気にしないでください

はやかなか

気にしないでください

 僕は身震いした。今この場で、奴の手に鎮座するそのハサミで、僕は刺し殺されるかもしれない。


 もちろん、そんなことはない、はずだ。この世の中、そんなに物騒じゃない。別に電車の中に包丁が落ちていたって、たまたま料理人が落としてしまっただけかもしれないし、ものすごい形相をした男がナイフを抱えて走ってきても、百円均一で買った模造ナイフかもしれない。説得力のない具体例だが、どうしてか、これぐらいしか思いつかなかったので許して欲しい。


 それで、僕は今美容室にきている。僕は髪型を気にするような女々しい男ではないと自負しているから、来たくはなかったのだけれど、流石に長髪すぎて友人たちに笑われてしまったから、仕方なく来たのだ。僕はどうにも、美容室が苦手だ。人に髪を触られるのが嫌というわけではないのだが、今日は美容室を予約した日だと思うといつも憂鬱になる。人に髪を触られるのは嫌ではないと言ったが、人に顔を触られるのは嫌だ。何か白っぽいドロっとしたクリームを僕の顔に塗りたくってカミソリをあてるその瞬間、奴らは僕の顔に触れる。それが我慢ならない。


 とはいえ、僕は良心的な客でありたいと常々願って、他人に迷惑はかけないように生きようと誓っているから、普段は我慢するのだ。ただ今日は、どうしても我慢ならなくて、奴の額に拳を打ちつけ怒鳴った。


「貴様! 僕の顔に触るな! 」


 やった瞬間、後悔の念が推し溢れてきたが、覆水盆に返らず、いまさらどうにもならなかった。すぐにでも謝って帰ろうと思ったのだが、奴はこう言って、僕を帰してはくれなかった。


「お金を頂くのですから、最後までやりますよ。」


 それから、カミソリを置いて、ハサミを持った。それで僕は身震いした。奴は、「気にしないでください。少し切り忘れていた箇所があったので切りますね。」と言い訳したが、そんなわけはない。どうせ、仕返しに僕をハサミで刺すに違いない。


 今すぐに逃げようと思ったのだけれど、足がすくんで動けなかった。小学校の時には学年一位の速さを誇り僕をマラソン大会で優勝までさせてくれたこの足は——これは今でも飲みの席で自慢しているが、こんな時に限って僕の邪魔をするらしい。僕はガクガク足を震えさせて、いつ、僕の体のどこに、奴の手に収まったハサミが突き刺さろうとするかと神経を尖らせた。


 そして奴がハサミで僕の髪を切った。一瞬、奴の手元が狂って刃先が僕の首元に当たりそうになったが、確かに彼は僕の髪を切った。僕の、この後に刺さないとも限らない、と言う思いは、全くの杞憂に終わった。奴はついに僕を刺さなかった。僕は拍子抜けして金を払って帰った。財布から金を出す時、奴は僕の顔をじっと見つめていた。


 さあ家に帰ろうと思った矢先、恐ろしいことが頭によぎった。よく考えれば、人前で人を殺すわけがない。普通の人間なら、いや人を殺そうとする時点で普通ではないが、周囲の人間に通報されることを嫌って人気のない場所でやるはずだ。僕ならそうする。それにハサミではしっかりと刺し殺せるか確かではない。そんな不確実な道具で殺しを試みるより、ナイフか包丁か、それに属する刃物で殺した方が安全だ。そうか、そういうことか。それなら僕は人気のない場所を通らないように気をつければ良い訳だ。


 そう思ったのだが、なんてこった! 僕の住む借家は、家々の間にある狭い路地を通らなければ行けない場所にあった。そして、狭い路地であって僕の家以外には迂回していけるからだろう。そこを通っている人を今まで一度たりとも見かけたことがない。いっそ、帰らずにホテルにでも泊まろうかと思ったが、いや、それだけの手持ちはないと思い直した。とはいっても、突然奴に刺し殺されないとも限らないから、家に帰るのは断念せざるを得ない。そうだ、大学時代の友達にこの近くに住んでいたのがいた。そこまで親しくはなかったけれどなかなか気のいいやつだ。この危機迫った状況を伝えれば、きっと一晩くらい泊めてくれるに違いない。


 彼の家についてすぐ後悔した。汚部屋だ。ゴミ屋敷といってもいい。潔癖の僕には、中学生の時、給食を食べている時に背中に嘔吐されてから潔癖症の僕には、ここではとうてい眠れそうもなかった。彼は言い訳がましくいった。


「数週間前に階段から転げ落ちて骨折したんだ。それから、部屋の掃除もまともにできなくてさ。ほら、このとおり。足を引きずってしまうから外出もまともにできない。それに手すりにぶつけて目にも怪我をしたから、眼帯もつけなくちゃならなくて。完治したら掃除しておくよ。だから、また今度遊びに来てくれよ。」


 嘘だ。僕は彼が問題なく歩いているのを見逃さなかった。まあ、話を少し盛ってしまったんだろう。それにしてもあの黄色の眼帯はなんだ。まるでコスプレみたいじゃないか。そういうと彼は、言った。


「カッコいいだろ、これ。病院でもらったのは黒色でダサいと思って買ったんだ。やっぱ、俺は黄色が一番かっこいいと思うんだよ。お前はどう思う?」


 いや、黄色の方がダサいが。黒の方がカッコいいだろ。と思ったけれど、人の感性はそれぞれだ。何も言わないことにした。いやそれにしても……。


 とにもかくにも泊まることはできないから、仕方なく帰ることにした。あの狭い路地を通る時には全力疾走しよう。今なら走れる。小学校時代の比にならない程に速く。


 幸いなことに路地近くまではそこそこ人通りがあるから安心して歩いた。路地に入ると僕は走った。恐怖が僕の心を支配して、とにかく早くここから抜け出すんだと急かした。待っていてくれ憩いの家。もうすぐ帰るから。僕に安らぎと安全を与えておくれ。ちょっとおちゃらけてみて、恐怖を紛らわした。


 いつもは長く感じる道のりだが、走れば案外すぐ家についた。僕は安心し切って我が家に入った。なんて素晴らしいんだろう。僕は今日、危ない目にも遭遇したけれど、生きてこの家に帰ってきた。奴はもはや追って来られないだろう。僕の勝利だ。


 リビングに行くと冷房を消して出かけたと言うのに涼しかった。ああ、僕の家。僕のために部屋を冷やしておいてくれたんだね。とはならない。おかしいぞ。いや消し忘れたんだろう。二時間ほど文庫本を読み耽って、それから思い出して夕食をとった。帰りに買ったピザだ。期待以上の味だった。その後、テレビを消して風呂に入る。


 僕は高校くらいまで風呂というものが好きではなかったのだけれど、ここ最近は随分と好きになった。リラックスできるし、歌を歌うと反響してまるでライブホールで歌うアーティストになったような気分になる。実はライブホールに行ったことはないがおそらくこんなふうだろう。


 それからリビングに入ると、テレビでホラーが流れていたのですぐに消した。僕はホラーは苦手だ。その一瞬で怖くなってもう寝ようと決めた。


 寝室に入ると、そこには、僕が殴った彼、美容室の奴がいた。奴は後ろに隠していた両手を前に出すと、にっこと笑った。間違いない。僕はここで奴に殺される。その証拠に奴は手にハサミを持っている。あいつで僕を刺し殺そうと言うんだろう。お父さんお母さん、今までありがとう。さようなら。いや待て、謝れば許してくれるってお父さんが言ってた。そこで僕は言った。


「さっきはごめんなさい。その似合ってないピアスとベタベタに化粧を塗りたくられたあなた様のお顔を見てちょっとイラついただけなんです。だから、殺さないで。殺さないでください。いやだ、まだ死にたくない——」


 奴の顔が少し歪んだ気がした。が、顔に似合わず案外穏やかな声色で奴は言う。

「気にしないでください。少し仕事を片付けただけですから。」


 僕が叫ぶまもなく、奴は僕の横を通って廊下へ出た。奴は僕よりも足が速かった。そうしてまた、やけに明るい顔で穏やかに言った。


「ただの仕返しですよ。別に殺しはしません。脅かしたかっただけですから。あ、窓ガラスは弁償しますので、後日その部屋の天井に書いた住所まで来てください。お待ちしております。」


 入った時には気が付かなかったが、窓ガラスは割れていた。銃弾で貫かれたみたいに一点から放射状に傷が広がっていた。ベッドの上には大量の髪の毛と、ハサミ、雑誌(表題「自分らしい髪型へ」)、それから脱いで丸まった靴下が散らばっていた。


 奴は黄色の眼帯をしていた。














 僕は恐怖で身震いした。

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