第6話

 そして今。徐々に体は不自由になり、癌は私の体力も気力も奪っていった。母からもらった『人生ノート』はまだ白紙のままだ。やりたいこと、と言われてもわからなかった。欲なんて言えるほどの元気はもうなかった。余命宣告から七ヶ月経ったから、あと四ヶ月。もしかしたら、明日死ぬかもしれない。たったそれだけの時間で、この重い体を動かしてまでやりたいことなんてなかった。

「夏凪? 入ってもいい?」

 コンコンというノック音と共に聞き慣れた声が聞こえた。

「いいよ」

 私が答えると、ドアを開けてひょこっと顔を覗かせた彼女は、蓮斗の姉であり、私の大親友である桃花だ。家族以外で私の病気のことを知っているのは桃花だけ。大学の授業やバイトのシフトの合間によく会いに来てくれる。

「調子はどうですか!」

 元気な桃花の声が耳の奥にキンと響く。

「まあまあかな」

「まあまあ、って。ほら、笑顔笑顔! スマイル!」

 変顔かと思うほどに口角を上げた桃花の顔を見ても、私の口角は上がらない。笑っても、泣いても、ただ疲れるだけで、そこに光は無い。

「辛いなら無理しなくていいけど。笑ったら癌をやっつけるNK細胞ってやつが活性化されるんだよ? 笑顔はまじで一番のく・す・り!」

「それ、いつも言ってる」

 何度も聞かされたセリフに、呆れた私は思わずふっと笑った。

「よし、笑った。一笑いゲット〜〜」

 ノリノリでベッドの横まで来た桃花は、パイプ椅子に座ると突然真剣な顔をした。

「ねぇ、夏凪。ほんとによかったの?蓮斗に何も言わなくて」

「うん、もうどうせ会えないから」

「蓮斗が帰ってくる前に夏凪が絶対死ぬなんてことないじゃん」

 いつも笑っている桃花の真顔は、空気を凍らす。

「でも、その可能性が高いから」

「蓮斗の気持ちはどうなるの? 帰ってきて夏凪が死んでたら、きっと蓮斗、後追いするぐらい悲しむと思う」

「蓮斗のこと、ちゃんと考えたからこそ、何も伝えないってことにしたの。どうせ私の病気のこと知ってたって、蓮斗は悲しんじゃうでしょ。だから桃花には病気のこと伝えて、少しでも蓮斗のこと支えてほしかったの」

 もう会えないのはわかっているけれど、蓮斗の顔を思い出すと、涙が出そうになる。

「ちゃんと夢も、叶えて欲しかったから…」

 溢れ出そうな涙を隠そうと、私は枕に顔を伏せた。顔を左右に擦り付けて涙を拭ったら、また顔をあげて、桃花に向かってにっこりと笑ってみせた。

「もう決めたことだから。今更蓮斗に伝える気はないよ」

 この笑顔は決して決意表明なんかじゃなかった。ただの強がりだったけど、それで良かった。諦めなきゃいけないことはわかっているから。

「…夏凪の意思なら尊重するよ」

 桃花もわかってくれたようで、諦めてくれたようで、そっと笑ってくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る