第四章:「霧の森に潜む伝説」
マリアは、これまでの不思議な体験に心を躍らせながらも、研究者としての冷静さを失わないよう自戒していた。しかし、遠野の地に根付く伝承や伝説をより深く理解したいという思いは、日に日に強くなっていった。
ある朝、マリアは蒼と共に、さらなる調査のために深い森へと足を踏み入れた。霧に包まれた森の中を進むにつれ、マリアは空気が変わったのを感じた。木々の間から漏れる光は、霧によって柔らかく拡散され、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「蒼くん、この森には何か……特別なものがあるの?」
マリアが尋ねると、蒼は神秘的な表情を浮かべて答えた。
「はい、この森には多くの妖怪(*1)が住んでいると言われています。でも、彼らは簡単には姿を見せません」
その言葉を聞いて間もなく、マリアは驚くべき光景を目にした。木々の間を、何か黒い影が飛び交っていたのだ。その動きは人間のものとは思えないほど素早く、優雅だった。
「あれは……天狗(*2)?」
マリアが息を呑んで尋ねると、蒼は首を傾げた。
「天狗ですか? 僕には何も見えませんが……」
蒼の反応に戸惑いながらも、マリアは自分の目を疑うことはなかった。
確かに彼女は、天狗の姿を目にしたのだ。
二人が森の奥へと進むにつれ、さらに不思議な出来事が起こり始めた。木の洞から、小さな顔がちらりと覗いては消えていく。それは木霊(*3)と呼ばれる精霊のようだった。
「蒼くん、あそこに……」
マリアが指さす方向を、蒼は不思議そうに見つめた。
「フォスターさん、どうかしましたか? やはり僕には何も見えませんが……」
マリアは困惑した。なぜ蒼には見えないのだろうか。しかし、彼女は自分の目を信じることにした。
突然、茂みが揺れ、一頭の鹿が飛び出してきた。鹿は驚いた様子で、何かに追われているようだった。マリアと蒼は、咄嗟に鹿を落ち着かせようと声をかけた。
すると、驚くべきことが起こった。鹿が人語を話し始めたのだ。
「ありがとうございます。あなたの言葉で落ち着くことができました。そうでなければ危うく猟師に捕まるところでした」
マリアは目を見開いた。今度は蒼も驚きを隠せない様子だった。
「お礼と言ってはなんですが、あなた方が探しているものについて情報を差し上げましょう」
鹿は、マリアたちをじっと見つめながら続けた。
「山姥(*4)の住処を知っています。深い谷を越え、三本の大きな杉が立つ場所を右に曲がると、そこに辿り着きます。幸運を」
マリアは、この状況が現実なのか夢なのか、判断がつかなくなっていた。
しかし、研究者としての好奇心が、彼女を前へと突き動かした。
「蒼くん、行ってみましょう」
蒼は少し躊躇したが、やがて頷いた。
「わかりました。でも、気をつけてください。山姥は……複雑な存在です」
二人は鹿に教えられた道を進んでいった。
深い谷を越え、三本の大きな杉が立つ場所に到着すると、そこから右に曲がった。
森がさらに深くなり、周囲の霧が濃くなってきた。そんな中、突然、不思議な歌声が聞こえてきた。それは悲しくも美しい、人間のものとも思えない歌声だった。
「この歌は……」
マリアが聞き入っていると、蒼がそっと説明した。
「山姥の歌です。伝説によると、山姥は時々こうして歌を歌うそうです」
しかし、蒼の表情はどこか悲しげだった。マリアは不思議に思い、尋ねた。
「蒼くん、どうしたの? 何か心配なことでも?」
蒼は少し間を置いてから、静かに答えた。
「山姥の歌には、深い悲しみが込められているんです。彼女は……孤独なんです」
その言葉に、マリアは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。山姥は単なる恐ろしい妖怪ではなく、何か深い事情を抱えた存在なのかもしれない。
歌声に導かれるように、二人は森の奥深くへと進んでいった。霧が濃くなり、視界が狭まる中、マリアは自分たちが何か重要な出会いの瀬戸際にいることを感じていた。
そして、霧の向こうに、一軒の古びた小屋が姿を現した。歌声はその小屋から聞こえているようだった。
「ここが……山姥の住処?」
マリアが小声で尋ねると、蒼は静かに頷いた。
「はい。でも、フォスターさん。ここからは十分注意して……」
蒼の言葉が途切れたその時、小屋の戸が静かに開いた。そこに立っていたのは、マリアの想像をはるかに超える存在だった。
長い白髪を風になびかせ、深いしわの刻まれた顔に、悠久の時を感じさせる目。それは確かに山姥だったが、マリアが抱いていた「恐ろしい妖怪」のイメージとは全く異なっていた。マリアはなぜかギリシャ神話にでてくる女神を連想した。
山姥は、マリアと蒼を見つめ、静かに口を開いた。
「よくぞ来てくれた、遠い国から来た娘よ。そして、遠野の若人よ。私の歌を聴きに来たのかい?」
その声には、悲しみと慈しみが混ざり合っていた。マリアは、自分がこれまでの民俗学研究の常識を覆すような大発見の瀬戸際に立っていることを悟った。
しかし同時に、彼女の心の中には不安も渦巻いていた。この先、彼女と蒼にどのような運命が待ち受けているのか。そして、遠野の霧の中に隠された真実とは、果たして何なのか。
マリアは深呼吸をし、山姥に向かって一歩を踏み出した。彼女の冒険は、まさにここから本当の意味で始まろうとしていたのだ。
マリアは、震える声を抑えながら言った。
「はい、私はあなたの歌を聴きました。とても美しく、そして悲しい歌でした。私は……あなたのことをもっと知りたいと思って来たのです」
山姥は、マリアの言葉に深くうなずいた。
「よくぞ言ってくれた。人間の娘が、私のことを知りたいと言ってくれるのは、久しぶりのことじゃ」
マリアは、勇気を振り絞って尋ねた。
「あなたは……本当に人々が恐れる存在なのですか? それとも、もっと別の……」
山姥は、苦笑するように口元を歪めた。
「人々が私を恐れるのは、当然のことかもしれん。しかし、それは私の一面にすぎない。かつては、私も豊穣の女神として崇められていたのじゃ」
マリアは、その言葉に目を見開いた。
「豊穣の女神……? それは、古老から聞いた話と一致します。でも、なぜ恐れられる存在になってしまったのでしょうか?」
山姥の目に、深い悲しみの色が浮かんだ。
「時代が変わり、人々の心も変わった。自然を畏れ敬う心が薄れていくにつれ、私も恐ろしい存在として扱われるようになったのじゃ」
マリアは、山姥の言葉に深く考え込んだ。そこには、単なる伝説や迷信ではなく、人間と自然の関係の変遷が反映されているように思えた。
「でも、あなたは今でも……この森を守っているのですか?」
マリアが尋ねると、山姥はゆっくりと頷いた。
「そうじゃ。たとえ人々に忘れられても、私にはこの森を、この土地を守る使命がある。それが、私の存在理由なのじゃ」
マリアは、山姥の言葉に深く感銘を受けた。そこには、彼女がこれまで想像もしなかった深い叡智と、悠久の時を超えた使命感が感じられた。
「あなたの存在は、とても重要です」
マリアは真剣な面持ちで言った。
「私は、あなたのような存在を世界に知らしめたいと思います。人々が自然との繋がりを取り戻すきっかけになるかもしれません」
山姥は、マリアの言葉に驚いたような表情を浮かべた。
「人間の娘よ、お前は面白い考えを持っているのう。しかし、気をつけなければならんぞ。知識には責任が伴う。私たちの世界を人間に知らしめることで、新たな軋轢を生み出すかもしれん」
マリアは、山姥の警告に真剣に耳を傾けた。確かに、この神秘的な世界を科学の目で解き明かそうとすることには、大きなリスクが伴うかもしれない。しかし同時に、そこには人類の未来を左右するような重要な知恵が隠されているようにも思えた。
「私は慎重に、そして敬意を持って研究を進めます」
マリアは決意を込めて言った。
「あなたたちの世界と人間の世界の調和を図ることが、私の使命だと感じています」
山姥は、マリアの瞳をじっと見つめた。そこには、若き研究者の情熱と誠実さが映し出されていた。
「よかろう」
山姥は口を開いた。
「お前の純粋な心に免じて、私の知識の一部を授けよう。しかし、それを如何に使うかは、お前次第じゃ。人間と自然の調和という難題に、お前なりの答えを出してほしい」
マリアは、身が引き締まる思いだった。彼女は、自分が単なる研究者を超えた、二つの世界の架け橋となるべき存在なのだと悟った。
「ありがとうございます」
マリアは深々と頭を下げた。
「あなたの教えを、しっかりと心に刻みます」
そして、マリアと山姥の長い対話が始まった。それは、人間と自然、科学と神秘、過去と未来を繋ぐ、かけがえのない時間となった。蒼はその様子を少し離れた場所から見守っていたが、彼の瞳には安堵の色が浮かんでいた。
夜が更けていく中、マリアの心には新たな決意が芽生えていた。彼女は、この遠野での経験を通じて、民俗学の新たな地平を切り開くことを誓ったのだった。
山姥との対話を終え、マリアと蒼が山を下りる頃には、夜明けの光が霧の向こうに差し始めていた。新たな朝の訪れと共に、マリアの研究も、そして遠野の物語も、新たな章を迎えようとしていたのだ。
注釈:
(*1) 妖怪:日本の伝承や民間信仰に登場する超自然的な存在。多くは人間に害をなすとされるが、中には人間を助ける善良な妖怪も存在する。
(*2) 天狗:日本の伝説上の生き物。長い鼻と赤い顔が特徴で、山中に住み、超自然的な力を持つとされる。
(*3) 木霊(こだま):日本の民間伝承に登場する精霊。森や木に宿るとされ、人の声に応答するエコーの原因とも考えられていた。
(*4) 山姥:日本の伝説上の妖怪。山に住む老婆の姿をした存在で、恐ろしい面と慈悲深い面を併せ持つとされる。
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