第16話 涙と優しさと開放と
アンジュにとって夢なんてものはなかった。
あの男に犯され、ご飯さえも碌に与えられない環境、時に戦い、傷つき癒されることも知らず戦い続ける人生。
そう、あの時までは。
ひとりの青年はあの男を殺し、私を救ってくれた。私を檻から
この戦いにおいて初めて「おいしい。」と思えた。生きていて嬉しいと思えた。
自分の人生には「戦う」こと以外の選択肢があることを教えてくれた。
戦いが終われば彼は日常に戻る、だけど、もし私の願いを赦してくれるなら私は彼の傍にいたい。
少しだけでもいい、彼の視界の端でもいい。寄り添い、恩に報いたい。笑顔でいてほしい。
それが今のアンジュの願いだった。
二人の攻防は他社からの介入の一切を赦さないほどの激しい攻撃だった。
まるで彼らの生き方を暗喩するかのように拒絶する二人の戦いをアンジュは黙って観戦することしかできなかった。
「敵の契約者はどこだ?」
アンジュは周りを見渡すもそこには気配さえない。縄によって外界と隔てられたビルの内部は暗く、目を凝らしても見えない。
二人の攻防がさらに激しくなり、床の亀裂が広がる。
「アンジュ、受身を取れ‼」
その言葉と共に床が崩れていく。
崩れる床の瓦礫の一つから刃が飛び出し、落下する亮吾を狙う。
鞭を操り、瓦礫ごと刃をずらす。
「チッ。」
落下しながら亮吾は鞭を振るう。撃ち飛ばされた瓦礫が悠斗を襲う。
槍を回転させ、瓦礫をはたき落とし、着地する。
「クソがよ……」
「まだまだ終わりじゃないですよ。」
亮吾もまた着地し立ち上がる。
不敵な笑みが悠斗の怒りを加速させる。
「ぬぅっぅぅぅ‼‼」
槍を振るう腕に力が入る。
ムチが生き物のように動き、その槍の一撃を躱していく。同時にもう片方のムチが鋭く悠斗の体にダメージを与えていく。
互いに独立した生き物のように動くムチはヘビのようだ。
その尾を握る男はさながら蛇使いと言うべきか。
「はぁ、はぁ、はぁ。」
「もう息切れですか。力が入りすぎですよ。悠斗君。」
「うるせぇ。この野郎。」
槍で体を支えるも無駄な動きが多さから体力は切れ、体中がムチの攻撃で皮膚が裂け血が滲んでいる。
「うむ、君は僕が期待したほどでもないのか?とは言ってもあの人に申し訳ないし………。」
独り言を呟きながら、眼の前の青年を見下す。
彼の話を聞いた時、自分の人生にやっと価値を感じれると思った。自分と同じように人生の虚無感を共有できると思った。
同時にそこに意味はないとも思っていた。他者との共感なんてものは一時的で短絡的なものだ。
そして相対してみても、怒りに身を任せた攻撃はあまりにも滑稽でくだらなかった。
「もっと楽しませてくださいよ。無意味さを感じなくなるくらいに。」
槍を亮吾に向ける。その余裕そうな顔が気に食わない。その感情をぶっきらぼうにぶつける。
しかし、これほどまでの怒りは何故生まれるのだろうか?そう自問する自分もそこにいた。しかしそんなものは今は不必要だ。
刺々しい感情を槍に乗せ、再び突きを繰り出す。
亮吾はそれを完璧に読んでいるように軽くいなしている。左腕を波打つように振るう。その波はムチを伝い、槍を弾いた。
「見せてくださいよ、貴方の虚無感を。この世のすべてを否定するような冷たい眼差しを。」
その冷たい一言が胸を貫き、急速に身体を冷やした。槍を掴む手が緩む、いや動かなかった。
それはまるで鏡を初めて見た生物かの様に動きが止まった。
「今ですよ。杉本さん。」
その呟きが合図だった。
下の階で待機していた黒髪の少女が飛び出した。
おかっぱの少女の手には鞭が握られている。
アンジュが叫んだ。
「悠斗、逃げろ‼」
その言葉は部屋に響くも聞こえていない。それほどの動揺なのか。
青年は一歩動けなかったも。
「クソッ。」
アンジュも駆け出す、その距離10mもないはず、しかしその一歩一歩が遅い。泥の中を這いずり回るような感触を覚える。
追いつかない、しかしその眼には器を狙う黒髪の少女しかいない。助ける、その感情が支配する。
それは同時に視野の狭窄でもあった。背後に近づく凶器に気付けなかった。
「僕の狙いは貴女です。串刺しの少女さん。」
胸に違和感を感じる。背中から突き刺さった刃は肋骨の間を抜けて大動脈を傷つけた。刃先は胸から出ていた。
肺に損傷を受けたのか喉奥から熱い液体がこみ上げてくる。その液体は舌の上で鉄の味を醸し出す。口端から血が垂れる。
「彼の虚無への供物となってください。」
その微笑みにアンジュは恐怖を感じた。
悠斗がそれに気づいたのは手に握る感触が消えたからだった。槍がいつの間にか消えていた。直後、巨大な脱力感が身体を支配した。
手足が重い。指が一本も動かせない。足元がぐらつき、視界がぐんにゃりと曲がるような感覚に陥った。
その時すべてを理解した。
「アンジュ‼」
振り向いた時目に映る景色にはアンジュと今の今まで眼の前にいた男が彼女の背後に立っていたことだった。血の気が一気に引き、最悪の事態であることは直感的に分かった。アンジュの方へ走る。こちらに走ってくるおかっぱの少女を力任せに突き飛ばす。
同時にエマがドアを開けて入ってきた。
「アンジュ‼」
抱きかかえる彼女の身体は想像以上に軽い。少女の身体からどんどんと熱が奪われていく。まるで彼女の命が消えつつあるように。胸と背から溢れる血は悠斗の手を鮮やかな血で染めていく。
「アンジュ、しっかりしろ‼」
胸の傷口を抑えるも血は止まらない。
完全に自分のミスだった。相手の挑発に乗り、前しか見えていなかった。
後悔が自分を絶望に叩きこむ。自分のせいで、自分のせいで、自分のせいでアンジュが……。
停止した思考は頬を伝う温かい涙さえ気付けなかった。
アンジュの手が悠斗の頬を触れる。手が頬を愛おしそうに撫でる。熱を失いきった指先は血に染まりながらも今にも壊れそうなものに触れるかのようにゆっくりと、優しくその輪郭をなぞるように撫でた。
「泣かないでください悠斗。あなたに涙は似合わない。」
「もうしゃべるな……。俺のせいでアンジュは…。俺は結局何も与えられなかった。もっとおいしいものも、もっと楽しいこと、たくさんあったのに。俺は何一つとして与えられなかった……」
「いいえ、私は悠斗からたくさんのもの受け取りましたよ。あの時食べたオムライス、おいしかったです。一緒に戦えたこと嬉しかったです。だからあなたには笑顔でいてください。おね、ぐっ。」
血が口から溢れ、言葉を遮る。アンジュは力を振り絞り、最後の言葉を紡いだ。
「お願いします。もう泣かないでください。幸せをくれてありがとう。悠斗……」
その言葉と共にアンジュは光となった。暗い部屋で光の粒子が霧散していく。
抱きかかえていた腕が軽くなる、その手に残った最後の光の粒が消えていった。
もうアンジュはいない。その事実が重くのしかかる。視界が涙でぼやけてしまう。彼女の願いのために涙を堪えようとするも溢れてくる。大粒の涙が頬を伝い、顎の先から雫として滴り落ちる。地面に染み込んだ涙は染みとしてその場を少し暗く床に跡として残した。
エマはその場で立ち尽くすしかなかった。自分のシャツの袖を握りしめ、涙を堪えるしかなかった。
天井を見上げ、涙が落ちるのを防ぐしかなかった。
悠斗は袖で目元を拭う。真っ赤に泣き腫らした瞳で目の前の男を睨みつける。
「やっと、君の本質を見ることができる。」
亮吾は微笑みを絶やさず、見下している。今にも拍手さえしそうなその男の目には歓喜、高揚、そして狂気が映っているように感じた。
その男の姿に怒りを覚えているのか?いや違う。自身の弱さ、自身の無力さ、そして何も与えられなかったという後悔。それが今の自分を支えている。
「エマ、行けるか?」
「勿論だ。」
エマは悠斗の隣へ並ぶ。立ち上がり、男へ立ち向かう。
エマは力強く握りしめ、血が滲んだかのように赤い拳を解き、悠斗の手に触れる。こちらも握り返す。互いの熱を感じ、その想いを疎通させる。そこに迷いはない。ただ一つの意志が二人を結びつけている。
二人は瞳を閉じ、口を開いた。
「「
その言葉と共に悠斗の手には一つの武器が握られていた。
槍にしては刃が長く、刀にしては長すぎる。
刃渡り120センチ、そりを大きく持った大太刀が握られていた。
剥き身の刀身は赤く、暗い部屋でも存在感を放っていた。
「アンジュ、一緒に戦ってくれ。」
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