Wait for……
Renon
第一章
『今から迎えに行くね』
母親からの一件の通知。珍しいものでもなんでもない。だからこそ、なんだろうか。お守りのような安心感が確かにあった。ここで眠りに着いていたのも、きっとそのせいだろう。
潮の香りを纏った風が制服のスカートを揺らす度、さらさらと肌を撫でる。心地良さにしばらく瞼を閉じていると、右腕にくすぐったい感触があった。そこにだんだんと引っ張られるような力が加わる。
痺れを切らした私は横の彼に「ん〜、わかりましたよ、もう寝ませんからぁ。」とうっすら目を開けたが、当の本人はこちらを見ることもなく何も来ない線路を眺めていた。見られていないのを良い事にまた瞼を下げると、今度はさっきよりも強く、ペシペシと叩かれる。終いには「ンニャ〜」と駄々をこねるように鳴くものだから、諦めて彼の相手に専念する事にした。
「はいはい、ごめんね、クロさん一人じゃつまんないよね。」
毛並みのいい背中を撫でながらそう言うと、さも満足そうにゴロゴロと喉を鳴らす。なんだかこっちまで楽しくなってきて、喉元を撫でたり、頭を撫でたり、そのふわふわの毛を思う存分堪能する。
「気持ちいでしょ、女子高生に撫でてもらえてるんだから。」
クロさんにはこの贅沢さがわからないかな〜と揶揄ってはみるものの、当然彼の耳には届いていない。右に左に、綺麗な黒い尻尾を揺らすだけ。それでも、私は充分だった。
静かな駅のホームに、一人と一匹。この人気のない駅でクロさんに出会ったのは、青空に浮かぶ羊雲が群れを成す前だった。
◇◆◇
さすがにまだ来てないか。
駅前のロータリーには未だタクシーとバスの往来のみ。見慣れた白い車はどこにもない。どうしたものかと立ち尽くしていると、ポケット越しに微かなバイブレーションがあった。
『今から迎えに行くね。』
画面に映るメッセージ。一文のチャットでも句点を使うのはきっとこれからも続くんだろう。『はーい!』と書かれたスタンプを送り、時間を確認する。長くても二十分といったところだろうか。どこかのお店に入るには微妙なその時間を、私はすぐそばにあったベンチで過ごす事にした。お昼時の駅前はご老人ばかりで、数少ないベンチを若者が使うことに若干の抵抗はあったが、そんなことを考えられるほど今の私の身体に余裕はない。一度腰掛けると溜まりに溜まったテスト期間の疲れがどっと足に流れた。忘れていた眠気も戻ってくる。
少し寒い風と暖かい日の光に、体温はぐるぐると渦を巻く。うとうとしたまま街を眺めていると、一人のサラリーマンが目についた。なぜかと言われると「なんとなく」としか答えられないようなものだったが、それは彼が近づくごとに明確なものへと変わっていった。言うならば“疲弊感“といったところだろうか。和気藹々と立ち話をするご老人方や、ピシッとスーツを着こなし、これから営業にでも向かうようなサラリーマンがいる中で、彼はどことなく活力に欠けている。ネクタイは緩み、猫背で、ただずっと地面を見て歩く姿が、日の光に照らされて浮き彫りになっていた。
とぼとぼとビニール袋を揺らしながらこちらに来ると、その男は私の前で足を止めた。地面ばかり見ていた男と目が合う。
「あの、隣、座ってもいいですか。」
小さな声だった。話すエネルギーすら残っていないような、途切れ途切れの声。断る理由もない私は、「どうぞ。」と広がっていたスカートの裾を自分の方へと寄せた。
彼は座るなり、持っていたビニール袋から一本の缶を取り出す。昼間からお酒でも飲む気だろうかと横目に見ていると、握っている手の隙間からエナジードリンクのパッケージが顔を覗かせた。弱々しい手つきで缶を開けると、水を飲んでいるかのようにごくごくと喉を鳴らして身体に流し込んでいく。エナジードリンクを飲んだことがない私でも、こうして一気飲みするようなものではない事くらいわかっていた。
男は随分と長い間飲み続けた後、はぁ……とため息をこぼしてその缶をビニール袋へ落とした。飲み切ったんだろうか。カランッと中で音が鳴る。きっと一本だけじゃないんだろう。
はたから見れば浮いた二人。エナジードリンクを流し込むサラリーマンに、寝る寸前の高校生。暖かく活気のある街の空気にそぐわない。でも、横にこの男がいることで、私は少し自身の疲れに正直になれた。もしかしたら彼もそんな思いで船を漕いでいた私の横に座ったのかもしれない。
……だから、これは明晰夢だと思った。親が来てくれれば、起こしてくれるだろう、と。
くすぐったい感触に目を開いた。私の膝上にある真っ黒い何か。突然それがむくっと動き出すものだから、「うわぁ!」と声を上げてしまって、恥ずかしさに周囲を見渡す。誰もいない。いるのは膝上の一匹の猫。ただそれだけだった。駅前のロータリーは海を目前にしたホームに変わり、横にいたあの男の姿もない。澄んだ空気と若草の匂いが鼻をくすぐる。黒猫は「ニャー」と鳴きながら尻尾で私の腕を叩いた。
それがクロさんとの出会いだった。
◇◆◇
「いつになったら来るんだろうねぇ。」
ここに来てからずっとエラー表示のスマホ。メッセージは開けないし、時間もわからない。まぁ、夢ならそんなもんだろう。でも、体感としては随分と時間が経ったはずだ。最初は驚いていた明晰夢にも慣れ、持っていた水筒も底を尽きた。空に浮かんだ羊達も、綺麗さっぱりいなくなってしまった。それでも、現実の私を起こしてくれる人はまだ来ない。
重い腰を上げて大きく伸びをすると、ゴリゴリとなる骨の音。加えて、大きな大きなあくびをしながら、私は財布一つで自販機に向かった。途中、後ろから「ニャ! ニャ!」と強い鳴き声が聞こえる。振り返れば、こちらに駆け寄る一匹の黒猫。
「なぁに、どうしたの?」
彼は私のところまで来ると、これ以上歩かせないとでも言うように、足の間をぐるぐると歩き回った。その姿に思わず笑ってしまう。
「あはは、クロさん可愛いね。一人置いてかれるの寂しかったんでしょ〜。」
しゃがみ込み、「一緒に行こっか。」と言うと、彼はまるでその言葉を理解したかのように「ニャ〜!」と鳴いた。
小さい山小屋のような木造の駅。自販機まで大した距離もなく、クロさんとのお散歩は早々に終わりを迎える。そして、自販機を見るなり私は違和感を覚えた。
「え、なにこれ、」
見たことがなかったんだ。自販機の形態も、そこにある飲み物も。四角い押しボタンと小銭の投入口を挟んだ上下二段のディスプレイ。飲み物は全部で十六本と液晶版でもないのにかなり少ない。それから、これは新パッケージなんだろうか。見覚えのないラベルやボトルが陳列されている。しかし、購入方法に大きな差異はないようだった。
違和感を抱えたままとりあえず小銭を入れていると、物足りなさそうな顔をした彼がこちらを見上げる。「しょうがないなぁ。」と抱き上げると、手足で宙を掻くようにしてはしゃぐ彼。きっと相手をしてもらえるのが嬉しいのだろう。元気な右手を少しだけ拝借し、点灯したボタンを押す。ガコンと落ちるサイダー。同時に、ピピピピッと自販機が音を立てる。エラーでも起きたんだろうか。こんな場所じゃさほど点検もされていないだろうから無理もない。原因はなんだろうと探していると、突然ピタリと音が止まった。ほっと胸を撫で下ろしていると、とある音声が続く。
「当たりです。もう一度、お好みのボタンを押して下さい。」
私は驚いた。この自販機に当たりがある事もそうだが、それよりも、黒猫が当たりを引いたという事に。黒猫に会うと運気が下がるなんて言ったのは誰だろうか。横に目をやると、なにも知らない彼はただ呑気にあくびをするだけだった。
再び彼の右手を拝借し、温かい缶コーヒーがガコンと落ちる。地面に降ろしてから、「さすがクロさん、ありがとね。」と頭を撫でてやると、満足したのかまた辺りを歩き始めた。
ペットボトルの蓋を開けると、プシュッと炭酸の弾ける音が鳴る。渇いていた喉へ一気にサイダーを流し込むと、眠気の余韻が吹き飛び、頭が冴え渡る。重かった瞼も開き、目の前の海が視界いっぱいに広がった。あのサラリーマンも、こんな感覚だったんだろうか。駅から海岸までさほど距離はなく、太陽の光を反射した海面がキラキラと光る。心の底から綺麗だと感じた。
思わず立ち尽くし見惚れていると、ニャ〜と呼ぶ声がする。
「ん〜?」
路線図看板の下。行儀良く座った彼は、右手でベシベシと地面を叩いている。
「どうしたのさ。」
近づいてみると、彼の右手には一枚の紙入れがあった。茶色い小さな紙切れ。「ちょっと見せて?」とクロさんからその紙切れをもらう。
「切符…?」
見たことのないデザインだったが、一番上には『通学定期』と記載されている。落とし物だろうか。所々文字は薄れ、見えにくくなっているが、駅の名前のようなものが書かれていた。
「月見台駅から花咲駅、かな」
見た事も聞いた事も無い駅名。クロさんの上にある路線図看板を見ると幾つかは消えているものの、まだ読み取れるものが多くあった。赤で現在地と書かれた駅が一つ。ここが月見台駅というらしい。
それから、花咲駅は……
切符と路線図を何度も視線が行き来する。現在地からどんどんと離れていき、知らない駅の連なる路線を辿っていく。そうして探していると、その視線は路線図の端に着いてしまった。どこにもない。消えかけの文字も頑張って読み取ってはみたものの、花咲駅なんてものは存在しなかった。もっと遠く、それこそこの路線図に入らないほど遠くの駅なんだろうか。田舎であろうこの場所。きっと一駅ずつの間隔は広いはずだ。それほどまで行きたい学校だったんだろう。
名前も記載されていない、有効期限も分からないその切符。見なかったことにしようとも考えたけれど、どこか心がモヤモヤして、駅の受付のような場所に丁寧に置いておくことにした。きっとそのままにしていたら人も来ない、電車も来ないこの駅で、持ち主に届くことも無く風に舞い、飛んでいってしまいそうな気がしたから。
人一人分しかない受付の部屋には『おとしもの』と書かれたボックスがあった。
「すいませーん!」
控え室に繋がっていそうな一枚のドア。声をかけても、返ってくるのは静寂のみ。まぁ、そんな気はしていた。この夢の中にはどこにも人がいないんだ。
「ニャ〜」
ボックスの置かれた机にひょいと飛び乗った彼がこちらを見つめる。
「そうだね、人はいなくても猫はいるもんね。」
まるで私の心を見透かしたような彼。頭を撫でてやると、静かなこの部屋をクロさんの声が埋めてくれた。寂しさで生まれた私の心の穴までも。
ボックスに切符を入れクロさんと戯れあっていると、満足したのか彼は机から降り、部屋から出ていってしまった。
「あれ、クロさ〜ん。もういいの〜?」
もうちょっと遊んでいたかった私とは裏腹に「ニャ〜」と彼の声は遠のいていく。「気分屋ですな〜。」なんて言いつつ彼の後を追って部屋を出た。
黒い尻尾が右に行ったのを見て私もついていこうとすると、突然カシャンと金属の当たる音が聞こえる。それに続く彼の鳴き声。また何かにぶつかったんだろうか。そんな憶測で右に曲がると、影が二つ。
「……え」
人がいる。おばあちゃんと言っていいのだろうか。彼女の視界に私が映ると、こちらに軽く会釈をしてただ一言。
「初めまして。」
そう言った。ゆっくりと、優しい眼差しで。
「あ、初めまして。」
慌てて私も会釈を返す。彼女の後ろでは、古びたシーソーが鳴らすような、キィ……という音が改札らしきゲートから発せられていた。
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