遠野幻想譚 ―霧の向こうの約束―
藍埜佑(あいのたすく)
序章: 「霧の向こうの約束の地」
1920年、ロンドンの霧深い朝。
マリア・フォスター博士は、自身の研究室で最後の荷造りに余念がなかった。彼女の周りには、日本の民俗学に関する書物や資料が山積みになっていた。窓の外では、テムズ川の霧が街を包み込み、まるで彼女を待ち受ける未知の冒険を予感させるかのようだった。
マリアは鏡に映る自分の姿を見つめた。28歳。茶色の巻き毛を後ろでまとめ、知的な輝きを湛えた青い瞳。彼女は深呼吸をして、自分に言い聞かせるように呟いた。
「さあ、マリア。これが私たちの大きな挑戦よ」
彼女の机の上には、一冊の本が置かれていた。その本はかなり読み込まれたものらしく、表紙は擦り切れ、中は書き込みでいっぱいだった。
『遠野物語』(*0)。
この本との出会いが、彼女の人生を大きく変えることになったのだ。
マリアは、ケンブリッジ大学で民俗学を学び、特に女性の視点から見た民話研究に情熱を注いでいた。彼女の斬新な研究アプローチは、保守的なアカデミアの中で物議を醸していた。しかし、彼女はひるまなかった。
「伝統的な視点だけでは、真実の半分しか見えていないのよ」
そう信じて、マリアは研究を続けてきた。
そして、ある日、偶然手に取った『遠野物語』に、彼女は魅了されたのだ。
日本の東北地方に位置する小さな町、遠野。そこに伝わる不思議な物語の数々。山男、河童、天狗……。そして、何よりも彼女の心を捉えたのは、その物語の中に垣間見える女性たちの姿だった。
「この物語の中には、まだ誰も気づいていない真実が隠されているはずよ」
マリアは直感的にそう感じていた。
そして、その真実を自分の目で確かめるべく、遠野行きを決意したのだ。
しかし、この決断は周囲の反対を招いた。
「マリア、君は狂っている!」と、彼女の指導教授は叫んだ。「未開の地に女性一人で乗り込むなど、無謀にもほどがある!」
だが、マリアの決意は固かった。
「教授、私にはやらねばならないことがあるのです。この目で見て、この耳で聞いて、そしてこの心で感じなければ意味がないんです」
そう言って、マリアは大学を去った。
そして今、彼女は日本へ向かう船客となっていた。長い航海の間、マリアは日本語の勉強に励んだ。しかし、彼女の頭の中は常に遠野のことでいっぱいだった。
「あの霧の向こうに、いったい何が待っているのかしら……」
航海の終わりが近づくにつれ、マリアの胸の高鳴りは抑えられなくなっていった。
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