第三章

 夕日が沈むのは早い。昼間の気だるげな太陽とは別人のように、そそくさと水平線に潜っていった。灯りの少ない田舎。夜に待っているのは暗闇そのものだ。月明かりと、駅の屋根に付けられた数少ない電球に頼るしかない。

「クロさん? そこにいるよね?」

 暗闇に声をかけると、のろのろとこちらに歩いてくる黒い塊。

「ニャ〜」

 膝上にやってくると、ようやく彼の姿がはっきりと見えた。

「もう真っ暗だね。」

 自分の存在までも隠されてしまうような暗闇に少しばかり怖気付いてしまう。気を紛らわそうと飲んだサイダーはもう炭酸が抜けて美味しくなかった。

「由美子さん、もう旦那さんに会えたかな。」

 そうだったらいいな。「ニャ〜」と鳴く彼は尻尾をゆらゆらと揺らす。その尻尾を避けるように手を退かすと、動きに反応して眩しく光るスマホの画面。

『今から迎えに行くね。』

 いつまで経ってもやってこない“今”は、いつ来るんだろうか。誰もいなくなった静かな駅で、寂しさがどんどん膨らんでいく。


 なんだか懐かしい。この感情に私は微かな心当たりがあった。


 あぁ、そうだ、保育園の時だ。普段お迎えに来るのは早かった母親が、唯一遅かった日があった。あれは確か私の誕生日。帰ったら、当時好きだったハンバーグと、イチゴがいっぱい乗ったショートケーキがあると朝に聞いていたから、ワクワクしながら待っていたんだ。

 でも、あの日。いつまで経っても母親は来なかった。周りの友達がみんな帰った後、一人保育士さんと遊んでいた時に父親が来た。普段残業が多く、迎えに来たことなんてなかった父親が。「ただいま」という私の声を遮って、ただ必死に「ごめんね。」と何度も言っていたのを覚えている。抱っこされていたからあまりその時の父親の顔は覚えていないけれど、きっとそれで良かったんだろう。すすり泣く父親の声が、帰り道の静かな住宅街で響いていたから。

「お母さんは?」

 そう聞いても、父親はただ「ごめん」と返すばかりだった。


 あの日母親が帰ってきたのは、日付が変わった後だった。仕事でミスをしてしまい、手が離せなかったらしい。次の日、「ごめんね。お詫びに優華のハンバーグ二個作ってあげるよ。」

 そう言って、母親は当初の予定よりも遥かに豪勢な夕飯を作ってくれた。でも、私はこれっぽっちも嬉しくなかった。大好きだったハンバーグも、イチゴがいっぱい乗ったショートケーキもどうだって良かったんだ。お迎えがどんなに遅れても別に良かった。ただ、笑顔で「おかえり」って言ってほしかっただけなんだ。どんなに寂しくても、泣かずに偉い子で待ち続けていたのに、それなのに、親が泣くのはずるいじゃないか。


 あぁ、あの時の私は強かったな。つーっと頬を伝う涙に、そんなことを考える。あの時は、溢れそうになった涙も頑張って堪えた。目が腫れたら泣いていたのがバレてしまうから。でも、もうそんな我慢強さは残っていない。一度溢れた感情は止まることなく流れ続ける。

「早く、迎えに来てよ。」

 掠れた小さな声。開いた口に涙が流れ、塩の味ががじんわりと広がった。

「寂しいよ。」

 言葉にしていくことで心が軽くなると同時に、言語化してしまった感情が重みを増す。

「怖いよ。」

 溶け出した心の水滴がぽつ、ぽつと地面へ落ちていき、コンクリートを黒く滲ませた。この世界が暗くなっていくのを恐れた私は直感的に上を向く。涙が溢れないように。

 そうして見上げた先には満天の星空が広がっていた。自宅では見られない、田舎ならではの景色。暗闇の中光るそれらが、私を照らすスポットライトになればいいと思った。そうすれば、きっと私を見つけてもらえる。

「ねぇ、私はここにいるよ。」

 自然と溢れた言葉。誰も見つけてくれない。誰も気付いてくれない。だから私から伝えないと。もちろん返事なんてない。そう思っていた。

「ニャ〜」

 一匹の黒猫がこちらを見ては鳴いている。じっと目を逸らさずに。そのまましばらく目を合わせた後、何かを聞きつけたかのように彼はたちまちホームの方へと駆け寄った。

「ちょ、ちょっと待ってよ、クロさん。」

 彼は猫だから、言葉で止まってくれたりなんかしない。振り返ることもなく進んでいく。私を一人にしないで欲しい。その一心で私は彼を追った。

 私が彼の横に着くと、再び彼は「ニャ〜」と鳴く。そこに続くのは静寂ではなく、ガタゴトという重たい物音だった。

「え、、」

 思わず声が漏れる。日常が帰ってきた。そう、感じたから。音のする右の方を向けば、目を細めるほどの光が私を照らす。そしてすぐに強い風が私の髪を吹き上げた。白地に青のラインを入れた車体。八両ほどのそれは、まさに私が通学で使っていた電車だ。

 次第に減速し、キィーと音を立てて私達の目の前でドアが開く。白の壁に青い座席、カラフルな広告が掲示された車内。そこへ真っ先にクロさんが飛び乗った。

 私も乗ろう。そう思っても、踏み出す私の足は酷く怯えていた。これに乗ったらどこへ行くんだろうか。車内のモニターでは『次は   です。』と目的地を見失っている。知らない場所とはいえ、半日近い時間を過ごしたこの駅に、私は少し慣れていた。だからこそ、新しい場所へ踏み出すのは勇気がいる。もっと素直に言えば、怖いんだ。この場所で待っていても迎えが来るなら、ここにいたい。向かう先も夢の中なら意味がない。知る由もない未来への憶測と不安が、全身を駆け巡る。

 そうして怯えていた右手を、私はぐっと握りしめた。お守りのように持っていたスマホが手に食い込む。エラーばかりで使い物にならないそれは、私に少しの勇気をくれた。

 大丈夫。きっとこれが帰り道だ。電車の中。こちらを見て「ニャ〜」と呼ぶ彼の元へ、私は踏み出した。



 気付けば月は随分と高くまで登っていた。きっともう夜も遅いのだろう。次の停車駅は未だ空白のまま、電車は走り続ける。ほどよい揺れが睡魔を誘い、私はソファで目を瞑った。それでも、もうクロさんは私を起こさなかった。



 右手に伝わる感触で目を覚ました。眩しい光に目を細めつつも、だんだんと視界が明確になっていく。そうして目に入ったのは無機質な部屋と、泣きながら私の名を呼ぶ母親の姿だった。涙を拭うこともせず、母は私の手を強く握り直した。潤んだままの瞳は真っ直ぐ私を捉える。

「優華、おかえり。」

 優しく、愛おしそうに伝えられたその言葉が、まだ少しぼーっとしたままの耳に届く。それでも、ずっと聞きたかったその言葉を、聞き逃したりはしなかった。

「ただいま、お母さん。」


 窓の外では、黒く毛並みの良い尻尾が手を振るように揺れていた。

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