第一章 発令、竜帝攻略作戦
危機が
そして今この
すなわち──何が起こっているかよくわからないが絶対にこの
「お父様にお母様、わたしちょっと人ごみに
「あら、あなたの大好きな
「胸焼けがするので!」
「なんだと、お前が胸焼け? 悪い病気じゃあないのか?」
豚の丸焼きが食べられない
(落ち着け、落ち着け! これは夢か? それとも、あっちが夢か?)
テラスに出るところで一瞬足を止めて、もう一度硝子で自分の姿を見た。そっと指先で
(わたしが若返った? いや違う、お父様とお母様が生きていらっしゃる。わたしの
口を押さえようとして、その手を見る。すでにこの年で
そう、この
普通のご令嬢が武術を嗜むのかどうかは考えずにおくとして──それでも、そのことはジルに一筋の光明をもたらした。もし、本当に時が戻ったならば、まだ自分は軍神令嬢と呼ばれておらず、ジェラルドのために戦場を駆けてもいない。
ジェラルドの婚約者にも、なっていない。
「……やり直せる?」
いったいどうしてこうなったのかはわからない。けれど、そうつぶやいていた。ぎゅっと小さな手を握りしめる。
戦場では現状を
(とにかく過去に戻ったのだと想定して動こう。もしジェラルド様に
国境を守る信任厚い辺境
だとしたらいちばんの手段は、求婚されずにこのパーティーをやりすごすことだ。
(だったら、わたしはすでにやりすごしたのでは……?)
過去が過去のまま進むならば、先ほど、目が合った直後にジェラルドはジルのもとへまっすぐやってきて、求婚した。
だとしたら、テラスに出た時点で、すでに過去は記憶どおりではなくなっている。
「そこから
「ジル
「出た───────────────!!」
思わず
「出た?」
「い、い、いえ……なんでも、ございませんですわよ」
うろたえに加えて、無理に令嬢っぽくしようとした口調が余計におかしい。
だが、パーティーが始まったばかりだというのに、
求婚されたときにもらったのだ。ついでに思い出す。いつぞや求婚の理由を
(もう目があった時点で
冷や
品物を検分するようだ、と思ってしまう。なぜなら、彼がこの時点で実の妹を愛していると知っているからだ。
「失礼した。私はジェラルド。ジェラルド・デア・クレイトス……この国の王太子だ」
「そ、そうでございますですのね」
「あなたは、サーヴェル家のジル姫だな」
ジェラルドがいささか
「……あなたに大事な話がある」
星がまたたく夜空の下で、王子様が進み出てくる。シャンデリアがきらめくダンスフロアの真ん中での求婚も
そう、相手が
(ここで大声でばらしてやるとか!? あ、
「
「あっなんてこと、お父様とお母様が心配しているのに
大声でさえぎって、その場を早足で
(ここは逃げねば! これが夢という可能性もあるが、だからといってこのままでは……今度は知ってる分、余計最悪だ! 人生早期
だからといって、すでに目をつけられてしまったらしい今、どんな手が打てるだろう。ジルは人をかき分け、進みながら考える。
テラスから出てきたジェラルドの姿がちらと見えた。このまま
「ジル姫! どうして逃げる」
お前はもう捨てた男だからだよ、と言えたらどんなにいいだろう。だが、声をあげた第一王子の姿に注目が集まりつつある。聞こえないふりをして時間を
(第一王子の求婚を、
現実
「ジル姫!」
どうにか人の輪から
(そうだ、わたしから求婚すれば……巻きこんだ責任は取る! しあわせにする!)
ならば、子どもの
ジェラルドが息を
とにかくこの場を逃げ出してしまわなければ──その一心で、叫ぶ。
「わたし、この方に
「ジル!?」
その、子どもの戯れ言と流すにはやや
「わかった。では君を妻に」
それはジルが望んだような、大人が子どもの戯れ言を受け流す返答ではなかった。
低くて、
一度味わえばもう忘れられなくなるような。
(き、聞き、覚えが……ある)
戦場で、つい最近──いや六年後か、ややこしい。とにかくこの先の未来で、ラーヴェ
「お
「ジ……ジル・サーヴェル……」
「サーヴェル辺境伯の
こん、とグラスをテーブルに置く音がして、男性が立ちあがる気配がした。同時にふわりと
シャンデリアの光を
抱きあげたジルを
「どこぞの島国には飛んで火に入る夏の虫、という言葉があるそうだ。ご存じかな?」
ぶんぶんと首を横に振った。だから、
「そうか。だが
ジェラルドは何も言わない。これ以上なく険しい顔をして、
そういう意味で、ジルが直感的に選んだ相手は非常に正しかった。
正しいのだが、人生の
「このハディス・テオス・ラーヴェ、
そう言ってジルの前に
たった
白銀の
空からの
「ひとり残らず殺せ」
赤く燃える夜空からこちらを見おろして、敵国の皇帝が感情のない声で命じた。
「子どもも、女も、赤ん
その声は真冬の
「だが簡単には殺すな。母親の前で赤ん坊の目をえぐれ。夫の前で妻をなぶれ。兄弟で殺し合わせろ。生まれてきたことを
それは
悪逆非道の、
(──止める!)
剣を
戦争とはいえ
こんな敵ではなかった。
銀色の魔力が
なのに、この皇帝はいつからこんなふうになったのだろう。
ふと顔をあげた皇帝が、突っこんでくるジルへ向けて虫を振り払うような仕草で魔力の
その派手な
振り向かせてやった。そのことに勢いを得たジルは、あやうく死ぬところだったのも忘れて
「うちの負けだ、認める! だからそちらは早々に兵を引きあげろ!」
皇帝が
「負けているのに、なぜお前が命じる」
話ができるじゃないかと、その人並み外れた
「どうしても
「ご立派なことだ。だがどうせ、最後はどうして自分がと
「誰が泣かされるか、お前のような弱い男に」
「弱いだと? この俺が?
「では、お前はわたしより強い男か?」
「そうやって
金色の瞳が
「興が
「いいのか。──おい答えろ、わたしをとらえなくていいのか!?」
「お前のような色気のない女をとらえて何が楽しい」
ぽかんとしたジルを残して、
あとには
だが、ジルの心中がそれでおさまるはずがない。
「わ、わた、わたしに色気がないだと!?」
そして、おそらく今から六年後のことでもある。
(ああ、昨日でも六年後でもいい。やっぱり全部夢だ。夢に
目がさめたら生きているといいな、と思った。
できれば、
だって今
髪に
ふと風を感じて、
「……ここは王城……の、客間か?」
「ああ、よかった。目がさめたのか」
続きの奥の部屋から入ってきたのは、先ほど夢に出てきた相手だった。
ハディス・テオス・ラーヴェ──夢よりもまだ若い。だが見間違うことなどありえない、隣国ラーヴェ
思わず両手で
そんなジルの様子がわかっているのかいないのか、ハディスはつかつかと歩いてきて、目の前にしゃがんだ。
時計の秒針の音が
「もう一度求婚してほしい」
「……はい?」
「これが夢じゃないと確かめたい」
警戒も忘れて
(ろ、六年後とずいぶん印象が違うような……)
どうしたものか迷っていると、
「どうして返事をしない? ……ひょっとして、まだ具合が悪いのか?」
「え……あ……わ、わたしは、どうしてここに……き、記憶が
「気絶したんだ。……まだ無理はさせないほうがいいな、失礼」
「へっ!?」
突然、
「
「それとも、何か軽く食べられるものでも用意したほうがいいかな。ああ、起きているならこれを。足元が冷えるだろう」
寝台のすぐそばに置いてあった室内
この男は
「こ、皇帝陛下にそこまでしていただかなくても、自分でできます!」
「
満足げに下から微笑まれ、
他に類を見ないような美しい男の微笑とくれば、もはやそれは
(お、男は顔じゃないとはいえ、正直、好みの顔だ……どこにも
はっと我に返った。自分はこの男に
「あのっ……」
だが、乱暴に開かれた
「向こうも君の目覚めを待ち構えていたようだな」
「え……」
「ジル・サーヴェル! どういうことか話を聞かせてもらおうか」
「君は何を考えている。私の話も聞かずに
「ジェラルド王子。こんな小さな子をいきなり質問責めにするなんて、
横からハディスがわって入った。ジェラルドが冷ややかに応じる。
「失礼。ですが、ラーヴェ帝国には関係のない話です。大体、あなたの客間は別にあるはずですが、なぜこちらに?」
「
「あなたと彼女は婚約などしていない。国王も彼女の両親も認めないだろう。それに、彼女と婚約するのは私だ。そう内々に話が決まっていたのだからな」
びっくりして顔をあげた。そんな話、聞いた覚えはないのだが──ああでもと両親の顔を思い
(絶対に忘れてるな、お母様もお父様も……)
おっとりした両親は政治力にとにかく欠ける。だから、サーヴェル
しかし、婚約が内々に決まっていたなら、ジルがジェラルドを
「皇帝だからと知った顔で我が国の事情に踏みこまないでもらいたい。
「内政干渉? ただ、君がふられて
「そんなことよりも、もっと大事なことに目を向けるべきだろう。君はいずれ、この国の王になるのだから」
「忠告はありがたく受け取っておこう。
対するハディスは、あくまで不敵な
「わかってくれたなら結構。勝てない相手に
「言ってくれる。私を
ふっと目をさましたように、ハディスが金色の瞳を見開く。雰囲気が一変した。
「さがれ」
がしゃがしゃと
(ま、
圧倒的な
その場から飛びのきたい思いをこらえながら、ハディスの横顔を見た。
「後始末は君にまかせるよ」
ハディスに肩を
「
歯ぎしりするジェラルドに、ハディスは
「すまない、
高鳴りに似た
(やっぱりこの男、強い……!)
さぐるようなジルの視線を受けて、ハディスが破顔した。
「君は平気そうだ。やはり僕の目に
「あれをやりすごせなくては戦場では生き延びられ──」
今の自分は軍神
「しかし、ここではゆっくり話もできそうにないな。ジェラルド王子があれで
「あ、愛……いえ、本?」
「
顔がいい男が言うと思わず頷いてしまう。だが、はたと気づいた。
(……今のわたしは、十歳なんだよな?)
そしてこの男は今、
(政治的な理由もなく大人の男性が十歳の子どもと婚約するなんて、幼女
一気に頭から血の気が引くと同時に、視界が一変した。
「君の魔力が安定していないようだし、移動は船にしよう。念のため持ってきてよかった」
「は!? え!?」
急いで周囲を見回す。先ほどまで高かった
どこかに転移した。
「大丈夫だ、魔力で飛ばせば数時間でラーヴェ帝国の領土に入る」
ええええええとジルが
型破りな育ち方をしているが、ジルも貴族の令嬢だ。
そわそわしていると、ハディスはすぐに察して船室の衣装ダンスを開いて見せてくれた。「こんなこともあるかもしれないと思って」と説明された中には、ジルくらいの体型の女の子が着るもの──イブニングドレスからワンピース、乗馬服まで用意されていた。
絶句するジルに好きなものを着ていいと言い残し、ハディスは出ていったが、そういう問題じゃない。
(なんで用意されてるんだ!? まさか最初から幼女をさらうつもりでクレイトスに訪問……考えるのやめよう、
さらわれた幼女が自分かもしれないという事実からも、目をそらしたい。
ジルが選んだのは乗馬服に似た制服だった。軍事学校か
とりあえずジェラルドから逃げ出すことには成功したのだ。
だが、このままですむかどうかについてはまた話が別だ。
ジェラルドはクレイトス王国の王太子で文武両道、
だから、ハディスとの婚約は、これ以上ない盾になる。わかっている──とここまで考えるとやはり、行き着く問題が一周した。
(どうなんだ。幼女趣味なのか? 変態の次にまた変態って、どれだけ男運がないんだわたしは!? というかこの大陸の最高位につく男は、実は変態しかいないのか!)
そして最大級の問題は、そんな男を愛せるのか、ということである。
これじゃない、あれじゃないと『次』を
「だからって、次もハードル高すぎるだろう……! わたしに救いはないのか!」
「もう入っていいかな」
こん、と船室の扉を叩く音がした。
「
「あの、お茶でしたらわたしが!」
「あぶないだろう」
簡潔に言われて、ジルは気づいた。お茶を
「皇帝だなんて気を
「き、気が早い……ですね……ま、まだ正式に
「何事も早く自覚を持つにこしたことはない。それに、これは薬湯だよ。お茶というほど形式張ったものでもない。少し苦いから、口直しにはこれを」
ハディスが手のひらを上に出した。と思ったら、何もない空間からぽんと音を立てて、小さなケーキが出てくる。雪のように真っ白なクリームのうえにたくさんの
(ケーキが光ってる……! こんなの見たことないぞ!?)
そういえば昨夜のパーティーから──ややこしい時間感覚だが、六年後の
「本当はもう少し軽いものを用意したかったんだが、あいにくこれしかなくてね」
「こ、これで十分です、むしろこれがいいです! い、いた、いただいても!?」
「そのために用意したんだ。さあどうぞ」
食欲にすべてを持っていかれたジルは、目を輝かせて切り分けられたケーキを
「口にあったかな? ──ならよかった」
幸福のあまり言葉を失って首を縦に
(生きててよかった……! そういえばラーヴェ
皇帝の妻になれば、ラーヴェ帝国の料理食べ放題ではないだろうか。別に愛がなくたっておいしい食べ物があれば、案外、人生のりきれる気がする。
あっさり
「クリームがついている」
ハディスはジルの
ぼんっとそのまま頭から湯気が出そうになったジルだが、すぐにはっとする。
(こ、子ども相手に平然と……手が早いんじゃないか!?)
ときめいている場合じゃない。ごくんと糖分を体に補給して、勢いよく顔をあげる。
「
カップを受け皿に置いて、ハディスが何度かまばたきしたあと、首をかしげた。
「質問の意味がわからない。もっと的確に言ってくれないか」
「……わたしはまだ十歳です」
「理想的な
ぞわっと
「十四歳未満でそれだけの
「……」
「しかも僕に求婚してきたんだ。そ、それって僕を好きだってことだよな……!?」
「…………」
「
「……こ、皇帝がまさか幼女趣味の変態……? しかも、子どもの
思わず
相手は皇帝だ。子どもでも、無礼は許されない相手だ。現にハディスは
「……戯れ言……?」
「い、いえ、その……こ、高貴な方々にはありがちな趣味ですよね!」
「それは、求婚が
気にするのはそこか。
だが、ハディスは、いやまさかと、
「ありえない。この僕が子どもにだまされたなんて、そんな馬鹿な話が……」
「一応、
「……え、えぇと」
「ないのか、あるのか。どっちだ。はっきりしてくれ」
「──あのっ実は事情がございまして! 申し訳ございません、陛下のことはなんとも思ってません! 求婚は噓です!」
と思ったら、かっと金色の両眼を見開いて、
「……ラーヴェ、笑ってないで出てこい……!」
ぶわっとハディスの
思わず身構えたジルの前で、白銀の魔力が白く輝く生き物へと形をとりはじめる。
(……
正確には
だが静かに開かれた金色の
「ぎゃははははは! だから言っただろーこんな都合のいい話あり得ねぇって。それをお前は
ハディスは、神っぽかった生き物をべしっと
「今日の夕食は焼き
「おまっもう少し
「言い残す言葉はそれだけだな?」
「あーうん、お前は
ハディスは真っ赤になって、蛇のような動きで
「お前が口説けって言ったから……! 確実に逃がさないためには必要だと!」
「いやーでも悪くはなかっただろ、なあ
神々しさなどかけらもない光景に
「俺の声が聞こえてるし見えてるよな? それに
「じゅ、十分、驚いてますが……」
「
「……僕のあの圧に
ジルが間に入ったことで冷静になったのか、ハディスが剣をおさめる。
「怪奇現象!? 竜神を怪奇現象
「あの、竜神なんですか。……竜神ラーヴェ?」
また話が
「どう見ても蛇だが、そうらしいよ」
「
そう言われても、翼の生えた蛇にしか見えない。
(お、おとぎ話じゃなかったのか……あの伝説……)
ここプラティ大陸の成り立ちは、愛と大地の
クレイトス王国は女神の加護として
だが建国から千年、まさかまだ神が存在するとは思わなかった。
ジルの
「俺が見えて、しゃべれる。んー条件はぴったりなんだよなー。年齢は……ハディス、お前十九だっけ。このお嬢ちゃんは?」
「十歳だそうだ。九歳差だから、
「はあ!?」
思わず
「常識だろう。僕の母は十六のとき、四十の父と
「で、でもわたしはまだ十歳でして……お、お
「……世継ぎ」
口の中で
「ま、まだ出会ったばかりで子作りの話なんて、どうかと思うな……!?」
「そ、そういうことは手順が大事だ。もっと話をしたり
「あの、失礼ですが外見と中身が合ってなさすぎませんか……」
「うーん。やっぱ本を読ませただけだと
ラーヴェを見ると、てへっと舌を出された。製造物責任者は竜神だ。
頭を
「外見と中身が違う、か……つまり僕は、期待はずれだった、ということだろうか」
「え」
「……本当に、
良心に突き刺さる、
だがほだされるわけにもいかない。ジルはおそるおそる言い返す。
「むしろ、本気にしてはいけないことでは……わ、わたしはほら、まだ子どもですよ?」
「そうだな……いや、わかっていた。十四歳未満で、
ものすごい罪悪感がこみあげてきた。あーあとラーヴェがジルの頭の上でつぶやく。
「落ちこませた。軽々しくこいつに求婚なんてするからだぞ、お嬢ちゃん。責任とれよー」
「わ、わたしのせいでしょうか!?」
「そうに決まってんだろ。こいつは弱いんだよ、心も体も」
「ラーヴェ、彼女を責めるな。悪いのは僕だ。確かに、十歳の子どもの求婚を真に受けるなんて、どうかしている。どんなに強がってみたところで、僕にそんなしあわせがやってくるはずがないって、知ってたのに……」
テーブルに手をついて、ハディスが
「浮かれてしまったんだ。一生かけてしあわせにするなんて言われたのは、初めてで」
言った。確かに言った。
「いや……いいんだ、ひとときのいい夢を見させてもらった。そう思えば」
「……その……わたしこそ、子どもだからと甘えて
「この借りはいずれなんらかの形で返そう。君の名前は忘れない」
やや
「サーヴェル辺境領だな。……決して、忘れない。決してだ」
「それはどういう意味ですか!?」
「今なら大事にはならないだろう。君はちゃんと、クレイトスに帰すよ」
金色の瞳が
ここでそうですかと
「でも本当に、
はっと顔をあげた。ハディスは驚くほど
「ありがとう」
──ジルが求婚に
そしてこれから先、こんなに喜んでくれるひとが現れるだろうか。
(せ、責任は取ると決意して求婚したんだろう、ジル・サーヴェル……!)
どんなに言い訳しても、自分は裏切れない。何より自分が利用するために求婚し、いらなくなったら捨てる──それは、自分がジェラルドにされたことと同じではないか。
この皇帝は悪くない。たぶん、悪くない。きっと、悪くない。おそらく、悪くない。
──ひとり残らず殺せ。
(ろ、六年後の話だ……! 今はまだまともに見えるし、時間はある。幼女
「残りのケーキはお
よし、いい男だ。
「前言
がしゃんと音を立てて、ハディスが持っていたカップを落とした。
「えっ……な、何をまた、
「不安にさせてしまい、申し訳ございませんでした。それとも撤回は不可能でしょうか」
「だが君は、本気ではなかったんだろう?」
「これから本気にすればいいのです。ケーキにくらべれば
「や……やめてくれ。またそうやって、僕を
「わたしに二言はない!」
胸をはったジルに、ハディスが大きく両眼を見開いた。
「信じてください。あなたを必ず更生──いえ、しあわせにします。
「そ、それじゃあついにできるのか、僕にお
「あー聞いてる聞いてる。お前もお
「あの、ですがわたしがまだこの
いきなり
「形だけでいい。ありがとう。大事にする、僕の紫水晶」
心の底から喜んでいるとわかる声に、ジルの頰にもつい熱がこもる。だが、すぐにハディスははっとしてジルを
「す、すまない。嬉しくてつい。まだお茶をしたばかりの関係だった」
きりっとした顔で言われるとなんだか
(変な男だな。いやでも、形だけでもいいって……)
ふと冷静になったジルの手をハディスが取った。
「正直、恋も愛もわからないが、僕が本気だということは示せる」
何かと見あげると、
「ラーヴェ、僕の妻に祝福を」
「はいよ」
ラーヴェがジルの頭上をくるりとまわった。きらきらと、光の
「これは……?」
「
指輪はハディスの
ジルは指輪をはずして
「……。あの、はずれないんですが……」
「そう簡単にはずれたら目印の意味がないじゃないか。結婚式を挙げるまで君は対外的には
ハディスの言葉に
(目印なぁ……特に害がないならいいが。本気だってことだし……)
でも、今度は
ふとしたときに
この男は決して、ジルに恋をしているわけではないのだ。
恋は目をくらませる。それをもうジルは知っている。なら、次に選んでいい男だと確信するまでは、好きにならないほうがいい。
(少なくとも、絶対、この男より先に恋には落ちない)
今度は
唇を引き結んで金の指輪をなでていると、突然、頭上から
「なっ──」
一度ではない。二度、三度だ。ぎしぎしと船が大きく左右にゆれ、ばらばらと
「これ……しゅ、
早まった故郷の
「ラーヴェ
「み、身内の犯行ということですか? まさか、ヴィッセル皇太子派の襲撃……」
ラーヴェ帝国は皇帝のハディスとその兄・ヴィッセル皇太子の
だが、ハディスの回答はジルの予想に反していた。
「兄上はそんなことはしない。……考える時間が
まるで散歩に向かうようなハディスの声が聞こえた
真上に
ただの平和な空だ。だがジルは水平線の向こうに魔力を感知していた。
(──いち、にい、さん……大した人数じゃないが……)
目を閉じて気配をさぐる。こちらに近づいているなら、魔力で目視できる
だが、
(
数分もあればここにたどり着くだろう。
大きな的でしかないこの船を
「あの、こちらも応戦したほうがいいのでは。この船には何人──陛下?」
ジルをかかえていたハディスが突然、
「しまった……僕としたことが……っ」
「ど、どうしたのですか。まさか、何か
「不用意に日の光をあびてしまった」
は、とジルは声を失ったが、ハディスは両膝をついて、
「しかも、今日は
「あーそういえばおめー、昨日は薬も時間どおり飲まなかったしな」
「え、あの。ふざけてないで」
「僕はここまでだ……ラーヴェ、この子を港に」
「あいよー」
「え」
「
「え」
すうっと息を引き取るようにハディスが目を閉じた。そのままがこんと変な音がして、船が動きを
「え、……えええええ───────────!? ちょっ、待てどういうことだ!?」
思わずハディスの
「起きろ! 敵がきてるのにどうするんだ!? っていうかさっき船室から甲板にじゃなく、帝国に転移すればよかったんじゃないのか!? この船、ひょっとしてお前の魔力で動かしてたのか!? まさか
「すげぇつっこみの
「つっこまずにいられるか!」
いくらゆさぶっても、ハディスは死んでしまったように青白い顔で目をさまさない。そして船が停まっても誰も顔を見せなかった。しんとした
海の上に、動かない船と使えない
(わたしとしたことが、情報収集を
ラーヴェもハディスも身内の犯行を
「あー、本人の
「……さっきも陛下から同じようなことを言われましたが、意味がよくわかりません」
「
ぎくりとしたジルに、ラーヴェが
「魔力も魂もその体にだんだん定着してきてるから、このままで問題はねーけど。でも不安定なときに
「では、皇帝陛下はわたしのために転移を使わず、危険を
「いや、そりゃこいつが自己管理のなってない
そうか、そんなに喜んでいたのか。喜べばいいのか
「体弱いんだよ、こいつ。竜神の魔力なんて人間の
「……ラーヴェ様がそのように別の姿をとっているのは、魔力を分散させるためですか?」
「うーん、まあ色々? ま、話はあとにしようや。俺が転移させてやるよ。でも、どいつに
「待ってください。わたしがいなくなったら、皇帝陛下はどうなるんですか?」
「言ってただろ、本人が。このまま、置いてって平気だ」
正気を疑う発言にラーヴェの小さな目を見返す。
「防衛本能で動く。一面、火の海になっておわりだ。──化け物だからな、俺達は」
それは、よく知る線引きだった。
軍神
軍神令嬢なんて、化け物の代名詞で、ジルを利用するだけ利用していたこと。
「……わたしが、なんとかします」
「へ?」
(だがこの皇帝は、わたしを助けようとしてくれた)
今、ここで助ける理由も信じる理由も、それで十分ではないか。
ハディスを起こして、
「……なぜ、まだいる? ラーヴェは何をして……」
「お前を助けるつもりらしいぞ、ハディス」
「心配しないでください。わたしが守ります」
ぱちり、とまばたきを返された。
(うん、この目がわたしだけに向くのは気分がいいな)
だから金色の両眼に、もう一度約束する。
「しあわせにすると言っただろう?」
とん、と甲板を
ふわりと浮いたジルは
転移というのは時間をねじ曲げる
だが──腹をくくって、深呼吸をする。
船尾を持ちあげた。思ったより軽い。これなら十六歳と同じ感覚でいける。
「せえのお!」
両手で勢いよくボールを投げるように、船をぶん投げる。風を切り
ハディスが甲板から
すかさず
(
目の前に飛んできた銃弾を魔力で覆った手でつかみとり、握りつぶす。
慣れた戦いの
「さて、お前はわたしより強い男か?」
それは、戦場を翔る軍神令嬢の
不敵に笑ったジルは、矢の嵐に向かって
真昼の空に、魔力がきらめいている。
鉄柵に背を預けたまま、ハディスは放心状態でそれを
「けけっ
「……ラーヴェ。ひょっとして今、僕は、守られているのか?」
「そーじゃねーの?」
「……信じられない……胸が苦しい……」
「ときめきで死ぬとか馬鹿すぎるだろ。ここからが勝負だってのに」
わかっている。だからこの胸の高鳴りを止めねばと思うのだが、止まらない。どうしてしまったのだろうか。
空を
「……だめだ、多分なんかもうだめだ。あんな子どもに……」
「お前、体調悪くなると
「だって、ラーヴェ。全身が熱いし、ほわほわするし、ぐるぐるする……」
「えっお前まさかマジになるの? やめろよーそれ
「地獄……そうだな、地獄だ。こんなに胸が苦しいなんて……」
小さな背中に、しなやかな女の背中が重なって見える。あれが彼女の本当の姿だろうか。
いや、どうだっていいことだ。子どもだろうがなんだろうが、彼女ならばそれでいい。
ただ、戦場を
「これは絶対に
「そっちかよ!?」
大事にしよう。彼女は竜帝の
自分が守り抜かなければ死んでしまう、
***
海面を滑った船が
「皇帝陛下がのっておられる船です! 何者かに
おそるおそるやってきた兵士が
「こ、この方が皇帝陛下? なら、なぜ縛られて……!?」
「敵のしわざです!」
「君はいったい」
「……僕の……妻になる女性だ……」
ハディスが息も絶え絶えに答えた。ざわりと周囲がどよめく。
「ぶ、れいのないよう……
まだそれ続けるのか、と思った
「あーありゃ船酔いと
ばたばた行き
「ひとりでしゃべる危ない女の子だと思われちまうぞ」
ジルは目を合わさないように前を向いて、声をひそめた。
「本当に、
「聞こえないし
「
「長時間は無理だけど、数時間程度なら平気だ。あの馬鹿、助けてくれてありがとうな」
「当然のことをしただけです」
ひゅうっとラーヴェが口笛を鳴らした。
「いいねそういうの、かっこいー! 子どもとは思えないとこも
そういうことになるのか。はあ、と気の抜けた返事をしてしまった。
「ここがどこかわかるか?」
ジルは地図を頭の中から引っ張り出す。
クレイトス王国とラーヴェ帝国で二分されているプラティ大陸は、東西を分断する
「クレイトス王国と行き来ができる港がある場所……水上都市ベイルブルグ?」
「おお、正解。よくわかったなー」
「それは、もう。『ベイルブルグの無理心中』といえば──」
言いかけて口を止めた。それはこれからの話だ。
この水上都市は燃えて消える。若き皇帝ハディスの
「いや、なんでも……あの、ここは陛下にとってどういう場所なんでしょうか」
「それだよそれ。さっきハディス、お嬢ちゃんを婚約者だって言っちまっただろ。
質問を続けようとしたとき、船からおりるための
「では、ハディス様はご無事なのですか!?」
「お、落ち着いてください、スフィアお
なんの騒ぎだろうと思いつつ、ジルは渡り板をおりて、やっと陸に足をつける。その間にも桟橋の向こうでは、若い女性が兵士に
どこかの良家のご
「今はどちらに? ハディス様とお話しさせてください……!」
「そ、そう言われましても、私ごとき一兵卒ではなんとも……お父上にご相談されてはいかがでしょうか。ベイル
「でも、でも、クレイトスから小さな女の子をつれて戻られたとさっき聞いて……私、いったいどうしたら……!」
不安でゆれる
どう反応していいかわからず立ち止まったジルの耳元で、ラーヴェがささやく。
「あれな、お嬢ちゃんの
「なんっ……!?」
「ハ、ハディス様がつれてきた子どもというのは、まさか、あなたですか」
ぶるぶると
「こ、こんな、小さな子だなんて……っハディス様はやっぱり……!」
ですよね、とジルの
だがスフィアは
「あ、あなたにハディス様はわたしません! このっ……この、
それが精一杯の
「……」
「お、覚えてらっしゃい、ま、負けませんっ……!」
覚えていろと言われても、まだ何もしてないし、何も言ってない。
だが額を赤くしたスフィアは
「……恋敵?」
「そ、恋敵。あんまりいじめるなよー」
竜神だからって、十歳の子どもに男女の
(しかしあんな可憐な女性ではなく、わたしを選ぶとか……筋金入りか、やっぱり)
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