第一章 発令、竜帝攻略作戦

 危機がおとずれたら有効なこうりやく法が見つかるまでとにかく逃げろ、というのが戦場におけるジルの部隊の副官の方針だった。ゆうしゆうな副官だった。ラーヴェていこく軍にはさちにされたときも、補給線をたれてりつしたときも、助けてくれた。

 そして今このしゆんかんも、ジルを救ってくれた。

 すなわち──何が起こっているかよくわからないが絶対にこのじようきようは危険なので逃げる、ということである。

「お父様にお母様、わたしちょっと人ごみにってしまったので外に出てます! では失礼」

「あら、あなたの大好きなぶたの丸焼きはいいの? かぶりつくのはいけないけれど」

「胸焼けがするので!」

「なんだと、お前が胸焼け? 悪い病気じゃあないのか?」

 豚の丸焼きが食べられないむすめを心配する両親を置いて、ジルは一目散にテラスに向かう。城内の構造はもちろん覚えていた。そのことが余計に頭を混乱させる。

(落ち着け、落ち着け! これは夢か? それとも、あっちが夢か?)

 テラスに出るところで一瞬足を止めて、もう一度硝子で自分の姿を見た。そっと指先でれてみて、ちがいなくこの子どもが自分であることをかくにんし──それでもやはり落ち着かずに、そのままテラスへと出る。

(わたしが若返った? いや違う、お父様とお母様が生きていらっしゃる。わたしのおくだけがおかしい。ということは、時間がもどった? まさか、時を戻すじゆつなんて、神でもなければ使えるはずがない! それがどうしてこんなことに……)

 口を押さえようとして、その手を見る。すでにこの年でけんにぎっていたはずだが、まだやわらかくて小さな手だった。

 そう、このころはまだ両親が健在で、剣術や武術も『せんとう民族』と呼ばれているサーヴェル家の娘としてたしなむ程度の、ごく普通のご令嬢だった。

 普通のご令嬢が武術を嗜むのかどうかは考えずにおくとして──それでも、そのことはジルに一筋の光明をもたらした。もし、本当に時が戻ったならば、まだ自分は軍神令嬢と呼ばれておらず、ジェラルドのために戦場を駆けてもいない。

 ジェラルドの婚約者にも、なっていない。

「……やり直せる?」

 いったいどうしてこうなったのかはわからない。けれど、そうつぶやいていた。ぎゅっと小さな手を握りしめる。

 戦場では現状をあくできない者から死んでいく。深呼吸した。

(とにかく過去に戻ったのだと想定して動こう。もしジェラルド様にきゆうこんされても、それを受けなければ……いやそれは無理だ、王太子から求婚されて断れるはずがない)

 国境を守る信任厚い辺境はくであろうとも、クレイトス王国の一領だ。そこの娘が下手に第一王子の求婚をこばめば、反意ありとみなされてしまうかもしれない。

 だとしたらいちばんの手段は、求婚されずにこのパーティーをやりすごすことだ。

(だったら、わたしはすでにやりすごしたのでは……?)

 過去が過去のまま進むならば、先ほど、目が合った直後にジェラルドはジルのもとへまっすぐやってきて、求婚した。

 だとしたら、テラスに出た時点で、すでに過去は記憶どおりではなくなっている。

「そこからげたのだからもう解決した!?」

「ジルひめ

「出た───────────────!!」

 思わずぜつきようしたジルに、ジェラルドが──ジルの体感ではほんの十数分前まで青年だったのに今は少年になっている王子様が──首をかしげていた。

「出た?」

「い、い、いえ……なんでも、ございませんですわよ」

 うろたえに加えて、無理に令嬢っぽくしようとした口調が余計におかしい。

 だが、パーティーが始まったばかりだというのに、しゆひんのジェラルドがテラスに出てくるのはどう考えてもおかしい。しかも、その手になぜか一輪のを持っていて、その薔薇にジルは見覚えがあった。

 求婚されたときにもらったのだ。ついでに思い出す。いつぞや求婚の理由をたずねたとき、ジェラルドはがおで答えてくれたのだ──「一目見たとき、君だと思った」と。それを運命だとひそかに喜んだものだが。

(もう目があった時点でおそかったのか!?)

 冷やあせをだらだら背中で流しているジルをどう思ったのか、ジェラルドが目を細めた。

 品物を検分するようだ、と思ってしまう。なぜなら、彼がこの時点で実の妹を愛していると知っているからだ。

「失礼した。私はジェラルド。ジェラルド・デア・クレイトス……この国の王太子だ」

「そ、そうでございますですのね」

「あなたは、サーヴェル家のジル姫だな」

 ジェラルドがいささかきんちようしたように眼鏡をふき、またかけ直す。そう、王女でもない自分を姫と呼んでくれる王子様に、あのとき自分はい上がった──。

「……あなたに大事な話がある」

 星がまたたく夜空の下で、王子様が進み出てくる。シャンデリアがきらめくダンスフロアの真ん中での求婚もてきだったが、これはこれで素敵な光景だった。

 そう、相手がくされシスコンろうでなければ。

(ここで大声でばらしてやるとか!? あ、ださっき知られただけで殺された)

 さけんだ瞬間に色んなものが終わるだろう。彼はもうこの頃から神童と名高かった。

おどろかずに聞いてほしい。私は、あなたを一目見て──」

「あっなんてこと、お父様とお母様が心配しているのにちがいありませんですわ!」

 大声でさえぎって、その場を早足でけ出す。ジェラルドのきょとんとした顔は見物だったが、それどころではない。

(ここは逃げねば! これが夢という可能性もあるが、だからといってこのままでは……今度は知ってる分、余計最悪だ! 人生早期しゆうりようの可能性もある!)

 だからといって、すでに目をつけられてしまったらしい今、どんな手が打てるだろう。ジルは人をかき分け、進みながら考える。

 テラスから出てきたジェラルドの姿がちらと見えた。このままあきらめてくれればと思ったが、やっぱりというかなんというか、ジルの姿を見て叫ぶ。

「ジル姫! どうして逃げる」

 お前はもう捨てた男だからだよ、と言えたらどんなにいいだろう。だが、声をあげた第一王子の姿に注目が集まりつつある。聞こえないふりをして時間をかせげるのもわずかだろう。

(第一王子の求婚を、おん便びんかいする作戦……っもうこいびとがいることにするか!? だめだ、今のわたしは子どもだぞ無理がある! しかも王太子が手を引くお相手じゃないと……ってそんなものそうそう転がってるわけないだろうが! せめてりよくが異常に高くて物理的にも強いとか、それうちの家だしジェラルド王子も強かった!)

 現実とうをややまぜながら必死で逃げる。だが十歳の子どもの体では、どうしても人の波に押し流されてしまう。人が少ない場所をねらって進むが、それはすなわちジェラルドに追いつかれやすいということでもあった。

「ジル姫!」

 どうにか人の輪からけ出たところで、とうとうジェラルドに追いつかれた。

(そうだ、わたしから求婚すれば……巻きこんだ責任は取る! しあわせにする!)

 うでをつかまれそうになったジルの手が、とっさに何かを後ろ手でつかむ。それはみようざわりのいい上質なマントだった。あとずさるジルの背中にあたったのは、おそらくひざ。びくともしないところから、大人の男性だとわかった。

 ならば、子どものれ言ですむかもしれない。

 ジェラルドが息をんだこともジルに勇気をくれた。

 とにかくこの場を逃げ出してしまわなければ──その一心で、叫ぶ。

「わたし、この方にひとれしました! この方とけつこんします──この方を一生かけて、しあわせにします!!」

「ジル!?」

 さわぎを聞きつけたのか、両親の驚く声が聞こえた。周囲がざわめき、ジェラルドが難しい顔でくちびるを引き結ぶ。

 その、子どもの戯れ言と流すにはややじような周囲の反応に、ジルがまばたいたとき──頭上から声が降ってきた。

「わかった。では君を妻に」

 それはジルが望んだような、大人が子どもの戯れ言を受け流す返答ではなかった。

 低くて、みみざわりのいい男性の声だ。やけに色っぽくて、背筋がぞくぞくする。耳元でささやかれたら、こしくだけになってしまいそうなその声。

 一度味わえばもう忘れられなくなるような。

(き、聞き、覚えが……ある)

 戦場で、つい最近──いや六年後か、ややこしい。とにかくこの先の未来で、ラーヴェていこく軍と一戦まじえたときに姿を見せた、その声の持ち主は。

「おじようさん。君の名前は?」

「ジ……ジル・サーヴェル……」

 り向かずに答えたジルに、ほう、と感心したような声が返ってくる。

「サーヴェル辺境伯のひめぎみか。どうりで魔力が高い。何より、幼くとも確かな目をお持ちのようだ。この僕に自ら求婚するなんて」

 こん、とグラスをテーブルに置く音がして、男性が立ちあがる気配がした。同時にふわりとかたうできあげられた。力の抜けたジルの手から、マントが落ちる。

 シャンデリアの光をはじいてつやめくかみまゆの形もりよううすい唇も、ほおりんかくからあごの形まであつとう的な造形美をかたどっている。何よりも目を引くのは、金色の両眼だ。月のようにせいひつで、けもののようなざんにんかがやきをあわせ持ったひとみ

 抱きあげたジルをのぞきこむ仕草はやさしげなのに、のどもとやいばでもきつけられたような緊張がはしる。なのに目をそらすことを許さないほど、美しい。

「どこぞの島国には飛んで火に入る夏の虫、という言葉があるそうだ。ご存じかな?」

 ぶんぶんと首を横に振った。だから、はなしてほしかった。だが相手はいつさい笑顔をくずさない。

「そうか。だがだいじよう、不安に思うことはない。僕は妻にはひざまずくと決めている」

 ジェラルドは何も言わない。これ以上なく険しい顔をして、こぶしふるわせている。

 そういう意味で、ジルが直感的に選んだ相手は非常に正しかった。

 正しいのだが、人生のせんたくとしては、どうしようもなくちがってもいた。

「このハディス・テオス・ラーヴェ、貴女あなたきゆうこんをお受けしよう。──れいな紫水晶の目をした姫君、どうか僕をしあわせにしてくれ」

 そう言ってジルの前にりんごくの若きこうていゆうにひざまずき、毒のように甘ったるい笑みをかべてうやうやしくこうべを垂れた。



 たったいつせんだった。

 白銀のけんへびのようにうねってび、一帯をなぎはらっていく。空と大地を食い散らかす獣のようだ。山がくだかれ、地面がわれ、補給線を分断された。戦線が崩れ、もはやじんけいを整えることもかなわない。やみを照らす戦火が、あっという間に広がっていく。

 空からのようしやのないこうげきに、もはやこちらの敗北は決定的だった。

「ひとり残らず殺せ」

 赤く燃える夜空からこちらを見おろして、敵国の皇帝が感情のない声で命じた。

「子どもも、女も、赤んぼうも関係ない。あの女のけんぞくなど生かす価値もない。ゴミだ。虫けらだ。生きていること、それ自体が罪だ」

 その声は真冬の吹雪ふぶきよりもに、周囲をこおりつかせる。

「だが簡単には殺すな。母親の前で赤ん坊の目をえぐれ。夫の前で妻をなぶれ。兄弟で殺し合わせろ。生まれてきたことをびさせろ、死なせてくれと叫ばせろ。希望も愛も夢もきずなも、すべてじゆうりんしろ。何ひとつ残すな──俺が、そうされたようにだ!」

 それはぎやくさつだ。信じられない命令に、両眼を見開いたジルは頭上をあおぐ。

 せきを切ったように上がるごうと悲鳴に、敵国の皇帝は金色の瞳を見開き、こうしようしていた。

 悪逆非道の、のろわれた皇帝。人を人とも思わず、みつけ、なぶり、その様を楽しむ、きようの王。自分の目で確かめるまでは信じるまいとした現実が、そこにあった。

(──止める!)

 剣をにぎり、ありったけの魔力をこめて地面をり、はるか高みにいる皇帝のもとを目指す。

 戦争とはいえいつぱん人を巻きこんでの虐殺など、許せるはずもない。けれどそれ以上に、許せないものがあった。

 こんな敵ではなかった。

 銀色の魔力がたみを守るためだけに夜空にかける様は、本当にうつくしかった。敵ながられるほどにあざやかに勝敗を決め、せいを最小限にとどめ、ゆうしようを浮かべながらてつ退たいうながすその姿は高潔ですらあった。

 なのに、この皇帝はいつからこんなふうになったのだろう。

 ふと顔をあげた皇帝が、突っこんでくるジルへ向けて虫を振り払うような仕草で魔力のかたまりたたきこんできた。それをジルはりよううでを広げて正面から受け止めて、歯を食いしばる。両腕に力をこめて、気合いといつしよに腕の中で風船をわるようにさんさせた。

 その派手なれつ音に、地上も空も我に返ったように静まり返る。さんげきを命じた皇帝自身も驚いた顔をして、振り向いていた。

 振り向かせてやった。そのことに勢いを得たジルは、あやうく死ぬところだったのも忘れてさけんだ。

「うちの負けだ、認める! だからそちらは早々に兵を引きあげろ!」

 皇帝がたんれいな眉を、わずかにひそめた。

「負けているのに、なぜお前が命じる」

 話ができるじゃないかと、その人並み外れたぼうに向かってジルは胸をはる。

「どうしてもだれかをいたぶりたいなら、わたしだけにしろ。りよになってやる。──だからほかには手を出すな」

 みような生き物でも見るように上から下までジルをながめた皇帝は軍神れいじようとつぶやき、薄い唇にあざけりを浮かべる。

「ご立派なことだ。だがどうせ、最後はどうして自分がとみにくく泣き叫ぶ」

「誰が泣かされるか、お前のような弱い男に」

「弱いだと? この俺が? りゆうていに向かってよく言った。もういい、殺してやる」

「では、お前はわたしより強い男か?」

 くちはじをあげて笑いそこねた皇帝が、こちらを初めてまともに見た。金色のどうもうな瞳に、まっすぐ、ジルはけんさきを突きつけた。

「そうやってさ晴らしをするお前は、本当にわたしより強いか!?」

 金色の瞳がいつしゆんだけ、何かをうつたえるように輝き──そして消える。

「興ががれた。全軍、引け」

 よくようのない声が、とつぜんの命令をくだした。まさか本当に兵を引くと思わなかったジルは、思わず声をかける。

「いいのか。──おい答えろ、わたしをとらえなくていいのか!?」

「お前のような色気のない女をとらえて何が楽しい」

 ぽかんとしたジルを残して、しんろうのように皇帝の姿がかき消えた。

 あとにはりよくざんちようの羽ばたきのようにうだけ。あれだけいたはずのラーヴェ帝国兵の姿も消えていた。あっけない終わりだった。

 だが、ジルの心中がそれでおさまるはずがない。

「わ、わた、わたしに色気がないだと!?」

 いつぱくおいてぶち切れたジルを、部下達が全員でなだめにかかってくれた──それはジェラルドにえんざいをかけられる少し前、つい先日のこと。

 そして、おそらく今から六年後のことでもある。

(ああ、昨日でも六年後でもいい。やっぱり全部夢だ。夢にちがいない……)

 目がさめたら生きているといいな、と思った。

 できれば、せき的に木の枝に引っかかって落ちたとかで、気絶していた展開を望みたい。実は無事だったゆうしゆうな副官が手を回して、運んでくれていたとかだと、なおいい。

 だって今ている場所はこんなにもあたたかくやわらかい──はっと目がさめた。軍でのしようよろしく飛び起きる。

 髪にかざってあった大きな生花が落ち、っていた髪がほどけてかたからこぼれ落ちた。握って開いてみた手のひらは、やはりおくより小さい。金糸のしゆうしようほどこしてあるしんはねとんまっている足も、短い。

 ふと風を感じて、裸足はだししんだいからおりた。分厚いカーテンのすきから日光が差しこむ窓の外を、びをして覗く。見覚えのある中庭だった。

「……ここは王城……の、客間か?」

「ああ、よかった。目がさめたのか」

 続きの奥の部屋から入ってきたのは、先ほど夢に出てきた相手だった。

 ハディス・テオス・ラーヴェ──夢よりもまだ若い。だが見間違うことなどありえない、隣国ラーヴェていこくの美しき皇帝。

 思わず両手でこぶしを作った。今が六年前ならば、まだラーヴェ帝国と開戦していない。だから今は、敵ではない。わかっているが、ジルはこの皇帝のあつとう的な力を戦場での当たりにした記憶が生々しく残っているせいで、けいかいがとけない。

 そんなジルの様子がわかっているのかいないのか、ハディスはつかつかと歩いてきて、目の前にしゃがんだ。

 時計の秒針の音がひびくだけの、ちんもくが部屋中に広がる。人並み外れた美貌にひたすら見つめられ、ほおがつらないようがんっていると、ややあってハディスが言った。

「もう一度求婚してほしい」

「……はい?」

「これが夢じゃないと確かめたい」

 警戒も忘れてほうけてしまった。だがハディスはジルをじっと見つめて視線をそらさず、返事を待っている。そのいちひとみに、実家にいる軍用犬がなぜか思い浮かんだ。

(ろ、六年後とずいぶん印象が違うような……)

 どうしたものか迷っていると、げんそうにハディスがまゆをよせた。

「どうして返事をしない? ……ひょっとして、まだ具合が悪いのか?」

「え……あ……わ、わたしは、どうしてここに……き、記憶があいまいで」

「気絶したんだ。……まだ無理はさせないほうがいいな、失礼」

「へっ!?」

 突然、きあげられた。そのままを言わさず、先ほどの寝台まで運ばれる。

ねむれないかもしれないが、横になっていたほうがいい」

 ていねいにジルを寝台におろすハディスの動作は、づかいに満ちていた。

「それとも、何か軽く食べられるものでも用意したほうがいいかな。ああ、起きているならこれを。足元が冷えるだろう」

 寝台のすぐそばに置いてあった室内ぐつを手に取り、ハディスがひざまずいた。ぎょっとしたジルに、靴をはかせようとあしを取る。さすがに悲鳴をあげそうになった。

 この男はこうていだ。子ども相手でも、たわむれがすぎる。

「こ、皇帝陛下にそこまでしていただかなくても、自分でできます!」

えんりよしなくていい。僕は妻にはひざまずくんだ。じっとして──ほら、できた」

 満足げに下から微笑まれ、かみなりに打たれたようなしようげきが全身をおそった。

 他に類を見ないような美しい男の微笑とくれば、もはやそれはこうげきである。かれた胸をおさえてジルは内心で歯ぎしりする。

(お、男は顔じゃないとはいえ、正直、好みの顔だ……どこにもすきがない! しかも顔だけじゃない、線が細く見えるが筋肉のつき方も姿勢も素晴らしい、全身が強い……! どうしてこんな男がわたしにひざまずいて)

 はっと我に返った。自分はこの男にきゆうこんしたのだ、そして──どうなったのだろう。

「あのっ……」

 だが、乱暴に開かれたとびらの音がジルの質問をさえぎった。よろいの音が響き、両開きの扉をはさんで鎧の兵隊が並ぶ。物々しいふんに、ひざをついていたハディスが立ちあがった。

「向こうも君の目覚めを待ち構えていたようだな」

「え……」

「ジル・サーヴェル! どういうことか話を聞かせてもらおうか」

 あいさつもなく部屋にみこんできたのは、ジェラルドだった。ハディスが目に入っていないのか、あらあらしい歩調でまっすぐこちらへ向かってくる。

「君は何を考えている。私の話も聞かずにげたあげく──」

「ジェラルド王子。こんな小さな子をいきなり質問責めにするなんて、すいだよ」

 横からハディスがわって入った。ジェラルドが冷ややかに応じる。

「失礼。ですが、ラーヴェ帝国には関係のない話です。大体、あなたの客間は別にあるはずですが、なぜこちらに?」

こんやく者がたおれたら心配して見にくるのは当然じゃないか」

「あなたと彼女は婚約などしていない。国王も彼女の両親も認めないだろう。それに、彼女と婚約するのは私だ。そう内々に話が決まっていたのだからな」

 びっくりして顔をあげた。そんな話、聞いた覚えはないのだが──ああでもと両親の顔を思いかべた。

(絶対に忘れてるな、お母様もお父様も……)

 おっとりした両親は政治力にとにかく欠ける。だから、サーヴェルこうしやく家は功績のわりにゆうふくではない。

 しかし、婚約が内々に決まっていたなら、ジルがジェラルドをこばむのは相当困難になる。王太子であるジェラルドの面子メンツつぶしたことになるからだ。

「皇帝だからと知った顔で我が国の事情に踏みこまないでもらいたい。ないせいかんしようだ」

「内政干渉? ただ、君がふられてくやしいという話だろう」

 うすく笑ったハディスに、ジェラルドが眉をりあげた。ぴりぴりした空気に、ジルがはらはらしてしまう。今の時点でジェラルドはすでに武人と名高く、兵も連れている。何かあれば一対複数だ。分が悪いのは目に見えている。だがハディスは落ち着いていた。

「そんなことよりも、もっと大事なことに目を向けるべきだろう。君はいずれ、この国の王になるのだから」

「忠告はありがたく受け取っておこう。のろわれた皇帝陛下のしゆわんでは、参考にできないが」

 いらちとべつをこめた口調でジェラルドがやり返す。

 対するハディスは、あくまで不敵なみをくずさない。

「わかってくれたなら結構。勝てない相手にかうのはおろかだ。君と僕では格が違う」

「言ってくれる。私をじよくする気なら──」

 ふっと目をさましたように、ハディスが金色の瞳を見開く。雰囲気が一変した。

「さがれ」

 しゆんかん、部屋全体の重力が増した。

 がしゃがしゃとこわれるような音が響き、武器を落とした兵士が次々と膝をく。立っていられないのだ。中には気絶したのか、そつとうした者までいる。

(ま、りよくじゃない。ただのあつかんだけで……!)

 圧倒的なだ。正面から圧を受けていないジルでさえ、総毛立ってしまう。

 その場から飛びのきたい思いをこらえながら、ハディスの横顔を見た。あぶらあせをかきながらも立ったままめつけているジェラルドに向けて、ハディスが手をばす。

「後始末は君にまかせるよ」

 ハディスに肩をたたかれたジェラルドが、そのまましりもちをついた。

うわさどおりの、化け物が……っ」

 歯ぎしりするジェラルドに、ハディスはおだやかに微笑ほほえむ。そうすると、空気を吸うことも許さないような重圧がいきなり消えた。ほっと息をき出したジルを、ハディスがかかえあげる。

「すまない、おどろかせた。場所を移そう」

 高鳴りに似たこうようかんをおさえて、ジルはうなずく。

(やっぱりこの男、強い……!)

 さぐるようなジルの視線を受けて、ハディスが破顔した。

「君は平気そうだ。やはり僕の目にくるいはない」

「あれをやりすごせなくては戦場では生き延びられ──」

 今の自分は軍神れいじようではないと思い出し、はっと口をふさぐ。だがハディスは気にしていないようで、るいるいになっている兵士の間をゆうゆうとすり抜け、ろうに出た。

「しかし、ここではゆっくり話もできそうにないな。ジェラルド王子があれであきらめるとも思えない。……しかたないか、愛は困難をともなうって本で読んだ」

「あ、愛……いえ、本?」

だいじようだ、君に手出しはさせない」

 顔がいい男が言うと思わず頷いてしまう。だが、はたと気づいた。

(……今のわたしは、十歳なんだよな?)

 そしてこの男は今、二十歳はたち前後のはずだ。

(政治的な理由もなく大人の男性が十歳の子どもと婚約するなんて、幼女しゆでもない限りありえないんじゃ……!?)

 一気に頭から血の気が引くと同時に、視界が一変した。

「君の魔力が安定していないようだし、移動は船にしよう。念のため持ってきてよかった」

「は!? え!?」

 急いで周囲を見回す。先ほどまで高かったてんじようが一気に低くなっていた。しんだいはひとつ、小さなテーブルともある。決して小さくはないが、広くもない部屋だ。小さな丸い窓がとくちよう的で、板張りのゆかがぎしりときしみ──いや、ゆれた。

 どこかに転移した。ぼうぜんとするジルを置いてけぼりにして、ハディスが微笑む。

「大丈夫だ、魔力で飛ばせば数時間でラーヴェ帝国の領土に入る」

 ええええええとジルがぜつきようしたときは船は海面をすべるように走り始め、丸い窓から見える故国の港はあっという間に小さくなっていった。



 型破りな育ち方をしているが、ジルも貴族の令嬢だ。きんきゆう事態とはいえいつまでも姿で男性の前ではいられない。

 そわそわしていると、ハディスはすぐに察して船室の衣装ダンスを開いて見せてくれた。「こんなこともあるかもしれないと思って」と説明された中には、ジルくらいの体型の女の子が着るもの──イブニングドレスからワンピース、乗馬服まで用意されていた。

 絶句するジルに好きなものを着ていいと言い残し、ハディスは出ていったが、そういう問題じゃない。

(なんで用意されてるんだ!? まさか最初から幼女をさらうつもりでクレイトスに訪問……考えるのやめよう、こわい)

 さらわれた幼女が自分かもしれないという事実からも、目をそらしたい。

 ジルが選んだのは乗馬服に似た制服だった。軍事学校か学校かのものだろう。これから何が起こるにせよ、とにかく動きやすさが優先だ。かわぐつまでひとそろえあったのでそれも拝借することにした。運のいいことにサイズはぴったりだった。

 とりあえずジェラルドから逃げ出すことには成功したのだ。じようきようは好転している、たぶん。

 だが、このままですむかどうかについてはまた話が別だ。

 ジェラルドはクレイトス王国の王太子で文武両道、で責任感が強く、そのゆうしゆうさからすでに国政にもたずさわっており、評判だけなら現国王よりも高い。そんな男のきゆうこんをしりぞけるために一番手っ取り早いのは、彼と同等かそれ以上の男にたてになってもらうことだ。

 だから、ハディスとの婚約は、これ以上ない盾になる。わかっている──とここまで考えるとやはり、行き着く問題が一周した。

(どうなんだ。幼女趣味なのか? 変態の次にまた変態って、どれだけ男運がないんだわたしは!? というかこの大陸の最高位につく男は、実は変態しかいないのか!)

 そして最大級の問題は、そんな男を愛せるのか、ということである。

 これじゃない、あれじゃないと『次』をり好みする気はない。結局、ひととなりはつきあってみなければわからないものだ。つきあってもだまされたばかりである。

「だからって、次もハードル高すぎるだろう……! わたしに救いはないのか!」

「もう入っていいかな」

 こん、と船室の扉を叩く音がした。あわててジルは応じる。すると、自らティーポットとカップをそろえたハディスが入ってきた。

い止めが入っている薬湯だ。飲んでおくといい」

 こうていにお茶を用意させてしまった。その事実にひっぱたかれたかのように目がさめる。

「あの、お茶でしたらわたしが!」

「あぶないだろう」

 簡潔に言われて、ジルは気づいた。お茶をれるテーブルが、ちょうど自分の首元くらいの高さにあるのだ。少しびをしなければ、お茶を淹れられない。

「皇帝だなんて気をつかわなくていい。気楽にしてくれ。僕らはふうになるんだ」

「き、気が早い……ですね……ま、まだ正式にこんやくもしていないのに」

「何事も早く自覚を持つにこしたことはない。それに、これは薬湯だよ。お茶というほど形式張ったものでもない。少し苦いから、口直しにはこれを」

 ハディスが手のひらを上に出した。と思ったら、何もない空間からぽんと音を立てて、小さなケーキが出てくる。雪のように真っ白なクリームのうえにたくさんのいちごがこれでもかとめられ、宝石のようにつやつやとかがやいていた。

(ケーキが光ってる……! こんなの見たことないぞ!?)

 そういえば昨夜のパーティーから──ややこしい時間感覚だが、六年後のろうの中から何も食べていなかった。思い出したように鳴りかけた腹を押さえる。

「本当はもう少し軽いものを用意したかったんだが、あいにくこれしかなくてね」

「こ、これで十分です、むしろこれがいいです! い、いた、いただいても!?」

「そのために用意したんだ。さあどうぞ」

 食欲にすべてを持っていかれたジルは、目を輝かせて切り分けられたケーキをほおる。クリームは上品な甘さで、苺の酸味をまろやかにしてくれる。スポンジはふんわりとだんりよくがあり、口にふくむとこうばしさがかすかに残っているのがわかった。

 たんてきに言うと、ものすごくおいしい。

「口にあったかな? ──ならよかった」

 幸福のあまり言葉を失って首を縦にるだけのジルのななめ前に、ハディスがこしかける。

(生きててよかった……! そういえばラーヴェていこくの料理って食べたことないなあ)

 皇帝の妻になれば、ラーヴェ帝国の料理食べ放題ではないだろうか。別に愛がなくたっておいしい食べ物があれば、案外、人生のりきれる気がする。

 あっさりけつこんに心がかたむきかけたところに、ふと横からかげが差した。

「クリームがついている」

 ハディスはジルのくちびるはじを親指でぬぐい、あろうことかそのまま親指についたクリームをなめ取った。

 ぼんっとそのまま頭から湯気が出そうになったジルだが、すぐにはっとする。

(こ、子ども相手に平然と……手が早いんじゃないか!?)

 ときめいている場合じゃない。ごくんと糖分を体に補給して、勢いよく顔をあげる。

おそれながら、皇帝陛下はわたしとの婚約について、どこまで本気でいらっしゃいますか」

 カップを受け皿に置いて、ハディスが何度かまばたきしたあと、首をかしげた。

「質問の意味がわからない。もっと的確に言ってくれないか」

「……わたしはまだ十歳です」

「理想的なねんれいだ」

 ぞわっととりはだがたった。だがハディスは満足げに語る。

「十四歳未満でそれだけのりよくを持っている。まさに僕が追い求めてきた理想の女性だよ」

「……」

「しかも僕に求婚してきたんだ。そ、それって僕を好きだってことだよな……!?」

「…………」

ゆうを持つならあと二、三歳は下でもよかったが……ぜいたくは言わないよ。僕のかんぺきな幸せ家族計画はこれくらいでゆるぎはしない」

「……こ、皇帝がまさか幼女趣味の変態……? しかも、子どものれ言を真に受けてゆうかいする分別のない鹿だなんて……」

 思わずれ出た感想に、はっと口をふさぐ。

 相手は皇帝だ。子どもでも、無礼は許されない相手だ。現にハディスはやさしいおもしから一変して、じやつかん冷ややかな顔になっていた。

「……戯れ言……?」

「い、いえ、その……こ、高貴な方々にはありがちな趣味ですよね!」

「それは、求婚がうそだったという意味なのか?」

 気にするのはそこか。

 だが、ハディスは、いやまさかと、ちよう気味にひとりごちる。

「ありえない。この僕が子どもにだまされたなんて、そんな馬鹿な話が……」

 あごに手をあてて真面目に考えていたハディスの目がこちらに向いた。

「一応、かくにんする。……あるのか?」

「……え、えぇと」

「ないのか、あるのか。どっちだ。はっきりしてくれ」

「──あのっ実は事情がございまして! 申し訳ございません、陛下のことはなんとも思ってません! 求婚は噓です!」

 ちんもくのあとで、ハディスがふらりとよろめいた。

 と思ったら、かっと金色の両眼を見開いて、うなる。

「……ラーヴェ、笑ってないで出てこい……!」

 ぶわっとハディスのかたの辺りから魔力のもやが立ちのぼった。

 思わず身構えたジルの前で、白銀の魔力が白く輝く生き物へと形をとりはじめる。

(……りゆう……いや、へび?)

 正確にはつばさの生えた蛇、だろうか。不思議な形の生き物だった。

 だが静かに開かれた金色のひとみが、白銀に輝くうろこが、しなやかなたいが、あふれ出る魔力が、すべての者にひざをつかせるほどこうごうしいそれが──げらげらと笑い出した。

「ぎゃははははは! だから言っただろーこんな都合のいい話あり得ねぇって。それをお前はかれて真に受けて、このれんあい知能ゼロ皇帝が──ふぎゃっ!?」

 ハディスは、神っぽかった生き物をべしっとゆかに投げ捨てから立ちあがり、腰のけんいて振りかざす。

「今日の夕食は焼きりゆうじんくししだ」

「おまっもう少しいたわれよ! 国境こえてやっと出てこれたっつうのに」

「言い残す言葉はそれだけだな?」

「あーうん、お前はがんったよ。紫水晶とかな、いつしようけんめい考えたよな!」

 ハディスは真っ赤になって、蛇のような動きでげ回る生き物を剣でそうとする。

「お前が口説けって言ったから……! 確実に逃がさないためには必要だと!」

「いやーでも悪くはなかっただろ、なあじようちゃん。こいつ顔だけは絶品だし」

 神々しさなどかけらもない光景にぼうぜんとしている間に、串刺しから逃げ回っていた生き物がするするとジルのあしもとからのぼってきた。ちょうど肩のあたりにちょこんとのって、ジルをじいっと見つめる。

「俺の声が聞こえてるし見えてるよな? それにおどろきもしねぇ。きもわってんなあ」

「じゅ、十分、驚いてますが……」

けんそんするなって。ふつー悲鳴とかあげるだろ。おびえるとか、気絶するとか」

「……僕のあの圧にえられるんだ、これくらい当然だろう。何よりこれだけ魔力を持っていたらこんなかい現象くらい、日常はんだろうさ」

 ジルが間に入ったことで冷静になったのか、ハディスが剣をおさめる。

「怪奇現象!? 竜神を怪奇現象あつかいかよ!? これだから最近の人間は」

「あの、竜神なんですか。……竜神ラーヴェ?」

 また話がだつせんする前に、思い切って聞いてみた。ハディスがふっとちようしようする。

「どう見ても蛇だが、そうらしいよ」

だれが蛇だ、俺は竜だ! 竜神ラーヴェ様だ!」

 そう言われても、翼の生えた蛇にしか見えない。

(お、おとぎ話じゃなかったのか……あの伝説……)

 ここプラティ大陸の成り立ちは、愛と大地のがみクレイトスと、ことわりと天空の竜神ラーヴェの戦いから語られる。その神の力をわけあたえられたけんぞくが、クレイトス王族とラーヴェ皇族だと言われているのだ。神話から建国まで、人間を巻きこんで千年におよぶ争いを、それぞれの国の子どもたちはもりうたがわりに聞いて育つ。

 クレイトス王国は女神の加護としてじゆつ大国の側面を持ち、大半の国民が大なり小なり魔力を持つのが当然で、強い魔力を持つ者も多い。一方、ラーヴェ帝国は魔力を持つ者はそう多く生まれない。そのかわり、クレイトスにはいない竜が生まれる。

 ほかにも大地の実りの差異など細かいちがいがあるので、ジルも神話や神の存在をまるっきり噓だと思っていたわけではない。

 だが建国から千年、まさかまだ神が存在するとは思わなかった。

 ジルのこつ周りをぐるりとまわり、ラーヴェが頭の上にのる。

「俺が見えて、しゃべれる。んー条件はぴったりなんだよなー。年齢は……ハディス、お前十九だっけ。このお嬢ちゃんは?」

「十歳だそうだ。九歳差だから、めずらしくもない。常識のはん内だよ」

「はあ!?」

 思わずさけんだジルに、りよううでを組んだハディスが振り返ってまゆをひそめた。

「常識だろう。僕の母は十六のとき、四十の父とめあわせられた」

「で、でもわたしはまだ十歳でして……お、おぎの問題とか!」

「……世継ぎ」

 口の中でり返して思案したハディスが、いきなりかっとほおを赤く染めた。

「ま、まだ出会ったばかりで子作りの話なんて、どうかと思うな……!?」

 おこっているようだが、視線を泳がせている姿がひたすらういういしい。さながら初めてねやに引きずりこまれた乙女おとめのような反応に、なんだかジルのほうが死にたくなってきた。なのにハディスはり手振りで何やら一生懸命解説を始める。

「そ、そういうことは手順が大事だ。もっと話をしたりいつしよにお茶を飲んだり、手紙のやり取りをしたりおたがいをわかりあう時間を取る必要があるって、そう書いてあった!」

「あの、失礼ですが外見と中身が合ってなさすぎませんか……」

「うーん。やっぱ本を読ませただけだとかたよるなー」

 ラーヴェを見ると、てへっと舌を出された。製造物責任者は竜神だ。

 頭をかかえたくなっていると、ふとハディスの視線が落ちた。

「外見と中身が違う、か……つまり僕は、期待はずれだった、ということだろうか」

「え」

「……本当に、きゆうこんは噓だったんだな」

 良心に突き刺さる、あいに満ちた声だった。

 だがほだされるわけにもいかない。ジルはおそるおそる言い返す。

「むしろ、本気にしてはいけないことでは……わ、わたしはほら、まだ子どもですよ?」

「そうだな……いや、わかっていた。十四歳未満で、じんじようではない魔力を持っていて、僕みたいなのろわれたこうていを好いてくれる女の子なんて、そう都合よく現れるはずがない……やっぱり僕はだまされたのか……僕はいつだってこうだ……」

 あいしゆうを帯びたまつげふるえ、かげりを帯びる。金色の瞳からは今にもなみだが溢れそうだ。

 ものすごい罪悪感がこみあげてきた。あーあとラーヴェがジルの頭の上でつぶやく。

「落ちこませた。軽々しくこいつに求婚なんてするからだぞ、お嬢ちゃん。責任とれよー」

「わ、わたしのせいでしょうか!?」

「そうに決まってんだろ。こいつは弱いんだよ、心も体も」

「ラーヴェ、彼女を責めるな。悪いのは僕だ。確かに、十歳の子どもの求婚を真に受けるなんて、どうかしている。どんなに強がってみたところで、僕にそんなしあわせがやってくるはずがないって、知ってたのに……」

 テーブルに手をついて、ハディスがうれいに染まった金色の瞳で自嘲する。

「浮かれてしまったんだ。一生かけてしあわせにするなんて言われたのは、初めてで」

 言った。確かに言った。

「いや……いいんだ、ひとときのいい夢を見させてもらった。そう思えば」

「……その……わたしこそ、子どもだからと甘えてけいそつなことをしてしまい……」

「この借りはいずれなんらかの形で返そう。君の名前は忘れない」

 ややしようてんのあっていない目でハディスが微笑ほほえむ。

「サーヴェル辺境領だな。……決して、忘れない。決してだ」

「それはどういう意味ですか!?」

「今なら大事にはならないだろう。君はちゃんと、クレイトスに帰すよ」

 金色の瞳がぶつそうに光って見えるのは、絶対に気のせいではない。このままでは故郷がラーヴェ皇帝に目をつけられてしまう。しかも、かんじんなことを思い出した。

 ここでそうですかともどったら、待っているのはジェラルドだ。

「でも本当に、うれしかった」

 はっと顔をあげた。ハディスは驚くほどんだ瞳で微笑む。

「ありがとう」

 ──ジルが求婚にうなずいたとき、ジェラルドはこんなに喜んでくれただろうか。

 そしてこれから先、こんなに喜んでくれるひとが現れるだろうか。

(せ、責任は取ると決意して求婚したんだろう、ジル・サーヴェル……!)

 どんなに言い訳しても、自分は裏切れない。何より自分が利用するために求婚し、いらなくなったら捨てる──それは、自分がジェラルドにされたことと同じではないか。

 この皇帝は悪くない。たぶん、悪くない。きっと、悪くない。おそらく、悪くない。

 ──ひとり残らず殺せ。

(ろ、六年後の話だ……! 今はまだまともに見えるし、時間はある。幼女しゆだのやみちだの、それがどうした。どこぞのシスコンと違って、まだわくだ。愛だって戦争だ。今からこうせい作戦を立ててこうりやくすればいい、ような気が、しないでも、ないような……!?)

「残りのケーキはお土産みやげに持って帰るといい」

 よし、いい男だ。

「前言てつかいします! わたしでよければけつこんしてください、皇帝陛下」

 がしゃんと音を立てて、ハディスが持っていたカップを落とした。

「えっ……な、何をまた、とつぜん言い出すんだ」

「不安にさせてしまい、申し訳ございませんでした。それとも撤回は不可能でしょうか」

「だが君は、本気ではなかったんだろう?」

 こんわくしているハディスを、ジルはきっと見あげた。

「これから本気にすればいいのです。ケーキにくらべればさいなことです」

「や……やめてくれ。またそうやって、僕をまどわそうとするのは」

「わたしに二言はない!」

 胸をはったジルに、ハディスが大きく両眼を見開いた。

「信じてください。あなたを必ず更生──いえ、しあわせにします。しようがいをかけて」

「そ、それじゃあついにできるのか、僕におよめさんが……? ラーヴェ、聞いたか!?」

「あー聞いてる聞いてる。お前もおじようちゃんもおかしいって話だろ。いいんじゃねえのー、なんだっけこういうの。なべぶた?」

「あの、ですがわたしがまだこのねんれいですし、こいとか愛とかそういう生々しい関係は当分ナシで、形だけのふう関係をお願いできると……えっ!?」

 いきなりきあげられたと思ったら、ぐるぐる回されたあとに抱きしめられた。

「形だけでいい。ありがとう。大事にする、僕の紫水晶」

 心の底から喜んでいるとわかる声に、ジルの頰にもつい熱がこもる。だが、すぐにハディスははっとしてジルをはなした。

「す、すまない。嬉しくてつい。まだお茶をしたばかりの関係だった」

 きりっとした顔で言われるとなんだかだつりよくしてしまう。

(変な男だな。いやでも、形だけでもいいって……)

 ふと冷静になったジルの手をハディスが取った。

「正直、恋も愛もわからないが、僕が本気だということは示せる」

 何かと見あげると、くちびるを手に落とされる。ぎゃっと飛びのきかけたが、口づけられた左の薬指がかがやきだして目をみはった。ふわりといた小さな光輪は純度の高いりよくだ。

「ラーヴェ、僕の妻に祝福を」

「はいよ」

 ラーヴェがジルの頭上をくるりとまわった。きらきらと、光のつぶが降ってくる──と思ったら、先ほどの光輪が左手の薬指にするりとはめられ、金の指輪に変わった。

「これは……?」

りゆうじんの祝福を受けたしようしんしようめいりゆうていの妻になる女性──りゆうの指輪だ。目印でもある」

 指輪はハディスのひとみと同じ、澄んだ金色だ。

 ジルは指輪をはずしてながめようとして、はずれないことに気づいた。

「……。あの、はずれないんですが……」

「そう簡単にはずれたら目印の意味がないじゃないか。結婚式を挙げるまで君は対外的にはこんやく者になるが、その指輪がある限り、これから先、何があろうと君は僕の妻。僕は君を守りくよ」

 ハディスの言葉にうそはなさそうだが、ジルは複雑な気分で指輪を眺めた。

(目印なぁ……特に害がないならいいが。本気だってことだし……)

 でも、今度はしんちようにいこう。静かに胸の奥底で、ジルはそう決める。

 ふとしたときにこくはくみを浮かべ、求婚を喜ぶくせに形だけの関係でよく、大事にする守ると言った口で恋も愛もわからないと言う。正直なのに、誠実ではない。

 この男は決して、ジルに恋をしているわけではないのだ。

 恋は目をくらませる。それをもうジルは知っている。なら、次に選んでいい男だと確信するまでは、好きにならないほうがいい。

(少なくとも、絶対、この男より先に恋には落ちない)

 じゆんしゆすべき攻略法として、それだけは決めた。失敗を次にいかすというのは、こういうことのはずだ。

 今度はこいごころを利用されたりなんかしない。ちがったりしない。

 唇を引き結んで金の指輪をなでていると、突然、頭上からばくおんひびいた。

「なっ──」

 一度ではない。二度、三度だ。ぎしぎしと船が大きく左右にゆれ、ばらばらとてんじようからほこりが落ちてくる。

「これ……しゅ、しゆうげきですか!? まさか……」

 早まった故郷のみなが、ジルがゆうかいされたと追いかけてきたのではあるまいか。だがジルの頭からハディスのかたに乗り移ったラーヴェの見解はちがった。

「ラーヴェていこくに入ったたんにこれかぁ。船になんか探知するものでもしかけられてたんじゃねーの?」

「み、身内の犯行ということですか? まさか、ヴィッセル皇太子派の襲撃……」

 ラーヴェ帝国は皇帝のハディスとその兄・ヴィッセル皇太子のじんえいで二分して政争がり広げられているのは、クレイトスでも有名な話だ。

 だが、ハディスの回答はジルの予想に反していた。

「兄上はそんなことはしない。……考える時間がだな、見にいこう」

 まるで散歩に向かうようなハディスの声が聞こえたしゆんかん、視界が変わっていた。空と海の、真っ青な水平線が見える。かんぱんの上だ。

 真上にのぼった太陽がまぶしい。

 ただの平和な空だ。だがジルは水平線の向こうに魔力を感知していた。

(──いち、にい、さん……大した人数じゃないが……)

 目を閉じて気配をさぐる。こちらに近づいているなら、魔力で目視できるはんだろう──そうしてさぐった海の上に、複数のかげを見つける。朝日を背にまっすぐこちらへ向かってくるのは、頭から口元までかくふくめんじみたきんと、うすよごれたこけいろの防護服を着た連中だった。金でやとわれたようへいが好んでするような格好だ。正規の軍隊ではない。

 だが、りゆうって空を飛んでくるということは、ラーヴェ帝国の人間だろう。しかもれいに隊列を組んでいる。

れだ。自力で飛べるほどの魔力持ちではないようだが)

 数分もあればここにたどり着くだろう。

 大きな的でしかないこの船をごうちんさせるくらい、わけないに違いない。

「あの、こちらも応戦したほうがいいのでは。この船には何人──陛下?」

 ジルをかかえていたハディスが突然、かたひざをついた。あわてて甲板におりたジルの前で、顔色を変えたハディスが、片手で口元をおおう。

「しまった……僕としたことが……っ」

「ど、どうしたのですか。まさか、何かこうげきを──」

「不用意に日の光をあびてしまった」

 は、とジルは声を失ったが、ハディスは両膝をついて、おおに続けた。

「しかも、今日はそくなのを忘れて……!」

「あーそういえばおめー、昨日は薬も時間どおり飲まなかったしな」

「え、あの。ふざけてないで」

 しつしようとしたジルの目の前で、ハディスが血をいた。

 ぼうぜんとするジルの前で、ハディスが自らの血だまりにしずむ。その指先がふるえていた。

「僕はここまでだ……ラーヴェ、この子を港に」

「あいよー」

「え」

だいじよう、心配しなくていい。僕は化け物だから、置いておけば……て、体力を回復すればいいだけだから……」

「え」

 すうっと息を引き取るようにハディスが目を閉じた。そのままがこんと変な音がして、船が動きをめる。

「え、……えええええ───────────!? ちょっ、待てどういうことだ!?」

 思わずハディスのむなぐらをつかんで、りつける。

「起きろ! 敵がきてるのにどうするんだ!? っていうかさっき船室から甲板にじゃなく、帝国に転移すればよかったんじゃないのか!? この船、ひょっとしてお前の魔力で動かしてたのか!? まさかほかだれもいないのか!? 大事にするとか守るとか言っておいて、いきなりこのていたらくはどういうことだ!!」

「すげぇつっこみのあらしだな」

「つっこまずにいられるか!」

 いくらゆさぶっても、ハディスは死んでしまったように青白い顔で目をさまさない。そして船が停まっても誰も顔を見せなかった。しんとしたせいじやくに、ジルは青ざめる。

 海の上に、動かない船と使えないこうていと竜神もどきのへび。最悪だ。

(わたしとしたことが、情報収集をおこたるなんて……!)

 ラーヴェもハディスも身内の犯行をしていた。ということはこれはラーヴェ帝国内の政争だ。きちんとハディスから事情を聞けていたなら、防ぐ手立てはあったはずなのに、幼女しゆとかケーキとかこうりやく法だとかに目がいってしくじった。

「あー、本人のめいのために解説しとくとだな。こいつが転移じゃなく船を選んだのは、お嬢ちゃんのりよくが不安定だったからだぞ」

「……さっきも陛下から同じようなことを言われましたが、意味がよくわかりません」

たましいって言いえてもいい。嬢ちゃん、それは本当の姿か?」

 ぎくりとしたジルに、ラーヴェがびをして目線を合わせる。

「魔力も魂もその体にだんだん定着してきてるから、このままで問題はねーけど。でも不安定なときにちようきよの転移なんてしたら体と魂がぶんするかもしれないだろ」

「では、皇帝陛下はわたしのために転移を使わず、危険をかくで……」

「いや、そりゃこいつが自己管理のなってない鹿だからだ。昨日はきゆうこんされたってかれまくって、いつすいもしてないし」

 そうか、そんなに喜んでいたのか。喜べばいいのかあきれればいいのか、複雑だ。

「体弱いんだよ、こいつ。竜神の魔力なんて人間のうつわにおさまりきるもんじゃねぇからな」

「……ラーヴェ様がそのように別の姿をとっているのは、魔力を分散させるためですか?」

「うーん、まあ色々? ま、話はあとにしようや。俺が転移させてやるよ。でも、どいつにじようちゃん預けたらいいもんかねー。こいつの周り敵だらけだからなぁ」

「待ってください。わたしがいなくなったら、皇帝陛下はどうなるんですか?」

「言ってただろ、本人が。このまま、置いてって平気だ」

 正気を疑う発言にラーヴェの小さな目を見返す。

「防衛本能で動く。一面、火の海になっておわりだ。──化け物だからな、俺達は」

 それは、よく知る線引きだった。

 軍神れいじようだから、大丈夫。さすが軍神令嬢だ、たよりになる。知っている──本当は裏で、化け物と呼ばれていたこと。

 軍神令嬢なんて、化け物の代名詞で、ジルを利用するだけ利用していたこと。

「……わたしが、なんとかします」

「へ?」

 こぶしにぎってジルは甲板で立ちあがる。今の体で十六歳のときと同じ魔力がるえると考えるのは楽観がすぎるかもしれない。体だって動くかどうか。

(だがこの皇帝は、わたしを助けようとしてくれた)

 今、ここで助ける理由も信じる理由も、それで十分ではないか。

 ハディスを起こして、てつさくにもたれかけさせ、船から振り落とされないよう鉄柵といつしよにぐるぐるになわしばりあげる。作業のちゆうでふっとハディスが目をあけた。

「……なぜ、まだいる? ラーヴェは何をして……」

「お前を助けるつもりらしいぞ、ハディス」

「心配しないでください。わたしが守ります」

 ぱちり、とまばたきを返された。んだ金色の目がまん丸になっていて、小気味いい。そういえばぎやくさつを命じた目をこちらに向けさせたときも、ほこらしくなった。

(うん、この目がわたしだけに向くのは気分がいいな)

 だから金色の両眼に、もう一度約束する。

「しあわせにすると言っただろう?」

 とん、と甲板をった。

 ふわりと浮いたジルはせんへと向かう。ラーヴェていこくに向かっていたのだから、向きはこのままでいいだろう。

 転移というのは時間をねじ曲げるほうだ。時間を止めたりもどしたり進めたりするような、時を動かす魔法は神のわざに近い。だからつうの人間には使えない。

 だが──腹をくくって、深呼吸をする。

 船尾を持ちあげた。思ったより軽い。これなら十六歳と同じ感覚でいける。

「せえのお!」

 両手で勢いよくボールを投げるように、船をぶん投げる。風を切りき、海をわたる鳥よりも早く、高く、船が空をかける。

 ハディスが甲板からすべり落ちないか心配だったが、ちゃんと鉄柵と縄でくっついたままなのがかくにんできた。ほっとしたその瞬間、ジルのほおじゆうだんがかすめていった。

 すかさずせんかいし、いつもの動作でこしけんを引きこうとしたジルは、それがないことに舌打ちした。

か。まあいい)

 目の前に飛んできた銃弾を魔力で覆った手でつかみとり、握りつぶす。

 慣れた戦いのにおいだ。おくすることなどない。それでこそ自分だ。

「さて、お前はわたしより強い男か?」

 それは、戦場を翔る軍神令嬢のじようとう

 不敵に笑ったジルは、矢の嵐に向かってっこんでいった。



 真昼の空に、魔力がきらめいている。

 鉄柵に背を預けたまま、ハディスは放心状態でそれをながめていた。

「けけっりゆうてい様がいいカッコだな、縄でぐるぐるまきとかどんなプレイだよ。いきなりしりかれすぎだろ」

「……ラーヴェ。ひょっとして今、僕は、守られているのか?」

「そーじゃねーの?」

「……信じられない……胸が苦しい……」

「ときめきで死ぬとか馬鹿すぎるだろ。ここからが勝負だってのに」

 わかっている。だからこの胸の高鳴りを止めねばと思うのだが、止まらない。どうしてしまったのだろうか。

 空をい、自分にあだなす敵を海へと落としていく。その戦う姿の、尊く、美しいこと。

「……だめだ、多分なんかもうだめだ。あんな子どもに……」

「お前、体調悪くなるとじようちよ不安定になるよなぁ……がんばれーおのれにまけるなー」

「だって、ラーヴェ。全身が熱いし、ほわほわするし、ぐるぐるする……」

「えっお前まさかマジになるの? やめろよーそれごくだからさ、なんのためのりゆうだよ」

「地獄……そうだな、地獄だ。こんなに胸が苦しいなんて……」

 小さな背中に、しなやかな女の背中が重なって見える。あれが彼女の本当の姿だろうか。

 いや、どうだっていいことだ。子どもだろうがなんだろうが、彼女ならばそれでいい。

 ただ、戦場をける正義のがみのような姿が、まぶしくて見ていられない──つまり。

「これは絶対にふないだ……」

「そっちかよ!?」

 大事にしよう。彼女は竜帝のはなよめ

 自分が守り抜かなければ死んでしまう、あわれなおとりなのだから。


***


 海面を滑った船がしようとつ気味に軍港にたどり着く。あがった飛沫しぶきと悲鳴にまぎれてハディスのもとへおりたったジルはさけんだ。

「皇帝陛下がのっておられる船です! 何者かにおそわれてげてまいりました! 早く陛下をりよう室へ!」

 おそるおそるやってきた兵士があわてておうえんを呼びに駆け出す。皇帝陛下、というけいしようのおかげですぐさまさわぎが伝わり、船に人がのりこんでくる。

「こ、この方が皇帝陛下? なら、なぜ縛られて……!?」

「敵のしわざです!」

「君はいったい」

「……僕の……妻になる女性だ……」

 ハディスが息も絶え絶えに答えた。ざわりと周囲がどよめく。

「ぶ、れいのないよう……こんやく者として……僕の、紫水晶のひめ……」

 まだそれ続けるのか、と思ったしゆんかんにハディスは気絶し、たんにのせられていった。

「あーありゃ船酔いとそくせつせいで当分目ェさまさないなー」

 ばたばた行きう人々の頭上から小さなつばさを使って、ラーヴェがジルのかたにおりた。口を動かしかけると、先に忠告された。

「ひとりでしゃべる危ない女の子だと思われちまうぞ」

 ジルは目を合わさないように前を向いて、声をひそめた。

「本当に、みなにはラーヴェ様の姿が見えないのですね。……声も?」

「聞こえないしさわれないだろうなー。本来の姿なら別だろうが。ま、そうほいほい見えたり聞こえたりしたら、ありがたみうすれるだろ。これでもりゆうじんだぜぇ」

こうてい陛下についておられなくてよろしいのですか」

「長時間は無理だけど、数時間程度なら平気だ。あの馬鹿、助けてくれてありがとうな」

「当然のことをしただけです」

 ひゅうっとラーヴェが口笛を鳴らした。

「いいねそういうの、かっこいー! 子どもとは思えないとこもふくめて気に入った。やあっと見つかったハディスのよめさんだし、しばらく助けてやるよ、じようちゃん。あの鹿の嫁ってことは俺の嫁でもあるからな!」

 そういうことになるのか。はあ、と気の抜けた返事をしてしまった。

「ここがどこかわかるか?」

 ジルは地図を頭の中から引っ張り出す。

 クレイトス王国とラーヴェ帝国で二分されているプラティ大陸は、東西を分断するれいほうラキア山脈を中心に、ちようが羽を広げたような形をしている。西方のクレイトス王国の王都から東方のラーヴェ帝国に海で渡るには、と考えて答えを出した。

「クレイトス王国と行き来ができる港がある場所……水上都市ベイルブルグ?」

「おお、正解。よくわかったなー」

「それは、もう。『ベイルブルグの無理心中』といえば──」

 言いかけて口を止めた。それはこれからの話だ。

 この水上都市は燃えて消える。若き皇帝ハディスのいかりを買って。

 かんぱんを歩いていた足を止めてしまった。ラーヴェに見あげられ、首を横に振る。

「いや、なんでも……あの、ここは陛下にとってどういう場所なんでしょうか」

「それだよそれ。さっきハディス、お嬢ちゃんを婚約者だって言っちまっただろ。ひともんちやく起きるかもしれねえ」

 質問を続けようとしたとき、船からおりるためのさんばしの先から、かんだかい声が聞こえた。

「では、ハディス様はご無事なのですか!?」

「お、落ち着いてください、スフィアおじようさま……確認中なんです、こちらも」

 なんの騒ぎだろうと思いつつ、ジルは渡り板をおりて、やっと陸に足をつける。その間にも桟橋の向こうでは、若い女性が兵士にめ寄り続けていた。

 どこかの良家のごれいじようだと一目見てわかった。仕立てのいい絹のドレスは、まだ少女のおもしが残るれんな顔立ちによく似合っている。少し金の入ったかみは、ふわふわとしていてやわらかそうだ。綿わたみたいな女の子だ、と思った。

「今はどちらに? ハディス様とお話しさせてください……!」

「そ、そう言われましても、私ごとき一兵卒ではなんとも……お父上にご相談されてはいかがでしょうか。ベイルこうしやくに」

「でも、でも、クレイトスから小さな女の子をつれて戻られたとさっき聞いて……私、いったいどうしたら……!」

 不安でゆれるひとみが、ジルを視界のすみにとらえる。

 どう反応していいかわからず立ち止まったジルの耳元で、ラーヴェがささやく。

「あれな、お嬢ちゃんのこいがたきのひとりだよ。スフィアっつって、ここ含む付近一帯をおさめてる領主のむすめ。侯爵令嬢ってやつだ。で、ハディスの婚約者候補」

「なんっ……!?」

「ハ、ハディス様がつれてきた子どもというのは、まさか、あなたですか」

 ぶるぶるとふるえながら、きっと顔をあげてスフィアがジルのもとまでやってくる。だがそのそうじみた顔は、すぐに悲しみにゆがんだ。

「こ、こんな、小さな子だなんて……っハディス様はやっぱり……!」

 ですよね、とジルのほおが引きつる。

 だがスフィアはしんけんだ。ハンカチをにぎりしめてちからいつぱいさけぶ。

「あ、あなたにハディス様はわたしません! このっ……この、どろぼうねこちゃん!」

 それが精一杯のとうだったのか、なみだを散らしてスフィアはきびすを返し、勢い余ってびたーんと音を立てて地面にすっ転ぶ。

「……」

「お、覚えてらっしゃい、ま、負けませんっ……!」

 覚えていろと言われても、まだ何もしてないし、何も言ってない。

 だが額を赤くしたスフィアはだつのごとく、走っていった。たぶん、逃げた。

 ぼうぜんとしたままジルはつぶやく。

「……恋敵?」

「そ、恋敵。あんまりいじめるなよー」

 竜神だからって、十歳の子どもに男女のをわかれなんて難しい注文をつけないでほしい。

(しかしあんな可憐な女性ではなく、わたしを選ぶとか……筋金入りか、やっぱり)

 こうせいの道はなかなか厳しい気がする。

 たんそくするジルの足元を、ぴゅうっと風がけていった。

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