第39話 心を守るブラインド

 戸惑う私の耳を、不穏な囁き声がざらりと撫でる。

ワーブルートはべらすのが好きな、ニナ・クモイだ」

「手当たり次第に買いあさって、とっかえひっかえ楽しんでるって噂の」

(ちょ、誰がそんな噂……!)

 次の瞬間、わたしは頭から袋のようなものをかぶせられた。視界が周囲から遮断される。

「!?」

 頭を包んだものがマックスのジャケットであることを、私の嗅覚はすぐさま感じ取った。

「マックス、何?」

「口を閉じていろ、舌を噛むぞ」

 その言葉と共に、ガバリと抱き上げられたのを感じ取る。と同時に体に圧力がかかり、激しい振動が伝わって来た。風を感じる。

「ニナさ……」

「俺も……」

「満足させ……」

「この体を……」

 あちこちから声が飛んできては、あっという間に遠ざかっていく。マックスが私を抱えて走っているのだと理解した。

「ニナ様、俺を……っ」

 どこかで聞いたような声を耳が拾った。しかしそれもあっという間に聞こえなくなる。

(今の声、どこかで……)

「聞くな」

 私の心を読んだかのように、マックスの声が布越しに聞こえてくる。

「何も聞くな」

(マックス)

「うおぉおおおおおおぉおぉおおおおーーーーーっ!!」

 すぐ頭上から、マックスの雄叫びが轟いた。

(うるさっ!)

 その吠え声にかき消され、周囲の声は聞こえなくなった。



 やがて扉の開閉音がして、肌にヒヤリとした外気が触れる。マックスが私の頭からジャケットを取り外すと、そこは既に建物の外だった。

「ねぇ、さっきのは……」

「忘れろ」

「でも」

「WBの間で、おかしな噂が広がっているのですよ」

 ウォルドが、乱れた私の髪を、そっと指先で直す。

「ウォルド、やめろ!」

 焦った様子で吠えるマックスに、ウォルドは肩をすくめてみせる。

「ニナ嬢は大変慈悲深く、捨てられそうになっている哀れなWBを見ると放っておけない、聖女のような方だという噂が、ね。だから、あそこにいる皆は、ニナ嬢に救ってもらいたがったのですよ」

 にっこりと微笑むウォルドに、私は「そう」とだけ返した。

(嘘だ)

 気付かないわけがない。WBをとっかえひっかえしている女だと、彼らは私のことをそう言っていた。

 私はマックスを見る。

「……ウォルドの言った通りだ」

 私を安心させようと不器用な微笑みを浮かべる彼に、私は頷く。

(大丈夫、私はニナほど繊細じゃない)

 下衆でくだらない噂を立てられたくらいで、いちいち傷つくほどやわじゃない。

 私を傷つけまいと気を使ってくれた彼らの嘘を、私は笑顔で受け入れた。


(それにしてもあんな噂、どうせツィヴでしょ! マジ、顔面にパンチ入れてやりたい!)

 オーナー同士の試合が組まれる日がもし来たら、これまでの鬱憤全部叩き込んでやりたい。そのためにはニナの体を、今よりもっと健康体にしなくちゃいけない。割と本気でそう思った。


 ■□■


 新菜たちの去った後、平たい角を持つエラスモテリウム型のイーモンは、檻の中で頭を抱えた。

「クソッ、クソッ、行っちまった!」

 彼の売出しの期限は明後日までであり、それまでに買い手が見つからなければ処分場行きが決まっていた。マクシミリアンによってつけられた首周りの傷は、ろくな手当を受けさせてもらえず、じくじくと痛んでいる。

「WB狂いのあの女なら、媚びればヨダレたらして俺を買うと思ったのによ。あのマカイロドゥスめ、クソ……!」

 かつて、生ける屍のようだったマクシミリアンを角で散々弄んだことを思い出す。処刑するよう渡された斧の重さも。

「あの時、とどめを刺しておくんだった……!!」

 灰色の分厚い皮膚に覆われた指を震わせつつ、顔を覆う。

「……あぁあ、死にたくねぇよぉ」

 見た目に似合わぬ、弱々しく震える細い声。それが、新菜に届くことはなかった。


 ■□■


 柔らかな日差しと話し声が、私を眠りの世界から引き出した。

(何時だろ?)

 時計を見れば、皆が家事を終えてそれぞれの活動を始める頃だ。闘技場にエントリーした日は、明け方ベッドに入り、大体この時間に目を覚ますのが習慣になっていた。

 ふと、昨夜の出来事を思い出す。

(檻の中のWBたちは、私に自分を買わせようとしていた)

 あそこにいれば、いずれ処分される。彼らも必死なのは間違いないだろう。

 けれどその中に、私に対する嘲りが滲んでいたのを感じ取らざるを得なかった。

「ふぅ……」

 助けてあげたい気持ちは、やはりある。どんな命であろうと、失われて良い訳がない。けれど、クモイのWBを買い取るのが先だ。たとえ、冷酷な判断と思われても。

(マックスは、私が罪悪感を抱かずに済むように、守ってくれたんだよね)

 しっかりと抱きしめられた時の腕の感触、そして頭部を包んだマックスの匂いを思い出す。胸の奥が、じわりと甘く沁みた。

(わかってる。マックスの一番がニナってことくらい。それでも……)

 きしむように痛む胸を押さえつける。

(ドキドキするくらいならいいよね?)

「良くない」

 突如聞こえて来たマックスの声に飛び上がる。

「え? な……」

 部屋にマックスが入って来たかと見回したが、そこには誰の姿もない。

(あれ?)

「せめて今日一日待て」

(外?)

 どうやらあの荒れ果てた庭から声がしているようだ。私はカーテンを開け、下を覗いた。

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