第2話

 それからあっという間に一月が過ぎた。再び憂鬱な第一週目の日曜日が訪れる直前の土曜日、顧客とのゴルフを終えた僕は、部下がランチ後のお客さんを車で家へ連れ帰るのを見送ると、自分のゴルフ用具は宅急便で家に送る手配をすませ、タクシーに一人乗って相模原の駅へと向かった。

 同窓会というものに出席した経験のない僕には、告げられた開始時間の何分前、或いは何分後に到着すれば良いのか、よく分らなかった。接待ならば、相手より必ず先に着くのが鉄則で、逆に滅多にないことだったけど、接待される側になった場合、相手の面子めんつを考慮して余り早く到着してはいけない。

 だが、同窓会のようなパターンはどうなのだろう。

 良く分らないまま、僕は相模原でクラシックな雰囲気の喫茶店に入り、電車で秦野に着くと今度はチェーンの喫茶店で時間を潰した。そして時間通りきっかりと指定された店ののれんを潜ったのだけど、定刻きっかりに店に入ったのは僕一人きりだった。店の中には確保された席の半分ほどが埋まっていて、残りの半分は時間より遅くに来るようだ。世の中は不思議なバランスが成立している。

「おー、西尾。こっち」

 埋まった半分の隣のガラガラのテーブルに岡野が座っていた。卒業したわけでもない癖に慶応カラーのジャージを着てた岡野は手足の長さは変わらないまま、少し太って、まるでバッタを食べ終えたばかりの女郎蜘蛛のように見えた。

「西尾だってすぐわかったぜ。よく来たな。だがまず会費を払え。おーい、朝倉。西尾が来たから会費徴収」

「わかったぁ」

 陽気な声で返事して埋まった席から立ったのは、髪を丸く束ねた、中年のスナックのホステスのような化粧の女だった。

「あら、西尾君。おひさしぶり」

 その声にも確かに聞き覚えがあった。だが胸が大きい割にスレンダーだった女子高生の朝倉静香のおもかげはそこにはなかった。いつのまにか、腕へ、腹へ、そしてお尻へと、悪戯坊主いたずらぼうずがでたらめに粘土を貼り付けたような丸まった体型の女性がそこにいた。

「朝倉・・・?」

「何を狐につつまれたような顔をしているの?」

 それを言うなら「狐につままれた」だろう、と思いつつ、僕は記憶の中から朝倉を抽出し、目の前の女性と照らし合わせた。よく観察すると、眉や耳の形に俤がある。スレンダーだった割に丸みの帯びた狸顔は高校の時より少し横に広がっていて、顔が体に寄せる代わりに、体が顔に寄せていた。

「ああ、確かに朝倉だ」

 呟くと

「当たり前でしょ」

 と思い切り腰を叩かれた。蓮っ葉な話し方は昔通りだし、いやね、というように人の体をはたく真似も昔と変わらなかった。コケティッシュという筋だけは昔から変わらないまま、一本きちんと通っている。

「懐かしいわ。でも、少し男前になったね」

 そう言うと朝倉は上目遣いに僕を見た。

「西尾君は大学に入ってすぐ一家で引っ越しちゃったからね。私なんかずっとこっちだけど。たまに会っていれば互いにそんなに変わらないと思うんだろうけど」

 そう言いながら、

「君も少しおなかがでたわね」

と今度は僕の腹を軽くつねってきた。その攻撃をかわしつつ、

「お互い様。何やっているの、今?」

 と僕は訊ねた。

「これでも主婦」

 朝倉は余り高くない鼻を軽く突き出したが、

「でもアルバイトでね、ちょっと夜の仕事もしているの。亭主の稼ぎが悪いもんだから」

「そうなんだ・・・」

「子供が居ないからねぇ、そういうのもありなのよ」

 最後の「よ」を微妙に伸す癖も変わらない。

「やぁね、最初から愚痴っぽくなっちゃって」

「じゃ、6000円ね」

 言われた通りおつりのいらないように揃えた6枚の千円札を渡すと、朝倉は右手の人差し指を軽く舐めて札を数えてからにっこりとしなを作った。

「はい。ちょうどいただきました」

 「海竜園」で出てくる五千円札と千円札はしばらくの間、朝倉の唾液がおまけでついてくることになりそうである。或いは取引先の銀行のATMから吐き出されるのかもしれない。まあ・・・いずれにしろ僕には関係がない。

 そう考えながら、辺りを見回したが蒲田佐知はまだ到着していないようだった。

「何人くらい集まるんだ」

 訊ねた僕に岡野は自慢げに、

「39人さ。45人のクラスで39人。3人は海外だからね。実質、欠席者は3人だけ」

 と答えた。たぶん、蒲田がやってくると吹聴したからそれだけ集まったんだろう。もし蒲田が欠席でもしたら暴動がおこりかねない。その時岡野の携帯がなった。

「あ、蒲田さん?」

 その声に電話の話し声が聞こえる距離にいた何人かの男が振り向き、それに気づいた岡野は受話器を隠すようにしながら店の外に出て行った。

 「よう、西尾。久しぶりだな。わかるか。おれのこと?」

 振り向いた男の一人が、親しげに話しかけてきた。体格だけでは見分けがつかなかったが、バリトンの良く通る声と愛嬌のある目元で誰だかすぐに分った。

「ああ、宮本だろう?ずいぶんと太ったな」

 その答えに顔を顰めるような振りをしたが余り成功したとは言えなかった。目尻に笑いじわを残し

「ああ、体重だけは5割増しさ。西尾は、あんまり変わらないな」

「いや、さっき朝倉に太ったと言われたよ」

 宮本はほほほ、と笑うと声を低くした。

「朝倉かぁ。あいつは人のことは言えないよ。しかし、蒲田が同窓会に来るなんて思いも寄らなかったな」

「うん」

「お前も蒲田目当てか?同窓会、初めてだろ?実は俺もこのところご無沙汰していたんだが、蒲田が来るって聞いて気が変わった」

「そうだな」

 僕は同調した。岡野に強制された、などと言っても信じて貰えないだろうし、蒲田に会いたい気持ちがあったのは事実だ。会って、どうなるものでもないが、昔、かばってくれたことを彼女が覚えていてくれれば改めて感謝したいという気持ちはあった。

 岡野は外から戻ってくると僕の横に立つなり、

「それでは1985年卒業、I高校D組のみなさん。まだ到着していない方もいますが、定刻になりましたので同窓会をはじめます。お手元のグラスをとって」

と発声すると、勿体ぶった様子で付け加えた。

「あ、ちなみに皆さん、ご存じのVOXのボーカルで奥田早紀という名前で活躍されている蒲田さんから、今電話がありまして・・・」

 そう区切ると、皆の視線が一斉に集まったのを見ながら間を置いたときにちょうど、店のドアがあいて、遅れた5人ほどが入ってきた。恐らく一緒の電車に乗ってきたのだろう。

「悪い、遅くなって」

 と最初に入った男が謝ったのだがちぇ、と岡野は小さく舌打ちをして、朝倉たち女子に命じてビールをグラスに注がせてから、

「はいはい、皆さん、ビールは揃いましたか?遅刻した方々のせいで少し気が抜けたかな」

 と皮肉を混ぜながら仕切り直すと、

「蒲田さんは仕事が押した関係で20分ほど遅れて到着する予定とのことです。なお・・・」

 岡野は更に勿体もったいぶって話し続けた。

「皆さんから多少クレームのありましたとおり、そしてお店の方からも多少苦情がありました通り、本日の開始時間が5時と少し早いのは理由がありまして、こちらのお店は6時半で、通常営業に明け渡すことになっております」

 カウンターの中からまばらな拍手が聞こえた。同窓会で一儲けした後に、6時半から営業できるならば店としては御の字なのだろう。店を早く開けさせられた事に対する多少の不満は感謝の拍手に変わったわけだ。

「その後、少し歩いていただいて我らが母校、I高校の3年D組の教室、これを学校の方から許可を頂いて1時間半ほど使わせていただけることになっています。既に飲み物とか軽いスナックはあちらに用意してありますから、二次会という事で」

 おお、という声がそこここから上がった。

「そりゃ、懐かしいなあ」

「そいつはいい」

 しかし・・・痩せても枯れても県立高校、そんな融通が簡単に聞くとは思えない。乾杯の音頭の後に隣の席に戻ってきた岡野に

「どうやって学校の許可を取ったんだ?」

 と訊ねると、

「蛇の道は蛇だよ。まあ、賃貸物件とかで先生たちには色々恩を売っているからね」

 岡野はしらっとした表情で答えた。


 蒲田佐知が到着したのは会が始まって45分後、何度も時計を見直した岡野の表情が曇り、苛立いらだちを表し始めた時間だった。携帯電話も繋がらないらしい。顔をしかめ、何度目かの電話を掛けに外に出ようとした岡野は、

「ごめんなさい、遅れちゃって」

 そう言いながらのれんを潜ってきた蒲田を見てたちまち相好そうごうを崩した。その時蒲田の周りだけ、華やかに明るく輝いて見えたのは芸能人のまとうオーラというものなのだろうか。

「あらぁ、懐かしい、さっちゃん、元気?」

 仲が良かった女の子が彼女の周りをたちまち取り囲み、握手攻めにした。年月やそれぞれの人生は彼女たちを隔ててはいないみたいだ。宮本を始めとした男たちはうらやましげにその様子を見ていたのだが、そんな女の子たちをかき分けるように岡野が近づいていくと、

「お待ちかねの蒲田佐知さん。今や売れっ子の奥田早紀・・・さま、と言った方が良いかな、が来てくれました。皆さん、拍手」

 と、彼女をエスコートするかのように店の中央へ引っ張っていった。

 あっという間に彼女を連れ去った岡野のやり口に女の子たちは不満げだったが、後れを取った男子生徒は盛大に拍手をした。白いブラウスにラベンダー色のロングスカート、髪をポニーテールに束ねた蒲田佐知はみんなの前に立たされて、恥ずかしげに笑った。

「じゃあ、蒲田さん、何かひとこと」

 岡田のふりに、蒲田佐知は戸惑ったような表情をしてから髪を掻き上げた。

「ええと、みなさん、おひさしぶりです。蒲田です。今は歌手をやっています。曲を聞いてくれた人もいるかもしれないけど、まだの人はぜひ」

 少したどたどしい口調が好ましかった。

「聞いてますよぉ、たぶん全員」

 とおどけた男の声が上がり、笑い声と拍手が続いた。

「今日は歌ってくれますか?」

 宮本の声に、笑みを浮かべて

「あ、ごめんなさい。それは、事務所から禁止されているんです」

 蒲田は頭を下げた。

「あ、そうなんだ、がっかり。でも・・・応援しているからね」

「ありがとう」

 蒲田はもう一度深くお辞儀をし、再び拍手が湧いた。

「はい、蒲田さん、ありがとうございました」

 そう言いながらさりげなく蒲田の肩に手を置いた岡野をいつの間にか僕の隣にいた朝倉が睨んでいた。


 岡野は出来損できそこないのマネージャーのように奥田早紀の周りをうろうろとガードし続け、特に男子とは誰とも親しく口を利かせないように気配りをしていた。それが岡野の思惑なのか、奥田早紀の願いなのかは、よく分らなかった。

 僕は少し離れた席で二人を眺めていた。昔のままの蒲田を見ていることは、それだけで楽しかった。やがて、宮本がビールを二つ持って僕の隣に座ると、岡野の苦情を言った。

「なんだい、あいつ。幹事だからって、いつまでも蒲田の側にべったりとくっついて」

「確かに、でもまあ、蒲田を呼んだのは岡野の功績だからな」

「そりゃそうだけど」

 ビールグラスのふちを合わせ、旧交をあたためる乾杯すると、

「しかし、芸能人っていうのは凄いね。全然高校の時と変わらない。肌とかメンテしているんだろうな。うちのかみさんにみせてやりたいよ」

 と宮本は感心した。

「だよな」

 僕は本心からそう答えた。

「まあでも、それは仕事の一部なんだろう。ちゃんと税金から控除されるさ」

「うむ。確かに。かみさんになんかいったらカネを出せって反撃を喰らうだけだろうな。こっちはその上税金は控除されない」

 宮本は頷くとため息をくように続けた。

「しかし、あれはあれで大変なんだろうな。肌とかが衰えてきたら、それで人気も陰る。ある意味そういうものを含めて売っている商売なんだろうからなぁ。プレッシャーも考えると引合わない人生かもな」


 6時を10分ほど過ぎアルコールの入った皆の声が次第にやかましくなった頃、岡野はそれまでべったりとマークをしていた奥田早紀から離れて僕の所にやってくると、店の入り口近くに連れ出し、

「ちょっと頼みがあるんだけど」

 と手を合せる真似をした。

「なんだ?」

 尋ねた僕に、まあちょっと、と言い置くと、奥のテーブルでひときわにぎやかに騒いでいた朝倉を連れてきた。

「悪いんだけどさ、二人で、先に学校に行って門を開けて貰えないか?」

「学校には誰かいないのか?」

 僕は声を低くして不満の意を表したが岡野には通じないようだった。

「いや、用務員の爺さんが宿直しているんだけど、門の鍵を渡されて、自分たちであけて入ってくれと言われているんだ。それで、鍵は開けたら用務員に渡しておいてくれないか?用務員室は一階の職員室の奥にある。覚えているだろ」

「まあ、覚えているけど」

「それでさ、ついでといっちゃなんだが、教室に飲み物とか食べ物を買っておいておいたんだ。適当に準備しておいてくれよ」

「え?」

「いいじゃないか。俺だって買い出ししたんだしさ」

 なんだか岡野に好いように操られているようなのが不快だった。朝倉も一瞬、眉をひそめたが、

「分った、いいよ。西尾君、いこ」

 そう言うと岡野に見せつけるように腕を絡めてきた。香水の匂いがふわっと漂ってきた。誰かに・・・とりわけ蒲田にこんな所を見られたくない。仕方なく僕は頷いた。


 学校までの道のりは僅か200メートルばかり。店を出るなり絡めた腕をほどいた朝倉は、

「なんだか、あいつ感じ悪いよね」

 と呟いた。

「あいつ、って?」

 それが岡野のことを指すのか、蒲田のことか分らずに僕は訊ねた。

「岡野だよ。蒲田佐知が有名になったからちやほやするなんて、さ」

「そうだね」

 僕は頷いた。朝倉が高校の頃に岡野と付き合っていたのはみんな知っていた。もしかしたら、そのまま勢いで卒業と共に結婚するのではというくらい仲が良かった二人なのに、何があったのだろう?いずれにしろ、嫉妬している女性に対して

「そんなことないよ」

 などと反論するのは愚の骨頂である。

「昔っからそうだったんだよね。女好き」

「岡野が?」

「うん。高校を出て、あいつそのまま実家を継いだでしょ。私は東京の短大に通って、でも付き合いは続いていたんだけどさ」

「うん」

「あいつ、浮気してさ。その上、相手が妊娠しちゃって」

「そうだったのか」

「修羅場だよ。っていうか、私が修羅の役。寝取られた上に修羅までさせられちゃってさ」

 朝倉はその時のことを思い浮かべたのだろうか、苦笑した。

「ああ」

 曖昧に答えながら視線をやった先に高校の建物が見えてきた。

「で、別れて向こうはできちゃった結婚。私は勢いで別の男とできちゃったてわけ」

「なるほどね。じゃあ岡野はパパなんだ」

「うーん。それがさ、子供は産まれてすぐに病気でなくなっちゃたんだって」

「そうか、気の毒にね」

 僕は月並みな答えをしたのだが、

「うん、ねぇ」

 どの程度本気か分らないけれど、朝倉は真面目な顔で頷いた。

「西尾君は、結婚してるの?」

「ああ」

 僕は頷いた。

「そうなんだ。へえ。いっちょ前じゃん」

「うるさい」

 僕の反応を楽しむかのように朝倉は顔を上げた。

「昔さ、ちょっとした噂があったんだよ」

「ん?」

「蒲田さん、西尾君に気があるんじゃないかって」

「まさか」

 一瞬、動揺が走ったがなんとか表情立て直した。

「転校してきたじゃない。あの頃、なんだか蒲田さん、妙に西尾君に気を遣っていたのよ」

「それは彼女が学級委員長だったからだろ。右も左も分からずにぼーっとした田舎出の転校生に同情してさ」

「うーん、それだけかなぁ」

 首を傾げた朝倉に僕は

「それだけさ。ほら、もうついたぜ」

 と、校門を指した。


 門は太い鎖のついた南京錠で閉まっていた。よじ登って超えてしまえば入れないこともないので効果があるとも思えなかったが、鍵をつけてなければないで余計な人たちが侵入するのだろう。表面はびついているが、錠はきちんと油を引いているようで、スムースに開いた。

 傾いた日の奥に校舎が建っていた。一部は灰色の新しい建物に建替えられていたが、職員室のある本館はもとのままであった。

「懐かしいね」

 朝倉が呟いた。

「卒業してから来たことはないの?」

 僕の問いに朝倉は首を振った。

 用務員は見かけ70歳くらいの老人で、昼間岡野が持ってきたという日本酒を指さして僕らに謝意を表し、鍵を受け取ると今度は教室を使用した後はきちんと片付けてくれと念押しをした。謝意も注意もなんだか不当に受け取らされたような気がしたが、朝倉は神妙に頷いた。根が素直な人間なのだろう。

 僕らが高校生活の最後を過ごした教室は二階のどんづまりにあって、岡野が言ったとおり教壇の上にスナック菓子や飲み物を入れたコンビニの白い袋が置かれていた。

 出席者の人数分だけの机を残し、8つの机を教壇の前にくっつけて並べると、そこに飲み物や菓子、そして紙コップを並べてみた。

「いいじゃん、これで」

と朝倉は少し投げやりな口調で言い、僕は動かして机の隙間を埋めた。

 なんとか形を整え終えたころ、ぞろぞろとみんながやってきた。残りの椅子や机はそのままにしていたので、最初に入ってきた男たちがめいめい、昔座っていたとおぼしき場所に座り、後からやってきた女(の子?)たちがきゃーきゃーと騒ぎながらそれを真似た。

 学生の頃に比べだいぶ腹の出た宮本が座ろうとすると、

「おいおい、椅子が壊れるぞ。弁償させられるぜ」

 揶揄からかう声と笑い声が起き、宮本はずっこける真似をして更に歓声を得ることに成功した。

 僕も自分がよく座っていた教室の後ろの扉の近くに腰を下ろし、蒲田は窓際の席に座った。中華料理店に来たばかりの時はなんとなしにどこか浮いていたのに、教室に入った今はみんなと馴染んでいた。

 気の利いたものたちが紙コップにビールを注ぎ、おつまみは紙皿に入れて順繰りに回していく。皆の手元に届くと、

「では」

 教壇に立った岡野が

「不肖、私が教師役で・・・」

 と切り出した。

「岡野が先生じゃ、みんな落第だ」

 と茶々が入り、

「まじか。この年で」

「落第っていうより左遷?」

 と揶揄やゆの声が続いた。

「いや、いや。みなさんもう社会人ですから」

 岡野は制するように、手を振ったが、その言い分は揶揄の答えになっていない。そんな事は気にせず岡野は、

「先ずは乾杯」

 と紙コップを持ち上げた。揶揄った奴はみんな苦笑いをして

「おう」「乾杯」

 と不揃いな声が上がった。

「では、皆様、ここで一人ずつ近況を報告っていうことで、一人30秒以内でお願いします。さっき蒲田さんには近況を報告して貰ったので、次の人は蒲田さんが指名、指名された人が順繰りに指名をしていくということで。終わったら指名されていない人は手を上げること」

 と岡野が言うと、皆が顔を見合わせた。誰もが近況報告をしたくなるような状況とは限らない、という雰囲気で、僕もその一人だった。

「じゃ、蒲田さん、指名を」

 振られた蒲田さんは、半分椅子から立ち上がって皆を見回すと

「じゃ、西尾君、お願い」

 と僕を見た。

「え?」

 微笑んだ蒲田は僕に向かって小さく頷くと席に座った。

「西尾、指名されたからって勘違いするなよ。あくまで近況報告」

 と誰かがはやし、

「焦ってビール、零すなよ」

 と、宮本が笑った。ありがたい忠告だった。


 自己紹介が終わり、最後に岡野が自分の店の宣伝を散々やった挙句「長い、しつこい」とブーイングを受けて仕方なく壇上を降りると、みな思い思いに集まって談笑を再開した。蒲田も最初に囲まれた女の子たちと一緒に楽しそうに話をし、その一団にちょっかいをかける岡野は明らかに鬱陶うっとうしがられていた。

 僕はトイレに行く振りをして教室を出ると階下に降り、教師たちが使っている喫煙室へ入った。その頃は神奈川でもまだ学校で煙草が吸えたのだ。昔、用務員室と呼ばれた部屋で、残念ながら喫煙室にしては隙間だらけだったし、換気が悪いのか染みついた煙草の匂いがしていた。

 煙草に火を付けて暫くすると、外で控えめなノックの音がした。誰か、僕と同じように煙草を吸いに来たんだろう、そう思って

「どうぞ」

 というと、重たげな音で開いたドアから顔を覗かせたのは蒲田だった。

「あ、見つけた。やっぱりここだったのね。煙草の箱、胸ポケットに入っていたから」

「やめられなくてね、悪い習慣だよね」

 言いつつ、僕は短くなった煙草を灰皿で潰し、新しいのに火を付けた。

「いつから吸っているの?」

「大学から。まさか・・・この歳になって高校で吸う機会があるなんてね」

 と僕が答えると蒲田は目をくしゃっとさせて、言い放った。

「不良じゃん」

「いや、今は大人だから」

 僕が思わず吹き出すと、蒲田も笑った。

「禁煙しようと思わないの?体に悪いよ」

「禁煙なんて、一日に何回でもできる・・・・ってアメリカの小説家が言ったそうだよ」

「それって、禁煙なの?」

 真面目な表情で蒲田は聞いてきた。

「さあ・・・」

 と答えてから僕は蒲田の後ろを見やった。

「あ、いけない、締めないと煙が外に出ちゃうね」

 と蒲田は数歩下がって、扉を閉めた。

「あれ、岡野は?」

「岡野君、私のことを気にしてくれるのはいいんだけど・・・朝倉さんが怒っちゃって、帰るって言いだしたから今、引き留めているよ」

「朝倉・・・か」

 あんまり岡野が蒲田ばっかり大切にするからサポートしていた朝倉が切れたんだろう。

「あの二人、昔は恋人同士だったからね」

 蒲田佐知は悪戯っぽく笑った。

「やっぱし、そういう心の名残ってあるんじゃない?」

 朝倉はクラスの中で目立っていた。人より成熟が早く、胸も大きかったし、どこか大人っぽい雰囲気に魅せられた男も多かった。それを岡野が「モノ」にしたというもっぱらの噂だった。

「ねぇ、煙草、一口吸わせて貰っていい?」

 不意に近づいてきた蒲田が言った。

「え、煙草、吸うの?歌手だろ」

 僕の問いに蒲田はへへへ、と笑った。懐かしい笑い方、そういえば、こんな笑い方を蒲田は時々していた。いつも真面目な顔をしているのに、その笑い方だけはどこか子供っぽい不思議な人なつこさがあった。

「じゃ、一本」

 僕が煙草の箱を出そうとすると蒲田は、

「一本なんて吸えないよ」

 と言いながら、腕を伸して僕の指の間にあった煙草を器用に摘まむと、唇に持って行った。だが一口吸うなり

「けほん」

 と咳をして、体を折るように屈んだ。煙が肺に入ったのか、座ったまま何度か「けほん」、を繰り返した蒲田の背中をとんとんと叩くと、涙目をした蒲田は

「ありがと」

 と言いながら煙草を返してくれた。

「こんな味なんだね。マネージャーがいつも吸っているからどんなものかって思っていたけど」

「なんだ。初めてなの?無理しない方がいいよ」

「マネージャーに言っても吸わせてくれないからさぁ」

 と蒲田は不満そうに唇を突き出した。

「そりゃそうだろ。歌手に煙草を勧めるマネージャーなんているわけない」

 答えながら、僕は手に戻された煙草をみつめた。どうしたらいいのだろうか?

「ごめんね、いやだったら、捨てて」

 僕のそんな気持ちに気づいたかのように蒲田は首を傾げた。

「そんなことないさ」

 そう言いつつ、僕は煙草を唇にくわえた。こんな心臓のどきどきは、いつ以来だろう、そう思いながら。

「あ、間接キッスだ」

 蒲田は僕を指さした。笑いながら。

「だね」

 僕は気にしていないように強がりを言ってから煙を吐き出した。

「ふふふ。西尾君と話したかったのに、なかなか話せなくて」

 蒲田は高校生の時の蒲田に戻っていた。みんなが知っている奥田早紀なんて、そこにはいない。

「ああ、僕もさ、昔のお礼をしようと思っていたんだ」

「お礼?」

「覚えていないかなぁ。僕が転校してきたころにさ、岡野たちに嫌がらせをされて」

 転校してから半月ほどが過ぎた頃だったろうか。それまでもちょいちょい、いたずらをされて定規がなくなったり、上履きが校舎の外に放り出されていたりしていたのだが、その日登校した僕は机の中に蛙の死骸が入っているのを見てさすがに眉を顰めた。そのころは神奈川にもまだアカガエルがいたのだ。

 とはいえ僕が育った所は蛙どころか、二メートルもある青大将が軒先にいるような場所だった。蛙の死骸など珍しくもなかった。仕方なしに机につっこんであったわら半紙に死んだ蛙を包み、外に持って行こうとしたとき、こわごわとその様子をみていた女子の中から毅然きぜんとした声が響いた。振り向いた僕の目に映っていたのは腰に手を当てた蒲田の姿だった。

「だれ、高校生にもなってこんな幼稚でばかなことをやる人は?恥ずかしくないの」

 その声にびくり、としたように首をすくめたのが何をかくそう岡野だったのだ。


「あれ以来つまらないことをしてくる事がなくなったんだ」

 と僕が言うと、

「そうだっけ・・・」

 と蒲田は僕を見た。

「そんなことあったかなぁ」

「覚えてないの?」

 僕は少しがっかりした。僕の高校生活では1番の想い出なのだったんだけど。

「ふふ、本当は覚えているよ」

 蒲田は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「なんだ」

「じゃ、西尾君、その前に自分が何を言ったか覚えている?」

「ん?・・・いや」

 それは・・・本当に覚えていなかった。

「蛙に謝っていたんだよ。悪かったな、巻き込んでって」

「え、俺、蛙に謝ったの?」

 僕は首を傾げ、蒲田が真似をした。

「学級委員長といっても初めてで最後だったの、怒ったのは。でも、あの時ね」

「うん?」

「なんか、人のために怒るって、いいなぁ、って思ったの」

「そうだね。もしかしたら蛙のためにかもしれないけど」

「ふふ。そうね。でもさ、怒るだけじゃなくてね、なんか、自分が頑張ってそれで人のためになるっていいなぁって」

「ああ。でも、蒲田はもうたくさんの人の為になっているよ。君の歌で勇気を貰った人だってたくさん居るよ」

「そうかなぁ」

「ああ、僕だって」

 そう言うと蒲田は目を丸くした。

「ほんとう?」

「会社に行く勇気を貰った」

 僕の答えに蒲田は笑った。

「どの歌?」

「これからは強くなるから、きっと・・・」

「ああ」

 頷くと、彼女はハミングした。

「大丈夫なの、歌っても会社に怒られない?」

 僕の問いに、一小節歌い終えた蒲田は

「大丈夫、あれはいつも使う言い訳。頼まれて歌うときりがないから」

 と答えて壁に凭れた。

「蒲田も人が悪くなったね」

 そう言うと、蒲田は

「そうじゃないとやっていけないのよ」

 と呟いた。急にどこかさみしげな少女のように見えた。

「西尾君は?仕事はどう?」

 だがその表情は顔を上げたときには消えていた。

「会社に行く勇気を貰った、って言ったじゃないか。勇気がなければ行けないところになりつつある」

「ああ、そうだね。みんなそれなりに大変な年頃だよね。子供はいるの?」

「・・・」

 結婚しているの?と聞かずに子供のことを聞いてきたのは僕が結婚したということを誰かから聞いたのだろう。

「うん、一人ね。女の子なんだ」

「そう、幾つ?」

 幾つだったっけ?確か6歳。誕生日を一緒に祝えたのは3歳までだったんだ。

「来年、小学校」

「へえ、いいなあ。可愛いんだろうね」

「まあ」

 家庭の事情を話すのは気が引けた。妻とはもう一年以上会っていない。娘ともだ。答えに窮していたその時、微かに廊下の方から足音が聞こえてきた。

「誰かしら?」

「煙草を吸いに来たんだろう」

 開いたドアの向こうに岡野がいた。喫煙所に入ってくると、岡野は意味ありげな目で僕を見てから、蒲田に

「どこへ行っちゃったのか、心配してたんだよ」

 と声を掛けた。

「ごめんなさい。トイレに行ってからちょっと電話を掛けていたの。それからここに寄ったのよ」

「電話?」

「うん、そろそろ迎えに来て貰わないと」

 そういうと蒲田はハンドルを切る真似をした。

「え、せっかく久しぶりに来たんだからさ、もう少し一緒にいれば?もし必要ならホテルに部屋を取るよ。西尾も一緒にカラオケでも行かないか?」

 岡野はちらと僕を見てウィンクしたが僕は答えずに目を逸らした。

「ありがとう。でも明日用事があるの。ちゃんと時間通りにいかないと違約金が発生するから」

 蒲田は・・・いや奥田早紀がそう言うと、岡野は

「そんなカネ、出すからさ。今日はこっちで泊っていけば良いじゃないか」

 と笑った。

「ほんとう?」

 奥田早紀は首を傾げるようにして岡野を見た。

「もちろんだよ」

 岡野はいかにも自信ありげに答えた。

「今は不動産業界は調子が良いのさ」

「一億円だよ」

 奥田早紀は言った。

「え?」

 岡野の顔が間延びし、そのまま固まった。

「一億円?」

「うん、あさってからロンドンに行って録音するから、キャンセルすると、そのくらいはかかるの」

「そんな・・・」

 岡野は言葉を失った。いったい幾らまでだったら出すつもりだったのか・・・。

「だからね、帰らないと。うちの事務所、煩いの。面倒が起きるとハードだし」

 少しけだるげな調子で奥田早紀は立ち上がった。

「ああ・・・」

 岡野はさっさと諦めたようだった。もし奥田早紀に何かあったら彼女の所属する会社がそれくらいのカネをふっかけてくる、そのリスクを嗅ぎ取ったに違いない。ミリオンセラー、彼女はそれだけの売り上げを事務所に齎している。1枚2500円として100万枚売れれば25億円。売り上げはそれだけではない。関連グッズ、カラオケ、メディアへの出演料、様々なレベニューフローが仕込まれているに違いない。

 そんな中で制作費が1億円・・・あり得ない金額ではない。賠償金の請求・・・あり得なくない。

 

 少し肩を落とした岡野の後ろについて喫煙室を出て行く間際、蒲田は振り向いた。そして声は出さずに口を動かした。4文字。僕は読唇術をしらない。口の開け閉めがどんな順番だったかも覚えられなかった。ただ、4つだということが分っただけだ。

 じゃあね。

 さよなら。

 ありがと。

 そんな言葉の羅列が浮かんだのは、みんなと一緒に、彼女を乗せた車が校門から走り去る時のテールランプの赤い光を見送ったときだった。

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