかったんだよ! 全部呪いのせいで誰も悪くない、人は善良だと思わせとかないとやばかったことが多々あったんだよ。それこそ、母親のこととか……あんなん母親が悪いんだよ、なのにあいつ……聞いてられなかったんだ」

 いつかはたんする目のそらし方だ。だが、甘いとわかっていても、ラーヴェはハディスになんとか希望を持たせてやりたかったのだろう。

「……本当はちがうって気づいてる節はあるけどな……でも、人に絶望したら最後だろ。あいつは皇帝なんだ。しかもりゆうじんの生まれ変わり、竜帝だ。こわせるものが大きすぎる……」

「でもラーヴェ様があきらめるなって言い続けたから、今の陛下があるんでしょう。それってすごいことだと思います」

 ラーヴェが小さな目をぱちぱちとまばたかせる。ジルは人差し指を立てて提案した。

「だから、今のうちに人にらしていきましょう。たとえば……うーん、可愛かわいい皇帝をめざすとかどうでしょう? 親しみがもてるように」

「いやどんな皇帝だよ、頭にリボンでもつけてでも配るのか? ……似合うかもな」

「こう、ちょっと弱みを見せるんです! 陛下は見目はばつぐんですし、ギャップでめるのはありです。わざわざ強い皇帝を演じられなくても十分、陛下はゆうしゆうですから」

 感情にまかせてベイルこうしやくの処分を変えることもしなかったし、暴言も流す器の大きさを見せた。まつたんの兵士の名前を覚えていることは、士気をあげただろう。

「それにわたし、傷ついているのをかくされるのは好きじゃないです。ああもれいなすまし顔を見せられてしまうと、いっそ泣けとなぐりたくなるというか……いえ、大人の男性に泣かれてもうっとうしいので、泣くなと殴りたくなりますが」

「泣けって殴って、でも泣いたら泣くなって殴るのか。ひどいだろ、それは」

 まっとうなラーヴェの批判に視線を泳がせたジルは、言い直す。

「でもその、せめて、わたしの前でお綺麗な顔をしないでいただければ……でないとやっぱり殴りたくなります。げられている気分になるので」

「へーへー! なんだ、そういうことか。じようちゃん、まさかハディスにれたか!?」

 ラーヴェが目をきらきらさせて上からのぞきこんでくる。たんにジルは半眼になった。

「どうしてそうなるんですか……」

「だって、それ、気になる子をこっち向かせたくて、いじめるのといつしよだろ」

「子どもじゃあるまいし。そんな馬鹿な話があるわけないでしょう」

「いや嬢ちゃん、どう見ても子どもだけど」

 そうだった。ごほんとせきばらいをしたジルは、せっかくなのでラーヴェに言っておく。

「わたしとこうてい陛下がれんあい関係に発展する予定は今のところないので」

「今のところだろ。ねんれい的な問題を気にしてんのか?」

「それもありますけど、まずわたしは、陛下とたがいの利益だけでつながった理想のふうになりたいんです!」

「嬢ちゃんの言ってることわかんねーのは俺が竜神だからか……?」

「神と人間だとやはり違いはあるかと思います」

「……。まあいいや、ハディスもたいがいだしな……ああ、この部屋だ、嬢ちゃんの寝室」

 ろうさいおうがやっと見えた。長く感じたのは、やはりこの手足の短さだろう。やたら大きな部屋のようだ。ドアノブの位置まで高い。

 手をばしてドアノブに手をかけ、ちょっとだけりよくを使って、重いとびらを開いた。

「あいついるから。がんれよー」

「……。えっ!? あの、まさか皇帝陛下がいらっしゃるのですか!?」

「そうだよ。形だけでも夫婦なんだからそうなるだろ。あと警備の問題」

「ちょっ待ってください! それってまさか初夜──」

 あせったジルがラーヴェにうつたえ出ようとしたそのとき、部屋のど真ん中に置かれた大きなてんがい付きのしんだいが目に入った。思わずあとずさりかけたが、あろうことかその寝台からうつせでだらりと落ちている上半身に、頭がひえる。

「……陛下?」

「の……飲みすぎ……た……」

「あっ、お前ワイン飲んだな!? 嬢ちゃん、水! 水!」

「は、はいっ!」

 かくしてその場は、ワインを一口飲んだだけで中毒しようじようを起こしかけている皇帝陛下の救助に走る戦場となった。



 めつに酒なんか飲まないのになと残して、ラーヴェはハディスの体の中に入っていった。回復を早めるためには、有効な手段らしい。

 実際、そのあとハディスの呼吸はみるみる落ち着いていき、顔からも赤みが引いていった。

(……体調よりは、やっぱり精神的にきたんだろうな)

 水をしぼったしゆきんをハディスの額に置く。すると横たわっているハディスが、まぶたをふるわせて目を開いた。

「──きみ、は……紫水晶?」

「はい。だいじようですか? 水もあります。果物もちゆうぼうから拝借してきましたが」

 何度かまばたきしたあと、ハディスがぽつんとつぶやく。

「……看病してくれるのか」

「はい、ぱらいの看病は慣れてます。……もし不安ならだれか呼びますが」

 カミラもジークも得意なはずだ。だがハディスは首をゆるく横に振って、ジルが差し出した水差しから水を飲んだ。

「君がいてくれれば十分だ。……りんが食べたい」

「わかりました、お待ちを」

 そのまま差し出そうとして、相手が皇帝であることを思い出した。切り分けるために持ってきた小型のナイフを手に取って考える。

(……皮をむかないとまずいよな……よし)

 くるんとナイフを一回転させて、林檎にを差し入れる。そうっとだ。皮だけをえぐるように刃を動かして、ざくっと実と一緒に切り落とした。

「……」

 要は皮がなくなればいいのだ、皮がなくなれば。文句を言うなら皮ごと食べるべきである。

 そして再度差しこんだ刃は、やはり林檎を見事にえぐったあげく、ジルの額にその実を当てて落ちる。背後から笑い声が聞こえてきた。

「は、ものあつかいにけてそうなのに、君は意外と不器用なんだな」

「刃物を使えるからといって、誰でも料理を作れるとは限らないだけです」

 ぶすっとして言い返すと、ハディスは笑いながら起き上がった。ジルをひょいときあげて、りようあしの間に置く。そしてジルの背中におおかぶさるようにして、ナイフと林檎を持つ手をそれぞれ重ねた。

「こうするんだ」

 手本のように、ジルの手を動かして綺麗に林檎をむいていく。ジルはされるがままに自分の手元を見つめて、感心した。

「ナイフのほうを動かすのではないのですね」

「そう。……ほら、できた。少しコツを覚えれば君もすぐできるよ」

「……あの」

「ん?」

「……うさぎさんは、できますか。ど、どうしてもあれの作り方がわからなくて……」

 誰かの看病するときにあれを作れる女の子になってみたかった。そう告白するのはずかしい気がしたが、ハディスは笑ったりしなかった。

 皮はきちんとボウルに捨て、皿の上で器用にむいた林檎を切ってしんを取り、むいた林檎は綺麗に皿にならべて、ハディスはもう一つ林檎を取る。

 そうしてジルをかかえこんだ体勢のまま、また器用にナイフを動かし出した。

 大きな手がほうのようにうさぎの林檎を作っていく。おお、とジルは目をかがやかせた。

「うさぎ……!」

「もう少しあれば、色々かざりも作れるんだが」

「飾りも!? 陛下は天才ですか!?」

「そんなに難しいことじゃない。……僕には異母の妹や弟もいる。こういうことができれば少しは好かれるかと思って、練習しただけだ」

 手を洗おう、と言ってハディスは朝の洗顔用に水がはられたボウルを取って、その中にジルの手も一緒につけた。そのあとはちゃんと手巾で手をいてくれる過保護ぶりだ。

 本当は、ていまいにこうしてやりたかったのだ。

 それがわかったから、初夜だとか幼女しゆだとかいらぬわくを頭のすみに追いやって、ジルはされるがままになっておいた。

「君も林檎を食べるといい」

「はい」

 きっと具合が悪くなったとき、林檎をむいてくれる人も、一緒に林檎を食べてくれる人もいなかったんだろう。ハディスが林檎を並べた皿を手にしたジルは、少し考える。

(……今のわたしは子どもだ。おままごとの延長、よし恥ずかしくない!)

 寝台の上でハディスに向き直る。そして可愛いウサギの形をした林檎を、ハディスの口元まで持っていった。

「はい、陛下。口をあけてください」

「……僕がか?」

「そうですよ。陛下はただの酔っ払いですけど、看病が必要でしょう」

 金色の目がまどっている。だが結局、ハディスは口をあけて、林檎をかじった。

 もぐもぐ林檎を食べるその動作と美しい顔の造形の差異がおかしくて、ジルは笑う。ハディスはむっとしたようだが、きちんと口の中のものをんで飲みこんでからしゃべった。ぎようのよさを、とてもらしいなと思う。

「どうして笑うんだ。食べろと言ったのは君じゃないか」

可愛かわいいなと思って。弟を思い出します」

「……弟?」

 限界までまゆをよせて、ハディスが聞き返す。はい、とジルは答えた。

「うちは大家族なので、わたしは姉も兄も弟も妹もいるんですよ」

「それはにぎやかで結構だが、僕が弟だって?」

「弟はこわい物知らずですので、きっと陛下を怖がったりもしません。……そういえば、実家へのれんらくはまだですよね。大丈夫だと思いますが」

「大丈夫じゃない。僕が弟っていったいどういう……いや、弟は家族だな……?」

「そうですね。両親はきゆうこんの場面は見ていましたし、わたしがもどってこないということは、自力でげられない強い男につかまったということで、それならしかたないと言うでしょうし」

 ハディスはしやくぜんとしない顔で、今度は自分の手で林檎を食べた。

「家族って、そういうものか?」

「うちはそうです。わたしが助けを求めればまた話は別ですが、強いは正義が家訓なので」

 ジルも林檎を食べる。少しクレイトス産よりも酸味がある気がした。が、これはこれでさっぱりしていておいしい。

「……そうだ。あの、ありがとうございました」

「なんのことだ?」

「今回のことです。わたしの希望をかなえてくださったから」

 ハディスは都合の悪いことを言いかねないヒューゴを殺せたし、ベイルこうしやくだってあの場でしよけいできた。

 そうしなかったのは、ジルが全部助けようとしたのをんでくれたからだ。

「……だって、君はきらいだろう。きよう政治とか、みなごろしとか、そういうの」

「それはもちろん。でも、全部を助ける戦い方なんてしたことがありません。今回、うまくいくのか自信はなかったです」

「……そうなのか?」

 意外そうな顔をされて、ジルはしようした。

「そうです。今まではどちらかといえば自分の希望より、命令優先、みたいな……」

 軍人なのだから命令に従うのは当然だ。でなければ軍が機能しない。それにジェラルドの命令はいつも効率的でかんぺきで、おかしなところはなかった。だから、不満はなかった。

「それじゃあ、君が僕のおよめさんじゃなくて部下みたいじゃないか」

 不思議そうにハディスに言われて、胸がうずいた。続けようとしていた言葉に、なぜか恥ずかしさがこみあげる。

「その……だ、だから陛下に助けていただけたの、すごくうれしかったです……」

「そんなこと、わざわざ感謝しなくていい。お嫁さんを助けるのは、当たり前だし」

「……でも、そのせいで陛下がベイル侯爵にあんなひどいことを言われてしまって……」

 ごめんなさいはちがうだろう。

 ジルはくるりとり向いてハディスの手に、小さな両手を重ねた。

「わたしはのろわれていてもなんでも、陛下に生きていてほしいです。だから今度、あんなふうに言われたら言い返してください。わたしがいるって、言ってくださいね」

 二度と、あんな悲しいこうていはさせない。そう胸にちかうジルから、ハディスはぱっと手をはらいのけた。みるみるうちにほおを赤く染め、乙女おとめのように恥じらう。

「君……実は僕が大好きだろう?」

「……はい?」

「でなければ僕に生きていてほしいだなんて言わない!」

「好意の下限が低すぎませんか!? 家族なら当然、そう思います!」

 言ってから、ハディスは家族との交流がないことを思い出して、また失言かとあせった。

 だがハディスは傷ついたというよりは冷めたといった感じで、いきなり半眼になる。

「なるほど、それで僕は弟なのか……」

「え? あ、はい、そういうことです」

 やけに理解が早いなと思っていると、ハディスはりんがのった皿をジルから取りあげ、シーツを体に巻きつけた。

「陛下?」

「……さっきからふるえが……水を飲み過ぎたかもしれない、寒い……」

「そういうことは早く言ってください!」

 もう一枚のシーツとすぐそばにぎ捨ててあった上着をひっつかみ、ハディスをころがしてばさばさと上からかける。だがふとれたハディスの頰は冷たかった。あたたまるまで時間がかかるかもしれない。

「……失礼しますね、陛下」

 断ってから、ジルはハディスのシーツにもぐりこんだ。体が小さいせいで長さもはばも足りないが、体温は高いほうだ。湯たんぽがわりにはなる。

 まくらに頭を横たえているハディスの首元近くから、顔を出す。

「こちらのほうが早くあたたまりますので」

「……ああ、そうだな」

 ハディスがりよううでをジルの体に巻きつける。うすくらがりの中で、金色のひとみきようぼうに笑った。

「つかまえた」

 いつぱくおいて、ジルは気づく。

「だ、だましっ……!?」

「だって、夫を弟あつかいするなんて、おかしいじゃないか。許せない」

「さ、寒いと言うから心配したのに!」

「いや、寒いのは本当だ。足の指の感覚がない。ちょっとまずい気がする」

 そう言われると安易にはなれられないではないか。

(くそ、子どもっぽいからつい油断した……!)

 恥ずかしいやらくやしいやらでうつむくと、ぎゅっときしめられた。

だいじようだ、何もしない」

 当然だ。でも何を答えても負けしみになる気がしたので、だまっておく。

「知ってるか? ふうって、妻は夫を好きになっていいってことなんだ」

「……陛下はそればっかりですね。ご自分はどうなんですか」

「だって君を好きになるなんてそんなひどいこと、僕はしたくない」

 どういう意味だろう。でも、知ってはいけない気がする。

「なあ、僕を好きになってみないか」

 こいさつかくしそうな、甘い声だった。

「でないと僕は君を全部、あばいてやりたくなってしまう」

 やってみろ、とくちびるを嚙む。中身は十六歳、はつこいもすませて、手ひどい失恋も経験した。

 知りたいだなんてこうしんに負けて、深入りはしない。先に好きになったりはしない。

 だから頰が熱い意味にも、わからないふりができる。


 ──と決意しながらあっさり寝落ちたジルを、ハディスは見おろしていた。

「子どもなのだか大人なのだか、よくわからないな?」

 だが悪くない。

 十四歳未満、ラーヴェが見えるだけのりよくを持つこと。それ以上なんて望んでいなかったのに、思った以上のいつざいだ。求婚されたときとは別の意味で、かれてきた。

(僕をしあわせにする? 生きていてほしい? 本気で?)

 なんてごうまんさだろうか。そんなことできるわけがないとちようしようする気持ちと、やってみろという期待がないまぜになって、わけのわからないこうようが止まらない。

 彼女はわかっていない。どれだけ自分が危険なものに触れようとしているのか──でなければ、ハディスの内側にむやみに手をっこむようなことばかり言わないだろう。

(でももうおそい)

 いつかお嫁さんができたら、ひざまずいて敬意を払うと決めていた。それがせめてもの、ハディスの誠意だった。自分を好きになってくれないかなんてたわむれみたいなもので、嫌われなければそれでいいと思っていた。

 それなのに彼女がやたらとあおるものだから、逃げ出すまで追い回してやりたくなってきたではないか。

『……そこでかっこつけようとか思ってくれるなら、まだ俺も安心できるんだけどなー……ためし行動かよ、子どもの』

 体の内側から半分寝ぼけたような声があがった。ラーヴェだ。ジルを起こさないよう、思考だけでハディスは応じる。

(少しくらいいいじゃないか。もうがみは手出しはできないはずだってお前が言ったんだ)

ほかに手段があるって言ってたのはお前だ。それにこのじようちゃん、お前とはたがいに利益だけの関係めざすとか言ってたぞ。無理にせまるとマジで嫌われるぞ。いいのか?』

(別に、慣れている)

 だから好かれてみたい。そう、自分は愛されたいのだ、彼女に。

 恋はしない。そう言う彼女のかたくなさを暴いて中身を引きずり出す。

 自分の中身が暴かれる前にだ。──そのためには。

明日あしたの朝食においしいパンを作らねば……!」

『……あーうん。がんれよ、俺は寝てるから』

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