第二章: 「妖しき影との遭遇」
マリアは朝早くから目を覚ました。窓の外には、相変わらず濃い霧が立ち込めている。彼女は深呼吸をし、これから始まる本格的な調査への期待と緊張で胸が高鳴るのを感じた。
朝食を済ませたマリアは、約束通り旅館の入り口で蒼を待っていた。彼は定刻通りにやってきて、丁寧にお辞儀をした。
「おはようございます、フォスターさん。昨日も申し上げた通り、今日は山間の祠(*1)にご案内します。遠野の信仰を理解する上で、重要な場所なんです」
マリアは頷いて答えた。
「おはよう、蒼くん。楽しみにしているわ」
二人は霧に包まれた遠野の街を抜け、山道を登り始めた。道中、蒼は遠野の歴史や文化について詳しく説明を続けた。マリアは時折メモを取りながら、熱心に耳を傾けた。
しばらく歩くと、木々の間から小さな祠が姿を現した。それは苔むした石でできており、長い年月を物語っていた。
「ここが、カミサマ(*2)を祀る祠です」
蒼が静かに言った。
マリアは祠に近づき、注意深く観察を始めた。古びた石の表面には、不思議な模様が刻まれている。
「これは……」
マリアが何かを言おうとした瞬間だった。突如、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。澄んだ音色が霧の中を漂い、マリアの全身を包み込むように響いてきた。
「蒼くん、この音は……?」
驚いて振り返ったマリアだったが、蒼の表情は変わらなかった。
「ああ、天狗の笛ですね。この辺りではよく聞こえるんです」
蒼は当たり前のように答えたが、マリアの驚きは収まらなかった。
そして、その時だった。
霧が僅かに晴れた瞬間、マリアの目の前で現実が歪むように揺らめいた。祠の向こう側に、まるで霧から紡ぎ出されたかのように、一人の少女の姿が浮かび上がった。
少女は、月光を纏ったかのような純白の着物を身にまとっていた。その姿は、この世のものとは思えないほどに儚く、透き通るようだった。長い黒髪は、目に見えない風に揺られ、まるで夜の闇そのものが命を宿したかのように、ゆらゆらと舞っていた。
マリアは、自分の呼吸が止まったことにも気づかないほど、その光景に魅入られていた。少女の姿は、夢の中で見た幻影と酷似していた。現実と夢の境界が曖昧になり、マリアは一瞬、自分が今どちらの世界にいるのかわからなくなった。
そして、少女と目が合った瞬間、マリアの心臓が激しく鼓動を打ち始めた。
少女の瞳は、深い深い井戸のようだった。その中には、幾世代もの悲しみが沈殿しているかのようだった。瞳の奥には、かすかな光が揺らめいている。それは、まるで遠い昔に消えてしまった星の最後の輝きのようで、懇願と哀願が入り混じった複雑な感情を湛えていた。
マリアは、その瞳に吸い込まれそうになった。少女の悲しみが、まるで霧のようにマリアの心に染み込んでくる。それは言葉では表現できない、古くて新しい感情だった。
少女の唇が小さく動いた。何かを伝えようとしているようだったが、音声は霧に吸い込まれ、マリアの耳には届かない。しかし、不思議なことに、マリアには少女の思いが伝わってくるような気がした。
「助けて」と「解き放って」が混ざり合ったような、複雑な感情がマリアの心に直接響いてきた。
マリアが思わず手を伸ばした瞬間、少女の姿は霧の中に溶けるように消えていった。残されたのは、かすかな余韻と、マリアの胸に残された不思議な温もりだけだった。
「蒼くん、今あそこに……」
マリアが指さす方向を、蒼は不思議そうに見つめた。
「フォスターさん、どうかしましたか? 僕には何も見えませんが……」
マリアが再び少女の方を見ると、その姿はすでに霧の中に溶けるように消えていた。
「今、確かに少女が……いいえ、何でもないわ」
マリアは混乱した様子で答えた。蒼は心配そうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
祠の調査を終え、二人は旅館への帰路についた。帰り道、マリアの頭の中は先ほどの出来事でいっぱいだった。彼女は自分の目を疑いたくなる一方で、その体験が何か重要な意味を持っているような気がしてならなかった。
夜、旅館に戻ったマリアは、部屋で今日の出来事を日記に書き留めていた。突然、部屋の隅に小さな影が見え、かすかな笑い声が聞こえた。マリアは驚いて顔を上げた。
「誰かいるの……?」
しかし、部屋には誰もいない。マリアは不安を感じつつも、蒼の言葉を思い出した。
「そうか、これが座敷童子(*3)なのね……」
マリアは深く息を吐き出した。遠野での滞在はまだ始まったばかり。これから彼女が目にするであろう不思議な出来事に、身が引き締まる思いだった。
窓の外では、相変わらず霧が深く立ち込めていた。その霧の向こうに、まだ誰も知らない物語が隠されているようだった。マリアの冒険と、遠野の謎を解き明かす旅は、ここからが本番なのだ。
注釈:
(*1) 祠(ほこら):小さな神社のこと。通常、山や森の中に建てられ、地域の守護神や自然の精霊を祀ることが多い。
(*2) カミサマ:神様の方言表現。遠野地方では、自然や先祖の霊など、様々な対象を神として崇めることがある。
(*3) 座敷童子:東北地方の民間伝承に登場する妖怪。子供の姿をした家の守り神とされ、その家に富や繁栄をもたらすと信じられている。
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