第三章: 「森が語りし古(いにしえ)の伝説」

 マリアは、遠野での不思議な体験に心を揺さぶられながらも、研究者としての冷静さを失わないよう努めていた。彼女は、この土地に根付く伝承や伝説を、より深く理解する必要があると感じていた。


 ある朝、蒼がマリアを町はずれの一軒家へと案内した。そこには、遠野で最も年長とされる老人、佐藤源造(*1)が住んでいた。源造は百歳を超える高齢だったが、その目は澄んでおり、記憶力も衰えていなかった。


「フォスターさん、源造じいさんは遠野の生き字引とも言える方です。きっと貴重なお話が聞けると思います」


 蒼がそう説明すると、マリアは期待に胸を膨らませた。


 源造の家に入ると、古い掛け軸や骨董品が並ぶ和室に通された。やがて、杖をつきながらゆっくりと現れた源造は、マリアたちを見るなり、にっこりと微笑んだ。


「よく来なすった。遠い国から来た方に、わしらの話を聞いてもらえるのは嬉しいことじゃ。」


 蒼が通訳を務める中、マリアは源造から様々な伝説を聞いた。その中でも、特に彼女の興味を引いたのは「山姥」(*2)の物語だった。


源造の言葉が、古びた和室に静かに響いた。その瞬間、部屋の空気が変わったように感じられた。マリアは思わず身を乗り出し、蒼の通訳に耳を傾けた。


「山姥はな……」


 源造は目を細め、遠い記憶を辿るように天井を見上げた。その深いしわの刻まれた顔に、柔らかな表情が浮かんだ。


「恐ろしい化け物じゃと思われとるが、そうじゃないんじゃ」


 彼の声には、どこか懐かしさと敬意が混ざっていた。

 マリアは、源造の語り口に引き込まれていくのを感じた。


「昔はな、山の女神として崇められておったんじゃよ」


 源造は、ゆっくりと両手を広げ、まるで大きな山を描くかのようなしぐさをした。


「作物の豊穣を司る神さまじゃった。畑や田んぼが実りに満ちるのも、山姥様のお陰じゃと信じられとってな」


 マリアは急いでノートにメモを取り始めた。彼女の目は輝きに満ちていた。


「それだけじゃない。安産の守り神でもあったんじゃ」


 源造は、優しく微笑んだ。


「妊婦さんが山姥様にお願いすると、安産になるって言い伝えがあってな。わしが子供の頃は、お産が近い女性が山の祠に参るのを見かけたもんじゃ」


 マリアは、自分の中で何かが大きく動いたのを感じた。

 これまでの山姥のイメージが、目の前で音を立てて崩れていくようだった。


「では、どうして恐ろしい存在になってしまったんでしょうか?」


 マリアが尋ねると、源造は深いため息をついた。


「時代が変わり、人の心が変わったんじゃな。山を恐れ、自然を畏れる心が薄れていくにつれ、山姥様も恐ろしいもんに変わっていってしもうた」


 その言葉に、マリアは深く考え込んだ。山姥の変容は、単なる伝説の変化ではなく、人々の自然観や信仰の変遷を表しているのではないか。彼女の中で、新たな研究の糸口が見えてきた気がした。


 蒼はその様子を見て、静かに微笑んだ。彼は、マリアがこの土地の真の姿に一歩近づいたことを感じ取っていたのだ。


「蒼くん、山姥は単なる怪物ではなく、古代の女神信仰の名残なのかもしれないわ」


 マリアがそう呟くと、蒼は深い理解を示すように頷いた。


 源造との面会を終え、マリアは新たな視点を得て興奮していた。彼女は、これまでの民俗学研究が見落としてきた重要な側面に気づいたような気がしていた。


 その日の午後、マリアは蒼と共に川辺の調査に向かった。穏やかに流れる川面を眺めながら、マリアは山姥についての考察を深めていた。


 突然、水面に波紋が広がり、奇妙な姿が現れた。緑色の肌、甲羅のような背中、そして頭の上にはお椀のような凹みがある。マリアは息を呑んだ。


「あれは……河童(*3)?」


 驚いて蒼に伝えると、彼は静かに頷いた。


「はい、河童です。でも、あまり大きな声を出さないでください。河童は……特別な存在なんです。」


 蒼の声には、どこか神秘的な響きがあった。


「河童と取引をすれば、大きな力が得られるんです。でも、それには代償が伴います。」


 マリアは、蒼の言葉の意味を完全には理解できなかったが、この土地には自分の知らない深い秘密が眠っているのを感じた。


 日が暮れ、二人が旅館に戻ると、思いがけない光景が目に飛び込んできた。旅館の庭に、幻想的な光の玉が浮かんでいたのだ。オレンジ色の柔らかな光が、霧の中でゆらゆらと揺れている。


「あれは……?」


 マリアが驚いて尋ねると、蒼は静かに答えた。


「狐火(*4)です。狐の嫁入りとも呼ばれています。縁起の良いしるしだとされていますよ。」


 マリアは、その幻想的な光景に魅了されながらも、同時に不安も感じていた。彼女の目の前で、科学では説明のつかない現象が次々と起こっている。研究者としての好奇心と、人間としての恐れが、彼女の心の中で葛藤していた。


「蒼くん、私……この土地で何が起こっているのか、完全には理解できていないわ。」


 蒼は優しく微笑んだ。


「フォスターさん、遠野の不思議は、理解しようとすればするほど深くなっていきます。でも、恐れることはありません。この土地は、あなたを受け入れているんです。」



 その夜、月光亭の二階の一室で、マリアは机に向かっていた。窓の外では、まだ狐火がかすかに揺らめいている。部屋の中は、ランプの柔らかな光に包まれ、静寂が支配していた。


 マリアの前には、革張りの日記帳が開かれている。ペンを握る彼女の手は、時に早く、時にゆっくりと動いていた。彼女の表情は真剣そのもので、時折眉をひそめては、深く考え込む様子を見せていた。


「遠野到着から3日目、山間の祠にて不可解な体験。幻の少女と天狗の笛……」


 マリアは、これまでの出来事を克明に記していった。彼女は時折、机の上に広げられた様々な資料――遠野の地図や、日本の妖怪に関する書物――を参照しながら、慎重に言葉を選んでいた。


「座敷童子の存在、科学的には説明不可能。しかし、この地では確かに……」


 彼女は一旦筆を止め、天井を見上げた。

 そして、深く息を吐き出すと、再び筆を走らせ始めた。


「仮説:遠野の霧は、現実世界と霊的世界の境界を曖昧にしている可能性あり。要検証。」


 マリアは、この仮説を書き記した後、しばらく考え込んだ。

 そして、ペンを取り上げ、慎重に線を引いて消した。


「非科学的すぎる。別の説明が必要」


 彼女は、新たな頁を開いた。


「山姥に関する考察:単なる妖怪ではなく、古代信仰の名残か? 女神崇拝の変遷を示す可能性。比較神話学的アプローチで検証する必要あり」


 マリアは、この仮説に星印をつけた。

 これは、彼女が特に重要だと考える事項に付ける印だった。


 夜が更けていくにつれ、マリアの日記はページを重ねていった。河童との遭遇、狐火の目撃、そしてそれらに対する蒼の神秘的な説明。すべてが、彼女の頭の中で複雑に絡み合っていた。


「遠野の伝承と現実の境界が、私の目の前で溶け合っている。これは単なる民俗学的研究の範疇を超えているのではないか?」


 マリアは、この問いを書き記した後、長い間ペンを止めて考え込んだ。彼女の目には、期待と不安が入り混じった複雑な感情が浮かんでいた。


 最後に、彼女はこう記した。


「今後の調査方針:科学的アプローチを保ちつつも、この土地特有の"知"にも心を開く。遠野の真実は、理性と直感の狭間にあるのかもしれない」


 マリアがペンを置いたとき、東の空がわずかに明るくなり始めていた。彼女は疲れた目を擦りながら、窓の外を見やった。狐火はすでに消え、新たな朝の気配が感じられた。


 彼女は、これから始まる新たな一日に、期待と覚悟を胸に秘めていた。遠野の謎は、まだ序章に過ぎなかったのだ。



注釈:

(*1) 佐藤源造:架空の人物。ここでは遠野の古老として設定されている。

(*2) 山姥:日本の伝説上の妖怪。山に住む老婆の姿をした存在で、恐ろしい面と慈悲深い面を併せ持つとされる。

(*3) 河童:日本の伝説上の水棲生物。頭に水の入った皿を持ち、水中で生活するとされる妖怪。

(*4) 狐火:狐が作り出すとされる不思議な火。夜道に現れ、人を惑わすとも言われる。

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