異変
「それじゃ、お疲れ様でした」
「はーい、気を付けてねー」
今日は変わった日だった。ハイトさんを英雄と呼ぶ人が訪れ、ハイトさんの過去を知って。王都より、ここを選んでくれた。どんな理由であれ、それは嬉しい。まだあそこに俺は居られるのだ。
その事実を噛み締めて、軽くなる足取りを進めていく。
ふと──木々の間。小道の前方に人影が見えた。周りと同化して見づらいが、黒いローブを身にまとった人のようであった。
背中しか見えないが、うつむいたまま、ぽつんと立ち尽くしている。道に迷いでもしたのだろうか。こんなに暗くては危ないだろう。
「……? あの、どうかしました、か──」
息を飲む。振り向いた一瞬だけ見えたその瞳は、言葉では表せないほどの敵意に満ち満ちていたから。
「お前さえ、いなければ」
怨嗟の声は低く。その言葉とともに目の前から消えた。は、と考える間も無く──
「っかは、」
次の瞬間、腹に重い衝撃が走った。めり込んだ拳が、鳩尾を突いていた。膝から崩れ落ちて硬い土に伏す。
吐き気が込み上げて、胃液をぶちまける。生理的な涙が滲んだ。気持ちが悪い。腹が痛い。苦しい。咳が止まらない。
「っ、いっ……!」
咳き込んでいるのも構わず。髪を乱雑に掴まれて、無理やり上を向かされる。目深に被ったフードから覗く冷酷な瞳と目が合って、背筋が凍った。逃げ出したいのに、それも叶わない。
なんで、どうして、誰が、こんなことを。疑問は尽きないが──答えを知ることはなかった。
「魔法を使って抵抗もしないのだな。腑抜けた奴だ」
「っちが……魔法が、使えないんだ……」
「魔法が、使えない? ……っはははは!」
男は笑う。それは嘲るようで、愉快そうで、そして──心底不快というようで。尚更気に食わん、と低い声が恐怖を刻みつけた。
「ここで死にたいか?」
心の芯まで凍りそうなほど冷ややかな声。歯の根が合わず、勝手に体が震える。
嫌だ。こんなところで死ぬなんて、絶対に嫌だ!!
返事をする余裕も無く、首を振る。男は懐から何かを取りだした。瓶に入ったそれがちゃぷりと小さく波打つ。
「……なら、これを飲め。そうすれば命だけは助けてやる」
飲んだら駄目だ。男の思惑はそこにある。頭では理解していた。だけど、飲まないと殺される。飲まないと、死ぬのだ。生存本能が叫んでいた。
嫌だ。なのに体は、口元へとそれを運んでいた。
「っう、……っ」
苦い。吐き出してしまいそうなほど。喉の奥が締まって、身体が拒否反応を示す。だけど、必死に飲み込んだ。ここで死ぬわけにはいかないから。
嘔吐きそうになりながら、何度も嚥下して。ようやっと、中を空にする。その様子を見届けたらしい男は、喉の奥で笑った。そうして、笑い声はやがて大きくなっていく。
「っはは! ああ……これで、やっと。やっと、あのお方が……!」
逃げるなら、今だ。
弾かれたように立ち上がって、必死に街中へ足を動かす。息も絶え絶えで苦しいけれど、止まるわけにはいかない。後ろは静かで、男が追いかけてくる様子は無かった。何故かなんて、パニックに陥った頭では思いつかなくて。
街の灯りが見える。安堵が広がるが、気は抜けない。走って、走って、家の前までなんとか着いて、乱暴に扉を開けて。
驚いたような表情の両親を認識したところで、ようやく緊張が解けて──そのまま、倒れた。
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