第二章 恋と心中、索敵開始

 ジルは領主であるベイル侯爵の城に招かれることはなく、ようさい化している港の一角に客人としてなんきんされることになった。クレイトス王国に海で面しているため港の一部が軍港化しており、軍港にはラーヴェていこく軍の北方師団がいるから、ということらしい。また、スフィアがジルの入城に反対したからとも聞いた。

 ハディスが目をさまさないので、前後不覚な皇帝陛下の婚約者発言をどうあつかえばいいか現場も困ったのだろう。お嬢様のわがままを理由に、皇帝のかんかつにある軍港にほうりこむことでジルの扱いを保留にしたのだ。それに子どもとはいえ、ジルは皇帝がしゆうげきされた船にのっていた他国の人間だ。まず、みつていかどうかあやしまれているにちがいない。

 れ聞いた話によると、ハディスが本当に皇帝かどうか、そこから問題になっているようだった。ハディスはクレイトス王国から帰っていないはずだ、というのだ。予定していた帰国時期と違うことがわくを招いたようで、帝都にかくにん中らしい。

(きなくさいな……)

 ハディスが本当に皇帝かどうかなど、スフィアに確認させればわかることではないのか。

 今から起こる歴史を知っていることを差し引いても、雲行きがあやしい。

 だが、敵が何を考えどこにひそんでいるかわからない。とびらをぶちこわし見張りをたたきのめしてだつしゆつすることはわけないが、今はおとなしくしているべきだろう。

 かぎをかけられた部屋でひとり、ジルはひじけでほおづえく。

「わたしも事情にくわしいわけではないからな」

 六年後のクレイトス王国では、ここで起こった事件を『ベイルブルグの無理心中』と呼んでいた。

 クレイトス王国から帰国したハディスをもてなすために開かれたうたげで、こんやく者候補である領主の娘──スフィアが婚約をこばまれ、宴に招かれていたほかの婚約者候補たちをひとりひとり殺して回り、城に火をつけて自殺したのである。強い風にあおられて火はまたたくまに広がり、ベイルブルグはぜんしよう。ベイル侯爵は娘の無実とじようちゆうしていた北方師団のたいまんうつたえたが、ハディスは耳を貸さず、侯爵家の人間はすべてしよけいされ、一家断絶した。

 侯爵家の失態ではあるが、反逆したわけでもハディスの命をねらったわけでもない。こうていを守る軍隊である北方師団もいた。なのにハディスは事件後、ベイル侯爵家の領土をすべて皇帝ちよつかつにして、ベイルブルグを軍港都市として再建した。侯爵家断絶はやりすぎだという批判と、軍港都市化を目的にハディスが仕組んだ事件だったのではないかというおくそくが皇太子派からふんしゆつし、ラーヴェ帝国は内部の対立を深めてしまった。

 その対立はクレイトス王国との開戦につながる。ベイルブルグの事件後、皇太子派がクレイトス王国に積極的にせつしよくをとってくるようになったのだ。ジェラルドの婚約者として王都でぎよう作法だの政治学だのを従軍するまで叩きこまれていたジルは、その使者を見かけたことがあるので、そこはちがいない。

 しかし、ジルが知っているのは、あくまでクレイトス王国に流れてきた情報だ。敵国のないふん事件はざんぎやく性や非道さをあおって、戦争用のプロパガンダに改変されがちである。そもそもの情報源が皇太子派だ。ハディスにとって都合の悪い話に作り変えて伝えていることも、十分考えられる。みにはできない。

(あんなものも持てなさそうな女の子がやるとは思えないしな……泥棒猫ちゃんだぞ)

 女性を見かけで判断してはならないのは六年後に学習済みなので、スフィアが無関係だとは思わない。だが、ちようされているか、あるいは本当は別に原因がある気がする。

 まだ調べる時間があるうちに、なんとかできないものだろうか。

 ハディスの帰国予定は本来、半月ほど先だったらしい。ジルのおくでも、ジルとジェラルドの婚約が成立したあとのラーヴェ皇帝は、なんの問題もなくクレイトス王国にたいざいしていた。ということは、歴史的にはそのあとに起こった事件のはずだ。

「うまく立ち回れば未然にふせげるか、止められると思うんだが……」

 ジルをつれてきゆうきよ帰国してしまったので、時系列はすでにくるっている。そのうえ、ハディスがジルを婚約者として連れ帰っているのだ。同じ事件が起きるとは限らない。

 だが、もし同じことが起これば、開戦のいつたんになる。

 ジルはラーヴェ帝国の皇帝であるハディスの妻になると決めた。ジェラルドからげるためだが、どうせなら欲張って、故国との開戦をかいしたい。

 歴史を変えるだなんておおなことを考えているわけではない。だが、開戦したら敵国出身の皇后がどんな扱いをうけるか、想像にかたくない。

 それに、故郷やまだ出会っていない部下達とも戦いたくはない。

(……あの未来ではやっぱり……みんな、死んだのだろうか……)

 それを想像すると、胸が痛む。だが少なくとも今は生きているはずだ。

 たとえもう出会えなくても、それでよしとしようと思った。彼らは自分の部下だったせいでジェラルドに始末されたのだ。だからもう、出会えないのはしかたない。

じようちゃん。元気かー?」

「ラーヴェ様」

「ほれ、差し入れだぞ」

 はんとうめいかべをすり抜けてきたラーヴェが、ぽんと頭の上にパイを出現させた。ぱっと顔をかがやかせてジルはそれを手に取り、さっそく口にふくむ。

 しっとりしたしたざわりのに、砂糖でめたチェリーといちごあまっぱさがなんともいえないほうじゆんさをかもし出している。こんなおいしいものが軍港で出てくるなんて、食文化はラーヴェ帝国のほうがまさっているようだ。

 そう、ラーヴェ帝国にとうちやくしてジルが真っ先に知ったことは、食事がおいしいことだった。

 まず料理の品数が違う。パンひとつでも、舌触りやちょっとしたかおり、味が違うのだ。そしてシチューに合わせるパン、バターだけで楽しむパンと食べ方に合わせた種類があることに感動した。平べったく四角いパンに片面卵焼きとソーセージとたまねぎうすくスライスされたものが出てきたときは、これを食べるために人生をやり直したのだとさえ思った。

 食材だけならクレイトス王国も豊富だ。何せ大地のがみクレイトスのご加護があるので、領土内のどこでもなんでも育つ。どこだろうが食うのだけには困らない、というのがクレイトス王国の豊かさのひとつだった。

 だが、ことわりの加護を持つラーヴェ帝国の料理はすごかった。理とはすなわちふうなのだ。ラーヴェ帝国では、あちこちなんでもかんでも作物が実ったりしない。だからこそ保存方法やおいしく食べるためのが生まれるのだろう。

(チェリーと苺を砂糖で煮詰めるなんて、天才なのか!?)

 チェリーも苺も、クレイトスではそのまま食べるものだ。砂糖も精製はされているが、大量生産する技術が確立していないので、簡単に使えるほど流通していない。もちろんそのままで十分おいしいのだが、こうして砂糖で煮詰めてパイにされるともうあくの食べ物である。

「おいしそうに食べるなー、嬢ちゃん。軟禁されてるのとか、気にならねーの?」

 幸せな気持ちでもぐもぐほおっていたジルは、あきれたラーヴェの視線に首をかしげた。

「でもたいぐうは客人ですよ。ベッドもテーブルもある清潔な部屋ですし、おにもちゃんと入れますし……何より三食ついているうえに、ラーヴェ様がこうしておまで差し入れてくださいますし!」

「重要なのは食欲かぁ。ハディスの見立ては間違ってないってわけだ……」

「陛下の容態はどうですか?」

「やっと聞いたな、そこ。ひょっとしてスフィア嬢ちゃんのこと、おこってたりするのか?」

 ぱちぱちまたたいて、ジルはパイを食べる手を止めた。

「皇帝陛下に婚約者候補や妻が大勢いるのはつうでしょう。わたしは皇帝陛下と出会ったばかりですし、宣言したとおり当分は形だけのふうですので、怒る理由はありません」

 ラーヴェは小さな目をしばたたかせたあと、みようみをかべて部屋の上を飛び回った。

「まーそう言うなって、嬢ちゃん。目をさましたときのあの鹿の第一声は『僕の紫水晶は現実か!?』だったし、スフィア嬢ちゃんと顔を合わせちまったって聞いて『もうだめだ……ふられる……』とか一晩中うなされてたぞ」

 危機感をいだくのはいいが、心が弱すぎないか。ただそれだけ気にかけられていることは、なおに、まあ、なんというか。

うれしい……ような気も、しないような……)

 赤い顔でパイをむ。ラーヴェはにやにやしていた。

「でも立ち直るのも早いからなーあれは。準備ばんたんでこっちにくるだろうから、嬢ちゃんも気合い入れてむかえろよ。……ああ、うわさをすればだ」

 扉の向こうで見張りのすいする声があがった。だがすぐに、びりっとここまで届くりよくの気配がして、静かになる。

 おそらく見張りをねむらせるか気絶させるかしたのだ。ごくんとパイの最後の一口をあまり味わうことなく飲みこんでしまった。くつおとが近づいてきて、扉を一度叩く音がひびく。

「僕だ。入らせてもらう」

「はい」

 ジルは立ちあがり、ハディスのかげらしきものが見えるなり、ひざをついてこうべを垂れた。

(……ん? なんかいいにおいがする気がする)

 気になったが、そのまま姿勢をした。色々きんきゆう事態すぎて忘れていたが、皇帝というのは許しがあるまで顔を見られないものである。

 そんなジルの出迎えに、ハディスはまどったようだった。

「君が僕にひざまずく必要はない」

「そうはいきません。あなたは皇帝陛下です」

「どうしてそうにんぎようなんだ。その……怒っているのか、僕の紫水晶。スフィア嬢の件なら誤解だ。そういう関係じゃない。僕のおよめさんは君でないとだめなんだ」

「……その、陛下がわたしをづかってくださるのは嬉しいです」

 たとえ幼女しゆがあったとしても、というのは今はみこむ。

「ですが、形だけの夫婦であるならば、そういった気遣いは不要です」

 変なかんちがいは起こしたくない。

 こしかけたらしいハディスは、しばし思案したあと、ぽつりとこぼした。

「形だけの夫婦でも、維持する努力は必要だろう。僕は君にきらわれたくないし、できれば好かれたい。それとも、本物の夫婦をめざすことに不都合でもあるのか?」

「い、いえ……そうではありません。それに、今はそれどころではないのでは」

「僕にとってはお嫁さんのげんのほうが一大事だ。君の言っていることは本音なのか? 意外と君はこういうのに弱いんじゃないのか。くつをはかせたとき、ずいぶんどうようしていた」

 うぐっとジルはつまる。ふっと得意げにハディスが笑う。

「やはりか。僕の読みは当たりだな?」

ちがいます! むしろああいったこうは、今後いつさいやめていただけると……!」

「僕の作ったケーキもパイも、あんなにおいしそうに食べていたのに?」

 思わず顔を持ちあげてしまった。

 ハディスの顔色はよくなっていた。体調はもどったのだろう。

 だが、なぜかりゆうじんラーヴェのまつえいたるこうていは、その美しいかみさんかくきんを巻きつけていた。

「!?」

 そのまま身を起こしてしまったジルは、ハディスの格好を上からかくにんしていく。

 四角くえりぐりがあいたものは──まさかエプロンだろうか。形のいい指先をかくしているのは信じられないことに、ミトンである。どれもラーヴェていこくの皇族にしか許されない、しんの禁色だ。皇帝が着るならば当然だろう。

 いや、そうじゃない。

 問題は、なぜ皇帝が三角巾とエプロンを身につけ、鉄板の上に焼きたてのパンをのせてミトンで持っているのかという、そこだ。

(いや問題以前の問題だな!?)

「やはり僕の幸せ家族計画にすきはない。さあ、君のために焼いたクロワッサンだ」

 ミトンしに差し出されたクロワッサンを、受け取ってしまった。

 ふんわりとまだあたたかい。見ているだけでさくさくと鳴り出しそうな生地と、つやのある焼き目。ハディスがやってきたときからただよっていた、こうばしい匂いの原因はこれだ。

 とても素人しろうととは思えないできばえである。さすが竜神の末裔──というのは、関係あるのだろうか?

「僕は毒を盛られるのも日常はんだ。いちいち犯人をさがすのもめんどうだしすいを始めたら、なかなかおもしろくてこりだしてしまった。皇帝になってからも人材不足で」

「……こ、皇帝が、自炊……」

「僕の健康管理もかねていたんだが、それがこんな形で役立つとは……まさにけいぞくは力。皇帝となり材料も器具もぜいたくに使える今、パンも菓子もお手のものだ。僕に死角はない」

「ま、まさか、今までわたしが食べていた、ものは……」

 皇帝の手料理。

 おののくが、このクロワッサンをジルは手放せない。それをとっくにいているかのように、ハディスが薄く微笑ほほえんだ。

「よければ、君の食事は僕みずからおう」

 いつの間にかジルの目線に合わせてゆかに膝をつき、三角巾をかぶった悪魔がささやく。

「夫婦円満のけつは、まずぶくろをつかむことだそうだ。君の様子から察するに、当たっているな。たまにはぞくな本も役に立つ。──さあ、僕を好きになってもらうぞ」

 だいぶかたよった本で勉強なさったようだが、ことジルに関しては正解だった。動けない。

「朝にはエッグベネディクトを作ろう。クレイトスにはない料理だ。卵をたっぷりかけて、分厚いベーコンをかりかりに焼いたパンにはさむ……」

「……そ、そんな朝食に、わたしは、くつしたりなど……っ」

「すぐに気が変わるさ。君の舌は、僕の味を知ってしまった。一度知ってしまえば、もう戻れないはずだ。たっぷり、僕を味わいくしてもらおう」

「ひ、ひわ、わいな、言い方をしないでください! わたしはまだ子どもです!」

 なんとか言い返したジルに、ハディスはきょとんとした。

「子どもだからなんだ。僕のお嫁さんだ。口説いて何が悪い。むしろれいだ」

ねんれいが問題です! 大人としての良識を」

「大人など、年齢を重ねただけの子どもだ!」

 堂々と大人げないことを宣言したあと、ハディスは甘く微笑む。

「さあ、口をあけて。食べさせてあげよう。君のために作った僕の愛の形を、味を、どうか覚えてほしい。二度と、ほかのものなど口にできないように」

「や、やめ」

 おいしそうなクロワッサンがせまってくる。あごをつかまれたジルは首を横に振った。だがどうしてもあらがいきれない。

 香ばしく焼けたパンの匂いに、バターと砂糖のかおりがまざっている。しかも焼きたてなんて反則技だ。ゆっくりと口に入ってきて、さくりと音を立てるその至福のしゆんかんを、どうしてこばめるだろう。

「いい子だ。これで君は僕からはなれられない……そう、僕らはクロワッサンで結ばれた夫婦になるんだ」

「……そん……な……」

 すべて飲みこんだあとで、ジルはあとずさり、クロワッサンをつかみ返す。

「そんな馬鹿な夫婦があるか、やってることのおかしさに気づけこの変態皇帝!!」

 クロワッサンをハディスの口の中にっこんでそのまま床にしずめてやった。ラーヴェのだいばくしようてんじようから響く。ハディスの手から離れた鉄板を受け止めたジルはかたで息をしたあと、二個目のクロワッサンを食べた。



「おかしい。何が悪かったんだ」

「お前の頭だろ」

「そんな馬鹿な話があるか。僕の策はかんぺきだったはずだ。なのに、まだ僕を好きになってくれないなんて……何がだめだったというんだ……!?」

「だからお前の頭だって。お前はだまって顔だけで勝負すりゃいいんだよ、全勝するから」

「陛下、ラーヴェ様。まともな話をする気がないのなら、出ていっていただけませんか」

 テーブルの上のへびもどきといつしよに何やらぶんせきしている皇帝に、ジルは冷たく言い放つ。もはや礼儀を取りつくろう気もせていた。

 だが、ハディスは気を悪くした様子もなく、首をかしげる。

「僕の作ったクロワッサンを食べ尽くしておいて?」

「そ、それは……で、ですが今はそれどころではないでしょう!? 見張りをねむらせたということは、城をけ出してまでここにきたんじゃないんですか。何かあったということでは」

「別に。君の顔が見たかっただけだ」

 不意打ちに、ジルはおくれて顔を赤くする。

 だがハディスは気づいてないようで、足を組みえて座り直した。三角巾にエプロン姿でも様になっている。

「まあでも確かに、少々、面倒なことにはなっているな。君はとっくに僕の命令でなんきんをとかれて、僕の看病にきているはずなんだから」

 そんな皇帝命令を、ジルは聞いた覚えはない。──つまり。

「ベイルこうしやくが皇帝陛下の命令を無視しているということですか?」

「表向きは従っているふりはしているよ。が、現に君はここにいるし、体調が悪くなったらどうすると心配したりで、僕と外のせつしよくっている。帝都にむかえをよこすように言ったんだが、それも届いているかどうか」

「……まさか、反乱ですか?」

 声をひそめたジルに、ハディスは冷たく笑う。

「だとしたら、のろわれた皇帝相手に大した度胸だ」

「……その、呪われたというのは……?」

「クレイトスでは聞かない話なのか?」

「陛下の周りで人死にとか争いが絶えないとかそういう、よくあるような話でしか」

 ジルの言い分に、ちょっとハディスが目を丸くした。

「よくあるような話……まさか、そんなかいしやくをされるとは思わなかった」

「作り話と言いたいわけではないんですが、クレイトスとラーヴェはお世辞にも仲がいいとは言えないでしょう? ですので、話半分でしか陛下のことは知りません。ちゃんと陛下の口から陛下のことを聞きたいです」

「自分の目と耳で聞いて僕を判断したい、ということか。……困るな、そういうの」

「はい?」

「僕が君を好きになっちゃうかもしれないじゃないか」

 すねた口調で何を言われたのか理解したのは、自分の顔が赤くなってからだった。

「何を言っ……い、いえ、それでいいんじゃないですか!? 陛下はさっきわたしを口説こうとしてましたよね!?」

「僕は君に好きになってほしいんだ。君を好きになりたいわけじゃない」

「はい!?」

「あーあー話が進まねーから、あとにしろ。時間ないんだよ、はい説明!」

 さえぎったラーヴェに、ハディスがこほんとせきばらいをする。

 もやもやしたものは残るが、この手の話題はさけたいので、ジルも聞く態勢に入った。

「僕が本来、皇位継承権からほど遠いまつたんの皇子だったことは知っているか?」

 それくらいの事情ならジルも小耳に挟んだことがある。

「側室だったお母様の身分が低く、兄のヴィッセル様とどちらかしか帝都に皇子として残すことを許されずに……その、陛下は辺境に追いやられたと」

 説明しながらふと気づく。このこうていは、母親に選ばれなかったのだ。

 そのジルのまどいを、ハディスは笑ってこうていした。

「まあ、正確には捨てただと思うが。こいつが見える僕が不気味だったようでね。化け物を生んだと言われていたよ」

 ハディスに目配せされたラーヴェが、鹿にしたように言う。

「先代も先々代もずーっと何代も俺が見えない皇帝だったからな」

「だが僕は見えていた。だから知っていた。いずれ、自分が皇帝になることを──いや、ならなければならないことを、だ」

 異変が起こり始めたのは十一歳の誕生日からだと、ハディスは言った。

 顔も知らないけい──皇太子がとつぜん病死した。心臓ほつだった。だが、まだ皇太子にふさわしい身分の男子は大勢いた。辺境に忘れ去られたハディスに声などかかることもなく、次の皇太子が決まり、そしてまた死んだ。でのできだった。

「その次の皇太子は首をった。皇太子になってから毎晩、女の声が聞こえると言っていたそうだ。その次は朝の洗顔中にちつそく。そうやって僕より先に選ばれた皇太子が次々と死んでいった。──毎年毎年、僕の誕生日に、ひとりずつ、おくり物のようにだ」

 絶句した。知らず、ラーヴェを見てしまう。だがラーヴェはふんがいした。

「俺じゃねーぞ。別にそんなことしなくたって、こいつは皇帝になったっつーの」

「僕は中央に信書を出したが、相手にしてくれたのはヴィッセル皇子──兄上だけだった。だが、兄上だって末端の皇子だ。僕を呼びもどせる力があるわけじゃない。むしろ僕とれんらくを取っていることで母上が心をんで、めいわくをかけるだけになってしまった」

「心を病むって、実の兄弟なのに、そんな……」

 うろたえるジルが不思議に思うほどあっさりとした態度で、ハディスは話を続ける。

「だが、さすがに五年以上続くとぐうぜんとは片づけられなくなったんだろう。皇帝は兄上の言を受け入れて僕をきゆうていに呼び戻し、皇太子にえた。そうしたらその年は、だれも死ななかった。だがそれが決定打になって、父上は僕へのじようを決めた。……おそろしかったんだろう、僕の上に立つことが」

 げるように先代皇帝はいんきよを決め、いのちいがわりに何もかもをハディスにゆずった。

 そしてじやつかん十八歳のラーヴェていこくの若き皇帝が誕生したのだ。

「最後に僕のたいかんしきの日に、母上が自殺した。化け物のおさめる国になど住みたくない、だそうだ。これで、呪われた皇帝のできあがりだ」

 言葉がない、というのはこのことだろう。何をどう言えばいいかわからないジルに、ハディスがあわ微笑ほほえむ。

「もう終わったことだ。君が気にすることじゃない」

「で、ですが……陛下は、何もしてないんですよね? 何も悪くないのに、そんな」

だいじようだ。兄上がだいぶ周囲を説得してくれて、今は一応でも、へいおんにすごせている」

「そうなん……ですか?」

「ああ。兄上はラーヴェのことも見えないけれど、信じてくれているし」

 うれしそうに言うハディスに、ジルは別の意味で冷やあせをかきたくなった。

(わたしのおくが確かなら、お前はこれからその兄上や異母兄弟を反逆やら内乱やらでしよけいして回って、ひとりも残らないんだが……!?)

 しかも、これから先、クレイトス側に情報を流すのはヴィッセル皇子だ。ジルはジェラルドと密談している本人を見たことがある。

「もちろん全部がうまくいってるとは言わない。兄上だって思うところはあるだろう。ほかの兄弟にはさけられているしね。だがいつか落ち着いて話せる日がくると、僕は信じたいんだ」

 まさか、そうやって信じよう信じようとして、この皇帝は裏切られ続けるのか。

 そうして最後に絶望するのか。

(それ、は……)

 まだ何も確定ではない。だからかべなぐりつけたくなるようなやるせなさをこらえ、かくれてこぶしにぎり、話を変える。

「……クレイトス王国ではここ数年、ラーヴェ帝国に目立った動きがなく、不思議がっていました。その原因は、陛下ののろいにあったということなんですね」

「そうだな。毎年皇太子が死ぬせいで、ゆうしゆうな人間もだいぶ逃げてしまった。皇帝になってからはとにかく政情の安定につとめた。だが何せ、呪われた皇帝あつかいだ。兄上がおさえてくれてはいるが、誰かが少しをしただけでも僕の呪いだとさわがれるし、一方で皇太子の連続死は最初から僕の仕組んだことじゃないかと疑われている」

 辺境に追いやられ忘れ去られた皇子に、そんなことはつう、無理だ。だが、きようくつなど簡単に押しのける。

「しかも、兄上がまた出来のいいかたで人望もあるから、そちらを皇帝に据えようとする動きがここ最近強くなっている。兄上の意思に関係なくね。呪いだなんだと言っておいて、のどもとぎれば熱さを忘れる、というやつだ」

「……では先の船のしゆうげきも、ヴィッセル皇太子やその周囲が主犯でしょうか? もしくは他のご兄弟の暴走……」

「だが、兄上も他の兄弟も、皇族なら次々に死んでいく身内の姿をの当たりにしている。皇太子になるのは死の宣告だと言われていたこともあったんだ。そう簡単に忘れられる恐怖ではないと思うんだが」

 確かにそんなじようきようで皇族がハディスをはいしようとするかと言われたら、考えにくい。

「なら、まずはベイル侯爵のみを疑うべきですね」

「すまない」

 考えこんだジルに、ふとかげのある顔で、ハディスが言った。

「僕がのろわれているというのはこちらでは有名なんだが、クレイトス王国出身の君がしようさいを知っているとは限らなかったな。けつこん前に説明すべきだった……とにかくかれていて」

「どこまで浮かれてらっしゃったんですか……」

「とはいえ、呪いに関してはもう心配しなくていい。もう君がいるのだから起こらない」

「……どうしてその話に、わたしが?」

 きょとんとするジルに、嬉しそうにハディスが続ける。

「詳細ははぶくが、要はりゆうていに妻がいないと起こる呪いだ、と考えてくれればいい。ラーヴェの祝福を受けたはなよめがいれば、おさまることなんだ」

「だったらさっさとご結婚なさったらよかったのでは……」

 ハディスは十九歳、しかも皇帝だ。花嫁候補など引く手あまただっただろう。ぼくな疑問だったのだが、ハディスは苦笑いを浮かべた。

「言っただろう。僕は辺境の皇子だった。食べ物をあたえず閉じこめてもえ死にもしない、化け物だぞ? せつしよくしたがる人間などいない」

 しまった、と思った。だがもう口から出た言葉は戻らない。できるのは謝罪だけだ。

「……申し訳ありません、考えもなく……」

「何度も言うが、過去の話だ。気にしなくていい。そもそも、ラーヴェが見えなければ祝福も受けられないんだ。たとえ最初から皇太子としてぐうされていたとしても、ラーヴェが見えるりよくの高い女の子なんて、そうそう見つからなかっただろう」

 どうしてジルがかんげいされたかわかってきた。ハディスの浮かれ具合も、やたらとジルに好かれようとする理由も。

(つまり、そばにいたのはラーヴェ様だけで、ずっとひとりぼっちだったのか)

 幸せ家族計画、なんて鹿馬鹿しい単語が今になってずっしり重みを増す。

「……陛下はじんだとは思われないのですか。その……ご家族や国や、周囲に」

「なぜ? 僕はりゆうじんラーヴェの生まれ変わり。皇帝になるべくして生まれ、そうなった。彼らは守るべき僕のたみであり、家族だ。それを否定することは、運命に敗北するということだ」

 ゆっくりと浮かぶ皇帝の微笑は美しく、ほこりに満ちていた。

「ラーヴェがいる。今は君もいる。負けるつもりはないよ」

 未来にいどひとみに、突然、まだふさがっていない傷をひっかかれた気がした。おどろいてまばたきをり返す。

(いや、いくらなんでもそれはちがうだろう。落ち着け。この話をまとめると、陛下がわたしと結婚したがった理由は、呪いをおさめたかったからだ)

 そう考えるとてんがいった。ついでに希望が見える。

「では、ひょっとして結婚相手は十四歳未満という条件もその呪いの関係でしょうか!?」

「いや、絶対条件はラーヴェが見えることで、ねんれいは安全策というか、ただの理想かな」

 聞くんじゃなかった。

「だから、本当に君は僕の理想そのものなんだよ」

「そうですか……わたしは残念です……」

「だってあと三年は何も心配せず、いつしよにいられる」

 引っかかる言い方だったが、ハディスはにこにこしているだけだ。ラーヴェを見ると、そっぽを向かれた。どちらも話す気はないらしい。

うそは言ってないが、本当のことも言っていないな、これは。まだ何か事情がある)

 だが今の状況に関係なさそうだ。時間もないことだし、ジルはさっさと話を変える。

「陛下の周囲に敵が多い、ということはわかりました。それで、陛下はどう対処されるおつもりですか」

「火の粉ははらうし、向こうがその気ならてつてい的につぶす。だが、むやみやたらに争う気はないよ。こちらに手出しさえしてこないなら、文句はない」

 ジルは深呼吸して、気を取り直した。

 ハディスの方針は、ジルの方針とほぼ同じだ。

「ではまず、ベイルこうしやくねらいをつかむために情報収集が必要ですね。陛下はそのまま体調不良ということで、城で休んでいてください。そのほうが相手も油断するでしょうし、安全です。その間にわたしがなんとかします」

 立ちあがったジルに、ハディスは目をぱちくりさせた。

「なんとかって、君がひとりで? どうやって?」

ていさつ任務はわりと得意です。こんなこともあろうかと」

 ジルはゆかいたをはずし、こっそり隠しておいた男の子の服を取り出す。サスペンダーと小さなぼうもついている。ラーヴェがあきれた。

「おいおい、どっからそんなもん手に入れたんだよ」

 ジルはてんじよう近くにある通気口を指さした。

「最初の夜にあそこから一度外へ出て、軍港内にある聖堂から拝借しました。悪いとは思ったんですが、だれかの持ち物ではなく寄付品のようでしたし……」

「ああ、あそこはよく子ども預かったりしてるからな……ってすでに偵察済みとか、じようちゃんつわものすぎだろ」

「ですが夜でしたので、軍港部分をあくするのがせいぜいでした。でも閉じこめられてからずっとおとなしくしていましたから、今なら見張りも油断していると思います。それに、ここの軍港は正直、警備が甘いと思います。ひょっとして、貴族の次男三男あたりがめい職がわりにほうりこまれただけなのでは?」

 ジルの疑問に、ハディスが感心したようにうなずいた。

「そのとおりだ。軍港こそ北方師団を置いているが、あくまでここはベイル侯爵の領土。クレイトスに対する共同戦線とは言っているが、それもずっと休戦状態だからね。あまりおおなものを置くと反感を買う」

「なら、だつそうがばれてもそう大事にならないでしょう。失態を隠すため、もみ消す可能性もあります。わたしが子どもであることも有利に働きます。おまかせください」

 ハディスはまゆをひそめた。

「君の強さは見せてもらったが、それでも危険だ。何かあったら」

「それをいうならこうてい陛下、あなたこそ危険です。本当にベイル侯爵が何かたくらんでいるなら、敵にとらわれているのと同じですから。それに、なめないでください。わたしはあなたの妻です」

 きりっとジルはハディスを見あげた。

「夫が危険にさらされているのに、妻のわたしが動かないなど──陛下っ!?」

 とつぜん胸をおさえてよろめいたハディスに、ジルはあわててけよる。

「どうされましたか、また体調が……」

「そ、そうらしい。む、胸のどうが、激しくて……息が……」

「早くお休みになったほうがいいです。わたしがお送りできればいいのですが……」

「だ、だいじようだ。自分でもどれる……こんなときになんだが、君に言いたいことがある」

 手をハディスの両手に包みこまれた。苦しいのかけんにしわをよせて、あえぐようにハディスが告げる。

「今、僕は、君にありったけのケーキとパンを作りたい……!」

「本当ですか!? でしたらまずは一刻も早く体調をととのえてください……!」

 ハディスの手をにぎり返し、見つめ合う。その様子を見ていたラーヴェが半眼になっていた。

「なんだかなー……まー話がまとまったならハディス、早く戻れよ。本調子じゃないだろ。無茶するとまたベッドに逆戻りになるぞ。転移はできそーか?」

「た、たぶん……」

 立ちあがったハディスがよろよろしていて、あぶなっかしい。

 だが不思議と弱いとか、情けないとは感じない。しかたないなあという、弟や子どもへ向ける目になる。放っておけないと思った。

(うん、そうだ。それだな。……九つ上だが中身は三歳差だし、そこは目をつぶろう)

 どこかほっとして、ジルは微笑ほほえんでハディスを送り出した。



 翌日、朝から体調が悪いふりをして、ジルはとんもぐりこんだ。見張りはこちらが申し訳なくなるほど大層心配してくれて、水と薬をくれた。昼食は先に断り、かせておいてほしいとたのむ。いだ服などをめこんで布団をふくらませ、えたあとは通気口の中へ入った。

 魔力はあまり使いたくない。平常時とはいえ、軍港だ。いくら魔力がラーヴェていこくではめずらしいとしても、魔力を使える兵がいてもおかしくない。

 聖堂の裏側に出たジルは、ほこりを払い、いあげたかみを帽子の中に入れ直す。聖堂で世話になっている少年、という設定だ。軍人の振るいはそのままジルを少年のように見せてくれるし、ベイルブルグにたどり着いてからジルの顔をまともに見ているのはスフィアととびらの見張りくらいしかいない。脱走がばれない限りは、まず見破られないだろう。

(……そういえば聖堂に子どもがいないな? どこかにみなで出かけているのか)

 さてまずどこへ向かおうと首をめぐらせると、れんな声が耳に届いた。

「神父様、私は……私はどうしたらいいでしょうか……!」

 聖堂のほうからだ。窓が開いているのだと気づいて、ジルはそっとびをして中をのぞいてみる。

 中は礼拝堂になっていた。さいだんの前に神父らしき服を着た男性がおり、その前でスフィアがうなだれている。

いやな予感がするのです。とこせっておられますが、あの方はハディス様です。なのにどうして、皇帝ではないかもしれないなどと……お父様は何をお考えなのでしょう。何も心配しなくていいとおつしやるのですが、それでいいのでしょうか」

「ベイル侯爵はあなたのことを思っておられるのです。信じられてはいかがですか」

 おだやかな神父の回答に、スフィアがきつくくちびるみしめて、うなだれた。

「……愛のない政略けつこんだった前妻とのむすめでも、ですか……」

「あなたはハディス様の婚約者候補です。大事にしないわけがありません」

「そう……ですね。ハディス様が目をかけてくださっている間なら……でも、ハディス様は昨日、クレイトスから連れ帰った女の子とお会いになったのです」

 ぎくりとしたジルのあせりを、神父が否定してくれる。

「まさか。ハディス様は臥せっていらっしゃるのでしょう」

「ですが、そうとしか思えません! 昨日まで『僕の紫水晶はどこに』と、ずっと心配しておられて……わ、私は自分のわがままをじたくらいです。なのに昨日からいきなり、『近づくと危険だ動悸がひどい、城で養生する』と仰るようになられて……」

「それは……その、冷静になられたのでは?」

ちがいます! こいする乙女おとめをなめないでくださいっ! ハディス様は恋に落ちかかっておられるのです!」

(いやそれはない)

 しかしジルの心の声はスフィアに届かない。

「そして、今朝はお作りのレシピ本を片っぱしからお読みに……!」

 それはジルのせいかもしれない。

「女性が喜ぶかざりや味について相談されたのです、私に! あれは絶対に小さな女の子を想定しておられますっ……それを私に相談……こ、こんなひどい仕打ちがありますか……!?」

「お、落ち着いて……そうだ、スフィアおじようさまへのおくり物かもしれません」

「そ、それは……はい……でも、ハディス様は……じゅ、十四歳未満でないと……!」

 ついにスフィアがわっと床に伏せて泣き出した。

「こ、婚約の話をもう一度考えていただけないかと言う私に、十四歳未満ではないからだめだと、はっきり……ほ、ほかのことなら努力もできますが、ねんれいはっ……なぜ十四歳未満なのですか!? 十六の私が悪いのですか!? し、しかもそれを聞いたお父様が、十四歳未満の女の子をうたげに呼ぶ準備を……!」

 スフィアのなげきを頭の痛い思いでジルは聞く。だが、いつまでもここでスフィアのを聞いているわけにもいかない。

 申し訳なく思いながらも、そっと窓下からかべにそって移動した。

(確かに年齢でふられると、なつとくはしがたいだろうな。なんで十四歳未満なのかと言いたくもなるか)

 実際、なぜなのだろう。幼女しゆの可能性をはぶき、十四歳、十四歳と考えて歩く。

 クレイトス王国で十四歳といえば、天界でただの少女だったがみがその権能に目覚めたと伝えられている年齢だ。それにちなんで、クレイトス王国に生まれた少女は十四歳の誕生日にかんを作ってもらい特別なお祝いをする──そこまで考えて嫌な思い出がよみがえった。

 じようへきから飛び降りたあの夜の、きっかけになったことだ。

(フェイリス王女の十四歳の誕生日だから、王都に戻って……やめよう、考えるの)

 結局、理由は本人から話してもらうしかない。聞くのがこわい気もするが。

「いやでも近いうちにはっきり聞いておくべきだな……でないとわたしが十四歳になったらどうするのかという問題が──」

「おい、合図はまだかよ」

「門が閉まったらだ、もうすぐだよ。静かにしろ!」

 聖堂の正面に回ったジルは、れ聞こえた声にとっさに近くのしげみに身をかくした。そのまま聖堂前の通りを数人の男達が、どこか急ぎ足で進む。

(おかしいな……ここの軍人は貴族の子息が多いとしたら、何か)

 育ちのよさというのは動きににじみ出る。歩き方がどこかざつで、少し言葉がなまっている気もした。まるで山奥の地方から出てきたようだ。

 だが、着ているものはちがいなく、北方師団の軍服だった。

「標的は間違いなくここにいるんだな?」

 聖堂の扉をさす仕草に、ジルはまばたく。

「ああ、今、神父が引き止めてる。もう片方もなんきんされてる部屋はわかってる」

「基地内に残ってる北方師団のやつらは」

「せいぜい十人程度って話だ。ほとんど使い物にはならねぇだろうよ」

 正直、ぜんとする以外なかった。

(ちょ……待て、だめだめすぎないか北方師団! そんなに弱かったか!? ……ま、まさかこれをきっかけに建て直したのか……)

 いや、問題は今だ。とてもまずいじようきようにあるのではないかと思ってる間に、門がおりたと声があがった。聖堂の扉がやぶられる。中から悲鳴が聞こえた。

「な、なんですかあなたたちは……!」

 スフィアの声だ。やっぱりか、と思ってジルは頭をかかえる。だがすぐ決断した。

(わたしの役目は情報収集!)

「あの、今、悲鳴が……どうしたんですか!?」

 飛びこんだジルに、うでをつかまれたスフィアがなみだり向く。なんだこのガキは、という声といつしよにジルも押さえこまれるまで、そう時間はかからなかった。



 そろそろ読む本をパンのレシピに移そうとしたとき、乱暴なこうと一緒に、両開きの扉があいた。領主の城内とはいえ、こうていが休んでいる部屋だ。冷ややかな目をハディスは向ける。

だれが入っていいと言った?」

「失礼。ですが今はそれどころではございません、陛下。軍港が何者かにせんきよされました」

 護衛を数人つれて入ってきたのはベイルこうしやくだ。うしろで手を組み、かかとをそろえて立つ姿には、元軍属のくせが残っているようにも見えた。

「クレイトスからあなたが連れてきた例の子どもの手引きによるもの、との報告が入ってきております。軍港は門をおろされ、完全に占拠されてしまった。しかもしゆうげき者達は、侯爵家の娘を──我が娘スフィアをひとじちにしている」

 娘の危機を語るにしてはたんたんとした口調だ。ハディスは目だけを持ちあげ、たずねた。

「軍港を守っている北方師団はどうした?」

「あのようなけ共、役に立ちません。いずれにせよ軍港は敵の手に落ちた。侯爵家の私軍を向かわせます。こちらも娘の命がかかっている。文句はありますまいな」

「僕の妻をどうするつもりだ?」

 ベイル侯爵はぴくりとまゆりあげた。

「妻? みつていですよ。目をさましていただきたい。そしてこれを機に、役に立たない北方師団も町から出ていっていただきたい。もともと北方師団のじようちゆうは娘と陛下の関係があったからこそけいぞくした事案ですからな。これは陛下の失態ですぞ」

 ほんのわずかに、ベイル侯爵のくちはじが持ちあがっている。

(それがねらいか。おろかな真似まねをする)

 ベイル侯爵は気位が高い。軍属あがりでせいえいほこる私軍があるのに、平常時から北方師団を常駐させられたこと。本命の後妻の娘ではなく、前妻の娘であるスフィアのほうとハディスがこんになったこと。ことが自分の思いどおりに進まずに、きようを傷つけられたのだろう。

 ハディスはひざの上の本を閉じた。

「わかった、その軍港を占拠したぞくはまかせよう」

「最初からそうしていただきたかったですな」

「ただし、僕の妻が無実とわかった場合は、それ相応のつぐないはしてもらう」

 ベイル侯爵は鹿にしたように笑った。

「ありえませんな、そのようなこと。それより陛下はご自分の心配をなさるべきだ。侯爵家の娘が陛下の失態で死んだ場合の、政情をね」

 どうやら皇后になりそびれた前妻の娘は、皇帝批判の材料にされてしまうらしい。

 勝ち誇った足取りで部屋から出ていく侯爵の後ろ姿を、ハディスはあきれ顔で見送った。

「ああいった手合いを見ると、きよう政治も合理的な気がしてくるな」

「俺は反対はしねーけど、じようちゃんはそういうのいやがるんじゃねーの? 船を襲撃した奴らも全部海に落とすだけで、殺してなかったし」

 するりと体の中から出てきたラーヴェの忠告に、ハディスははたと気づく。

「なるほど……これが妻帯者のつらさか。恐怖政治ができないとは……!」

「で、どうするんだよ、この状況。嬢ちゃん助けにいかねーの?」

「そうしたいのは山々だが、まかせろと言われたしな……それに、僕は近づかないほうがいいだろう。心臓の具合が悪くなる」

 に言ったのに、ラーヴェに白けた顔をされた。

「マジで言ってんだもんな、これ……俺、育て方ちがえたな……」

「そんなことはない、お前は僕を立派に育てた」

「じゃあ聞くけど、ぶっちゃけ嬢ちゃんのことどう思ってるんだよ? 可愛かわいいとか、かっこいいとかさあ」

「どうって……意外と危険人物かもしれないなと」

 ラーヴェに変な顔をされたので、言葉が足りないのかとハディスは言いつのる。

「だって僕の頭から常にはなれないんだぞ? 何をするにしても彼女が気になってしまって、心臓までおかしくなる。およめさんなんだ、僕だってもっと話したいし、そばにいたい。だが、そう考えるだけでも胸が苦しくなってしまうんだ。彼女はりよくが高いから、何か感化されて、新しい病気にでもかかったのかもしれない。たおれてしまうとめいわくがかかるし……」

「うん、もう病気でいいんじゃねぇかな……」

「やはりそうか。早く治さないと、彼女にケーキを作ってあげられない。おいしそうに食べてくれるのがうれしいんだ、本当に可愛くて」

「神って無力だな」

 さとりきったことを言うラーヴェを不思議に思いつつ、ハディスは話を進める。

「だが彼女の無事は絶対だ。ラーヴェ、様子を見てきてくれないか。あれだけ戦える彼女をそう簡単にどうこうできるとは思わないが、僕が動かなければならないようなら動く」

「それだけ? 他には?」

「特にすることはない。下手に僕が出しゃばれば、功績をあげようとしてベイル侯爵が死人を出すだろう。それに、もう僕の中では終わった話だ。いくつか想定した中で一番安易な作戦でこられたが、それは僕をなめてかかっているからだろう」

 ぱたんとハディスは読んでいた本を閉じる。

「裏にいるのが誰にしろ、どうせベイル侯爵自身も使い捨てられるだけのこまだ。もう少し泳がせたかったが、もう見せしめしか使い道がない。北方師団もベイル侯爵が色々ほねきにしていたから、メスを入れるころいだった。いらないものを片づける丁度いい機会だ。最後はここが皇帝のちよつかつになって終わる。そういう茶番劇だ。軍港都市の再建案もできている」

 妻に作るケーキの種類を考えるより簡単な話だ。次はパンだと、ハディスはテーブルに積み上がった本に手をばす。

「多少なりともまともな人間が残ればいいが、ないならないで終わりだな」

「……スフィア嬢ちゃんのほうはどうするよ?」

「助けてやってもいいが、父親のベイル侯爵は死ぬし侯爵家の取りつぶしもありえる。となると今後の彼女は行き場もなく、不幸しかない。できる限りはしてやるが……今後のことを考えるとここで死んだほうが幸せかもしれないな」

「いっそ側室にでもしちまうってのは? めでたく俺の祝福を受けた嫁さんができたし、もうがみはラーヴェていこくに入ってこられない。十四歳以上でもそうけいかいする必要ないだろ」

「入ってくる手段がないわけじゃない。それとも女神に殺されるのかあやつられるのか、ためしでスフィア嬢をそばに置くか? 父親にだけでなく、僕にまで使い捨てられるのか」

 多少なりとも自分をおもってくれた女性に対して、それではあまりに情がない。

 口にはしないハディスの内心に、ラーヴェはそうだなと小さく同意を返した。



 鉄のかせをつけられたジルとスフィアは、聖堂わきにある倉庫に投げこまれた。

「ここでおとなしくしてろ! ったく──おい、見つかったのか、例の子どもは」

「まだだ、見張りに聞いてもわからねぇって言うばかりで」

「わ、わたくしをベイル侯爵のむすめと、し、知ってのっ……」

 スフィアの声も体もふるえている。北方師団の軍服に身を包んだ兵士があざわらった。

「もちろんご存じですよ。説明がおくれましたね。スフィアおじようさま、あなたは人質です。出番までおとなしくしていてください」

「ひ、ひとじち……あ、あなた方はいったい、何が、目的で……」

「我々はクレイトスから参りました。とある少女の手引きでね」

 まえがみをつかまれ頭をぐいと持ちあげられたスフィアが、顔をしかめる。

「ま、まさか……ハディス様が連れ帰ったあの子のことですか……!?」

「そう、なんだったか……ジル、そうジル様だ。我らがラーヴェ皇帝は子どもにだまされたんだよ、鹿にもほどがあるよなァ!」

「ハ、ハディス様をじよくなさらないでください!」

 とつぜん、震えるばかりだったスフィアが声をはりあげた。

「な、何か、そう、私には想像もつかない深いお考えがあるのです! 悪いのはだましたほうでしょう、だまされたハディス様は悪くないです! あの女の子が、そう、近年まれにみる希代のしようわる女だっただけです……!」

 ふんと鼻で笑った兵士がスフィアを乱雑に投げ捨て、踵を返す。ジルが体全体を使ってその背中をき留めると、スフィアは涙目をまたたいた。

「あ、あり……ありがとう……」

「いえ」

「ごめ、ごめんなさいね。こんな小さな男の子まで、私のせいでつかまって……わ、私が十四歳未満じゃないばかりに、ハディス様が悪い女の子にだまされて……!」

 しくしくとスフィアが泣き出した。だが、このじようきようでずいぶん落ち着いているほうだ。

(わりときもわってるな。り散らしたりしないだけ、助かる)

 スフィアとふたりきりになった倉庫内を、ジルはぐるりと見回す。

 物はほとんどなく、がらんとしていた。てんじよう近くの高い位置に、子どもがやっと通れるくらいの小さな窓がひとつある。出入り口は、先ほど男が出ていった鉄製のとびらだけのようだ。窓から差しこむ日の光しかなく、倉庫内は昼間だというのにうすぐらい。

 ジルがげるだけならわけないことだ。だがスフィアを連れてとなると、人手が欲しい。あとは敵の数と情報も欲しかった。

(わたしを密偵に仕立てあげようとしているのはわかるんだが……敵のシナリオをちゃんとかくにんしないと、裏をかけない)

 あいにくジルがなんきん部屋からだつそうしていたため、スフィアといつしよらえられなかった。そのせいで現場は混乱しているのだろう。

 スフィアもさっきの男達もジルを少年だと思っている。正体を明かすのはまだ先でいい。

 今のうちにスフィアと情報を共有すべきだ。

「スフィア様。今日はどうしてこちらに?」

「えっ……お、お父様が……ハディス様のことについて神父様に相談してはどうかって礼拝をすすめてくださって……馬車も出してくださって……」

「そういえば護衛はどうされたんですか? こうしやく家のれいじようでしたら礼拝といえど、聖堂まではついてきたでしょう」

「……みんなつかまってしまったのかも……。あ、あなたは、冷静ね。こわくないの?」

 いつの間にか泣きやんだスフィアが、じっとジルを見ていた。自分の態度がいかに子どもらしくないか気づいたが、さすがにこの状況では取りつくろえない。

「ええ……まあ、その。しゆ慣れしてるので……」

「そう……私はだめね、うろたえてしまって」

「そんなことはないですよ。十分、しっかりしてらっしゃると思います」

「気をつかわなくていいわ。私ひとりじゃ泣いてばかりだったと思うし……でもだいじよう、きっとお父様とハディス様が助けにきてくださるから……」

「……つかぬことをおうかがいしますが、どうしてそこまで皇帝陛下を信じてらっしゃるのですか。その……こんやく者候補だとは聞きましたけど……」

 スフィアはまばたきをしたあと、苦笑いをかべた。

「……私はね、りゆうが好きなの」

 竜、とジルはり返す。竜は天空を守護するりゆうじんの加護があるラーヴェ帝国でしか生まれない。ジルも戦場でしか竜にお目にかかったことがない。

(……ひょっとして今なら、わたしも竜に会えたりのれたりするのか!?)

 つい思考がそれそうになったジルに、すっとスフィアが遠くを指さす。

「ここからもっと北東に、ベイル侯爵家のべつていがあるのだけれど……そこには竜が集まる場所があるのよ。母が早くに死んでしまった私はそこで育ったの。しきに居場所がなかった私は、よく竜が休んでいる場所に逃げたわ。そこならいじわるな家庭教師もさがしにこない。父親に見捨てられた娘だと馬鹿にされることも笑われることもないから……」

 クレイトス王国に竜がいないのでジルは生態にくわしくないが、危険なのではないか。顔に出たのだろう、スフィアがいたずらっぽく笑った。

「竜が危険な生き物だというのはわかっていたわ。竜神ラーヴェ様の使いだもの。でも、小さな子どもだった私に、話しかけてくれたのよ」

「話すんですか、竜が!?」

「言葉がわかるわけじゃないの。あいさつとか、あぶないとか、本当にさいなことをなんとなく感じるだけ……でも私の話を聞いてくれている気がして嬉しくて、毎日竜とお話ししていたら、竜としゃべる頭のおかしな女だとうわさが立ってしまって……」

 どよんといきなりスフィアの目がよどんだ。

みなから完全に遠巻きにされて、もうおよめにもいけないとばかり思っていたわ……でも! その噂を聞いて、私にぜひ会いたいとこうていになったばかりのハディス様がおつしやってくれたの」

 その日からあつかいが劇的に変わったのだとスフィアは嬉しそうに語った。

 ハディスに会わせるのならとベイル侯爵はスフィアをほんていに呼びよせ、たくをさせた。今までがんってきたれい作法やしゆくじよとしての教養が、やっと役立てられる。後妻のままははまいは相変わらず冷たかったが、スフィアが侯爵家にこうけんできるとわかれば、少しは関係も改善されるかもしれない──。

「私、頑張ってハディス様におつかえしようと思ったわ。でも、皆をさがらせたハディス様にたずねられたの。君は僕のかたに何か見えるかって」

 ──きっとラーヴェが見えるのではないかと、ハディスは期待したのだろう。

「私、何も見えなかったの。わかったのはその見えない何かが、とてもハディス様を心配していることくらい。だから正直にそう答えたわ。でも、それがいけなかったのね。もどってお父様にその話をしたら、おこられてしまった。どうして見えると言わなかったんだって」

「……でも、それでは皇帝陛下にうそをつくことになるのでは」

「そうね。でも、お父様が言うには、ハディス様は婚約者候補の女性と会う際には必ず尋ねるクイズみたいなものだったんですって。見えるって言わないのは不正解だと怒られて……支度金や今まで育ててやった分の金を返せと言われたわ。高級しようにでもなればかせげるって」

 ジルの中でベイル侯爵が八つきにしていい男に分類された。

 傷ついた様子もなく苦笑いを浮かべているスフィアが、痛々しい。

「でもそれをたまたま通りかかったハディス様に見られてしまって……私のことをお茶友達にしたいってかばってくださったの」

 ハディスはだれも婚約者を選ばなかった。となると、たとえお茶友達扱いでも、スフィアは女性達の中で一歩きん出た存在になる。ベイル侯爵も無下にはできず、スフィアは帝都のベイル侯爵家の屋敷に住むことになった。

「陛下はおいそがしい方だったけれど、私の扱いが悪くならないよう一ヶ月に一度、必ずお茶をご一緒してくださったわ。とてもおいしいケーキやクッキーを用意してくださって」

 まさか手作りか、と思ったが話に水を差すのはひかえた。

「でも、婚約はできないと仰った。婚約者にすれば私が危ないと」

「危ないって……その、ほかの婚約者候補にいやがらせをされるとかそういう?」

 ふるふるとスフィアは首を横にった。

のろいよ。……皇太子が立て続けにくなったことを、あなたは知ってる?」

「話には聞いております」

「そう。私はずっと地方にいたせいで、陛下の呪いについて詳しくは知らなくて……初めて聞いたときはおそろしいとは思ったわ。でも、いつも陛下はとてもさみしそうだった。ご兄弟にもさけられて。しかたないって言ってらっしゃったけど……おやさしい方なのに……」

「だからお茶友達をやめなかった……スフィア様はゆうかんですね」

 こんな女の子がたったひとりで呪われた皇帝とたいするなんて、勇気がいっただろう。スフィアは目を丸くしたあとで、うすよごれた倉庫のゆかに目を落とした。

「そんなことはないと思うわ。私は陛下のお茶友達でなくなれば、おはらい箱。それが嫌だっただけだから……」

 ふわふわしているだけかと思ったら、ちゃんと自分の置かれた状況をよく見ている。

「陛下はそんな私の下心もすべて承知でお茶会を続けてくださった。私が変死でもしたら、陛下のせいになるのに。そのほうがよほど、勇気がいることじゃないかしら」

「……そうですね」

「だから私、陛下のお力になりたいと思ったの。クレイトス王国に行く前に、思い切って告白したわ。私を陛下の妻にしてくださいって。そうしたら……君には誠実でいたいから、と言ってくださって……じゅ、十四歳未満でないとだめだとはっきり言われて」

 これまでのいい話を台無しにする発言である。思わずジルもそっと目をそらした。

「き、きっと私を傷つけないためのじようだんだと思っていたら、クレイトスから本当に小さな女の子をつれてお戻りになってっ……しかも今回のそうどうはその子が原因だったなんて、陛下をこれ以上の悪評からお守りするには、私はどうしたら……!?」

「お、落ち着いてください。それよりも今をどうにかしないと」

「そ、そうね……そうだったわ、ごめんなさい取り乱して……」

 じりなみだをぬぐって、スフィアがくちびるを引き結ぶ。それを見て、ジルはしようした。

 いい子だ。できるなら助けてやりたい、と思った。

 だが、父親のベイル侯爵は黒だ。

(神父も黒だったしな……むすめを捨てごまか)

 スフィアとふたりでだつしゆつしたとしても、げた先でスフィアのゆうかい犯か殺害犯にされかねない。確実にジルが無実だというじようきように持っていくには、ベイル侯爵のいんぼうを白日のもとにさらすしかない。言いのがれができないよう、大勢の目にあきらかな形で。

(陛下の力を借りれば、痛くもない腹をさぐられる。……わたしだけでどこまでやれるか)

 こちらの利は、手引きした裏切り者としての役を割り当てられたジルがまだつかまっていないことだ。そこに勝機がある。

 だが、スフィアを守りながらとなると──せめてもう少し、人手が欲しい。

「ここに入ってろ! 手間をとらせやがって……!」

「ちょっときたない手でさわんないで、よごれちゃう──きゃっ!」

「フン、笑わせる。たったふたりに手間取るお前らが無能なだけだろうが」

 鉄製のとびらが開き、一人目が悲鳴といつしよに倉庫の中にり飛ばされ、二人目はなぐられてしりもちをついた。三人目は、ぽいっと物のように投げ入れられジルの足元まで転がった。なぜかその手にだつそう前に着ていたジルの上着をにぎっていて、ジルはぎょっと目をく。

(部屋の見張りだった兵士! まずい、顔を見られたら……!)

 と思ったが、見張りの兵士は目を回している。ほっとした。

「おとなしくしてろよ!」

 捨て台詞ぜりふと一緒に鉄製の扉が閉まる。最初に倉庫にほうりこまれたふたりが、のそりと上半身を起こした。

「完全に主犯扱いだな。お前のせいだぞ、この鹿

「アタシのせいじゃないわよ、あんたが暴れるから利用されちゃったんでしょ!」

「……ジークに、カミラ?」

 それは、六年後死んだと聞かされた部下の名前だった。

 ぼうぜんとつぶやいたジルに、ふたりが振り向く。

「なんだ、この子どもは。知り合いか? カミロ」

「うっせぇ本名で呼ぶな的にすんぞ。あ、やだごめんなさぁい。だいじようよ、アタシは優しいカミラお姉さん! こっちはジーク。でも……うぅん、知らない子ねぇ。ごめんなさい、どこかで会ったことあったかしら……あらやだ、どうしたの、泣いてるの?」

 顔を手でおおったジルを、カミラが心配そうにのぞきこむ。おくより若々しいが、右の目尻にある泣きぼくろの位置が同じだ。

「やだーあんたのせいよジーク。あんたがこわい顔してるからおびえてるじゃない。うしろのおじようさんも顔面そうはくになってるし。どうにかなさいよ」

「知ったことか。この顔は地だ」

 口調はき放しているが、どこか気まずげにジークがそっぽを向く。記憶より背が低い気がした。でもいつも気難しげに刻んでいるけんのしわが、変わらない。

 ああ、とジルは笑いに似た息をき出す。

(そうか。わたしは……まだ何もうばわれてないんだな)

 これからだ。──六年前に巻きもどって初めて、心の底からそう思った。

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