第七章: 「魂を賭けた儀式の夜」

 満月の夜が近づくにつれ、マリアと蒼の緊張は高まっていった。二人は山姥の指示に従い、儀式の準備に追われていた。月光亭の一室は、古い巻物や儀式に必要な道具で溢れかえっていた。


「フォスターさん、これで準備は整ったでしょうか?」


 蒼が不安げに尋ねた。マリアは深呼吸をして答えた。


「ええ、たぶんね。でも正直、私にもよくわからないわ。山姥の言葉を信じるしかないわね」


 その時、窓の外で不思議な光が揺らめいた。二人が驚いて振り返ると、そこには狐火(*1)が浮かんでいた。


「これは……」


 マリアが言葉を失っていると、狐火は部屋の中に入ってきた。そして、まるで何かを伝えようとするかのように、ゆっくりと円を描き始めた。


「狐さまが、私たちを導いてくれているのかもしれません」


 蒼がつぶやいた。マリアは頷き、狐火に従って部屋を出た。


 二人は狐火に導かれるまま、村はずれの森へと足を踏み入れた。月明かりに照らされた森は、昼間とは全く違う顔を見せていた。木々のざわめきは、まるで何かを囁いているかのようだった。


 やがて、二人は小さな清流のほとりに辿り着いた。そこで、驚くべき光景が彼らを待っていた。河童(*2)が水面から顔を出し、彼らを見つめていたのだ。


「こんばんは、人間の子たちよ」


 河童が口を開いた。マリアは驚きのあまり言葉を失ったが、蒼が冷静に応じた。


「河童様、私たちは花を救うための儀式を行おうとしています。どうかお力添えを」


 河童はしばらく考え込んだ後、頷いた。


「よかろう。私から清らかな水を授けよう。これを使うのだ」


 そう言って、河童は水晶のような透明な水を手渡した。マリアはその水を大切に受け取った。


「ありがとうございます」


 河童は微笑んで水中に姿を消した。二人が先に進もうとすると、今度は頭上から風切り音が聞こえてきた。見上げると、天狗(*3)が舞い降りてきた。


「人間たちよ、お前たちの決意は本物か?」


 天狗の鋭い目がマリアと蒼を射抜いた。マリアは勇気を振り絞って答えた。


「はい、私たちは花さんを救うためなら何でもします」


 天狗はしばらくマリアを見つめた後、満足げに頷いた。


「よかろう。では、この羽を持っていくがよい。儀式の際に役立つはずだ」


 天狗は一枚の神々しく輝く羽を二人に渡すと、風のように去っていった。


 マリアと蒼は、与えられた品々を大切に抱えながら、さらに奥へと進んでいった。やがて、彼らは見覚えのある小屋に到着した。山姥の住処だ。


「来たか、人間の子たちよ」


 山姥が小屋から姿を現した。その表情は厳しくも、どこか温かみを感じさせた。


「準備はできたわ」


 マリアが答えると、山姥は満足げに頷いた。


「よかろう。では、儀式を始めるぞ」


 山姥の指示に従い、マリアと蒼は小屋の前に円を描いた。河童の水で円を清め、天狗の羽で空気を浄化する。そして、狐火が自ら円の中心に移動し、不思議な光を放ち始めた。


「さあ、お前たちの愛と決意を示すのだ」


 山姥の言葉に、マリアと蒼は互いの手を取り合った。

 二人の心の中で、花への思いが強く湧き上がる。


 突然、周囲の空気が変わった。マリアは、自分の体が徐々に透明になっていくのを感じた。恐怖と共に、不思議な高揚感も湧いてきた。


「これが……霊的世界と現実世界の境界を超えるということなのね」


 マリアがつぶやくと、蒼も頷いた。


「はい、私たちは今、花のいる世界に近づいているんです」


 その時、小さな影が現れた。座敷童子(*4)たちだ。彼らは無言で、マリアと蒼を導くように動き始めた。


 二人は座敷童子たちに導かれ、霧の中を進んでいった。霧の向こうから、かすかに花の姿が見えてきた。


「花!」


 蒼が叫ぶ。花はゆっくりと振り返り、驚いた表情を浮かべた。


「蒼くん? そして、フォスターさん? どうして……」


 マリアは花に近づき、優しく語りかけた。


「花さん、私たちはあなたを迎えに来たの。村に、みんなのところに戻りましょう」


 花は戸惑いの表情を浮かべた。


 霧の中に立つ花の姿は、まるで水彩画の中から抜け出してきたかのように儚げだった。彼女の周りには、薄紫色の靄が漂い、その中で彼女の黒髪が風に揺れていた。花の瞳には、人間世界への未練と恐れが複雑に入り混じっていた。


「でも、私は……ここにいた方がいいの。人間の世界は苦しくて……」


 花の声は、かすかに震えていた。その言葉は、霧の中でゆっくりと溶けていくように消えていった。


 蒼が一歩前に出た。彼の姿は、現実世界と霊的世界の狭間で、わずかに輪郭がぼやけている。しかし、その目には強い決意の光が宿っていた。蒼の足元では、露が光る草が音もなく揺れ、彼の一歩一歩に呼応するように、小さな光の粒が舞い上がった。


「花、確かに人間の世界には苦しみもあるよ。でも、喜びもある。みんなが待ってるんだ。そして、僕も……僕もずっと待ってる」


 蒼の言葉は、霧を切り裂くように花に届いた。その瞬間、二人の間に浮かんでいた見えない壁が、静かに崩れ落ちていくのが感じられた。


 花の目に、大粒の涙が浮かんだ。その涙は、月明かりを受けて宝石のように輝いていた。一筋の涙が頬を伝って落ちると、それは地面に触れる前に、小さな光の粒子となって空中に舞い上がった。


 花と蒼の間に漂う感情は、まるで目に見えるかのように、淡い桜色の靄となって二人を包み込んでいった。その中で、花の体は少しずつ実体を取り戻し始め、彼女の周りに漂っていた儚さが、確かな存在感へと変化していくのが見て取れた。


 静寂の中、二人の魂が共鳴するような瞬間が訪れた。言葉にならない想いが、まるで目に見える光となって、二人の間を行き交っているようだった。


 花がゆっくりと口をひらく。


「本当に……私のことを?」


「ああ、本当だよ」


 マリアは、二人の間に流れる強い感情を感じ取った。そして、自分の中に眠っていた力が目覚めるのを感じた。


「これが、山姥の言っていた『異邦人の力』なのね」


 マリアは目を閉じ、心の中で祈った。花と蒼、そして遠野の人々のために。すると、彼女の体から不思議な光が放たれ始めた。その光は、花を包み込むように広がっていく。


「フォスターさん、これは……」


 蒼が驚いた声を上げた。マリアは目を開け、微笑んだ。


「大丈夫よ。これで花さんは帰れるわ」


 光に包まれた花の体が、徐々に実体化していく。そして、彼女の目に生気が戻ってきた。


「私、帰れるの? 本当に?」


 花が不安そうに尋ねた。マリアと蒼は強く頷いた。


「ええ、帰りましょう。みんなが待ってるわ」


 三人が手を取り合った瞬間、周囲の景色が急速に変化し始めた。霧が晴れ、familiar な遠野の森が姿を現す。気がつくと、彼らは山姥の小屋の前に立っていた。


 山姥が、満足げな表情で彼らを見つめていた。


「よくやった、人間の子たちよ。お前たちは真の愛と決意を示した」


 マリアは深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、山姥様。あなたの導きがなければ、私たちは花さんを取り戻すことはできませんでした」


 山姥は静かに頷いた。


「しかし、これで終わりではない。お前たちにはまだ、果たすべき役割がある」


 マリアは、その言葉の意味を考えながら、蒼と花を見つめた。二人は喜びに満ちた表情で互いを見つめ合っている。しかし、マリアは蒼の体がまだ僅かに透明になっていることに気づいた。


「蒼くん、あなたの体が……」


 蒼は自分の手を見て、苦笑いを浮かべた。


「ああ、これは代償なんでしょう。でも、花を取り戻せたなら、僕は構いません」


 花は蒼の言葉に驚き、彼の手を強く握った。


「蒼くん、どういうこと? 私のせいで、あなたが……」


 山姥が静かに口を開いた。


「心配するな。彼の魂の一部は確かに代償として捧げられた。しかし、それは彼に新たな力を与えることになるのだ」


 マリアは山姥の言葉の意味を理解しようと努めた。


「新たな力……それは、人間と妖怪の橋渡しをする力ということでしょうか?」


 山姥は微笑んだ。


「鋭いな、人間の娘よ。その通りだ。この子は今後、両方の世界を行き来できる存在となる。そして、その力を使って遠野の伝統と自然を守っていくのだ」


 蒼は驚きと決意の入り混じった表情を浮かべた。


「僕に、そんな大役が……でも、精一杯務めます」


 花は蒼の手をさらに強く握った。


「私も一緒に。あなたを一人にはしないわ」


 マリアは、二人の強い絆を感じながら、自分の役割について考えを巡らせた。彼女は山姥に向き直った。


「山姥様、私にも何かできることがあるはずです。この体験を、世界に伝える方法を見つけます。でも、遠野の神秘を守りながら……」


 山姥は深くうなずいた。


「その通りだ。お前の役割は、二つの世界の調和を図ることだ。科学と伝統、理性と信仰。それらを結びつける架け橋となるのだ」


 マリアは、その言葉に新たな使命感を覚えた。彼女は蒼と花を見つめ、そして遠野の森を見渡した。


「私、きっとやり遂げてみせます」


 東の空が白み始め、新しい朝の訪れを告げていた。マリア、蒼、花の三人は、山姥に別れを告げ、村への帰路についた。彼らの前には、新たな冒険と、果たすべき使命が待っていた。遠野の霧の中で、彼らの物語は新たな章を迎えようとしていたのだ。


注釈:

(*1) 狐火:狐が作り出すとされる不思議な火。夜道に現れ、人を惑わすとも言われる。

(*2) 河童:日本の伝説上の水棲生物。頭に水の入った皿を持ち、水中で生活するとされる妖怪。

(*3) 天狗:日本の伝説上の生き物。長い鼻と赤い顔が特徴で、山中に住み、超自然的な力を持つとされる。

(*4) 座敷童子:東北地方の民間伝承に登場する妖怪。子供の姿をした家の守り神とされる。

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