第30話 本当のことを言ってくれ

 次の日、意外なことに桧木は通常どおり学校へやってきた。

 たった一日で事態が好転したのなら万々歳だが、俺への態度から元通りとはいかないことがすぐに分かる。

 偽彼氏から解任された俺に対して、他のクラスメイトにするのと同じ軽めの「おはよう」を伝えると、彼女はその後こちらに見向きもしない。先週まではわざとらしく一緒に過ごしていたので、これだけで何事かと教室内がざわつくのを感じる。

 今更だが、桧木と無関係になったからといって俺の平穏な日々はすぐには戻ってこないということが判明したわけだ。

 とはいえ、昨日のうちに桧木が親と話し合って部活への復帰を無事認めてもらえたのならこちらの取り越し苦労になる。俺とは関係なく、彼女は天文部で過ごすべき人だ。

 なのだが……。


「桧木」

「うぇっ!? ど、どうしたの。


 放課後になってから、部室へと向かおうとしている桧木を呼び止める。

 授業合間の休憩時間はおろか昼休みすらも俺を避けて何処かへ逃げ回っていた彼女。声を掛けるチャンスは今しかなかった。

 それにしても、やはりあからさまに名字を強調して呼ばれると心がざわつく。俺たちの関係は偽物でしかなかったが、それでもひと月もの間俺は彼女から下の名前で呼ばれ続けた。すっかり慣れてしまっていたし、今更呼び名を変えられるとなんというか、その……むかつく。


「手に持ってるの、なんだ?」


 教室から出ていく際、彼女が鞄から封筒のようなものを取り出したのを俺は見逃さなかった。

 正体についておおよそ察しはついたものの、一応の確認を取る。


「……退部届だよ。知ってるでしょ?」


 やっぱりか。

 言いながら、下唇を甘く噛む桧木。

 俺は彼女がすっきりした気持ちで部活を辞める気があるのか確認したかった。全部飽きたから捨てるなどと宣言していた桧木だが、それが本心ならこれ以上俺のすべきことはない。その後は彼女の人生だ、自由にすればいい。

 だが、見て分かるほどに悔しそうな表情をした目の前の少女には、まだ手を差し伸べる余地がある。この行動は余計なお節介にはならないはずだ。


「知らないな」


 俺は彼女の問いを一蹴した。


「何言ってるの伊久里くん。だって、この前説明して――」

「知らない。俺はまだ、お前のことを何も」


 返答に困惑した表情を見せる桧木。

 関係を解消した後の俺とどう距離をとっていいのか計りかねているのだろう。いつもの調子で茶化すこともできず、手をこまねている様子だった。

 俺は彼女の主張を意図的にシャットアウトして、一方的に話し続ける。


「お前は言った。良い子の桧木千央を演じてきたのだと。その中で反抗心が湧いて、俺を利用したんだと」

「なんだ、ちゃんと憶えてるじゃない。だから、全部終わりにして退部を」

「だけどな」


 早めに話を切り上げようとする桧木を、強い口調で言い留める。


「宇久井が言っていた。基本他人を傷つける嘘はつかないお前が俺を巻き込んだのには、深い理由があるはずだって」

「利用しやすそうだったから。そう言ったはずだよ」

「部長たちが言っていた。お前は俺の前だと普段より素直に笑ってるって」

「なっ……そんなことない!」

「桧木!」


 アレもコレも反論してくる桧木に、俺は大きな歩幅でグッと近寄る。普段向こうがやってくる距離感を測り損ねたような近さに敢えて踏み込んだ。

 ……うん、やっぱり近い。鼻先数センチというところに彼女の顔があって、こっちが逆に緊張してしまう。

 改めて認識する。

 桧木千央。

 俺と同じクラスで、長くしなやかな黒髪を後ろ手に括ったポニーテールが印象的な女子生徒。背は少し小さめだが、大きな瞳と高い鼻先という恵まれた顔立ちが存在感を放っている。誰にでも分け隔てなく明るい性格で、クラスの中心人物。

 授業を受ける姿勢からも優秀さが垣間見えるし、運動神経も抜群。非の打ち所がない、とは彼女のことを言うのだろう。

 そんな仮面を被ってきた。

 他人からそう見える完璧な人間であることを心掛け、逸脱した行為には家からのお叱りもある。周囲の羨望と重圧からずっと耐えてきた、本当はただの星が大好きな少女。

 もしも彼女が、俺の隣で少しでも安心して笑えるのならば。


「本当のことを言ってくれ!」


 照れている場合ではない。

 俺は寸前にいる彼女の肩を掴んで、まっすぐ目を見る。


「お前は部活を辞めたいのか!? 違うだろ!」


 桧木は涙目になりながらも、決壊寸前のところで踏みとどまっている。

 苦しげな表情に少しだけ戸惑いを覚えつつも、これは彼女の口から答えを聞かなければならない。

 それでも桧木は自分の気持ちを正直に話すことを怖がっているように見えた。彼女が言葉に詰まっているのを理解しつつも、俺は辛抱強く待つ。

 どれだけ経っただろうか。

 両肩をぎゅっと掴んで顔面を突き合わせている男女が廊下にいたら、他の人からはさぞ不思議な光景に見えていただろう。

 人通りはあまり多くない場所だったが、これもまた変な噂になりそうだと今更冷静になってきた。

 俺が平常心を取り戻しつつある頃、ようやく桧木は口を開いた。


「……続けたいよ」


 短く、そう告げる。


「天文部もそうだし、伊久里くんと過ごすのも……楽しかったんだもん。飽きてなんかない」


 部活の進退についてさえ聞ければ目標達成だったのだが、思わぬ部分も答えを溢してくれた。

 俺と過ごすのも楽しかった。

 それはちょっと。いや、かなり嬉しい。


「でも伊久里くんは優しすぎるから。突き放さないと、絶対あたしを助けるとか言い出すって思ってた。これ以上身勝手に利用したくなかったし、だから冷たくしたのに……なんで……」


 言いながら、ギリギリで溜め込んでいた彼女の涙が零れ落ちていく。

 俺は慌ててポケットのハンカチを取り出して差し出す。彼女はそれを受け取って、目元を拭いながら俯いてしまった。

 突き放して冷たくしないと、俺は桧木を助けようとする。それが彼女の見立てだったらしい。

 だとしたら、残念ながら全然違う。


「俺はな、突き放されてもお前を助けるって言い出すんだよ」


 泣いてぐしゃぐしゃになりながら、桧木はツッコミを入れてきた。


「なぁんでよぉ……バカぁ……」


 どうやら少しは元気になったらしい。

 俺は桧木が泣き止むまでしばらく待って、落ち着いてから話を続けた。


「昨日、桧木の過去について勝手ながら調べさせてもらった」

「ふぇ……?」


 ようやくひと息ついたことで、なんだか間の抜けた返事をしてくる桧木。

 俺は緊張感のない声に少し笑いつつも、説明する。


「桧木が巻き込まれたっていう事件の概要を知った。けど、それを桧木自身に聞かせて良いかは分からん」

「あたしの心が、思い出さないように閉ざした記憶なんだもんね」

「ああ。それに」


 言いながら思わず頭を掻く。


「桧木のご両親を説得できる材料になればと思っていたけど、正直これが武器になるとは言えない」


 他人の過去を勝手に掘り返しておいて、それを効果的に使う方法は未だに分かっていなかった。

 事件の概要を知れば知るほどご両親の気持ちが理解できるようになってしまったから。娘が殺されるかもしれなかったのだ、守りたいという気持ちが他の家庭よりも強いことは何にもおかしくない。

 複雑な顔をしている桧木の横顔を見つつ、俺は自分を鼓舞するように告げる。


「それでも、俺は桧木を天文部に戻すために一度ご家族と話をしてみたい。セッティングできるか?」

「ほ、本当にそこまでしてくれるの?」


 俺の言葉に、桧木は少し不安げだ。

 自分でも変なことを言っている自覚はある。本物の恋人であってもここまで深く相手の事情に入り込んで行動を起こそうとは中々ならないだろう。それが彼氏でもない他人の男であれば、もうそれは特異なものに違いない。

 けれど俺自身よく分かっていないが、桧木を助けることに躊躇はなかった。最初に「できることなら手伝う」なんて言ったのが、俺の中にある責任感と結びついたのかもしれない。そういうことにしておこう。


「彼氏でもなんでもない俺が行って、何ができるかは分からんけどな」

「ねえ


 名前を呼ばれて久々にドキッとした。

 でも安心感がある。もうそっちで完全に馴染んでいるんだと感動すら覚える。


「……やっぱ、今はいいや」

「なんだよそれ」


 何かを言いかけて、桧木はその言葉を止めてしまった。

 凄く気になるが、こういう時一度口を閉ざすと桧木は意外と頑固なことを知っている。俺も気持ちを切り替えて、まずはご両親に会うことを想定して説得の糸口を探すことにしよう。

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