第六章:「神隠しの真相、霧の向こうの約束」

 マリアと蒼は、濃い霧に包まれた森の中を進んでいった。歌声は次第に大きくなり、二人の心を捉えて離さない。やがて、霧が薄くなり始め、見覚えのある古びた小屋が姿を現した。


「ここが……前に来た山姥の住処ね」


 マリアが小声で呟くと、蒼は静かに頷いた。


「はい。でも、フォスターさん。前回とは状況が違います。くれぐれも……」


 蒼の言葉が途切れたその時、小屋の戸が静かに開いた。そこに立っていたのは、マリアが以前に会った山姥だった。再会した今でも、その姿はマリアの心を打つ。長い白髪を風になびかせ、深いしわの刻まれた顔に、悠久の時を感じさせる目。マリアは再びギリシャ神話に出てくる女神を連想した。


 山姥は、マリアと蒼を見つめ、静かに口を開いた。


「また来たのか、遠い国から来た娘よ。そして今回も遠野の若人も連れて。何か大変な事が起きたのであろう?」


 その声には、前回と同じく悲しみと慈しみが混ざり合っていたが、今回はさらに深い洞察力を感じさせた。マリアは、山姥が既に事態を把握しているのではないかと直感した。


「はい、山姥様。前回お会いしてから、村で大変なことが起きてしまって……」


 マリアは震える声を抑えながら言った。山姥は、マリアの言葉に深くうなずいた。


「わかっておる。若い娘の失踪のことじゃな」


 マリアと蒼は驚いて顔を見合わせた。


「ご存じだったのですか?」


 山姥は静かに目を閉じ、深いため息をついた。


「この森で起こることは、すべて私の知るところじゃ。あの娘のことも、もちろんな」


 蒼が一歩前に出て、必死の面持ちで尋ねた。


「お願いします、山姥様。花はどこにいるのですか? 無事なのでしょうか?」


 山姥は悲しげな目で蒼を見つめた。


「あの娘は……もはやこの世界にはおらぬ」


「どういうことですか?」


 マリアが冷静さを保とうと努めながら尋ねた。


「あの娘は、自ら望んでこの世界を去ったのじゃ。彼女は、人間世界の苦しみから逃れたかったのだ」


 蒼の顔が青ざめた。


「そんな……花がそんなことを望むはずがありません!」


 山姥は静かに続けた。


「しかし、まだ希望はある。あの娘の魂は、まだ完全にあちらの世界に渡っていない。取り戻すことは可能じゃ」


 マリアと蒼の目に、希望の光が宿った。


「どうすれば花を取り戻せるのですか?」


 マリアが尋ねると、山姥は厳しい表情で答えた。


「簡単なことではない。大きな代償が必要になる」


「どんな代償でも構いません。僕が払います」


 蒼が即座に答えた。

 山姥は蒼をじっと見つめた。


「お前の覚悟はわかった。しかし、それだけでは足りぬ。お前の魂と、そして……」


 山姥はマリアを見た。


「お前の持つ、異邦人としての力が必要なのじゃ」


 マリアは驚いた。


「私の……力ですか?」


「そうじゃ。お前は、この地にとっては異邦人。しかし、それゆえに持つ特別な力がある。前回の対話で、お前自身気づいていただろう? その力が、あの娘を取り戻すために必要なのじゃ」


 マリアは深く考え込んだ。確かに、前回の対話以降、自分の中に何か特別なものが芽生えているのを感じていた。これまでの不思議な体験も、その力と無関係ではないのかもしれない。


「わかりました。私にできることなら何でもします」


 マリアが答えると、山姥は満足げに頷いた。


「よかろう。では、儀式の準備をするがよい。満月の夜、この場所に来るのじゃ。そして、お前たちの愛と決意を示すのだ」


 マリアと蒼は、山姥の指示に従うことを約束した。

 二人が立ち去ろうとしたとき、山姥が最後にこう付け加えた。


「気をつけるがよい。この先に待っているのは、お前たちの想像を超えた試練じゃ。本当に大切なものが何か、よく考えて行動するのじゃ」


 マリアと蒼は、重い心を抱えながら山姥の住処を後にした。彼らの前には、未知の試練が待ち受けていた。しかし、二人の心には、花を救い出すという固い決意が芽生えていた。


 霧の中を歩きながら、マリアは考えていた。山姥との再会、失踪した花の真相、そして自分の中に眠る「力」。すべてが不思議なつながりを持っているように感じられた。


 一方、蒼の表情は暗く沈んでいた。マリアは彼を気遣い、声をかけた。


「大丈夫? 花のことを、あなたを責めているわけじゃないわ」


 蒼は苦しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます、フォスターさん。でも、私には責任があるんです。もっと花のことを理解していれば、こんなことには……」


 マリアは優しく蒼の肩に手を置いた。


「今は自分を責めるときじゃないわ。これから私たちにできることを考えましょう」


 蒼は深くため息をついた。


「はい……そうですね。フォスターさん、あなたは本当に不思議な方です。遠い国から来て、こんな危険な目に遭っているのに、こうして私たちのために……」


 マリアは少し照れくさそうに笑った。


「私だって、最初は怖かったわ。でも、この村で出会った人々、そしてあなたのおかげで、私はここで大切なことを学んでいるの。それに、花を助けることは、私の研究にとっても重要な意味があると思うの」


 二人は黙々と歩き続けた。やがて、霧が晴れ始め、村の輪郭が見えてきた。


「フォスターさん、これからどうしますか?」


 蒼が尋ねた。マリアは決意を込めて答えた。


「まずは、これまでの調査結果をまとめるわ。そして、儀式に必要なものを準備しなきゃ。山姥が言っていた『愛と決意を示す』ということの意味も、よく考えないといけないわね」


 蒼は頷いた。


「僕も、できる限りの準備をします。村の古い文献にも、似たような儀式の記録があるかもしれません」


 二人は、これから始まる新たな挑戦に向けて、互いに励まし合った。村に戻る道すがら、マリアの頭の中では、科学的思考と神秘的な体験が激しくぶつかり合っていた。しかし、彼女の心の奥底では、この体験こそが自分の研究に新たな地平を開くものだという確信が芽生えていた。



 月光亭に戻ったマリアは、疲れた体を引きずるようにして自室に入った。窓から差し込む月明かりが、部屋に淡い光を投げかけている。彼女は深呼吸をし、机に向かった。


 革張りの日記帳を開き、ペンを手に取る。インクの香りが、彼女の緊張を少し和らげた。マリアは目を閉じ、今日の出来事を思い返す。ペンが紙の上を滑り始める。


「19xx年8月15日


 今日、再び山姥と対面した。前回とは違い、今回は切実な目的があっての訪問だった。花の失踪……その真相は、私の想像を遥かに超えるものだった」


 マリアは筆を止め、窓の外を見やる。霧に包まれた遠野の夜景が、幻想的に広がっている。彼女は再びペンを走らせた。


「山姥の姿は、相変わらず畏怖の念を抱かせるものだった。しかし、その目に宿る悲しみと慈愛は、前回にも増して深く感じられた。彼女は、花さんが自ら望んでこの世界を去ったと語った。人間世界の苦しみから逃れるために……。


 しかし、希望はある。花さんの魂はまだ完全にあちらの世界へは渡っていないという。彼女を取り戻す方法があるのだ。だが、その代償は……」


 マリアは、ペンを握る手に力が入るのを感じた。


「山姥は、蒼の魂と、私の『異邦人としての力』が必要だと言った。私の力……。正直、自分にそんな力があるとは思っていなかった。しかし、これまでの不可思議な体験を思い返すと、確かに何かが私の中で変化しているのを感じる。それが何なのか、まだ掴めていない。だが、それが花さんを救う鍵になるのなら……」


 マリアは、机の上に広げられた資料の山を見つめた。民俗学の書物、遠野の古い地図、そして彼女自身のフィールドノート。それらが、今までとは違って見える。


「科学者として、私はこれらの現象を論理的に説明したいと思う。しかし同時に、この地で体験したことは、既存の学問の枠組みでは捉えきれないものだということも分かっている。私は今、二つの世界の狭間に立っているのかもしれない」


 ペンを置き、マリアは深くため息をついた。そして、再び書き始めた。


「満月の夜に儀式を行う。山姥は、私たちの『愛と決意を示せ』と言った。それが何を意味するのか、まだ分からない。しかし、必ず花さんを取り戻す。そして、この体験を世界に伝える。遠野の霧の向こうに隠された真実を、科学の目で捉え、しかし同時に、この地の神秘を尊重しながら……。」


 マリアは、最後にこう記した。


「私の研究は、ここから新たな段階に入る。それは、単なる民俗学の枠を超えた、人間と自然、科学と信仰の調和を探る旅となるだろう」


 ペンを置いたとき、マリアの心には新たな決意が芽生えていた。窓の外では、満月に向かって少しずつ膨らんでいく月が、静かに輝いていた。儀式の日まで、あとわずかな時間しかない。


 マリアは立ち上がり、窓際に歩み寄った。遠野の夜景を見下ろしながら、彼女は小さくつぶやいた。


「待っていて、花さん。必ず助けに行くわ。そして、この体験を通じて、きっと新しい発見をもたらしてみせる」


 彼女の瞳には、不安と期待、そして固い決意の色が混ざっていた。マリアは、これから始まる未知の冒険に、静かに身を委ねる覚悟を決めていた。

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