第5話

 ――やっぱりそういうこと。

 こくっと生唾を飲み込む。こういうことは初めてなのだ。彼の要求通りに上手くできるか自信がない。満足してもらえなかったらどうなるのかなんて想像したくもないし、そもそも普通に交わるだけであの額を返せるとも思っていない。この服や化粧、料理代だって私程度の身体では払えない。

 初体験だということを考慮してもらいつつ、とんでもない行為を要求されることだって覚悟しなければいけなかった。


「なにを、すればいいの」


 緊張を隠せないままに彼を振り返れば、やっぱり不思議そうな顔を返される。


「なに、って?」

「だから、どんな特別なことをすればいいの? どうしたら助けてもらったお礼がしきれるの?」

「なんだ、そんなことか。君はなにもしなくていい」


 束宵スーシャオの言葉に、今度は私が不思議そうな顔になる番だ。


「私、なにもしてないよ」

「してくれたじゃないか。オレ好みの格好をしてくれて、ごはんに付き合ってくれた。今すごい満足してる」

「……それしか、してない。っていうか、それは私がしてもらったことで、なにも返してなんてないじゃない」

「好みの女の子の命を助けられて、しかも一緒にお出掛けしてもらえたんだ。それ以上のものなんて求めないよ」


 彼がなにを言っているのかわからない。

 命を助けてもらったお代を支払うという話はどこにいったのか。お金はもちろん、今日は一日全部奢ってもらってしまっていてむしろ借りは増えている。発言の意図がわからずに私は顔をしかめる。そんな私を見て、束宵スーシャオはポンと手を打った。


「あー、さっき吹っ掛けたのは冗談。え、本気にしてた? 元々君からお金取る気なんてないよ。払えるなんて全然思ってないし。ゴメン、あの状態で誘ったって、君、素直についてきてくれなかっただろ? ただ一緒にご飯食べたくて、あんな言い方しちゃった」


 へらりと笑う束宵スーシャオは、すぐに真面目な顔になる。


「ついでに、そんなに可愛くなった君をあそこに返したら無事じゃ済まなさそうだろ。だから、連れて帰ってきちゃった」


 彼の言うように、こんなに綺麗で高そうな服を着ていたら、あの町に足を踏み入れた瞬間全身奪い取られて、下手したら命だって無くしてしまうかもしれない。あそこは、そういう町だ。


「それで、連れて帰ってきてなにをさせるつもりなの?」

「ね。今気付いたんだけどさ。これって、もしかして人攫いってヤツになる? 君になんにも言わずに連れてきちゃったもんな。えー、どうしよう」


 などと言いながらも、束宵スーシャオに困った様子はない。私に身寄りはないと踏んでいるのか、それとも、それこそお金でどうにでもなると思っているのか、ただの変人か。

 でも、食事を共にしただけで満足だという言葉を信じるのだとすれば、これ以上ここに留まる理由もなかった。私は、身体ごと彼に向き直って、身につけている着物の襟を引っ張る。


「私の元々の服は? あれを着て帰れば多分大丈夫。これは返すよ」

「ゴメン。あまりに汚かったから処分お願いしちゃったよ。あれ、また着るとか冗談だろ」


 まだ着られたのに、と呟けば束宵スーシャオはさすがに嫌な顔になる。


「じゃあ、こんな綺麗なのじゃなくてもっと粗悪な古着を手に入れるから、もう捨てるって服があったら貰うことって出来――」


 最悪、布1枚でも良いか、と思いながら着物を脱ごうとすれば


「あそこに、帰りたい?」


 静かな声で束宵スーシャオが聞いてきた。


 改めて問われれば、瞬時に帰りたいとは言えない。

 穴の開いた壁、役目を果たしていない屋根。寝ている時もいつ奪われるかと気の休まることはなく、いつも寝不足で身体の調子が良かったことなどない。私は運良く気のいい大人に囲まれて育ってきたから今まで無事だっただけで、女が一人寝をして安心できる土地ではなかった。


「ほら、答えられないんじゃないか。帰りたくないなら、ここにずっといても良いよ」

「もしかして、使用人として住み込みで雇ってくれるってこと?」


 今まで誰とも擦れ違っていないから、多くの召使いがいるわけではないだろう。手が足りてないなら、私でも出来ることがあるかもしれない。こんなに立派な屋敷で働けたら、どんなに素敵だろう。現金にも瞳を輝かせれば、彼は首を振って「雇わない」とあっさり言う。


「手は足りてるよ」

「じゃあ、なにをすればここに置き続けてもらえるの?」

「だから、なにもしなくて良いんだって。ただここで好きなように生活すればいい。外に出るのはオレの許可ないと無理ってことになるけど、それ以外は自由に出来るよ。悪い条件じゃないと思うけどなあ」


 束宵スーシャオはどこまでも笑顔だ。


「……わからない。なにもしないで良いなんて、気持ち悪い」


 私はぐっと拳を握りしめる。世の中は、一方的に与えられているだけでは駄目なのだ。ただここで生きていればいいなんて、そんなうまい話なんてあるはずがないのだ。

 あの町で親切な大人たちだって、働いて得たお金のほとんどを渡さなければ守ってはくれなかった。彼らの満足する金額を渡せなければ、殴られた。でも、女として手を出されなかっただけありがたい。まだこの身体に価値があると思えたから。

 束宵スーシャオはジリジリと距離を詰めてくる。後退れば、背後にあるのは天蓋付きのベッドだ。


「じゃあさ」


 束宵スーシャオは笑う。


「一旦、友達になろうか。友達を家に泊めるのは変なことじゃないし、客なら働かなくても気にならないだろ?」

「友達……」

「オレと友達っていうのは、嫌?」


 嫌でもないが、嬉しくもない。なにせ、呪禁師で金持ちの男というのと、名前しか知らない。あと、妙に距離が近いこと。そう返すと、彼は「ふふっ」と含み笑いを漏らした。


「それを言うなら、オレは君の名前すら知らないよ。お礼ってのなら、まずは名前、教えてもらっても良い?」

「名前……あ」


 まだ伝えていなかった。私の名前は――


「リンファ……玲花って呼ばれてる」


 生まれた時に捨てられたのか、それとも元々別の名前があったのかは知らない。でも、あそこで呼ばれていたのはこの名前だった。


「玲花……ね。覚えたよ。オレは――さっきから呼んでくれているからわかってるだろうけど、改めて。名は束宵スーシャオ、仕事は呪禁師。一応、龍王級呪禁師だよ。これでもかなり強くて優秀」


 にまぁっと笑う顔は、やっぱり、いわゆるお人好しの善人とは思えない、なんとも胡散臭いものだった。

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