第26話 契約解消、ってことで
才色兼備、文武両道。誰にでも分け隔てなく優しいクラスの人気者。それが桧木千央だと思っていた。
けれどそれは彼女が望んだ姿ではなく、これまで積み重ねてきた演技だと言う。
そうなのだろうか。
俺は学校でクラスメイト相手に振る舞う彼女しか知らない。本当の桧木がどんなものかなんて知るはずもなかった。
「ちょっと親に反抗したくなって、でも本当に恋愛をするのは怖くて。だからどうしようもなく最悪な方法で、他人を利用したんだ」
「桧木!」
彼女が自嘲気味にそう呟くのを聞いて、思わず呼び止めていた。
家庭に抑えつけられて良い子を演じてきた桧木が、高校デビューと共に反抗してみたくなった。そのためにクラスで一番都合の良さそうな男を選んで、恋人ごっこに付き合わせた。
全部そのとおりなのかもしれない。でも。
「俺は天文部に入って、みんなや……桧木と放課後に集まって、騒いで、楽しかった。これは本当の気持ちだ」
何か言わなければいけないという勢いのまま喋る。
そうしないと彼女が風に吹かれて消えてしまうような気がして、焦っていた。
「別に騙してたっていいだろ、こっちも楽しんでたんだから。俺以外には迷惑もかけてないんだし、それで――」
不意に、桧木の人差し指が俺の唇を抑えた。言葉が遮られる。
夏も近いこの時期に触れた彼女の手は、季節感を勘違いさせるほど冷たかった。
「そう言ってくれる人を選んだんだよ。恵人くんは、言わされているだけ」
「そんなことない!」
彼女の寂しげな表情が、俺を射抜いている。
「今日のことも、お父様とお母様には伝えないで家を抜け出してきたの。どうせ言っても許可されないからね」
言いながら、桧木は特徴的だったポニーテールの髪を結び目から解いた。
ふわりと風にそよいで広がる黒髪。下ろした姿は初めて見た気がする。いつものスポーティで元気の良さそうな雰囲気とはまったく違う、お淑やかにも見える長髪は、月明かりに照らされて何処か神々しく映った。
なんとなく、髪を結んだ姿が学校での桧木で、解いた今の格好が家庭内の桧木なんだと感じる。あの髪型は彼女の気持ちを切り替えるスイッチになっていたのかもしれない。
「天体観測から続いて二回目。もう許されないと思う。だから恵人くん」
一瞬、彼女が言葉を躊躇ったように見えた。
もしかするとそれは、そうであってほしいと言う俺の願望だったのかもしれない。
「――別れよう」
桧木の言葉に、心臓が跳ねる。
俺たちは元々偽りの関係でしかない。長くても夏休みまでというタイムリミットも設けていた。その時期を少し早めただけなのに、俺は彼女の発言に酷く……動揺している。
会話の途中からこうなることは分かっていたはずなのに。
心積もりが足りなかったのか。
「ごめん。この言い方だと本当に付き合ってたみたいだよね。契約解消、ってことで」
「いや、その……待ってくれ。でも……」
口を開いてみるも、何に対して反論すべきかも分からない。
そもそも俺は桧木との関係を続けたいのか?
この面倒な茶番が終われば、クラスで目立たず過ごす元の存在に戻れる。それは俺の人生設計として望ましいことだ。クラス委員という役職さえあれば最低限の存在感は出せるし、それ以上のことをせず影として徹するのが当初の目標だった。
それでも俺は。
彼女と一緒に天文部で過ごす時間が……嫌いじゃなかったんだ。
「そうだ、天文部はどうするんだよ? 俺と関係を解消しても部活は続くんだぞ。星が好きなお前が辞めたりは、」
「退部するよ」
きっぱりと彼女は言う。
「前に言ったよね、目標達成だって。あたしが辞めた後も部員数が減らないように恵人くんを誘って人数調整したんだよ。これも最初から作戦」
天文部は部員数が少ない。親への反抗として夜に活動のある部活を選んだ桧木だが、いずれは親にバレて部を辞めなければならない。だから人数の帳尻を合わせるために俺を誘った。
偽恋人だけじゃなくて、そこも利用していたってことか。
明かされる真実が色々と重なりすぎて、頭の中で処理できていない。ショックには感じなかった。
「本当はね、天体観測の日も帰ってからすごく怒られたんだ。だから次の日に退部届を用意してた。その話を部長にしようと思ってたのに、みんなで出掛けるって言いだして。……楽しそうで言いそびれちゃった」
彼女がようやく、いつものような柔らかな笑みを見せる。
吹っ切れたんだとばかりの表情だが、俺は笑顔を返すことができなかった。
「もう充分満足したんだよ。恋人ごっこで自分が散々楽しんで、飽きちゃったからポイしちゃう。恵人くんのことも部活のことも。あたしはそういう悪いヤツなんだ」
どこまでも自罰的に言う彼女の言葉は凄く苦しい。
でも、話している彼女の顔を俺はジッと見ていた。その表情にいつもの特徴が出ている。満足したと言っているが、彼女は――
「じゃあ、そろそろ行くね」
彼女がベンチから立ち上がって、スカートの汚れをパタパタとはたく。
駄目だ。此処で桧木を行かせてしまったら、彼女は親に叱らせて本当に部活を辞めてしまう。そうでなくても、もう既に退部の意志を固めているのに。
それに、この子が偽の彼氏役を立てたのは。天文部の夜活動に無理矢理参加したのは。無断で休日に出掛けたのは。
――自由が欲しかったからじゃないのか。
彼女がすべてを諦めて帰ったら、再び厳しい門限で縛られて自由が無くなるだろう。学校の送り迎えだって車に戻るかもしれないし、最悪の場合、元々予定していた進学校に転校することだって……。
「桧木!」
ベンチから立ち上がり名前を叫ぶ。無我夢中だったが、そこから先に気の利いた言葉は浮かばない。
俺の方を見て、桧木はふっと息を吐きだした。
「今までゴメンね。ありがとう、伊久里くん」
その一言を聞いて、全身の力が抜けるのを感じる。
歩き出した桧木を呼び止めたいけれど、家庭事情に踏み入る勇気は出ない。名字で呼ばれた俺はもう偽の彼氏ですらない、クラスでも接点の無い他人に戻ったのだと強く実感させられた。
どうしてあげるのが正解なのか。何者でもない目立たない存在を目指していた俺は、今ここで彼女にとって何者でも無かったことを酷く後悔している。
結局、俺は彼女の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
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