三日目

屋上に降り立つと、優花はそこで寝ていた。

無防備に風に吹かれる姿はどこか愛らしくて、僕は羽で優花を包む。

何故だか守らないと、という使命感に駆られた自分が我ながら気色悪かったが、やめようとは思わなかった。


すると、むずむずと何かが僕の羽に触れた。

見ると、優花が起きて、僕の羽をいじっていた。


「羽触られると感覚ってあるの?」

寝転がったまま優花は尋ねてきた。

「ムズかゆいぐらいだよ」

「ふーん」

優花は眉毛をこすりながら立ち上がる。

「天使も人間と大して変わらないんだね」

その羽ぐらい?と優花は僕の羽を撫でる。優しい指が心地よい。

「……そうだね」

僕は曖昧な答えしか返すことができなかった。


優花は空を見上げた。長く美しい黒髪が揺れる。

そこには悠然と飛ぶ鳥がいた。僕の持つのと同じ白の羽を懸命に羽ばたかせて、青空の中へと飛んでいく。


「ねえルイ」


いつの間にか優花は僕にあだ名をつけていた。呼ばれなれない名前だからか、反応が少し遅れる。

「何?」

優花は空から目線を僕へと落とした。

「私の夢、何だか知ってる?」

あまりにも唐突な、脈絡のない言葉に僕は困惑する。思えば出会った時も、突拍子もないことを言って僕を困らせてきた。

「分からないな。なんなの?」

優花は息を吸った。


「雲の海を泳ぎたいの」


みんみんみん、と蝉が鳴く。僕はその蝉に目の前の少女の姿を重ねる。


「空を飛びたいってこと?」

優花は頷く。

そして、手をいっぱいに広げた。その全身は彼女が掴もうとしているものよりもずっとずっと小さかったが、僕には何よりも大きく思えた。


「身体の端から端まで、全部で雲の海を泳ぐの」

輝く青色の瞳を覗くと、出会った時の優花を思い出す。


だからか。僕の羽に一番に反応したのは。

だとするなら。


「優花、一つ提案なんだけど」

「なーに?」

優花は笑顔だ。

わかってるんだ、きっと。

僕が何を言おうとしているのか、全部。

全くずるいと思う。決して自分では言わないのだから。


「雲の海、僕と泳ごう」





「うわ、すごいよルイ!すごいすごい!」

ゆっくりと上昇をし始めたところで、優花はそんな声を上げ始めた。

「早いよ。まだ雲のある所まで行ってないよ」

苦笑しつつ、子どものような反応になぜか嬉しくなる。


そこから一気に急上昇する。羽を広げ、上へ上へと向かう。夕日が眩しい。


雲が見えるところまで来た。

日が沈みだし、空に浮かぶクジラの背中がオレンジに染まっている。

まるで僕らを手招きするように笑みを浮かべているクジラ雲。


これが一番いい。


「優花、準備してね。いくよ」

ぎゅっ、と優花が僕の体を強く握ったのがわかる。

次の瞬間、僕は思い切りクジラ雲へと飛び込んだ。


世界中のどこよりも大きな海を泳ぐクジラの白い細胞を切り裂く。

クジラは僕らを歓迎するように全身を夕色に染め出した。

街の灯りなどでは到底感じることのできない、優しい色。

導かれるようにして雲を泳ぎ、やがて飛び出る。

「 わっはっは!すごい!雲の中ってこんな感じなんだ!」

雲から飛び出ると、優花の興奮は最高潮に差し掛かり、顔を赤くしながら大声で笑った。


「 ねえルイ、もう一回」

僕を見上げて、少女はいたずらに笑う。

いつの間にか、僕まで笑顔だ。


そして、何度も何度も雲の中へと飛んでいく。

その度に優花は声を上げる。まるでアトラクションにでも乗っている気分なのだろう。

そうしてやがて、月が顔を出す時間になっていた。 


「優花、もう終わりにしよう。そろそろ危険だ」

僕の言葉に、明らかに優花は落ち込んだ。

「 大丈夫、また一緒に飛べるよ」


気付けばそんな事を口走っていた。

してはいけないはずのことなのに。 


最近の僕はおかしい。

優花と出会ってから、確実におかしくなっている。

自分でもわかっていた。だが、嬉しそうにしている優花を見ると、それすらもどうでもよく思える。


「 約束だよ、約束」

そういいつつ、優花は小指を差し出す。

僕はごく自然に、それに応える。


2つの指が絡まる。優花が笑う。太陽だけでなく、月に照らされる彼女もとても綺麗だ。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」

指切った、という声が重なった。

それが何故か無性に嬉しくて、僕の中で何かが熱くなっていた。


「やっぱり、ルイは天使なんだね」


星が顔を出している空をゆっくりと飛んでいると、優花がそんなことを言い出した。

てんし、と口の中で言葉を転がす。


「私の願いを叶えてくれた。ありがとうね、ルイ」

どういたしまして、と優花に返す。


優花は満足気に笑みを浮かべると、視線を前へとやった。


僕はその背中に語りかける。 


ごめんね、優花。

僕は天使なんかじゃないんだよ。


その言葉を決して口にはしない臆病な僕を、月が冷たく睨みつけていた。

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