第31話 美し過ぎる炎

 いつものように王宮から戻り、疲れた体をソファーに投げ出した時、さほど寒くもないのに暖炉に火がついていることに気づいたトラッド侯爵は忌々しそうに呟いた。


「消し忘れか? いや、そもそも誰が私の留守中に執務室に入ったんだ? 掃除なら午前中に終わっているはずだが……」


 その火はとても小さく、執務室全体を温めているわけではなかった。

 それにしても美しい炎だと侯爵は思った。


「薪もくべていないのに消えないとは……なぜだろう……目が……離せない」


 心身ともに疲労困憊だということも忘れ、じっと炎を見詰めてしまう。

 灰色のような青いような、それでいて橙から赤へと揺らめくその炎は、何かを伝えようとしているとしか見えない。


「なんだ? 何が言いたい」


 そう言うとトラッド侯爵はテーブルに置いてあったビスケットを数枚、炎に向かって投げ入れた。


「えっ……消えた……」


 確かに投げたはずのビスケットは、炎を揺らすこともなく空中に消え去った。

 もう一度投げ入れても結果は同じ。


「なんだ? どうなってる?」


 不気味というより強く惹きつけられるような不思議な高揚感に包まれたトラッド侯爵は、無心になってビスケットを投げ続けた。


「おっ! 少し大きくなった」


 中心部分の赤色が血のように濃くなり、立ち上がる炎の帯が長くなったように見える。


「もっと食うか? ビスケットで良いか?」


 まるで生き物に語りかけるようにそう呟いた侯爵は、新たな菓子を持ってこさせようと呼びベルに手を伸ばした。


『肉だ。肉にせよ』


 頭の中にはっきりと聞こえたその声は、とても耳ざわりが悪いと感じた。


「肉? ステーキか?」


『それで良い』


「わかった。すぐに用意させよう。それにしてもお前は……誰だ?」


『我はルシファー』


「ルシファー? 炎の聖霊か?」


『まあ似たようなものだ。お前が寄こした肉が旨ければ、何かひとつ望みを叶えてやろう』


 まともな思考を持つ人間であれば、この状況の異常さに気付いたはずだ。

 しかし、ルシファーに魅入られたトラッド侯爵は、何の疑問も持っていない。


「誰か! すぐにステーキを用意しろ。今すぐにだ!」


 呼びベルを鳴らす間も惜しいのか、自ら立ち上がりドアを開けて廊下に叫んだ。

 数人の使用人が厨房に走る。

 それを確認した侯爵が暖炉の前に戻ってきた。


「美しい……美しいな、お前は。ルシファー」


『我の美しさはこの程度ではない。我を美しいと思うお前は、相当邪悪な心を飼っているようだ。どうりで引き寄せられたわけだ』


 トラッド侯爵は高位貴族としての義務を恙なく果たしつつ、密かな野望を抱えていた。

 侯爵家とはいえ、この国の中では五本の指には入るほどの名門だ。

 しかしその実情は厳しく、長く重要役職を賜っていない。

 領地といってもかなり離れた農地のみで、天候に左右されやすい収入は確実に左肩下がりという状況だった。


「お前、望みを叶えると言ったな?」


『肉が旨ければだ。そしてまずはひとつだけだ』


「そうか、我が家の料理長は腕がいいからな。叶ったも同然だ」


『望みは何だ?』


「貴族のトップになることだ。俺がこの国を牛耳ってやる」


 炎がひゅっと揺らめいた。


『お前には無理だ。弱小といえど一国は一国。お前にそれを動かす力はない』


「なんだと?」


『それに、王になどなっても何のうまみもないぞ? なるなら黒幕だ。責任は王家に負わせて、甘い汁だけ啜ればいい。役職にもつくな。お前では無理だ』


「貴様!」


『現実だ。これを見誤ると全てを失う。身の丈を考えろ。お前は小者だ。しかし邪悪だ。我はお前のようなものが好ましい』


 怒りで顔を真っ赤にさせながら、勝手なことを言う炎を睨みつけるトラッド侯爵。


「お待たせいたしました、ご主人様」


 メイドが二人、ステーキをのせたワゴンを押して入ってきた。


「置いたらさっさと失せろ」

 

 メイド達の方に顔も向けず、炎をみつめる侯爵。

 テーブルに料理を並べ終えた二人は、ペコっと頭を下げて逃げるように退出した。


『早く寄こせ』


「約束は守れよ?」


『死にたくなくば早く寄こせ』


 トラッド侯爵はカトラリーを操り、肉を切り分けた。


『早くせよ。切る必要はない』


 その言葉にニヤッと口角を上げたトラッド侯爵は、皿を持ってそのまま炎の上にぶちまけた。

ビスケットとは違い、咀嚼に時間がかかるのか、炎は何の言葉も発しない。


「美しい……本当に美しいな、お前は」


『旨いが足りんぞ』


 ニヤッと笑った侯爵は呼びベルを鳴らして追加を命じた。


「ステーキを5枚持ってこい」


「畏まりました」


 命じる間もずっと暖炉を覗き込んでいる侯爵。

 メイドがドアを閉めようとした時、壁に映った侯爵の影に、牡牛のような角が生えているように見えたが、勘違いだと自分に言い聞かせて去って行く。

 それから毎日10枚のステーキを平らげる主人に、使用人たちは恐怖を感じていた。

 

「もう半年も毎日ステーキを10枚召し上がっている……」


 料理長の言葉は厨房の片隅にこぼれ落ちた。


 ある日の夜、供物を食べ終えたルシファーがトラッド侯爵に言った。

 それは、教会に神々が集まり、グレナデンの虫食い穴を見上げていた日のことだ。


『娘を呼べ』


 もはやルシファーの言いなりになっているトラッド侯爵に否はない。

 

「畏まりました。我が最愛の娘リリベルを呼んでまいります」


 のろのろと立ち上がった侯爵が、執務室を出て行った。


『我が細胞も復活した。冥界から這い出してきているのを感じるが、まだ焼け残った粒のままだが仕方あるまい。しかしこれでやっと我が肉体を取り戻すことができるぞ』


 数分してトラッドが娘リリベルを伴って戻ってきた。

 リリベルは、父親に似て傲慢さを隠そうともしていない娘だった。


「お父様、お話って何? 私は婚約発表の準備で忙しいのよ?」


 リリベルはこの国の第一王子と婚約を結んでいる。

 トラッドが最初に望んだ願いがそれだったから実現した。

 

「ここに座りなさい」


 暖炉の前に置いたソファーに娘を座らせ、トラッド侯爵は頭に中に響く声を、そのままなぞって口にしていく。

 面倒だから嫌だと言う娘の頬を張り、強い口調でこう言った。


「言う通りにしろ! 殺すぞ」


 生まれて初めて死の恐怖を体感したリリベルは、震えながら頷いた。

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