ドクリ、と僕の心臓が跳ねた。


 「お嫁さん」という言葉はもちろんのことだが、それよりも、そう言ったハルのまぶしい笑顔に、不覚にも見とれてしまったのだ。


 いつまでそうしていただろうか。

 長くもなく、短くもない時間、僕はハルの笑顔に捕まっていた。

 ……しかし、なんともまあ、うん。

「ハルらしいね」

 数秒間の沈黙を破り、思ったことをそのまま口にする。


「そう?」

「うん」

「そっか」

 そういってはにかんだハルは、どことなく物憂げで、何故か僕には、それが本心だと思えなかった。


 いや、本心ではあるのだろうが、でも、それが叶わない夢で、自分が思い描いている風景は、遠い未来には存在しないことに、ハルは気付いているのではないか、と。

 そんなことを、思ってしまう。


「……でね? ウエディングドレスを着たわたしの隣には、ソラくんがいるの。今よりももっと背が伸びていて、白いタキシードがとてもよく似合ってて、かっこよくて。おっきな教会で、いろんな人に祝福されて……。お母さんと……お父さんは、そんなわたし達を見て、涙を流していて……。誓いの言葉を言った後に、君がそっとキスをして…………。それでね? それで………。あれ………? おかしいな」


 ハルは、自分が思い描いている未来の話を、僕に聞かせてくれた。

 その途中で、彼女の頬を一筋の光が、すうっと流れ落ちて。

 彼女は静かに、涙を流す。


「悲しいわけじゃないのに……。なんで……? どうして……?」


 ああ。そうか。

 ハルはそんなこと、もうずっと前からわかってたんだ。

 自分に残された時間が、残りわずかだということに。

 それでも。それを周囲に、僕に悟らせないように、今までその笑顔を絶やさなかった。


 けれど、もう全てを自分の中で押し込めておくことに、疲れたのだろう。

 ハルの頬を撫でた一筋の涙は、今までの全てを打ち明けるような、そんな涙だった。


 その上で、全てを理解した。

 ハルがなんで、空を飛びたいなんて言い出したのか。

 できもしない、それこそ、夢のようなことを言い出したのか。


 少しでも僕を安心させたかったのだろう。

 僕と出会ったあの頃の、明るく元気な自分でいようと。

 それが、今の自分に唯一できることで。


 ……たしかに、ハルは昔から空を飛んでみたいといっていたことを思い出す。ずっと昔のことだったし、ハルの病気がわかってからは、あまり口にすることが無くなったから、忘れてしまっていたのだ。


 ハルが「空を飛んでみたい」といえば、僕は決まって「できるわけないじゃん」と返す。

 あまりにも自然に無茶なことを言い出すハルに、それでもクスッと笑って答える僕。


 ハルはその時間が好きで、そう言えば僕が笑うことを知っていたから。

 だからハルは、ベッドでの絶対安静を言い渡された今、「空を飛んでみたい!」なんて言い出したのだ。


 それを理解した瞬間、僕の胸が温かくなるのを感じた。

 昔も今も変わらない、コロコロ変わる表情の中でも、笑顔がとびっきり魅力的で、いつも明るく元気な性格の、僕の大好きなハル、こと髙橋深春は、どうやら自分のことはどうでもよくて、僕のことを一番に考えていたようだ。


 僕の悲しむ姿が見たくないから。僕の涙が見たくないから。

 少しでも僕には、笑っていてもらいたいのだろう。


 そんなハルに、ハルの想いに気付いた僕は、いつのまにか涙を流していた。


 すん……すん……と、鼻をすすり上げながら涙を流すハルと、それを見て、ハルの思いの丈を知り静かに涙を流す僕。


 二人の涙は、お昼の回診で医者が来るまで流れ続けた。

 その様子はまるで映画のクライマックスシーンのようだった。というのは、後日、医者から聞いた話だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る