空から見る景色と、動揺

 薄暗がりの中、ハイトさんが右手に持った物を掲げた。


「じゃーん。愛用の箒でーす」


 普通だ。……というか、先ほど掃除で使っていたものだ。愛用というのは確かに間違いではないのだが。

 仰々しい効果音とは裏腹に、それはこぢんまりとしていて可愛らしい。男ふたりを乗せても折れないのか不安になるほどに。そんな心配をよそにハイトさんが緩慢な動作で跨り、俺もそれに倣う。



「ほら、掴まって」



 静かな声に従うと──ふわり。視界がゆっくりと上がっていき、浮遊感が体を包む。少しだけ怖いけれど、それ以上の高揚感が胸を満たす。

 空を飛ぶのって、思った通り楽しい。街では早くに魔法を使えるようになった子どもがたまに飛んでいたけれど、憧憬を抱いたまま見つめることしかできなかったのだ。仲間に入れなかった疎外感でいっぱいで、ルーカスが何度も後ろに乗れと誘ってくれたっけ。危ないからあのときは断ってしまったが、今になって久々に青春を取り戻したような感覚だ。


「いやあ、懐かしい。おじさんも空なんてしばらく飛んでないんだよね」


「えっ」


 ハイトさんの体を強く掴んだ。不穏な言葉が聞こえた気がする。


「ええ? 信用してよ。俺は結構安全運転派なんだから。……今はだけど」


 今はって、なんだ。


「……昔はどうだったんですか」


 間が空く。急速に嫌な予感が強まっていく。


「…………昔の話なんてどうでもよくない?」


「よくないです!! 俺の命がかかってるんですよ!!」


「おじさんの命は?」


「ハイトさん丈夫そうじゃないですか!!」


 彼の体へ必死で腕を巻き付かせる。万が一暴走したらとんでもないことになる。急速に速まっていく鼓動は直で伝わっているだろう。俺がどれほどの危機感を抱いているか知って欲しいものだ。


「おじさんも事故ったら死ぬって」


 なら昔から安全運転をするべきだ。まさか空を飛んで暴走でもしてたのか。同じ命知らずやワイバーンたちとレースとか? 恐ろしい。



「大丈夫だいじょーぶ。絶対に怪我はさせないから、楽しむことだけ考えてな。あ、でも一応このまましっかり体掴んでてね」


 ゆるり、加速する。うわうわうわうわ、なんて声にならないか細い悲鳴が歯の隙間から漏れた。浮遊感は終わらない。いったいどれほど高くまで来てしまったのだろう。よせばよいものを、確認したくなってしまって。硬く瞑った瞼を、僅かに開ける。


 そうして、息を飲んだ。

 夜空が近い。星が掴めそうな程に。静かな空の中にいるのは俺たちだけで、宝石箱をぶちまけたようなそれがただ瞬いていた。


「……うわぁ……」


 自然と声が漏れる。月はすぐ目の前で、落ちてきているような錯覚を覚える。

 恐怖はあったが、それ以上の感動が胸を震わせた。高所にいることも、どうでもよくなってしまうほどに。この瞬間が、永遠に続けばいいのに。


 ああ、本当に。


「……俺、ハイトさんのもとで働けてよかったです」


「あっはは! 現金だねぇ」


「いやちが、これだけが理由じゃないですよ!」


 明朗な笑い声が空の遠くまで響いた。突拍子もなく言ってしまったせいで、空を飛べたことだけに感謝しているみたいになってしまった。慌てて否定したが、笑いの余韻は今も残っていて。くく、と肩を震わせながら彼は言葉を続ける。


「おじさんも、キミを雇ってよかったよ」


「まともな食事をとれるからですか?」


「うーん、それもある」


「あるんだ」


 また楽しそうに笑っている。彼へ巻き付けた腕に力をほんの少しだけ込めた。じっとり睨む俺の視線に気づいているのかいないのか、ハイトさんはひとつ息をついた。


「……だってさ、キミがいっつもきらきらした目で見てくれるから。おじさんの自己肯定感上がっちゃうよ」


 ……え。


「……俺、そんな目で見てました?」


「あれ、自覚無かった?」


 恥ずかしい。穴があったら入りたい。羞恥心で体温が上がっていく。

 思い返せば、思い当たる節はある。だって、魔力を込めてポーションを作るその動作は俺にとって夢みたいで。しかたがないだろう、そんなの。

 責められているわけではないのはわかっているが、胸の中で言い訳をつらつら並べていた。


「もうリクくん無しじゃ生きていけない! ……なんてね」


 一瞬、息の仕方を忘れた。


 何故か──心臓が跳ねる。空を飛んでいることへの恐怖や興奮、ではないと思う。


 こんなの、いつもの軽口のはず、なのに。どうして俺は、言葉を見つけられないのだろう。

 口をはく、と何度も動かして。「なんですか、それ」と、呆れを装った。





 そこからのことは、あまり覚えていない。せっかく空を跳べたというのに、もったいないことをした。


「もう暗いし、送っていくけど──」


「っ大丈夫、です!! ありがとうございました!!」


 ただ帰り際に、まともに顔も見れないまま走って帰ったことだけが記憶に残っている。


 寝床の中、身動ぎをする。俺なしじゃ生きていけない。そう言われて、嬉しかった、のだ。あんなふうに褒められたら、そうもなるだろう。

 だけど、どうしてこうも──胸を掴まれたように切ないのか。わからない。


 うう、と唸り声をあげて。無理やり思考を止め、消化不良な感情に蓋をした。

 明日になれば、普通に接することができる。そう自分に言い聞かせて、眠りについたのだった。

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