英雄の影
いつもと変わらない日常の中、非凡を報せたベルの音。扉を開けた姿勢のまま立っているのは、見慣れないお客さんだ。初めて来店した人だろうか。こんなところに店があるとは思わなかったのか、目をまんまるにしたまま立ち尽くしている。
「いらっしゃいま、せ……?」
「やっと、見つけた」
なにか、違和感を覚え──疑問符をつけて声をかけると。
わななく口からこぼれた、感極まったように震えた声。若い男性はハイトさんのもとへとおぼつかない足取りで歩んだかと思うと、膝をついて恭しく傅いた。
「英雄様。王都にお戻りください、貴方の力を必要としている者が大勢います」
紡がれたそれに、言葉を失う。
英雄って──まさか、ハイトさんのことを言っているのか?
「やめてその呼び方。息が詰まる」
英雄という仰々しい呼び名とはあまりにも結び付かないその人──フォールハイトさんは、否定することもなく。辟易とした様子で、手をひらりと払うように振った。
つまり、その答えは俺の疑問を易々と肯定したのだ。驚き果てる俺には構わず、彼らは言葉を紡いでいく。
「ですが、英雄様──誰も彼も、貴方様のご帰還を首を長くしてお待ちしております。高名な領主も、名を出さない日の方が少ないくらいでして」
「ほとんど権力狙いでしょ。そういうの、おじさんはもう疲れたの」
狼狽は欠片も見せずに言ってのける。眠たげな瞳も、気だるげな調子の声も。呆気にとられるほどにいつもと変わらなさすぎて、常連のお客さんと交わす会話なのかと錯覚してしまうほどであった。
「どうか考え直してはいただけませんか。私は、ただの一市民に過ぎませんが……貴方様の英雄としてのご活躍を、もう一度この目に映したいのです」
切羽詰まったように、それはまるで神を崇める信者のように。頭を下げて懇願する彼は、腹の底から声を絞り出すように語末を震わせた。
しかし、ハイトさんの心は特段揺り動かされた様子もなく、片目を眇める。心底鬱陶しそうに、ハイトさんは溜息をひとつついてから。
「悪いけど、考えは変わらないよ。おじさんは英雄なんかじゃない。キミが一市民なように、こっちはただのおじさんなの」
「……本日中の夕方頃、また伺います。改めて意見をお聞かせください」
交渉する余地も感じさせず断言したハイトさんに、幾分かトーンを落とした声を発して。
す、と立ち上がる。ハイトさんへ一礼をしてから、男性は静かに扉を閉めた。部屋に落ちたのは、大きなため息。
「どうせ変わらないのに、しつこいなぁ」
何も言えず、呆気にとられる。目の前で起きたことが、あまりにも衝撃的過ぎて。
ハイトさんが英雄と呼ばれていて。店を訪れた男性が、彼へ王都に戻るよう懇願していて。……もう一度考えてみても、うまく飲み込むことができない。
「あー……軽く説明しよっか。意味わかんないもんね」
ぎこちなく頷く。困惑が滲んだ俺の顔は、きっと酷く間抜けなものだったろう。
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