第二章 恋と心中、索敵開始
ジルは領主であるベイル侯爵の城に招かれることはなく、
ハディスが目をさまさないので、前後不覚な皇帝陛下の婚約者発言をどう
(きな
ハディスが本当に皇帝かどうかなど、スフィアに確認させればわかることではないのか。
今から起こる歴史を知っていることを差し引いても、雲行きがあやしい。
だが、敵が何を考えどこに
「わたしも事情に
六年後のクレイトス王国では、ここで起こった事件を『ベイルブルグの無理心中』と呼んでいた。
クレイトス王国から帰国したハディスをもてなすために開かれた
侯爵家の失態ではあるが、反逆したわけでもハディスの命を
その対立はクレイトス王国との開戦につながる。ベイルブルグの事件後、皇太子派がクレイトス王国に積極的に
しかし、ジルが知っているのは、あくまでクレイトス王国に流れてきた情報だ。敵国の
(あんな
女性を見かけで判断してはならないのは六年後に学習済みなので、スフィアが無関係だとは思わない。だが、
まだ調べる時間があるうちに、なんとかできないものだろうか。
ハディスの帰国予定は本来、半月ほど先だったらしい。ジルの
「うまく立ち回れば未然にふせげるか、止められると思うんだが……」
ジルをつれて
だが、もし同じことが起これば、開戦の
ジルはラーヴェ帝国の皇帝であるハディスの妻になると決めた。ジェラルドから
歴史を変えるだなんて
それに、故郷やまだ出会っていない部下達とも戦いたくはない。
(……あの未来ではやっぱり……みんな、死んだのだろうか……)
それを想像すると、胸が痛む。だが少なくとも今は生きているはずだ。
たとえもう出会えなくても、それでよしとしようと思った。彼らは自分の部下だったせいでジェラルドに始末されたのだ。だからもう、出会えないのはしかたない。
「
「ラーヴェ様」
「ほれ、差し入れだぞ」
しっとりした
そう、ラーヴェ帝国に
まず料理の品数が違う。パンひとつでも、舌触りやちょっとした
食材だけならクレイトス王国も豊富だ。何せ大地の
だが、
(チェリーと苺を砂糖で煮詰めるなんて、天才なのか!?)
チェリーも苺も、クレイトスではそのまま食べるものだ。砂糖も精製はされているが、大量生産する技術が確立していないので、簡単に使えるほど流通していない。もちろんそのままで十分おいしいのだが、こうして砂糖で煮詰めてパイにされるともう
「おいしそうに食べるなー、嬢ちゃん。軟禁されてるのとか、気にならねーの?」
幸せな気持ちでもぐもぐ
「でも
「重要なのは食欲かぁ。ハディスの見立ては間違ってないってわけだ……」
「陛下の容態はどうですか?」
「やっと聞いたな、そこ。ひょっとしてスフィア嬢ちゃんのこと、
ぱちぱちまたたいて、ジルはパイを食べる手を止めた。
「皇帝陛下に婚約者候補や妻が大勢いるのは
ラーヴェは小さな目をしばたたかせたあと、
「まーそう言うなって、嬢ちゃん。目をさましたときのあの
危機感を
(
赤い顔でパイを
「でも立ち直るのも早いからなーあれは。準備
扉の向こうで見張りの
おそらく見張りを
「僕だ。入らせてもらう」
「はい」
ジルは立ちあがり、ハディスの
(……ん? なんかいい
気になったが、そのまま姿勢を
そんなジルの出迎えに、ハディスは
「君が僕にひざまずく必要はない」
「そうはいきません。あなたは皇帝陛下です」
「どうしてそう
「……その、陛下がわたしを
たとえ幼女
「ですが、形だけの夫婦であるならば、そういった気遣いは不要です」
変な
「形だけの夫婦でも、維持する努力は必要だろう。僕は君に
「い、いえ……そうではありません。それに、今はそれどころではないのでは」
「僕にとってはお嫁さんの
うぐっとジルはつまる。ふっと得意げにハディスが笑う。
「やはりか。僕の読みは当たりだな?」
「
「僕の作ったケーキもパイも、あんなにおいしそうに食べていたのに?」
思わず顔を持ちあげてしまった。
ハディスの顔色はよくなっていた。体調は
だが、なぜか
「!?」
そのまま身を起こしてしまったジルは、ハディスの格好を上から
四角く
いや、そうじゃない。
問題は、なぜ皇帝が三角巾とエプロンを身につけ、鉄板の上に焼きたてのパンをのせてミトンで持っているのかという、そこだ。
(いや問題以前の問題だな!?)
「やはり僕の幸せ家族計画に
ミトン
ふんわりとまだあたたかい。見ているだけでさくさくと鳴り出しそうな生地と、つやのある焼き目。ハディスがやってきたときから
とても
「僕は毒を盛られるのも日常
「……こ、皇帝が、自炊……」
「僕の健康管理もかねていたんだが、それがこんな形で役立つとは……まさに
「ま、まさか、今までわたしが食べていた、ものは……」
皇帝の手料理。
おののくが、このクロワッサンをジルは手放せない。それをとっくに
「よければ、君の食事は僕みずから
いつの間にかジルの目線に合わせて
「夫婦円満の
だいぶ
「朝にはエッグベネディクトを作ろう。クレイトスにはない料理だ。卵をたっぷりかけて、分厚いベーコンをかりかりに焼いたパンに
「……そ、そんな朝食に、わたしは、
「すぐに気が変わるさ。君の舌は、僕の味を知ってしまった。一度知ってしまえば、もう戻れないはずだ。たっぷり、僕を味わい
「ひ、ひわ、
なんとか言い返したジルに、ハディスはきょとんとした。
「子どもだからなんだ。僕のお嫁さんだ。口説いて何が悪い。むしろ
「
「大人など、年齢を重ねただけの子どもだ!」
堂々と大人げないことを宣言したあと、ハディスは甘く微笑む。
「さあ、口をあけて。食べさせてあげよう。君のために作った僕の愛の形を、味を、どうか覚えてほしい。二度と、
「や、やめ」
おいしそうなクロワッサンが
香ばしく焼けたパンの匂いに、バターと砂糖の
「いい子だ。これで君は僕から
「……そん……な……」
すべて飲みこんだあとで、ジルはあとずさり、クロワッサンをつかみ返す。
「そんな馬鹿な夫婦があるか、やってることのおかしさに気づけこの変態皇帝!!」
クロワッサンをハディスの口の中に
「おかしい。何が悪かったんだ」
「お前の頭だろ」
「そんな馬鹿な話があるか。僕の策は
「だからお前の頭だって。お前は
「陛下、ラーヴェ様。まともな話をする気がないのなら、出ていっていただけませんか」
テーブルの上の
だが、ハディスは気を悪くした様子もなく、首をかしげる。
「僕の作ったクロワッサンを食べ尽くしておいて?」
「そ、それは……で、ですが今はそれどころではないでしょう!? 見張りを
「別に。君の顔が見たかっただけだ」
不意打ちに、ジルは
だがハディスは気づいてないようで、足を組み
「まあでも確かに、少々、面倒なことにはなっているな。君はとっくに僕の命令で
そんな皇帝命令を、ジルは聞いた覚えはない。──つまり。
「ベイル
「表向きは従っているふりはしているよ。が、現に君はここにいるし、体調が悪くなったらどうすると心配した
「……まさか、反乱ですか?」
声をひそめたジルに、ハディスは冷たく笑う。
「だとしたら、
「……その、呪われたというのは……?」
「クレイトスでは聞かない話なのか?」
「陛下の周りで人死にとか争いが絶えないとかそういう、よくあるような話でしか」
ジルの言い分に、ちょっとハディスが目を丸くした。
「よくあるような話……まさか、そんな
「作り話と言いたいわけではないんですが、クレイトスとラーヴェはお世辞にも仲がいいとは言えないでしょう? ですので、話半分でしか陛下のことは知りません。ちゃんと陛下の口から陛下のことを聞きたいです」
「自分の目と耳で聞いて僕を判断したい、ということか。……困るな、そういうの」
「はい?」
「僕が君を好きになっちゃうかもしれないじゃないか」
すねた口調で何を言われたのか理解したのは、自分の顔が赤くなってからだった。
「何を言っ……い、いえ、それでいいんじゃないですか!? 陛下はさっきわたしを口説こうとしてましたよね!?」
「僕は君に好きになってほしいんだ。君を好きになりたいわけじゃない」
「はい!?」
「あーあー話が進まねーから、あとにしろ。時間ないんだよ、はい説明!」
さえぎったラーヴェに、ハディスがこほんと
もやもやしたものは残るが、この手の話題はさけたいので、ジルも聞く態勢に入った。
「僕が本来、皇位継承権からほど遠い
それくらいの事情ならジルも小耳に挟んだことがある。
「側室だったお母様の身分が低く、兄のヴィッセル様とどちらかしか帝都に皇子として残すことを許されずに……その、陛下は辺境に追いやられたと」
説明しながらふと気づく。この
そのジルの
「まあ、正確には捨てただと思うが。こいつが見える僕が不気味だったようでね。化け物を生んだと言われていたよ」
ハディスに目配せされたラーヴェが、
「先代も先々代もずーっと何代も俺が見えない皇帝だったからな」
「だが僕は見えていた。だから知っていた。いずれ、自分が皇帝になることを──いや、ならなければならないことを、だ」
異変が起こり始めたのは十一歳の誕生日からだと、ハディスは言った。
顔も知らない
「その次の皇太子は首を
絶句した。知らず、ラーヴェを見てしまう。だがラーヴェは
「俺じゃねーぞ。別にそんなことしなくたって、こいつは皇帝になったっつーの」
「僕は中央に信書を出したが、相手にしてくれたのはヴィッセル皇子──兄上だけだった。だが、兄上だって末端の皇子だ。僕を呼び
「心を病むって、実の兄弟なのに、そんな……」
うろたえるジルが不思議に思うほどあっさりとした態度で、ハディスは話を続ける。
「だが、さすがに五年以上続くと
そして
「最後に僕の
言葉がない、というのはこのことだろう。何をどう言えばいいかわからないジルに、ハディスが
「もう終わったことだ。君が気にすることじゃない」
「で、ですが……陛下は、何もしてないんですよね? 何も悪くないのに、そんな」
「
「そうなん……ですか?」
「ああ。兄上はラーヴェのことも見えないけれど、信じてくれているし」
(わたしの
しかも、これから先、クレイトス側に情報を流すのはヴィッセル皇子だ。ジルはジェラルドと密談している本人を見たことがある。
「もちろん全部がうまくいってるとは言わない。兄上だって思うところはあるだろう。
まさか、そうやって信じよう信じようとして、この皇帝は裏切られ続けるのか。
そうして最後に絶望するのか。
(それ、は……)
まだ何も確定ではない。だから
「……クレイトス王国ではここ数年、ラーヴェ帝国に目立った動きがなく、不思議がっていました。その原因は、陛下の
「そうだな。毎年皇太子が死ぬせいで、
辺境に追いやられ忘れ去られた皇子に、そんなことは
「しかも、兄上がまた出来のいい
「……では先の船の
「だが、兄上も他の兄弟も、皇族なら次々に死んでいく身内の姿を
確かにそんな
「なら、まずはベイル侯爵のみを疑うべきですね」
「すまない」
考えこんだジルに、ふと
「僕が
「どこまで浮かれてらっしゃったんですか……」
「とはいえ、呪いに関してはもう心配しなくていい。もう君がいるのだから起こらない」
「……どうしてその話に、わたしが?」
きょとんとするジルに、嬉しそうにハディスが続ける。
「詳細ははぶくが、要は
「だったらさっさとご結婚なさったらよかったのでは……」
ハディスは十九歳、しかも皇帝だ。花嫁候補など引く手あまただっただろう。
「言っただろう。僕は辺境の皇子だった。食べ物を
しまった、と思った。だがもう口から出た言葉は戻らない。できるのは謝罪だけだ。
「……申し訳ありません、考えもなく……」
「何度も言うが、過去の話だ。気にしなくていい。そもそも、ラーヴェが見えなければ祝福も受けられないんだ。たとえ最初から皇太子として
どうしてジルが
(つまり、そばにいたのはラーヴェ様だけで、ずっとひとりぼっちだったのか)
幸せ家族計画、なんて
「……陛下は
「なぜ? 僕は
ゆっくりと浮かぶ皇帝の微笑は美しく、
「ラーヴェがいる。今は君もいる。負けるつもりはないよ」
未来に
(いや、いくらなんでもそれは
そう考えると
「では、ひょっとして結婚相手は十四歳未満という条件もその呪いの関係でしょうか!?」
「いや、絶対条件はラーヴェが見えることで、
聞くんじゃなかった。
「だから、本当に君は僕の理想そのものなんだよ」
「そうですか……わたしは残念です……」
「だってあと三年は何も心配せず、
引っかかる言い方だったが、ハディスはにこにこしているだけだ。ラーヴェを見ると、そっぽを向かれた。どちらも話す気はないらしい。
(
だが今の状況に関係なさそうだ。時間もないことだし、ジルはさっさと話を変える。
「陛下の周囲に敵が多い、ということはわかりました。それで、陛下はどう対処されるおつもりですか」
「火の粉は
ジルは深呼吸して、気を取り直した。
ハディスの方針は、ジルの方針とほぼ同じだ。
「ではまず、ベイル
立ちあがったジルに、ハディスは目をぱちくりさせた。
「なんとかって、君がひとりで? どうやって?」
「
ジルは
「おいおい、どっからそんなもん手に入れたんだよ」
ジルは
「最初の夜にあそこから一度外へ出て、軍港内にある聖堂から拝借しました。悪いとは思ったんですが、
「ああ、あそこはよく子ども預かったりしてるからな……ってすでに偵察済みとか、
「ですが夜でしたので、軍港部分を
ジルの疑問に、ハディスが感心したように
「そのとおりだ。軍港こそ北方師団を置いているが、あくまでここはベイル侯爵の領土。クレイトスに対する共同戦線とは言っているが、それもずっと休戦状態だからね。あまり
「なら、
ハディスは
「君の強さは見せてもらったが、それでも危険だ。何かあったら」
「それをいうなら
きりっとジルはハディスを見あげた。
「夫が危険にさらされているのに、妻のわたしが動かないなど──陛下っ!?」
「どうされましたか、また体調が……」
「そ、そうらしい。む、胸の
「早くお休みになったほうがいいです。わたしがお送りできればいいのですが……」
「だ、
手をハディスの両手に包みこまれた。苦しいのか
「今、僕は、君にありったけのケーキとパンを作りたい……!」
「本当ですか!? でしたらまずは一刻も早く体調をととのえてください……!」
ハディスの手を
「なんだかなー……まー話がまとまったならハディス、早く戻れよ。本調子じゃないだろ。無茶するとまたベッドに逆戻りになるぞ。転移はできそーか?」
「た、たぶん……」
立ちあがったハディスがよろよろしていて、あぶなっかしい。
だが不思議と弱いとか、情けないとは感じない。しかたないなあという、弟や子どもへ向ける目になる。放っておけないと思った。
(うん、そうだ。それだな。……九つ上だが中身は三歳差だし、そこは目をつぶろう)
どこかほっとして、ジルは
翌日、朝から体調が悪いふりをして、ジルは
魔力はあまり使いたくない。平常時とはいえ、軍港だ。いくら魔力がラーヴェ
聖堂の裏側に出たジルは、
(……そういえば聖堂に子どもがいないな? どこかに
さてまずどこへ向かおうと首をめぐらせると、
「神父様、私は……私はどうしたらいいでしょうか……!」
聖堂のほうからだ。窓が開いているのだと気づいて、ジルはそっと
中は礼拝堂になっていた。
「
「ベイル侯爵はあなたのことを思っておられるのです。信じられてはいかがですか」
「……愛のない政略
「あなたはハディス様の婚約者候補です。大事にしないわけがありません」
「そう……ですね。ハディス様が目をかけてくださっている間なら……でも、ハディス様は昨日、クレイトスから連れ帰った女の子とお会いになったのです」
ぎくりとしたジルの
「まさか。ハディス様は臥せっていらっしゃるのでしょう」
「ですが、そうとしか思えません! 昨日まで『僕の紫水晶はどこに』と、ずっと心配しておられて……わ、私は自分のわがままを
「それは……その、冷静になられたのでは?」
「
(いやそれはない)
しかしジルの心の声はスフィアに届かない。
「そして、今朝はお
それはジルのせいかもしれない。
「女性が喜ぶ
「お、落ち着いて……そうだ、スフィアお
「そ、それは……はい……でも、ハディス様は……じゅ、十四歳未満でないと……!」
ついにスフィアがわっと床に伏せて泣き出した。
「こ、婚約の話をもう一度考えていただけないかと言う私に、十四歳未満ではないからだめだと、はっきり……ほ、
スフィアの
申し訳なく思いながらも、そっと窓下から
(確かに年齢でふられると、
実際、なぜなのだろう。幼女
クレイトス王国で十四歳といえば、天界でただの少女だった
(フェイリス王女の十四歳の誕生日だから、王都に戻って……やめよう、考えるの)
結局、理由は本人から話してもらうしかない。聞くのが
「いやでも近いうちにはっきり聞いておくべきだな……でないとわたしが十四歳になったらどうするのかという問題が──」
「おい、合図はまだかよ」
「門が閉まったらだ、もうすぐだよ。静かにしろ!」
聖堂の正面に回ったジルは、
(おかしいな……ここの軍人は貴族の子息が多いとしたら、何か)
育ちのよさというのは動きににじみ出る。歩き方がどこか
だが、着ているものは
「標的は間違いなくここにいるんだな?」
聖堂の扉をさす仕草に、ジルはまばたく。
「ああ、今、神父が引き止めてる。もう片方も
「基地内に残ってる北方師団の
「せいぜい十人程度って話だ。ほとんど使い物にはならねぇだろうよ」
正直、
(ちょ……待て、だめだめすぎないか北方師団! そんなに弱かったか!? ……ま、まさかこれをきっかけに建て直したのか……)
いや、問題は今だ。とてもまずい
「な、なんですかあなたたちは……!」
スフィアの声だ。やっぱりか、と思ってジルは頭を
(わたしの役目は情報収集!)
「あの、今、悲鳴が……どうしたんですか!?」
飛びこんだジルに、
そろそろ読む本をパンのレシピに移そうとしたとき、乱暴な
「
「失礼。ですが今はそれどころではございません、陛下。軍港が何者かに
護衛を数人つれて入ってきたのはベイル
「クレイトスからあなたが連れてきた例の子どもの手引きによるもの、との報告が入ってきております。軍港は門をおろされ、完全に占拠されてしまった。しかも
娘の危機を語るにしては
「軍港を守っている北方師団はどうした?」
「あのような
「僕の妻をどうするつもりだ?」
ベイル侯爵はぴくりと
「妻?
ほんのわずかに、ベイル侯爵の
(それが
ベイル侯爵は気位が高い。軍属あがりで
ハディスは
「わかった、その軍港を占拠した
「最初からそうしていただきたかったですな」
「ただし、僕の妻が無実とわかった場合は、それ相応の
ベイル侯爵は
「ありえませんな、そのようなこと。それより陛下はご自分の心配をなさるべきだ。侯爵家の娘が陛下の失態で死んだ場合の、政情をね」
どうやら皇后になりそびれた前妻の娘は、皇帝批判の材料にされてしまうらしい。
勝ち誇った足取りで部屋から出ていく侯爵の後ろ姿を、ハディスは
「ああいった手合いを見ると、
「俺は反対はしねーけど、
するりと体の中から出てきたラーヴェの忠告に、ハディスははたと気づく。
「なるほど……これが妻帯者のつらさか。恐怖政治ができないとは……!」
「で、どうするんだよ、この状況。嬢ちゃん助けにいかねーの?」
「そうしたいのは山々だが、まかせろと言われたしな……それに、僕は近づかないほうがいいだろう。心臓の具合が悪くなる」
「マジで言ってんだもんな、これ……俺、育て方
「そんなことはない、お前は僕を立派に育てた」
「じゃあ聞くけど、ぶっちゃけ嬢ちゃんのことどう思ってるんだよ?
「どうって……意外と危険人物かもしれないなと」
ラーヴェに変な顔をされたので、言葉が足りないのかとハディスは言いつのる。
「だって僕の頭から常に
「うん、もう病気でいいんじゃねぇかな……」
「やはりそうか。早く治さないと、彼女にケーキを作ってあげられない。おいしそうに食べてくれるのが
「神って無力だな」
「だが彼女の無事は絶対だ。ラーヴェ、様子を見てきてくれないか。あれだけ戦える彼女をそう簡単にどうこうできるとは思わないが、僕が動かなければならないようなら動く」
「それだけ? 他には?」
「特にすることはない。下手に僕が出しゃばれば、功績をあげようとしてベイル侯爵が死人を出すだろう。それに、もう僕の中では終わった話だ。いくつか想定した中で一番安易な作戦でこられたが、それは僕をなめてかかっているからだろう」
ぱたんとハディスは読んでいた本を閉じる。
「裏にいるのが誰にしろ、どうせベイル侯爵自身も使い捨てられるだけの
妻に作るケーキの種類を考えるより簡単な話だ。次はパンだと、ハディスはテーブルに積み上がった本に手を
「多少なりともまともな人間が残ればいいが、ないならないで終わりだな」
「……スフィア嬢ちゃんのほうはどうするよ?」
「助けてやってもいいが、父親のベイル侯爵は死ぬし侯爵家の取り
「いっそ側室にでもしちまうってのは? めでたく俺の祝福を受けた嫁さんができたし、もう
「入ってくる手段がないわけじゃない。それとも女神に殺されるのか
多少なりとも自分を
口にはしないハディスの内心に、ラーヴェはそうだなと小さく同意を返した。
鉄の
「ここでおとなしくしてろ! ったく──おい、見つかったのか、例の子どもは」
「まだだ、見張りに聞いてもわからねぇって言うばかりで」
「わ、わたくしをベイル侯爵の
スフィアの声も体も
「もちろんご存じですよ。説明が
「ひ、ひとじち……あ、あなた方はいったい、何が、目的で……」
「我々はクレイトスから参りました。とある少女の手引きでね」
「ま、まさか……ハディス様が連れ帰ったあの子のことですか……!?」
「そう、なんだったか……ジル、そうジル様だ。我らがラーヴェ皇帝は子どもにだまされたんだよ、
「ハ、ハディス様を
「な、何か、そう、私には想像もつかない深いお考えがあるのです! 悪いのはだましたほうでしょう、だまされたハディス様は悪くないです! あの女の子が、そう、近年まれにみる希代の
ふんと鼻で笑った兵士がスフィアを乱雑に投げ捨て、踵を返す。ジルが体全体を使ってその背中を
「あ、あり……ありがとう……」
「いえ」
「ごめ、ごめんなさいね。こんな小さな男の子まで、私のせいでつかまって……わ、私が十四歳未満じゃないばかりに、ハディス様が悪い女の子にだまされて……!」
しくしくとスフィアが泣き出した。だが、この
(わりと
スフィアとふたりきりになった倉庫内を、ジルはぐるりと見回す。
物はほとんどなく、がらんとしていた。
ジルが
(わたしを密偵に仕立てあげようとしているのはわかるんだが……敵のシナリオをちゃんと
あいにくジルが
スフィアもさっきの男達もジルを少年だと思っている。正体を明かすのはまだ先でいい。
今のうちにスフィアと情報を共有すべきだ。
「スフィア様。今日はどうしてこちらに?」
「えっ……お、お父様が……ハディス様のことについて神父様に相談してはどうかって礼拝をすすめてくださって……馬車も出してくださって……」
「そういえば護衛はどうされたんですか?
「……みんなつかまってしまったのかも……。あ、あなたは、冷静ね。
いつの間にか泣きやんだスフィアが、じっとジルを見ていた。自分の態度がいかに子どもらしくないか気づいたが、さすがにこの状況では取り
「ええ……まあ、その。
「そう……私はだめね、うろたえてしまって」
「そんなことはないですよ。十分、しっかりしてらっしゃると思います」
「気を
「……つかぬことをおうかがいしますが、どうしてそこまで皇帝陛下を信じてらっしゃるのですか。その……
スフィアはまばたきをしたあと、苦笑いを
「……私はね、
竜、とジルは
(……ひょっとして今なら、わたしも竜に会えたりのれたりするのか!?)
つい思考がそれそうになったジルに、すっとスフィアが遠くを指さす。
「ここからもっと北東に、ベイル侯爵家の
クレイトス王国に竜がいないのでジルは生態に
「竜が危険な生き物だというのはわかっていたわ。竜神ラーヴェ様の使いだもの。でも、小さな子どもだった私に、話しかけてくれたのよ」
「話すんですか、竜が!?」
「言葉がわかるわけじゃないの。
どよんといきなりスフィアの目がよどんだ。
「
その日から
ハディスに会わせるのならとベイル侯爵はスフィアを
「私、頑張ってハディス様におつかえしようと思ったわ。でも、皆をさがらせたハディス様に
──きっとラーヴェが見えるのではないかと、ハディスは期待したのだろう。
「私、何も見えなかったの。わかったのはその見えない何かが、とてもハディス様を心配していることくらい。だから正直にそう答えたわ。でも、それがいけなかったのね。
「……でも、それでは皇帝陛下に
「そうね。でも、お父様が言うには、ハディス様は婚約者候補の女性と会う際には必ず尋ねるクイズみたいなものだったんですって。見えるって言わないのは不正解だと怒られて……支度金や今まで育ててやった分の金を返せと言われたわ。高級
ジルの中でベイル侯爵が八つ
傷ついた様子もなく苦笑いを浮かべているスフィアが、痛々しい。
「でもそれをたまたま通りかかったハディス様に見られてしまって……私のことをお茶友達にしたいってかばってくださったの」
ハディスは
「陛下はお
まさか手作りか、と思ったが話に水を差すのは
「でも、婚約はできないと仰った。婚約者にすれば私が危ないと」
「危ないって……その、
ふるふるとスフィアは首を横に
「
「話には聞いております」
「そう。私はずっと地方にいたせいで、陛下の呪いについて詳しくは知らなくて……初めて聞いたときは
「だからお茶友達をやめなかった……スフィア様は
こんな女の子がたったひとりで呪われた皇帝と
「そんなことはないと思うわ。私は陛下のお茶友達でなくなれば、お
ふわふわしているだけかと思ったら、ちゃんと自分の置かれた状況をよく見ている。
「陛下はそんな私の下心もすべて承知でお茶会を続けてくださった。私が変死でもしたら、陛下のせいになるのに。そのほうがよほど、勇気がいることじゃないかしら」
「……そうですね」
「だから私、陛下のお力になりたいと思ったの。クレイトス王国に行く前に、思い切って告白したわ。私を陛下の妻にしてくださいって。そうしたら……君には誠実でいたいから、と言ってくださって……じゅ、十四歳未満でないとだめだとはっきり言われて」
これまでのいい話を台無しにする発言である。思わずジルもそっと目をそらした。
「き、きっと私を傷つけないための
「お、落ち着いてください。それよりも今をどうにかしないと」
「そ、そうね……そうだったわ、ごめんなさい取り乱して……」
いい子だ。できるなら助けてやりたい、と思った。
だが、父親のベイル侯爵は黒だ。
(神父も黒だったしな……
スフィアとふたりで
(陛下の力を借りれば、痛くもない腹をさぐられる。……わたしだけでどこまでやれるか)
こちらの利は、手引きした裏切り者としての役を割り当てられたジルがまだつかまっていないことだ。そこに勝機がある。
だが、スフィアを守りながらとなると──せめてもう少し、人手が欲しい。
「ここに入ってろ! 手間をとらせやがって……!」
「ちょっと
「フン、笑わせる。たったふたりに手間取るお前らが無能なだけだろうが」
鉄製の
(部屋の見張りだった兵士! まずい、顔を見られたら……!)
と思ったが、見張りの兵士は目を回している。ほっとした。
「おとなしくしてろよ!」
捨て
「完全に主犯扱いだな。お前のせいだぞ、この
「アタシのせいじゃないわよ、あんたが暴れるから利用されちゃったんでしょ!」
「……ジークに、カミラ?」
それは、六年後死んだと聞かされた部下の名前だった。
「なんだ、この子どもは。知り合いか? カミロ」
「うっせぇ本名で呼ぶな的にすんぞ。あ、やだごめんなさぁい。
顔を手で
「やだーあんたのせいよジーク。あんたが
「知ったことか。この顔は地だ」
口調は
ああ、とジルは笑いに似た息を
(そうか。わたしは……まだ何も
これからだ。──六年前に巻きもどって初めて、心の底からそう思った。
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