第一章(二)



「失礼します、入ってもよろしいでしょうか」

 低い男の声が聞こえて、アリアは苦虫をかみつぶした顔をするも、瞬時に無表情に戻し「どうぞ」と抑揚のない声で返した。

「失礼します。あぁ、アリア様。一段とお綺麗になられましたね、きっと相手の方も見惚れるに違いありません」

「そう」

「はい」

 鏡の向こう――

 うっすらと微笑む、背の高い銀髪の青年が見えて小さくため息つく。

 アリアはすっと席を立つとくるりと振り返り、彼をまっすぐ見つめて口を開いた。

「トヅカ、わたし「アリア様、準備ができたのなら急ぎましょう」……」

 相手の方が会場でお待ちですと、アリアの言葉を遮り急かす青年に、アリアはただ強く手を握りしめた。

「わかったわ。でも、その前にお手洗いに行きたいの。いいかしら」

「えぇ、どうぞ。ですが、念のためボディガードを入り口近くまでつけさせてもらいますが」

「わかっているわ」

 見張るためのでしょう、わかってるのよ。そう、心の中で悪態を呟きながら部屋を出る。

 ぎっと奥歯をかみしめるも、すぐに、ふっと口元に笑みが浮かんだ。

「トヅカ、私を甘く見ないでほしいわ」

 アリアはそう小さく呟くと、足を速めた。

 

 それは、アリアの未来を決める逃避行の始まりであった。


「大変です、アリア様が、アリア様が! 気分が悪くなったとお手洗いに篭られて!」

「なんてこと、早くトヅカ様にお知らせを」


 騒然とする屋敷を庭の茂みからアリアは見つめると、長いロープに身を包む。


「少しでも目くらましになって、エレン」


 自分の身代りとなった仲の良い侍女の名を呟いて、身を翻す。「まったく、アリア様は無謀ですね」と言いながら、寂しげな表情を浮かべた彼女の顔が頭の中を過るも、すぐに頭を振って切り替える。

 今は逃げることだけを考えるのだ。

「……絶対、逃げてやるんだから」

 きっとあの聡明な従者にはバレているだろうが、アリアは諦めるつもりはない。

 細く頼りない逃げ道であろうが、決心は変わらない。

 その、ほんの微かな希望に、アリアはすがったのだ。


 しかしそれは、本当に微かすきだろだろう。呆気ない幕切れとなろうとしていた。


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