第30話 旅立ち

誰かの話し声が聞こえる。何度も聞いた声で安心する声だ。目を瞑っていても瞼に光が差し込むのを感じ、細く目を開いた。

まだ頭がぼんやりしている。眩しくて何も見えないが、何度も名前が呼ばれる。無意識でそれに応えた。


「母さん」


視界が戻り、自分の体の上で泣く母親の姿がようやくく見えた。


「もう大丈夫だよ、母さん」


初めて見る病室だったが、綺麗で心地よく母の手を握りながら再び眠りについた。




リハビリをして歩けるようになるまでそれほど時間はかからなかった。驚いたことに自分が倒れてから約1年近くが経過していたそうだ。それだけ眠っていると本来は筋力が衰え、復帰に時間がかかるそうだが、自分の場合はあまり筋力が衰えていなかったらしい。


あとから聞いて知ったことだが前の病院では夢遊病で、鉄の扉を捻じ曲げたり、貯水タンクを真っ二つに切り裂きそして消え去ったことになっていた。流石にそんな事を人間が出来るわけもなく、劣化によるタンク爆発事故と処理されたらしい。

1週間後、全く違う街の道端で倒れているのが見つかり近くの病院に連れて来られたそうだ。



会社は社長の計らいで、休職扱いになっていた。復帰はしたく無かったが、職を失わずに済んだことは凄く助かった。少しくらい残業が多くても文句なく働きたいところだったが、残念ながら自分にはやらなくてはならないことがあった。


手がまともに動かせるようになってからは、リハビリを兼ねて毎日欠かさずやっていることがある。それはデッサンだった。絵を描くのは中学の授業以来で、最初はまともに描けたものでは無かったが、最近では少しそれらしくなってきた。

デッサンとは言ってもモチーフを見ながら描くわけではない。いつも1人の女性を描いていた。

名前を忘れてしまった彼女。だが、彼女の手の温もりは覚えている。自分にとって大切な人だとわかっていた。



夢に見ていた世界は鮮明に覚えていたが、時間と共に記憶が薄れてしまうのでノートに記載した。今では何か恐ろしい体験をしたという事くらいしか覚えていない。

だがその中で彼女とも長い時間を共にしていたはずだ。

根拠はないが、きっとこの世界のどこかで自分と同じように長い眠りから覚めたと思う。



そんな夢物語のような考えを後押しする出来事があった。警察を名乗る人間が尋ねてきたのだ。曰く、自分と同じように長期間、行方不明だった人間が戻ってきているらしいのだ。国や地域が全然違うため、関連性は無いと言っていたが担当の外国人の男はそう思っていないように見受けられた。彼は夢の内容に興味を示していた。

残念ながら、他の人たちの情報は開示出来ないそうだが、今後同じような人がいた場合に自分の情報を伝えておくことは出来るらしいのでお願いしておいた。





1年半かけて入院費を始めとした諸々の支払いを終え、少しだが貯金も出来た。リモートで出来るWEB開発の仕事にも就け、準備は整った。



今日、世界中を旅する新しい生活に出発する。不思議なことに自分にはそれが向いていると思えた。もちろん目的は彼女を探すことだ。


だが理由は他にもあった。再起してからこの世界の美しさを強く感じるようになっていたのだ。そしてその美しい世界をこの目で見て周りたいと考えていた。


きっとそんな人生も悪く無いだろう。


玄関を開き、差し込んでくる朝日と青空を見上げながら、そう思った。



『異世界転移が思っていたのと違うし怖過ぎた

  第1部 THE RED WORLD』 終

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