第一章: 「遠野、最初の異変」

 遂に日本に到着したマリアは、東京で数日を過ごし、必要な準備を整えた。そして、長い列車の旅を経て、ようやく遠野の地を踏むことになった。


 遠野の地に降り立った瞬間、マリアは息を呑んだ。目の前に広がる風景は、彼女が想像していたものとは全く異なっていた。緑深い山々、清らかな川の流れ、そして何よりも、あたり一面を包み込む神秘的な霧。


「まるで……物語の中に迷い込んだようね」


 マリアは小さく呟いた。彼女の心は、期待と不安が入り混じった複雑な感情で満ちていた。


 駅前には、彼女を迎えるはずの旅館の主人の姿はなかった。マリアは少し困惑したが、持ち前の冷静さを保ち、周囲を見渡した。


 その時だった。


「フォスターさんですか?」


 突然、流暢な英語が聞こえてきた。振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。


 15歳くらいだろうか。すらりとした体つきで、漆黒の髪と澄んだ瞳が印象的だった。少年は丁寧にお辞儀をすると、にっこりと笑顔を見せた。


「僕の名前は蒼(あお)です。旅館『月光亭』からお迎えに来ました」


 マリアは少し驚いた様子で答えた。


「ええ、そうよ。でも、まさか案内人が……こんなに若い男の子だとは」


 蒼は照れくさそうに頭を掻きながら説明した。


「はい、実は僕、この町で唯一英語が話せるんです。それで、旅館の主人に頼まれて」


 マリアは少年の態度に好感を抱いた。

 彼の目には、年齢以上の知性と、どこか神秘的な雰囲気が宿っていた。


「そう、分かったわ。よろしくお願いするわね、蒼くん」


 蒼はマリアの荷物を持つと、旅館への道を案内し始めた。


 道中、蒼は遠野の歴史や文化について詳細な解説を始めた。その知識の深さと広さに、マリアは驚きを隠さずにはいられなかった。


「フォスターさん、遠野は古くから『隔絶郷』(*1)と呼ばれていたんです。」


 蒼は歩きながら説明を始めた。


「周囲を山に囲まれた盆地のような地形が、独特の文化や伝承を育んできました」


 マリアは興味深そうに頷きながら聞き入った。


「遠野の歴史は古く、縄文時代にまで遡ります。特に興味深いのは『遠野南部氏』(*2)の時代です。彼らは16世紀から19世紀初頭までこの地を治めていました」


 蒼は立ち止まり、遠くの山々を指さした。


「あの山々には『山の神』(*3)が宿ると言われています。『オシラサマ』(*4)信仰も、この地域の特徴的な民間信仰です」


 マリアは熱心にメモを取りながら質問した。


「オシラサマって何かしら?」

「はい、人の頭と馬の胴体を持つ神様です。農業や養蚕の守り神とされています。」蒼は詳しく説明した。「実は、オシラサマには『蚕の起源譚』(*5)という興味深い物語が……」


 蒼の説明は、単なる事実の羅列ではなく、各要素が有機的に結びついていた。彼は遠野の地理、歴史、民俗、信仰を巧みに関連付けて語り、その奥深さをマリアに伝えていった。


「そして、この地域には『座敷わらし』(*6)や『天狗』(*7)、『河童』(*8)といった妖怪たちの伝承も豊富なんです」


 マリアは思わず口をはさんだ。


「ええ、『遠野物語』で読んだわ。でも、蒼くん。あなた、よくそこまで詳しいのね」


 蒼は少し照れくさそうに笑った。


「僕は……この町の物語を守る役目があるんです。だから、できるだけ多くのことを学ぼうとしています」


 その言葉に、マリアは強い興味を覚えた。蒼の知識は、単なる博学さを超えた何かを感じさせた。それは、この土地との深い繋がりから来る理解のようにも思えた。


 マリアは、この少年案内人との出会いが、自身の研究に思わぬ展開をもたらすかもしれないと直感した。


 月光亭は、古い日本家屋を改装した小さな旅館だった。入り口には、赤い提灯が灯されており、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。


「いらっしゃいませ!」


 旅館の主人夫妻が、にこやかに出迎えてくれた。蒼が通訳をする中、マリアは丁寧にお辞儀をして挨拶した。


 部屋に案内されたマリアは、荷物を解きながら、窓の外を見た。夕暮れ時の遠野の街並みが、霧にけぶって見えた。


「ここから、私の本当の冒険が始まるのよ」


 マリアは深く息を吐き出した。彼女の心の中で、期待と不安が入り混じっていた。しかし、それ以上に、この町に隠された謎を解き明かしたいという強い意志が燃えていた。


 その夜、マリアは不思議な夢を見た。


 濃密な霧に包まれた遠野の森の中を、マリアはゆっくりと歩いていた。足元はぬかるみ、湿った落ち葉の匂いが鼻腔をくすぐる。月明かりさえ遮る深い霧の中で、彼女は自分の手さえ、はっきりと見ることができなかった。


 突如、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。


「ピー、ピヒョ、ピヒョロロ……」


 その音色は、マリアが今まで聞いたことのないような不思議な響きだった。澄んでいて、しかし少し悲しげな音色。それは霧の中をゆっくりと漂い、マリアの心に深く染み入ってくる。


「これは……天狗の笛?」(*9)


 マリアは蒼から聞いた話を思い出していた。しかし、考えを巡らせる間もなく、笛の音は次第に大きくなり、マリアの全身を包み込むように響いてきた。


 そして、その時だった。


 霧が僅かに晴れ、月光が差し込んできた。その光の中に、一人の少女の姿が浮かび上がった。


 少女は十四、五歳くらいだろうか。黒髪を背中まで伸ばし、白い着物を纏っている。しかし、その姿はどこか儚く、霧のように揺らいでいた。


 マリアは息を呑んだ。少女の目は、深い悲しみに満ちていた。そして、その瞳には何か懇願するような、助けを求めるような光が宿っていた。


「あなたは……誰?」


 マリアが問いかけると、少女はゆっくりと口を開いた。しかし、その声は聞こえなかった。代わりに、再び笛の音が響き渡る。


 少女は何かを伝えようとするように、マリアに向かって手を伸ばした。しかし、その指先が触れそうになった瞬間、少女の姿は霧の中に溶けるように消えていった。


「待って!」


 マリアは叫んだ。しかし、彼女の声は霧に吸い込まれ、虚しく森に響くだけだった。


 目が覚めると、マリアは強く震えていることに気がついた。額には冷や汗が浮かび、心臓は激しく鼓動していた。


 窓の外では、まだ霧が深く立ち込めていた。月の光が霧を通して、幻想的な光景を作り出している。


「あれは……夢? それとも……」


 マリアは小さくつぶやいた。夢の中の出来事があまりにも生々しく、現実と区別がつかないほどだった。


 彼女は震える手で、枕元のノートを取り、夢の内容を細かく書き留めた。そして、最後にこう記した。


「遠野の霧の中には、まだ誰も知らない物語が隠されているのかもしれない。」


 マリアの冒険は、まだ始まったばかりだった。そして、この夢は彼女の研究に、思いもよらない影響を及ぼすことになるのだった。



 マリアが遠野に到着してからすでに数日が経っていた。彼女は蒼の案内で村の様子を見て回り、少しずつ地域の人々と交流を深めていった。その日の午後、マリアは蒼に導かれて村の中心にある小さな広場を訪れた。


「フォスターさん、ここが村の集会所です。お祭りの時はみんなここに集まるんですよ」


 蒼が説明すると、マリアは興味深そうに周囲を見回した。


「まあ、素敵な場所ね。ここでどんなお祭りが行われるの?」


 その時、広場の向こうから明るい声が聞こえてきた。


「蒼くん! そちらが例の学者さん?」


 振り返ると、一人の若い女性が笑顔で近づいてきた。長い黒髪を後ろで束ね、明るい着物を着ている。


「あ、花! ちょうどよかった。そう、こちらが、イギリスから来た研究者のマリア・フォスターさんだよ」


 蒼が紹介すると、花は丁寧にお辞儀をした。


「はじめまして、フォスターさん。私は花です。遠野へようこそ」


 マリアは微笑んで答えた。蒼は自然にマリアに通訳をして伝える。


「こんにちは、花さん。素敵な村ね。みなさんの温かさに感動しているわ」


 花は嬉しそうに頷いた。


「フォスターさんは、私たちの伝説や習慣を研究しているんですって? とてもすてきだわ。何か面白いことは見つかりました?」


 マリアは少し考えてから答えた。


「ええ、たくさんの興味深いことを学んでいるわ。特に、山や森に関する伝説が魅力的ね」


 花の目が輝いた。


「あら、山の伝説なら私もたくさん知ってるわ。おばあちゃんからよく聞かされたの。今度ゆっくりお話しできたらいいわね」


 通訳をしていた蒼が少し困ったような顔をして割り込んだ。


「あの、花。フォスターさんは忙しいから、あまり時間を取らせないほうが……」


 花は少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。


「そうよね、ごめんなさい。でも、機会があったらぜひお話ししましょう」


 マリアは優しく微笑んだ。


「ええ、ぜひそうさせてもらうわ。楽しみにしているわ」


 花は再び丁寧にお辞儀をすると、用事があるからと言って立ち去っていった。その後ろ姿を見送りながら、マリアは何か不思議な感覚を覚えた。花の明るさの中に、かすかな影のようなものを感じたのだ。


「素敵な方ね、花さんは」


 マリアがそう言うと、蒼はどこか複雑な表情を浮かべた。


「はい、花は……村の人たちからとても慕われているんです」


 その言葉に何か隠された意味があるように感じたが、マリアはそれ以上追及しなかった。


「さて、フォスターさん。今度は山間の小さな祠に案内しますね」


 蒼の言葉に、マリアは我に返った。


「ええ、そうね。楽しみだわ」


 二人は広場を後にし、山道を登り始めた。マリアの頭の中では、花との短い会話が妙に印象に残っていた。それが後々、重要な意味を持つことになるとは、この時のマリアには想像もつかなかった。




注釈一覧:

(*0) 『遠野物語』:1910年に柳田國男によって出版された日本の民俗学の古典的著作。岩手県遠野地方に伝わる伝承や民話を集めたもので、日本の民俗学研究の基礎となった重要な文献。

(*1) 隔絶郷:周囲から隔離された地域を指す言葉。遠野の地理的特徴を表現している。

(*2) 遠野南部氏:遠野地方を統治した武家。1600年代から1800年代初頭まで遠野を支配した。

(*3) 山の神:日本の民間信仰における山岳信仰の対象。農業や狩猟の守護神とされる。

(*4) オシラサマ:東北地方に伝わる民間信仰の神。農業や養蚕の守護神とされる。

(*5) 蚕の起源譚:オシラサマにまつわる伝説で、人間の娘と馬の恋愛譚から蚕の起源を説明する物語。

(*6) 座敷わらし:東北地方の民間伝承に登場する妖怪。子供の姿をした家の守り神とされる。

(*7) 天狗:日本の伝説上の生き物。鳥のような特徴を持つ山の妖怪や神とされる。

(*8) 河童:日本の伝説上の水棲生物。川や池に住むとされる妖怪。

(*9) 天狗の笛:日本の民間伝承で、天狗が奏でるとされる笛。その音色は人間離れした美しさを持ち、聞く者を惑わせるとも言われています。


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