第10話 湖
医者に個別に相談があると伝え、看護師には出て行ってもらったあと、思い切ってこれまでの夢の話をした。医者は一通り真剣に話を聞いてくれた。
医者曰く、脱水症が進行すると、せん妄という意識障害を引き起こすそうだ。幻覚や妄想を見るのもその影響だと言う。入院以前から発生していた事も伝えたが、夢遊病と
藁にもすがる思いで相談したが、正直言って期待外れの回答だった。あれが夢でないことは右足が実証している。それも伝えたが、体の状態に合わせた幻覚を見ることは往々にしてある。だそうだ。
事例と科学に基づいた回答を聞いているうちに、
医者の話はどうでも良くなっていた。自分の興味はこの世界ではなく向こうにある。疲れたと伝え医者を追っ払ったが、長く眠っていた影響か、自分の思いとは裏腹に寝付けずにいた。結局寝付くことが出来たのは消灯してから2時間以上経った頃だった。
パチャン、パチャンと一定のリズムで水を掻く音が聞こえる。グッと体を起こすと目の前でレベッカがオールを漕いでいた。
「起きた。そろそろ交代よ」
辺りを見渡すと岸にいた時からは多少霧が晴れていたものの、依然として視界の悪い湖が周囲に広がっていた。出発したであろう船着場は
「どのくらい時間が経ってますか」
「あなたが漕いでた時と合わせて3時間近くね。もう山も見えて来てるでしょ」
「ええ、替わりますよ」
レベッカと場所を交代し、オールを漕いだ。風や波もないため、舟は想像以上にすんなりと進む。レベッカは最初こそ、山や周囲を見渡していたが、変わり映えしない景色に飽きたのか、座ったまま目を瞑り休んでいた。
ガコン、パチャン、ガコン、パチャン。
自分が漕ぐ舟の、一定のリズムにいつの間にか自分自身が飲み込まれそうになっていた。風の音が聞こえるが、舟は揺れず、相変わらず
それはまるで声の様だった。低い怒鳴り声と女性の叫び声が入り混じった様な、不快な音がどこからか鳴り響いている。何を言っているかは全く聞き取れないが、お経の様な独特なリズムと、呪文を唱えている様な邪悪さを、持ち合わせた声だった。
段々と恐怖に駆られ、舟を漕ぐスピードを早める。腰には麻袋がついている事を目で確認した。
どんどんと声が近づいてくる。それは湖の中から響いている様に感じた。恐怖で腕は震え、オールを漕ぐ手が止まる。思わず手で両耳を塞ぎ、頭を抱える様にガタガタと怯える。目は開いていたが、目線は舟底から離せずにいた。
ゴトンと軽く舟が揺れたと同時に一切の音が止んだ。恐る恐る耳から手を離しても、揺れた舟が水面と当たる小さな音以外、何も聞こえない。周囲に目を向けるが、変わらず鏡面の様な赤色が全面に広がっているだけだった。
何とか凌いだ。酒場の店主が噂していた湖の魔物はきっとこれだ。再び襲われる前に早くここを離れなくては。再びオールに手を掛け、力強く引っ張る。止まっていた舟がグンと進みだす。その勢いで
その弾みか、レベッカは唸り声の様な深いため息をついた。そしてそのまま
「レベッカ?」
声をかけて、見上げた先にあったレベッカの顔を見てギョッとした。顔こそレベッカではあるが、表情が完全に別人そのものだった。
「レベッカ!」
大きな声を出し、正気に戻るように祈っていたが、変わらぬ様子で少しずつこちらに近づいてくる。
突如、声にならない叫び声を上げてレベッカが飛びついて来た。猛獣の如く爪を立て、こちらの顔や首を目がけて手をぶん回している。両手でそれぞれの腕を掴み、何とか攻撃を防いだが、目の前にあった顔がグッと近づき、首元に噛みつかれた。
「うわぁぁ!」
思わず、左足でレベッカの体を蹴り飛ばした。流石に体は軽く、そのまま舟尾に激突する。しかし意に介さず、再び起き上がりこちらに向かってくる。レベッカの額からは血が流れていた。
その姿に涙しそうになりながら、今度はこちらからも飛びついた。腕を掴み押し倒す。馬乗りになって掴んだ腕をレベッカの頭の上に押さえつけた。噛みつこうとガチガチと歯を鳴らし、足をバタつかせ抵抗している。
左手でレベッカの両腕を押さえて、腰の麻袋に右手を入れた。ナイフの柄が手に触れた。その奥からロープを掴み袋から取り出す。膝下でレベッカの首を押さえつけながら素早く両手を縛った。頭や背中を蹴り続けるその足も縛る。残ったロープで、腕が舟の座席に固定される様に縛りつけた。
自由に動けなくなったレベッカは尚も、抵抗し続けている。
気持ちを強く持ち、再びオールを漕ぎ始める。湖にはレベッカの叫び声が響き続けた。
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