第9話 ニナとニーナ

「そのようによく分からない状況で、ニナ様のご意向に沿う行動を取ってくれたこと、心からの感謝を述べる。ありがとう」

「い、いえ、そんな……」

 マクシミリアンの見た目が好みだったから勢いで請け負った、なんて言えやしない。

 気まずく苦笑いしつつも、紳士らしい所作の獅子獣人に胸を高鳴らせていた時だった。

 くぅ……

「っ!?」

 夜明けの光の差し込む静謐な部屋の中、私のおなかが間抜けな音を立てた。

「今の音は……」

「いや、いやいや、あはは。ベッドがきしんだ音……」

 ぐるるぅ~……

 今度は言い訳がきかないほどはっきりと鳴った。

「空腹なのか?」

「……ですね」

 自分のみっともなさに思わず両手で顔を覆う。頭上で、小さく笑う声が聞こえた。

「失礼。少し待っていろ」

 そう言うとマクシミリアンは部屋から出ていく。やや経って彼はトレイに器を二つ載せて戻ってきた。湯気の立つ器からは、かぐわしい匂いが漂ってくる。

「備蓄の関係でこんなスープしか用意できなかったが、飲むといい」

「わぁ!」

「熱いから気をつけろ」

 私は器を手に取り、口元に運ぶ。心地のいい塩気と旨味がじわりと口腔に染みた。

「……美味しい」

「そうか」

 言いながら、マクシミリアンは私にパンをちぎって半分寄こす。私はそれを受け取り、口に運んだ。

(固っ! カッチカチ!)

 スープに浸し、柔らかくなった部分を歯で削るようにして食べる。素朴な甘みがスープとよく合っていた。

 スープが胃の腑を温め始めた頃、マクシミリアンが穏やかな目でこちらを見ているのに気づいた。

「? 何?」

 好みど真ん中の獅子獣人が、目を細めて私を見ている。どぎまぎしながら問うと、マクシミリアンはフッと笑った。

「旨そうに食べているな、と」

「実際、美味しいと思うし」

「そうか、良かった……」

 マクシミリアンが遠い目をする。

「ニナ様は食が細く、そんな風に幸せそうに召し上がることは、これまでなかったからな」

(あ……)

 ほんの少し、胸がチクリとする。マクシミリアンが微笑みかけたのは、私ではなく主のニナ。

(この体はニナのものだから、仕方ないけどね……)


「ところで、何と呼べばいい?」

「呼ぶ?」

「お前の本当の名だ。ニナ様ではないのだろう」

「えっと……、新菜にいな

「ニーナ?」

 私の名乗りに対し、マクシミリアンは眉根にしわを寄せる。

「嘘ではなかろうな」

「嘘じゃないよ、私の名前は南雲なぐも新菜にいな。……自分でも、名前似てるなって驚いたくらい」

「……」

「……ご主人様の名前に似てると、呼びづらいかな」

「そう、だな」

 マクシミリアンは口の中で「ニーナ」とぼそぼそと幾度もつぶやく。そしてため息をついて額に手を当てた。

「ニナ様を呼び捨てにしているようで、いささか罪悪感が募る」

(ありゃ)

 苦悩の表情を浮かべるマクシミリアンに、私は一つの案を提示する。

「じゃあ、苗字の南雲の方で呼んでくれていいよ」

「いや」

 マクシミリアンは首を横に振ると、私を見た。

「ニーナ、それがお前の名なのだろう」

「うん、そうだけど」

「なら、その名で呼ぼう。ニーナ」

「ひゃいっ!」

 真の名に呪力があるという話を不意に思い出す。マクシミリアンに名を呼ばれた瞬間、全身にビリリと痺れるほどの快感が走った。

「ニーナ」

「な、なんでしょう?」

「……」

 マクシミリアンはきまり悪げに、スッと私から視線を外した。

「……悪いことをしている気分だ」

(う、うぉおおおおお!!!)

 私は心の中でガッツポーズをとる。

(イケ獣人のそこはかとなくえっちなセリフいただきました――!!)


 スープとパンで軽くお腹を満たした後、私たちはそれぞれの部屋で体を休めることにした。どれほど経ったのか、まばゆい光で目を覚ましたタイミングで、扉がノックされる。

 姿を現わしたのは、たてがみを整えこざっぱりとした雰囲気となったマクシミリアンだった。

「よく眠れたか。その……」

 執事の服を身に着けたマクシミリアンは、わずかな躊躇を見せ、

「……ニーナ」

 私の名を呼んだ。背筋を甘い稲妻がピリリと走る。

「あの……、無理しなくていいよ?」

 呼びづらそうなマクシミリアンが少し気の毒になって、私は言った。

「ニナに申し訳ない気持ちになっちゃうんだよね? だったらやっぱり私のことは、苗字の南雲で……」

「いや、それはいけない」

「なんで」

「それはお前が元から持っている、お前自身の名だ。それを忌避するのは失礼だろう」

「ん~、じゃあ……、私のことも『様』付けで呼ぶ? そうすれば少しは罪悪感も……」

「ニナ様以外の方を、『様』付けで呼ぶわけにはいかん!」

(めんどうくせぇな!)


 そうこう言いながらも、マクシミリアンは洗顔の湯とタオルのセッティングを終える。

(ふぉう……)

 背筋を伸ばし、てきぱきと働く執事姿の獅子獣人。きちんとあつらえられたラウンジングジャケットが、よく似合っている。あまりの尊さに目が釘付けとなり、無意識のうちに手を合わせ拝んでしまった。

(昨日のグラディエーター風衣装も良かったけど、執事服はまた格別の趣がある)

 にへへと頬を緩めた私を一瞥し、マクシミリアンは小さくため息をついた。

「……ニナ様のお顔で、だらしない表情をするのはやめろ」

「ぐっ、すみません」

「顔を洗え。ニナ様の大切なお体だ、粗末に扱うな」

「……はぁい」

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