第二章

 由美子さんは誰もいない受付カウンターへ向けて一礼した。

「ただいま戻りました。」

 上品さを纏ったゆっくりと丁寧な仕草。まるで彼女の目の前に人がいるかのように一点を見つめては優しく微笑む。邪魔をしてはいけないと思い、私は部屋の入り口で見守ることしかできなかった。「お待たせしてしまったわね。」と部屋を後にする由美子さんの顔はなんだか満足そうで、「そこに誰か居たんですか?」なんて聞くのは野暮だろうと「いえ、お気になさらず。」とだけ返した。

 彼女は辺りを見回すこともせず「あちらでお話ししましょう?」とベンチのある左を指差す。この駅に来てから視界に入っていないはずのベンチを、はなから知っていたとでも言うように。


 クロさんが「ニャ〜」と出迎えたおばあちゃんは「山本 由美子と言います。」と名乗った後、「少しの間、お話し相手になってもらえないかしら。」と言い出した。私も同じように「中村 優華と言います。」と名乗った後、こんな小さな駅で、ましてや一度挨拶を交わした人がいる中無言を貫く方が気まずくなりそうだったので、「良いですよ。」と返した。しかし、いざこうして横並びに座ると何を話すべきか分からない。

 聞きたい事は山ほどある。由美子さんの事。この駅の事。そして、ここは本当に私の夢の中なのかと言う事。私は最初、これが明晰夢だと思っていた。夢の中で夢だと自覚し、現実のように感覚がしっかりとすると言われているあの明晰夢。でも、時間が経つごとに私はこれが明晰夢だと言い切れなくなっていた。実際に明晰夢を見たことがない私に、この世界は現実なんじゃないかと思わせるほど、夢と現実の境界線が薄れている。もしかしたらここに来るまでの記憶を失ったんじゃないか、はたまた、並行世界に迷い込んだんじゃないか。何が夢で何が現実か。この目で見てもなお分からない現状に、憶測は増えていく一方だった。私は現実に帰れるんだろうか。

『今から迎えにいくね。』

 ずっと右手で持っていたスマホのメッセージ。そんなデジタルのものに縋る事しか、今の私には出来なかった。


 そういった不安が顔に出てしまっていたんだろうか。由美子さんは私の表情を窺いながら「何か悩み事でもあるの?」と問いかけた。そう優しく聞き出してくれる彼女だからこそ、私は明晰夢について話すのはやめようと思えた。これがもし現実だったとして、彼女に「ここは夢の中なんです。」なんて話す行為は、彼女の存在を否定しているのと大差ない。それは、自分に対して優しく手を差し伸べてくれるような相手にすることでは無いはずだ。もっとも、私の良心が許さない。だから、まずは由美子さん自身について聞くことにした。

「悩み事はないですよ。それより、由美子さんはなぜここにいらしたんです?」

 彼女は何か思い出すような、それでいて言葉を選ぶような間をおいてから、「思い出を、辿りに来たの。」と話す。

「思い出を?」

「えぇ、この駅は高校生の頃使っていた思い入れのある駅なのだけど、それから一度も来れていなくてね。もう今年で六十三になるわ。」

「…え」

 私は微かに声を漏らしてしまった。しかし、運悪くその声を由美子さんは聞き取ってしまったらしい。

「見えないわよね。六十三だなんて。もうこんなしわしわで。」

 彼女は笑いながら自虐のように話すが、私は「いやいや、まだまだお綺麗ですよ。」と口では話しつつも、苦笑いを浮かべることしかできなかった。だって、彼女を初めて見た時私は、八十後半だろうと思っていたのだから。随分と曲がった背中に、袖から覗く筋肉の落ちた腕。もちろん嘘をついた可能性だってある。年齢をわざと若く言っておくなんて歳を重ねれば当たり前くらいのことだろう。それでも、しわしわだと語る由美子さんの目を見て、嘘をついたとは思えなかった。

 彼女は気にする素振りも見せず話を続ける。

「当時もこの月見台駅を使う人は少なかったわ。こうして誰もいない駅が、いつもの見慣れた景色だったの。」

 彼女が話しながら見る駅のホームには、依然として誰もいない。

「でもね? 一人だけいたのよ。毎日ここで同じ電車に乗る男の子が。」

「同じ学校の人ですか?」

「えぇ、そうよ。花咲駅にある学校の生徒で、山本 章という名前の子だったわ。」

「え、山本って……」

「ふふ、あなた勘がいいわね。そう、彼は私の旦那よ。」

「えぇ! 良いですね、ロマンチックで。」

 由美子さんの話を興味津々に聞いていると、ホームを散歩していたクロさんも気になり始めたのか、彼女の膝上にそろりと乗っかり、丸まったまま大人しく話の続きを待っていた。彼女は動揺することなくクロさんの背中を撫でながら話す。

「彼と会う時間のほとんどをこの駅で過ごしたわ。このベンチでお話ししたり、あの自販機で一緒にジュースを飲んだり。大したことはしてないけれど、それが幸せだったのよ。」

 由美子さんの瞳にはきっと、当時の記憶が映っているんだろう。幸せそうな顔をする彼女につられて、私までも自然と頬が緩む。


 由美子さんはその後も様々な思い出を聞かせてくれた。実は旦那さんに会うまではここの駅員さんをカッコいいと思っていた事や、旦那さんが遅刻した時は電車の本数が少なくお昼頃に学校に来た事。それを笑って聞いていたら次の日には自分が同じ目にあった事。どれも面白い話ばかりで、流れるように時間が過ぎていく。

「あぁ、こんなにも誰かに昔の事を話したのは久しぶりだわ。」

「旦那さんとはお話しされないんですか? 昔話に花が咲く事もありそうですけど。」

「話すわよ? まぁ、私が一方的にだけどね。彼は今ではもうそんなに言葉数の多い人ではないし、恥ずかしいとか言って自分からは話そうとしないのよ。」

「ふふ、心の中では私の話は長いとか思ってるわよ、きっと。」なんて話す姿はまるで学生の頃の由美子さんを見ているよう。恋する女の子はいつまで経っても可愛いのものだ。

「なら、ここに来るのも本当は旦那さんとが良かったとか?」

 そう言うと由美子さんは声の大きくして「そうなのよ〜!」と私の肩を揺すった。

「前々からね、一緒に行こうって話していたのに、彼ったら家で一緒に居れるんだからいいじゃないかって言うのよ!」

「えぇ、思い出の地はまた別の良さがあるのに。」

 彼女の肩を持つと「あなた分かってるわねぇ。彼もこのくらい物分かりのいい人だったら良かったわ。」とぶつぶつ不満を漏らしていた。しかし、そんな不満も結局は全て惚気話で、素敵な夫婦の一部を覗き見たような気分だ。


 話が一段落ついた時、ふと由美子さんは空を見上げる。そのまま私に問いかけた。

「優華ちゃんはどうしてここに?」

 どう誤魔化そうか。真っ先に私はそう考えた。気付いたらここにいたなんて不自然すぎる。でも、困ったことに私は嘘をつくのがそんなに得意ではなかった。ここは素直に言おう。ほんの少しのモザイクをかけて。

「人を待ってるんです。」

 嘘は言っていない。濁しただけだ。でも、意外にも由美子さんはそれ以上詮索する事はなく、ちょっとした沈黙の後に「そう。それは悲しいわね。」と言った。悲しい? ただ待つだけなのに何が悲しいというんだろうか。寂しいとかならまだわかるけれど、悲しいという言葉はどこかしっくり来なかった。

 私が聞くまでもなく由美子さんは「待つ方は、声が届かないから。」とまた空を見上げる。声が届かない。それはまるで今の自分のことを言われているようだった。未だスマホの画面は一件のメッセージを残して固まったまま。タップすればエラーの表示。今まで“安心感“なんて言葉で重ね塗りしていた自分の感情が、“悲しい”という言葉と共に溶け出していく。由美子さんが空を見上げていてくれて助かった。きっと今の私は酷い顔をしているだろうから。

 彼女はベンチからゆっくりと腰を上げ、こちらを向く。ずっと膝上にいたクロさんは慌てて膝から飛び降りた。急いで無理やり上げた口角はやっぱり出来損ないだったようで、由美子さんに見抜かれてしまった。

 そっと頬に添えられる手。冷たく少しカサついたその手が、今は温かい。

「大丈夫よ。あなたは声を届けようとしてるもの。」

 そうなのだろうか。届かないと言った声は、そんな意思だけでどうにかなるんだろうか。脆くなった心に不安が過ぎる。肌寒い風がスカートを揺らすと、同時に心にまで冷たい隙間風が吹いたようだ。でも「大丈夫。」と、言い聞かせるように再度伝える由美子さんを、私は信じてみようと思えた。

 彼女の手を取り両手で握り返す。

「ありがとうございます。」

 それしか言えなかった。まだ「もう大丈夫」とも、「心配しないで」とも言えるような丈夫な心ではない。

「じゃあ、私はもう行くわね。旦那が近くまで迎えに来てくれてるみたいだから。」

 そう言って彼女の手が私の手から離れていく。

 私の体温から寒い空気に包まれていくその手を見て、私は「あの!」と彼女を止めた。バックの中を手探りで探す。あぁ、良かった。タオルに包んでいたからかまだ温かい。

「お礼と言ったらなんですが、これ、良かったら持って行ってください。」

 そう言って差し出したのはクロさんが当てた缶コーヒー。

「あの、無理に飲まなくても手を温めたりして使っていただければ良いので。」

 正直、この年の方にコーヒーを渡すのはどうかとも考えたが、そんなことは杞憂だったようで、由美子さんは手に取るなり嬉しそうに微笑んだ。

「あら、いいの? ありがたいわ。最近手が冷えやすくてね。それに、旦那がこのコーヒー好きだから、あげたらきっと喜ぶわ。」

 大事そうに缶コーヒーを握り、彼女はホームへと足を運んだ。私も見送ろうと着いて行ったが、右を見ても左を見ても電車は来ない。しかし、横で由美子さんはずっと空を見上げる。もう夕方だ。茜色の空が太陽に吸い込まれていく。

「そろそろかしら。」

 由美子さんがそう言うと、左の遠くの方から聞こえてくる電車の音。クロさんも見送るのかその音を聞きつけて私のそばに寄ってくる。すると彼女はクロさんの元へ来て頭を撫で、一言「よろしくお願いしますね。」と言った。彼は「ニャー」と返事をして大人しく座る。


 遠くから電車が見えてくる。この駅で見る初めての電車だ。地域特有なのか見ない形のもの。一両編成の小さな電車は赤茶色に塗られ、車内に差し込む夕日がより綺麗に見える。その光が反射したからだろうか。運転手の姿は見えない。行き先も書かれていないその電車は、私達の目の前で止まった。

 ドアが開き、別れの挨拶をと思った時、横から「シャー!!」と聞いたことのない鳴き声がする。

「え、ちょっと、クロさんどうしたの。」

 先ほどまでの穏やかな様子は一変。ふさふさの毛を逆立て、開いたドアに向かって鋭く睨みつけている。どうにか落ち着かせようと思ったが、下手に触ると引っ掻かれそうで手も出せない。慌てる私に対し、由美子さんは動じることなく、そのまま電車に乗り込んだ。

「あ、あの、本当にありがとうございました。」

 深いお辞儀を添えてありったけの感謝を込める。

「こちらこそ、楽しい時間だったわ。」

 由美子さんは優しく微笑みながら、軽く手を振った。

「じゃあ、気を付けてね。」

「はい。」

 別れの言葉は互いに言わなかった。無理だと分かっていても、また会えたら良いなと心のどこかで思っていたからだ。

 ドアは閉まり、電車が動き出す。眩しく照らされたその電車が見えなくなるまで、私は大きく手を振り続けた。もうその時にはクロさんも静かになり、共に電車を見送った。

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