第四章

 少しして昼食を買いに行っていた父親と一緒に、看護師さんが私の元へやってきた。全然泣き止まない母親を宥めながら、何があったのかを説明され、いくつかの質問を受ける。体調はどうだとか、記憶はあるかとか、どれも簡単なもの。それらが全て終わると、点滴が終われば帰れると言われ、またすぐにいなくなってしまった。

 症状としてはただの熱中症だったらしく、テスト期間の睡眠不足やら栄養失調が深刻化させたという。心配されたかと思えばそれを聞いた両親から今度はお叱りの言葉を受け、私は何度も頭を下げながら父親が買ってきたおにぎりを食べた。


「私、どのくらい寝てたの?」

 真剣な面持ちをしていたからきっと長いんだろうと思っていたが、返ってきたのは「三時間くらいよ。」という拍子抜けなもの。反射的に「なんだ、そんなもんだったの。」と口を滑らした私は両親の説教をさらに延ばしてしまった。「まぁ、生きてたから良かったけどさ。」と、もう考えることをやめたような結果論でこの話を締め括った母親は、ついさっきまで泣いていた人とは思えぬほどにいつもの母親に戻っていた。

「私達、まだ説明あるらしいから聞いてくるけど、下手に動くんじゃないのよ。」

「私は聞かなくていいの?」

「聞きに行けるような状態じゃないでしょ?」

 母の指差す先にはまだ終わらない点滴。

「あぁ、確かに。」

「大人しくしてなさい。」と二度も注意され、挙句の果てには「これ食べてていいから。」と私の好きなお菓子を幾つか餌のように置いて部屋を出ていった。


 適当に閉められたカーテン。仕切りの意味を含んだそれが窓からの風に煽られてちらちらと部屋の様子を覗かせる。幸いその隙間の先に人はいなかったが、どことなく視線を感じて閉めようとするも、点滴の管は意外と短い。また無茶をして親から説教されるよりは諦めるのが賢明だろう。

 反対を向けば、中庭を一望できる窓。もうそこに黒い尻尾はいなかった。普通に考えればあれはただの野良猫だろうが、今の私にはどうしてもあの猫がただの猫だとは思えない。そのむず痒さに抗えず、私は何もない窓に声をかけた。

「クロさん、いる?」

 夢の中で何度も聞いた「ニャ〜」という鳴き声。それはもう私の耳に届くことはなかった。私を慰めるように木の葉がサラサラと擦れている。確かに悲しくないかと言われれば嘘になるけれど、それよりも私の心は感謝の気持ちで満ちていた。あの場所にクロさんがいなければ、きっと私は気が滅入っていただろうから。

「ありがとね、クロさん。」

 本人には届かないと分かっていながらも、私は窓外に声をかけた。唯一言いそびれてしまった言葉。自己満足でも良い。それでも、心の中で留めずに、声にしたかった。

 そんな完結した行為に飛び込んできたのは彼でも親でもなく、知らない女性の声だった。

「クロさんを、知っているんですか?」

 閉められたカーテンの向こう。人の気配などなかったのにすぐ近くから聞こえたその言葉は、明らかに私に向けて発せられたもので、なんて返そうかと少しばかり考えていると、「黒猫の、クロさんを。」と追って声が聞こえた。どこか苦しそうな声色で話す女性。

 その異質な状況を変えようと、私は腕を精一杯伸ばしてカーテンを引っ張った。そして、開けてすぐに後悔した。女性の目の端に、溢れた一滴の雫が見えたから。もしかしたらわざと閉めたまま話していたのかもしれない。他人に泣いているところを見られるのは良い心地がしないだろう。特に大人は。

 もう閉めることも出来ないカーテンから手を離して、すぐそばに置かれていた箱ティッシュを差し出した。

「あの、使います?」

 先ほどまで母が使っていたそれを彼女は「すみません。ありがとうございます。」と軽く会釈して一枚手に取る。そして、かけていた眼鏡を外して目の周りをぐしゃぐしゃと少し手荒に拭いた。化粧が崩れないだろうか。私は勝手にそんな心配をしていた。眼鏡を掛け直した彼女は、「すみません。こんなところを見せてしまって。」と彼女は改めて頭を下げる。その顔はよく見ると化粧のしていないようだった。上下スエットに、お世辞にも綺麗とは言えないお団子結びの彼女。まるで家からそのまま出てきたような格好。そんな彼女は泣いていたことなどなかったかのように話を戻した。

「あの、クロさんって、聞こえたんですけど。」

「あぁ、えっと、夢の中で会った黒猫の名前なんです。名前って言っても、私が勝手にそう呼んでただけなんですけど。」

 そう、クロさんという名前がどこかに書いてあったわけじゃない。ただ黒いからクロさんと私が呼んでいただけだ。それに呼べば彼は「ニャ〜」と鳴くから、きっと本人も気に入ったんだろうと勝手に思っていた。

 彼女はそんな私の曖昧な説明を聞くなり近くの棚で何かを探しだし、一枚の写真を見せた。

「そのクロさんって、この子に似てませんでした?」

 指さされた先にはモノクロ写真に映る一匹の黒猫。大して特徴もないただの黒猫なのに、私は確かに見たことがあった。いや、黒猫だけじゃない。その写真に映るもの全てだ。まさに私が数時間前に見ていた、ベンチに座るクロさんの姿が写真の中にある。ふわふわの毛並みで尻尾をゆらゆらと揺らすクロさん。あまりに酷似したその写真に私は見入っていた。

「違いました?」

 彼女の一言で我に帰り、慌てて「この子です!」と言うと、彼女は「あぁ、良かった。」と、とても嬉しそうな笑みを浮かべる。泣いたり笑ったり、忙しい人だ。


 写真を眺めていた彼女は、はっとこちらを見るなり、「あ、すみません。私、山本 美穂と言います。」と名乗り、話を続ける。でもその話を聞きながら、私は山本という苗字に少し気を取られていた。

「私の母が、ずっとクロさんに会いたがっていたんです。学生の頃に懐いていた猫だったそうで、会えなくなってからもよくこの写真を眺めていました。あまりに会いたいと言うもので、探しに行こうと声をかけたりもしたんですが、きっともう生きてないと言われてしまって。」

 不甲斐ないというような顔をした美穂さんは、写真に被った小さな埃を手で払った。

「それでもある日、母が体を悪くして病院に運ばれた時に、心配して駆け込んだ私が馬鹿らしく思えるほど、母はすごい笑顔で私に言ったんです。『クロさんに会えた。』と。夢の中だと本人も分かっていたみたいで、それから寝る前にはよく『クロさんにまた会いたい』と言うようになりました。でも、それから一度も会うことはなかったそうで。せめてもう一度会わせてあげたかったんですけど。」

 過去形で話す彼女。その先の言葉を彼女はあえて話さなかった。「まぁ、私には何も出来ないんですけどね。」と苦笑いを浮かべる美穂さんは、またうっすらと目を潤ませている。

「もしかしたら、本当にクロさんはいなくなってしまったのかもしれないって思ってたんですけど、優華さんも会っていたんですね。」

「え、あのなんで私の名前……」

 名乗ってもいないのにと不思議に思っていると、「部屋の入り口に書いてあったので。」と、美穂さんは入り口の方を指さした。そこには確かに『中村 優華 様』と書かれている。しかし、それだけではない。私の名前の下。

「由美子さん?」

 私がその名前を読み上げると、美穂さんは「あ、そうです。それが私の母の名前です。」と言った。途端に、完結したはずの過去がどんどん掘り返されていく。それらは整理されないまま散らかり、私の頭を埋め尽くした。

 笑顔で思い出話を語ってくれた由美子さんも、「ニャ〜」と彼女に懐いていたクロさんも、この世界にいて、夢で会って、それで。

 私の横。美穂さんが手を添えているベッド。入り口のボードではそこが由美子さんの場所だと書かれている。

 あぁ、そっか。本当の結末は、過去形で話す美穂さんと、人がいたとは思えないほど綺麗に整えられた空白のベッドが教えてくれた。


 私は夢の中での事を全て美穂さんに話した。由美子さんと話したこと。クロさんに会えていたこと。旦那さんのところへ行ったこと。出来る限り詳しく話そうとしたあまりだいぶ長くなってしまった話を、美穂さんは何度も何度も頷きながら聞いていた。時に涙ぐみ、また時には思い出し笑いをしつつ聞く彼女。そうして話し終えると、彼女はただ一言、「ありがとうございます。」と私に言った。何も感謝されるようなことをした覚えはない。むしろ「大丈夫。」と励ましてくれた由美子さんに私は感謝したいくらいだ。それでも深々と頭を下げた美穂さんの姿に、彼女の由美子さんを想う心が重なって見えた。

「父は母よりも少し早く亡くなりました。だから、母に何かしてあげられるのは私だけだったのに、私は何も出来なくて。本当に優華さんのおかげです。」

 そう言う美穂さんの顔にはもう、後悔や悲しさといった感情は薄れていた。きっと彼女の中で吹っ切れたんだろう。


 それから両親が戻るまで、美穂さんと一つのアルバムを見て過ごした。『高校生』と書かれたそのアルバムはかなり色褪せていたが、大事に保管されていたのが見てわかるほど、中の写真は丁寧に仕舞われていた。中には由美子さんと旦那さんの写真ばかり。時々クロさんが混じっている。学校行事のものもいくつかあったが、由美子さんは本当にあの駅に思い入れがあったんだろう。ほとんどが月見台駅のものだ。受付の所で駅員さんと話す由美子さんの姿。ベンチで缶コーヒーを飲んでいる旦那さん。二人に可愛がられているクロさん。

「この月見台駅、もう今はないんです。」

 アルバムが半分まで来た頃に美穂さんはそう言った。

「両親が高校卒業したのを境に運行停止してしまって、それを知らなかった母に、父はずっと隠していました。バレないようにって私にまで口止めをしていたんですよ。」

 その話に、私は由美子さんの言葉が脳を過ぎった。

“前々からね、一緒に行こうって話していたのに、彼ったら家で一緒に居れるんだからいいじゃないかって言うのよ!“

 可愛い乙女のように話していた由美子さん。きっと彼女は最後まで旦那さんの優しさに気づいていなかったんだろう。

「旦那さん、いい人ですね。」

「本当に、私もそう思います。」

 美穂さんと顔を合わせてふふっと笑っていると、コンコンと部屋のドアをノックする音がした。

「優華さん、点滴終わりました?」

 そう尋ねる看護師さんの後ろには、両親がチラチラと覗いてはこちらに手を振っている。空っぽになった点滴の袋。もう帰る時間だ。

 両親の手伝いもあってあっという間に終わった片付け。

「美穂さんはまだここに?」

 写真などの荷物を片していた美穂さんは、「はい。手続きとかもまだ残っているので。」と言い、私達の後ろ姿に頭を下げる。何も知らない両親に「あの人は?」とか「何か話していたの?」とか色々聞かれたが、私はただ「秘密。」とだけ答えた。なんとなく、この事は私の胸の中にしまっておきたい。そう思ったのだ。



「そういえば、誰が助けてくれたの? お母さん?」

 帰りの車内。茜色に染まった空の下、眩しいとサングラスを取り出した母は「私じゃないわよ。」とレンズを拭いていた。

「優花と同じベンチにいた男の人だよ。」

 運転しながら父はそう答えた。

「あぁ、あの人。」

 確かすごい猫背で、エナジードリンクを流し込んでいた人。

「あんた、あの人に会ったらお礼しときなさいよ?」

「うん。っていうか、その人の名前とか聞いてないの?」

「聞けてないのよね。ただ、気にしないでくださいの一点張りで。」

「へぇ、そうだったんだ。」

 なんだかすごくあの人らしいと思った。


 サングラスをかけた母は、あぁ、そうそうと何か思い出したように言うと、「目が覚めたらこれを渡してくださいって言われてたわ。」と四つ折りにされた紙を差し出した。「すっかり忘れてたわ。」と笑う母をよそにその紙を開く。

『僕は幼い時から体が弱く、倒れることも多々ありました。体調が安定せず、今日会社もクビになって、家に帰る元気もなくあのベンチに座りったんです。でも、あなたが倒れた時助けることが出来て、初めてこの体で良かったと思えました。ありがとうございます。』

 お世辞にも綺麗とは言えない字。それでもすごく丁寧に書かれている。私はその紙をバックの中に大切にしまった。

「なんて書いてあったの?」そう聞く母に、私はまた「秘密。」とだけ返す。

「あんたそればっかじゃない。少しくらい教えなさいよ。」

「秘密なものは秘密なの!」

 車内に差し込む夕日は暖かく、私達の頬を茜色に染めた。




 校舎内に響くチャイム。

『今日買い物行くけど一緒に行く?』

 母親からのメッセージに『行く!』と返すと、『じゃあ迎えに行くから校門で待ってて。』と可愛いスタンプが送られてきた。言われた通りに待っている間、同じ制服を着た人達が横を通り過ぎ、流れるように帰路につく。別に珍しいものでもなんでもない。当たり前の光景。でも、今の私には、それが特別なものに見えるんだ。

「優華ー! また明日ね!」

「うん、また明日!」

 通りがかる友達に手を振る。そういえば、由美子さんには別れの言葉を言ってないんだった。

 見上げれば雲一つない青空。申し訳ないけれど、再会の挨拶もまだまだ言えそうにないし、言うつもりもない。

 暫くすると白い車がウインカーを点滅させて道脇に止まった。そのドアを勢いよく開け乗り込む。

「ただいま!」

 私の帰る場所は、まだここにあるんだ。

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