第2話 疑念の芽生え
朝の冷たい空気が、警察署の建物を包み込んでいた。まだ薄暗い空に、遠くのビルの屋上がぼんやりと浮かび上がる。高村 翔は、無機質な蛍光灯の光が照らす会議室の中で、一人資料を見つめていた。外の寒さを忘れさせるほどの集中力が、彼の全身を包んでいる。だが、その顔には深い疑念が浮かんでいた。
机の上には、山本教授の死亡現場の写真と報告書が並んでいる。自殺とされたその死因に、特に異論を挟む者はいなかった。教授の年齢や学会での失敗、そして長年の研究が行き詰まりを見せていたという背景。それらが重なり、彼の死を自らの意思によるものと結論付けるには十分な理由が揃っていた。
だが、高村の胸の中には、拭いきれない違和感が残っていた。報告書を何度読み返しても、何かが引っかかる。その原因が何なのか、自分でも明確には分からなかったが、経験から来る直感が「このままでは終わらない」と囁いていた。
彼は再び写真を手に取り、山本教授の研究室の様子を凝視した。倒れた椅子、散らばった書類、そして床に倒れたままの教授。すべてが無秩序に見えるが、そこに一つだけ異質なものがある。それは、教授の手元に残された小さな電子機器だった。高村はその存在に目を留め、心の中で繰り返した。
「何かが違う…」
その違和感は、彼の心に小さな種を蒔いた。それは徐々に大きくなり、彼の意識を支配し始めていた。高村は資料を机に置き、ふと窓の外を見やった。朝陽がまだ昇りきらない灰色の空が、ビル群の上に広がっている。夜と朝の狭間にある静かな時間。だが、その静けさがかえって彼の心を騒がせた。
「ここで終わらせるわけにはいかない…」
彼は静かに呟き、立ち上がった。山本教授の死に、自らの手で何らかの結論を出す必要がある。そうでなければ、これまで培ってきた刑事としての直感が鈍ってしまう。高村は決意を胸に秘め、携帯電話を取り出した。
彼が思い浮かべたのは、物理学の権威であり、過去に数々の難解な事件を科学的に解決してきた男、斉藤 学の顔だった。斉藤教授なら、この奇妙な死の真相に光を当てる手助けをしてくれるだろう。いや、彼でなければ解決は不可能かもしれない。
呼び出し音が何度か鳴り、やがて電話の向こうから聞き慣れた低い声が応答した。まだ朝早いせいか、声には若干の眠気が混じっている。
「…斉藤だが、何か用か?」
「高村です。すみません、朝早くにお邪魔して。実は、どうしても話したいことがありまして…山本教授の件です。」
「山本教授の件?」斉藤は少し興味を引かれたように返答した。「確か、彼の死は自殺と判断されたはずだが…」
「そうです。しかし、私はどうしてもその判断に納得がいかないんです。現場の状況がどうも腑に落ちません。お願いです、斉藤教授。もう一度、現場を見ていただけませんか?」
斉藤は電話の向こうでしばらく黙り込んだ。彼が何かを考えているのが伝わってくる。その沈黙は、まるで目の前の冷え切った空気がさらに重くなるような感覚を高村に与えた。やがて、斉藤はゆっくりと口を開いた。
「わかった。君がそこまで言うのなら、一度現場を見てみよう。ただし、君も知っている通り、私は感情や直感で動くタイプではない。全ては証拠とデータが示すもの次第だ。それでも良いか?」
「もちろんです、斉藤教授。私はまさにその科学的な視点が必要なんです。」高村は息を整えてから続けた。「お忙しいとは思いますが、今朝からお時間を頂けますか?現場でお待ちしています。」
「了解した。すぐに向かう。」
電話が切れると、室内は再び静寂に包まれた。高村は携帯をポケットにしまい、深く息を吐いた。斉藤教授が協力してくれるなら、きっと何かが見つかるだろう。彼は強い決意を胸に、資料を整理して鞄に詰め込んだ。
研究室の冷たい床に倒れていた教授の姿が、再び高村の脳裏に浮かんだ。彼が見落とした何かが必ずある。そう確信しながら、彼は署の車に乗り込んだ。
車のエンジンをかけると、フロントガラスに薄く霧がかかっていた。彼はワイパーを動かし、外の景色を見やった。薄暗い空の下、大学のキャンパスが見えてくる。その中で、山本教授の研究棟がひっそりと佇んでいた。
高村はその建物を見つめながら、アクセルを踏み込んだ。車は静かに動き出し、霧の中に溶け込むようにキャンパスへと向かっていった。胸の中の疑念が、少しずつ形を成していくのを感じながら、高村は次なる展開を予感していた。
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