第五章: 「神隠しの謎を追って」

 遠野に到着してから数週間が過ぎた頃、マリアの研究に思わぬ展開が訪れた。ある朝、村全体が騒然とする中、蒼が慌ただしくマリアの元を訪れた。


「フォスターさん、大変です!」


 蒼の表情には、これまで見たことのない緊張が走っていた。マリアは眉をひそめ、問いかけた。


「何があったの、蒼くん?」


 蒼は深呼吸をして、言葉を絞り出すように語り始めた。


「村で少女の失踪事件が起きたんです。村長の娘の花(*1)が、昨夜から行方不明になっているんです」


 マリアは驚きの表情を浮かべた。


「まあ! それは大変ね。警察は捜索を始めているの?」


 蒼は首を横に振った。


「いいえ、村人たちは警察に連絡していません。みんな、これは神隠し(*2)だと言っているんです」


「神隠し?」


 マリアは困惑した表情を浮かべた。これまでの調査で、彼女は遠野の不思議な現象を目の当たりにしてきた。しかし、現実の失踪事件を超自然現象で片付けることには、研究者として抵抗があった。


「そうです。この村では時々、若い娘が突然姿を消すことがあるんです。そして、そういう時はいつも『神隠し』だと言われてきました」


 蒼の表情には、悲しみと諦めが混ざっているように見えた。マリアはそんな蒼の様子を見て、何か隠されている事情があると直感した。


「蒼くん、あなた……花さんのことをよく知っているのね?」


 蒼は一瞬躊躇したが、やがて小さく頷いた。


「はい……実は、花は僕の幼なじみなんです。そして……僕たちは婚約していたんです」


 マリアは驚きの声を上げた。


「まあ! そんな大事な話を、なぜ今まで……?」


 蒼は申し訳なさそうに微笑んだ。


「すみません。個人的なことだったので、お話しするタイミングがなくて……」


 マリアは蒼の肩に手を置き、優しく語りかけた。


「わかったわ。でも、だからこそ私たちは花さんを見つけ出さなければいけないわね。科学的なアプローチで真相を追求しましょう」


 蒼は感謝の眼差しを向けた。


「ありがとうございます、フォスターさん」


 二人は早速、調査を開始した。まず、花が最後に目撃された場所である村長の家を訪れた。村長は疲れ切った様子で二人を迎え入れた。


「どうか、娘を……花を見つけ出してください」


 村長の悲痛な訴えに、マリアは強く頷いた。


「できる限りのことをします。まず、花さんが最後にいた場所を見せていただけませんか?」


 村長に導かれ、マリアと蒼は庭に出た。そこは手入れの行き届いた美しい日本庭園だった。しかし、その美しさとは裏腹に、今は不吉な空気が漂っているように感じられた。


 マリアは注意深く庭を調査し始めた。彼女は地面の痕跡、植物の状態、周囲の建物など、あらゆる細部に目を配った。しかし、不自然な点は見当たらない。


「おかしいわ。もし誘拐されたのなら、何かしらの痕跡が残っているはずよ」


 マリアが呟くと、蒼が静かに答えた。


「だから村人たちは神隠しだと……」


 マリアは首を振った。


「いいえ、きっと何か見落としているはずよ。もう少し広範囲を調べてみましょう」


 二人は村長の許可を得て、家の周辺も調査することにした。しかし、そこでも決定的な手がかりは見つからなかった。


 夕暮れ時、疲れ果てた二人は一旦調査を中断することにした。帰り道、マリアは考え込んでいた。


「蒼くん、花さんについてもう少し教えてくれない? 彼女はどんな性格だったの? 何か悩みはなかった?」


 蒼は少し考えてから答えた。


「花は……とても優しい子でした。でも、最近少し変わっていたんです」


「変わっていた? どういう風に?」


「夜、一人で外に出かけることが増えたんです。そして、帰ってくると何か……別人のように静かになっていました」


 マリアはその話に興味を示した。


「それはいつ頃からなの?」


「そうですね……約一ヶ月前からです」


 マリアは何かを思い出したように目を見開いた。


「一ヶ月前……私がこの村に来た頃ね」


 蒼は驚いた様子で尋ねた。


「フォスターさん、何か思い当たることがあるんですか?」


 マリアは首を横に振った。


「いいえ、まだよく分からないわ。でも、何かがあるはずよ。私たちが見落としている重要な何かが……」


 その時、遠くから不思議な笛の音が聞こえてきた。二人は思わずその方向を見た。


「あの音は……」


「ええ、天狗の笛ね」


 マリアと蒼は顔を見合わせた。その瞬間、二人の頭に同じ考えが浮かんだ。


「もしかして、花さんの失踪は……」


「ええ、あの森と関係があるかもしれないわ」


 二人は急いで旅館に戻り、翌日の調査の準備を始めた。マリアは日記に今日の出来事を細かく記録し、自身の思考を整理した。


 窓の外では、濃い霧が立ち込めていた。その霧の中に、花の姿が隠されているのかもしれない。マリアは、科学的アプローチと遠野の伝説を融合させた新たな調査方法を模索し始めていた。


 翌朝、マリアと蒼は早くから森への調査に出発した。二人は花が最後に目撃されたという鎮守の森に向かった。森に入るとすぐに、周囲の空気が変わったのを感じた。


「この森には何か……特別なものがあるわね」


 マリアが呟くと、蒼は静かに頷いた。


「はい。この森は昔から神聖な場所とされてきました。でも同時に、恐ろしい伝説もたくさんあるんです」


 突然、茂みが揺れ、何かが飛び出してきた。マリアと蒼は驚いて立ち止まったが、それは一頭の鹿だった。あの時の鹿だった。鹿はしばらくじっと二人を見ていたが、やがてつい、と踵を返して森の中に消えていった。


 森の奥に進むにつれ、マリアは次第に不安を感じ始めた。科学的な説明がつかない現象が次々と起こる中、彼女の理性と直感が激しく葛藤していた。


 そんな中、二人は村はずれの池にたどり着いた。水面は霧に覆われ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


「蒼くん、この池に何か特別な伝説はあるの?」


 蒼は少し考えてから答えた。


「はい、この池には河童が住んでいるという伝説があります。時々、夜になると河童の姿が見えるそうです」


 その言葉を聞いた瞬間、マリアは水面に何かの動きを感じた。一瞬のことだったが、確かに緑色の手のようなものが見えたような気がした。


「今、何か見えたわ……」


 蒼は驚いた様子で水面を見つめたが、何も見えないようだった。


「フォスターさん、本当に何か見えたんですか?」


 マリアは自信なさげに頷いた。


「ええ、でも確信は持てないわ。もしかしたら、疲れているせいかもしれない」


 二人は池を後にし、さらに森の奥へと進んだ。日が暮れ始める頃、彼らは花が最後に目撃されたという場所にたどり着いた。


 そこは、鎮守の森の中でも特に神秘的な雰囲気を漂わせる場所だった。古い木々が空を覆い、地面には苔が生え、あたりには不思議な静けさが広がっていた。


 突然、マリアの目に奇妙な光景が飛び込んできた。木々の間を、オレンジ色の小さな光の玉が舞っているのだ。


「あれは……狐火?」


 蒼も今度ははっきりと見えたらしく、驚いた様子で頷いた。


「はい、間違いありません。狐火です。この辺りでは、夜になると時々現れるんです」


 そして、さらに驚くべきことが起こった。狐火の周りから、かすかな笑い声が聞こえてきたのだ。


「あの声は……座敷童子?」


 蒼は顔を青ざめさせながら答えた。


「そうです。ここでは、夜な夜な狐火が舞い、座敷童子の笑い声が聞こえるという噂があったんです」


 マリアは、これらの現象が花の失踪と何らかの関係があるのではないかと考え始めた。しかし、科学者としての彼女の頭脳は、まだ合理的な説明を求めようともがいていた。


「蒼くん、これらの現象には何か意味があるのかしら? 花さんの失踪と関係があるとしたら、どういうことなのかしら?」


 蒼は深く考え込んだ様子で答えた。


「伝説によると、これらの現象は、この世界と別の世界の境界が薄くなっているときに起こるそうです。もしかしたら、花は……」


 彼の言葉は途中で途切れた。マリアは、蒼の言葉の意味を理解しようと努めた。


「別の世界? つまり、花さんはこの世界から別の世界に……?」


 蒼は静かに頷いた。


「はい、それが『神隠し』の本当の意味なのかもしれません」


 マリアは、これまでの経験と目の前の現象を照らし合わせながら、頭の中で様々な可能性を探っていた。科学者としての理性と、この地で体験した不思議な出来事への直感が、激しく衝突していた。


「でも、もしそうだとしたら、どうやって花さんを取り戻せばいいの?」


 蒼は悲しげに肩をすくめた。


「わかりません。伝説では、神隠しに遭った人を取り戻すのは、ほとんど不可能だと……」


 マリアは決意に満ちた表情で蒼を見つめた。


「いいえ、諦めるわけにはいかないわ。きっと方法があるはず。私たちは、科学と伝説の両方を使って、花さんを取り戻す方法を見つけ出すわ」


 蒼の目に、かすかな希望の光が宿った。


「フォスターさん……」


 その時、森の奥から不思議な歌声が聞こえてきた。それは悲しくも美しい、人間のものとも思えない歌声だった。


「この歌は……」


 マリアが聞き入っていると、蒼がそっと説明した。


「山姥の歌です。伝説によると、前も言いましたが、山姥は時々こうして歌を歌うそうです」


 マリアは、その歌声に導かれるように、さらに森の奥へと足を進めた。


「蒼くん。山姥なら花さんについて何か知っているかもしれないわ」


 蒼は躊躇したが、やがて小さく頷いた。


「わかりました。でも、くれぐれも注意していきましょう」


 二人は歌声に導かれるように、さらに森の奥深くへと進んでいった。霧が濃くなり、視界が狭まる中、マリアは自分たちが何か重要な出会いの瀬戸際にいることを感じていた。

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