第10話 特別な呼び方
ちょうどいい温度のお湯に手を浸し、顔を洗う。
「そう言えば、マクシミリアン。動いても平気?」
「平気、とは?」
「昨日酷い怪我を負っていたでしょう? 休んでいなくていいの?」
「あの程度、クモイ社最高グレードの
(わーぶるーと?)
思い起こせば、あの闘技場で幾度も繰り返された言葉だ。
(わーぶるーと、って何だろう?)
タオルで頬の雫を拭き取り終えると、テーブルには昨夜のものとあまり変わらない、素朴なブランチが用意されていた。卵料理がプラスされてはいたが。
「食え」
「あ、ありがとう。これ、マクシミリアンが作ったの?」
「この家に、俺以外の使用人はいないからな」
マクシミリアンは紅茶を注ぐ。
「しばらくここを離れているうちに、食材もすっかり古くなってしまっていた。ろくな材料がなかったから、これが今の俺に作れる精いっぱいだ。まずくても文句を言うな」
「ううん、嬉しいよ。ありがとう」
「……」
マクシミリアンは準備を終えると壁際に移動し、背筋を伸ばしてそこへ立った。
「? マクシミリアンは食べないの?」
「主人と使用人がテーブルを共にするわけにはいかん」
「私、ニナ様じゃないよ?」
「だが、その身はニナ様のものだ」
「一緒に食べようよ。見られていると落ち着かないし」
「……」
「ねぇ、マクシミリ……」
立ち上がろうとした瞬間、ぐらりと目が回り、重力が狂ったような感覚が私を襲った。
「ニーナ!」
がっしりとした腕に抱きとめられる。目を上げると、私を気遣うマクシミリアンの眼差しとぶつかった。
「大丈夫か、ニーナ」
「う、うん。急に酷い眩暈がして……」
「……」
マクシミリアンは、今朝と同じように私を軽々と抱き上げベッドへと座らせる。そして大きな手を私の額に当てた。
「……熱が出ているな。食事を終えたら、すぐに薬を飲んで横になれ」
「えー……」
「ニナ様は、お体が弱くていらっしゃるんだ。そのお体を、これ以上衰弱させたら許さんぞ」
「うへぇい」
私は鏡に映っていた、亡霊のようなニナの姿を思い出す。見下ろした先の両腕は、枯れ木のようにやせ細っている。サイドテーブルには薬と思しきものが用意されていた。
「ニナって、何か重い病気なの?」
「医者に見せたが、わからないそうだ。精神的なものからくる衰弱だろうとのことだ」
「精神的って、血を吐いた痕跡があるけど?」
「部屋にこもりきりでほとんど食事もとられず、お休みになられてばかりだからな」
「あー、それは体も弱るよね」
「あぁ。だが、お前は食欲があるのだろう? ニナ様の分もしっかり食べてくれ」
「……」
私はマクシミリアンが寄せてくれたテーブルからパンを取る。やはり固いそれを、なんとか半分にちぎり、マクシミリアンに差し出した。
「じゃあ、一緒に食べよう」
「だから、主人と使用人が共に食事をするのは……」
「私、ニナ様じゃないから。マクシミリアンの主人じゃないよ」
「だが、そのお体はニナ様のものだ」
「あー、食欲失っちゃうなー。一人で食べる食事って味気ないなー。誰かが一緒に食べてくれたら、食も進むかもしれないのになー。この体も元気になるかもしれないのになー」
私がわざとらしく駄々をこねると、マクシミリアンは小さくため息をついた。
「まったく」
指先で眉間のしわを軽く抑えると、彼は私の傍に椅子を持ってきて腰かける。
「ニナ様のお体を人質にとる気か。主人の部屋で使用人が食事をするなど、罰当たりなのだぞ」
ぼやきながら、私の手渡したパンをちぎって渋々口に運ぶ。
「じゃあ、一緒に別室に移動する? ダイニングはどこ?」
「ふらついている状態のお前を、この部屋から移動させられるか」
「じゃあ、ここで食べるしかないね」
「……」
「美味しいよ、マクシミリアン」
「……そうか」
「イケ獣人が手ずから作った食事を食べられるなんて、私前世でどんな徳を積んだんだろ」
「おとなしく食え」
私たちは無言で、素朴な食事を口に運ぶ。やがてマクシミリアンは、ふと手を止めるとこちらを見た。
「ニーナ、一つ提案があるのだが」
「提案? 何?」
「俺のことは、マックスと呼んでくれないか?」
「マックス?」
マクシミリアンは頷き、残りのスープを飲み干す。
「親しい仲間は俺をそう呼ぶ」
(親しい仲間!)
つまり、親し気に呼ぶことを許されたのだと、浮き立ったのだが。
「お前はニーナであってニナ様じゃない。故に、ニナ様と同じ呼び方をしてもらいたくない」
距離を置くような物言いに、グサッとなった。
「……まぁ、そう言うことなら、いいよ。……マックス」
むぅっと拗ねながらもその名を口にした私へ、マクシミリアンは僅かに口端を上げる。
「助かる」
「助かる?」
「これでお前を、ニーナと言う別の人格だと認識できる」
その言葉に、ほんのり胸の奥がぬくもりを持った。マクシミリアン――マックスは、私をニナとは別の『南雲新菜』として見ようとしてくれているのだ。
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