第3話 科学の眼差し

朝の冷気がまだ肌を刺すような時間帯、名門大学のキャンパスはいつもと変わらず、静かな眠りから目覚めようとしていた。広大な敷地の至る所で、木々がゆっくりと風に揺れ、鳥たちが初めての鳴き声を響かせる。しかし、その静寂を破るかのように、斉藤 学の車が研究棟へと滑り込んできた。エンジンを止めた瞬間、世界が再び静まり返る。


斉藤は、朝焼けがうっすらと空を染め始める中で、ゆっくりと車から降りた。彼の顔には、まだ薄暗さの残る空気の中で一瞬の緊張感が走ったように見えた。今日の一日は、通常の研究とは違う何かが待ち受けていることを予感させた。しかし、斉藤はその予感を隠し、いつもの冷静な表情を保ったまま、手にした書類を鞄にしまい、建物の入り口へと足を向けた。


研究棟の中は、外の冷気が染み込んでいるかのようにひんやりとしていた。古びたレンガの壁が静寂を一層強調し、足音だけが廊下に響く。斉藤は無言のままエレベーターのボタンを押し、ドアが開くのを待った。エレベーターに乗り込むと、彼は一度だけ目を閉じ、深呼吸をした。その瞬間だけ、彼の表情には疲労と重圧が浮かんだが、次の瞬間には再び冷静さを取り戻していた。


2階に到着すると、エレベーターのドアが静かに開き、斉藤は山本教授の研究室へと続く廊下を進んだ。その途中、彼は高村 翔の姿を見つけた。彼はすでに現場に到着し、ドアの前で待機していた。高村の顔には、不安と期待が入り混じった表情が見て取れた。


「斉藤教授、おはようございます。」高村は緊張気味に声をかけた。


「おはよう、高村君。」斉藤は軽く頷き、研究室のドアを見つめた。「現場の状況は?」


「特に変わりはありません。昨日のままです。教授が倒れていた位置もそのまま再現されています。」


「そうか、では中を見せてもらおう。」


高村は頷き、ドアを開けて斉藤を招き入れた。研究室に足を踏み入れた瞬間、斉藤の視線が鋭く走った。彼は部屋全体を一瞥し、すぐに部屋の空気を感じ取った。その空気には、ただの死の現場とは違う、何か不穏なものが漂っているように思えた。


斉藤はゆっくりと部屋を歩き回りながら、机の上に置かれた書類や、床に散らばったメモを拾い上げた。彼の手がその一つ一つに触れるたびに、頭の中で何かが動き出すのを感じた。彼の目には、部屋の中の全てが重要な手がかりに見えていた。それは、彼の長年の経験と科学者としての直感がそう感じさせるのだった。


「これは…」斉藤はふと床に目をやり、山本教授が倒れていた場所に近づいた。そこには、事件当時のままの姿勢を再現したダミーが横たわっていた。教授が最後に倒れたその位置と姿勢、そしてその周囲に散らばる物品の配置。それらが持つ意味を、斉藤は一つ一つ確認するように見ていた。


「教授、この状況をどう見ますか?」高村は緊張を滲ませながら、斉藤に尋ねた。彼の声には期待が込められていた。


斉藤は一瞬考え込むように目を閉じた。だがすぐに目を開け、その鋭い眼差しで床の上のダミーを見つめた。「まず、この倒れた姿勢が不自然だ。山本教授は自殺したとされているが、自らの命を絶つ者が、こんなにも整然とした状態で倒れるだろうか?」


高村は驚きの表情を浮かべた。「では、何者かによる犯行だと?」


「断定はまだできない。しかし、この部屋に残された手がかりは、通常の自殺とは異なる点が多すぎる。」斉藤は慎重に言葉を選びながら答えた。「まず、この装置だ。」彼は床に落ちている小さな電子機器を拾い上げ、じっくりと観察した。「これが鍵になるだろう。」


「この装置に何か問題が?」高村はさらに疑念を深めた。


「この装置が何のために使われたかを調べる必要がある。表向きはただのデータ解析装置だが、内部に何らかの細工が施されている可能性がある。」斉藤は装置を手に取り、まるで宝物を扱うかのように慎重に眺めた。「山本教授がこれを使用した瞬間に、何かが起きた可能性が高い。」


斉藤は、装置を手に取ったまま、再び部屋を見渡した。その瞳には、まるで全てを見透かすような鋭さが宿っていた。彼の中で、山本教授の死に関する仮説が徐々に形を成し始めていた。何かがこの部屋で起きたことは間違いない。その何かが、教授の命を奪ったのだ。


「高村君、この装置をすぐに分析しよう。内部のデータや動作履歴を洗い出す。それが、この事件の鍵を握っているはずだ。」斉藤は、指示を与える口調で言った。その声には、揺るぎない確信が込められていた。


「わかりました。すぐに手配します。」高村は素早く動き始めた。


斉藤は一度深呼吸をし、再び部屋全体を見渡した。科学は常に真実を明らかにする力を持っている。だが、その力を引き出すには、細心の注意と冷静な判断が必要だ。彼はその覚悟を胸に秘めながら、この部屋に残されたすべての手がかりを見逃さないように、再び歩み始めた。


窓の外では、朝日が徐々にその光を強め、キャンパス全体を照らし始めていた。しかし、その光がこの部屋の中を完全に照らすには、まだ時間がかかりそうだった。斉藤はその朝日の兆しを一瞥し、再び事件の謎に向き合う決意を新たにした。

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