第4話 なんて呼べばいい?

 桧木と二人で教室に戻った後は、それはもう大変だった。

 予鈴ギリギリに滑り込んだため朝のホームルームまでは凌ぎ切ったが、一限目が終わると即座にクラス中から質問の集中砲火。とにかく馴れ初めについて根掘り葉掘り聞かれまくった。あらためて桧木千央の注目度の高さに舌を巻く。

 それは二限、三限の後も同様で、そのたびに俺たちはあること無いことをのらりくらりと答えていく。事前に口裏を合わせておけばよかったのだが、俺は質問攻めに遭うなんて考えてもみなかったし、朝の桧木は俺に言い訳するのが精いっぱいでそれどころじゃ無かったんだと思う。

 桧木も、止めておけばいいのに休み時間のたびに俺の席までちょこちょこと近づいてきて、それとなく関係性をアピールしようとする。それが目的とはいえ、一緒にいると周りの関心が絶えないので今は一旦落ち着こう。な?


「いつから付き合ってたの!?」

「告白はどっちから?」

「付き合う決め手は?」

「どこを好きになったんだ?」


 あれこれと好奇の目に晒されているうちに、急場凌ぎとはいえ俺と桧木の間に架空の共通設定が固まり始めていた。整合性が取れているか自信はないが、人間話し続けると嘘が上手くなる。

 まず前提として、桧木が山田に二度目の告白をされたのはゴールデンウィーク直前だった。そこで彼氏がいるとうそぶいたので、それより前に俺と付き合っていたことにしないといけない。今は既に休み明けなので、俺たちが恋人になってから既に一週間以上経っていることになる。

 どちらからどんな告白をしたのかという質問には直接答えなかったが、なんとなく俺から言ったような雰囲気になった。クラスのマドンナである桧木が凡人たる俺に惚れるシチュエーションは無理があるし、そうなるのは納得である。

 他にも周りはあれこれと、本当にそんな細かいこと聞きたいのかと言いたくなる話を聞き出そうとしてくる。頭をフル回転させて必死に嘘設定を積み上げる作業はかなりしんどい。まだ午前だぞ。

 そうして、ようやく四限目が終わり昼休み。

 教室にいたら注目は避けられない。お昼は一緒に食べるという話だったので場所を変えたいのだが、見ると桧木はまた友達に囲まれて質問を受けていた。


「ねえ桧木さん、伊久里くんのことなんて呼んでるの?」

「うぇっ!? そ、それはー……」


 桧木がチラりと俺を見る。彼女を囲む女子たちも合わせて俺の方へ視線を向けた。

 そこは悩まず「伊久里くん」でいいだろう。確かに恋人を名字呼びしているのは華やかさに欠けるが、ここで変な愛称をつけたら今後それで呼び続けなくてはならない。苦労を増やす必要はないぞ。

 そう念じながら彼女の答えに耳を澄ませる。伝われ。余計なことを言わないでくれ。

 が、桧木は鼻息荒くドヤ顔で答えた。


「そりゃあ、もう……ダーリンでしょ!」

「ちょーーーっと待て!」


 彼女の答えに、俺は間髪入れず立ち上がる。そのまま今度は今朝と逆、俺が桧木の首根っこを掴んだ。


「呼んでない、呼んでないから!」


 キャーッと女子が色めき立つ声が聞こえてきたが、一旦無視。昼食を忘れないように自分と桧木の鞄を引っ掴むと、そのまま中庭まで駆け出した。

 外で食べたい時に利用する人もいるだろうと評した場所だが、早速二人でやって来ることになるとは。昨日から何かと縁があるなと思いつつ、ひとまずクラスメイトの目から逃れることはできた。ここなら昼食を摂りながら話もできるだろう。

 さっそくお説教だ。


「ちょっと桧木さん! 何を言ってんだアンタは!」

「何が!?」


 俺がちょっと怒気を見せたが、桧木はまったく動じない。というか何について言われているのかすら分かっていない様子でポカンとしている。


「何がじゃない! なんでダーリンとか変な愛称をつけるんだよ!」


 俺が説明したことで桧木はようやく話を理解したらしい。あー、と感慨も無さそうな声をあげる。

 そしてやっぱり何が問題なのか把握し切れていないようで、あっけらかんとした表情のまま言ってきた。


「なんでって……。付き合ったら普通ダーリンじゃない?」

「どこの普通だ、それ!」


 恋愛知識にとんでもない偏りがあるんじゃなかろうか。もしくは桧木の元カレが総じてそう呼ばせていたのかも。

 どちらにしても普通ではないし、たとえ普通だったとしても俺相手には止めてほしい。ただでさえ偽物の関係なんだからそんな恥ずかしい真似できん。

 そもそも、なんだダーリンって。色んな角度から君のことを見ているのか。じゃあ俺は桧木のことなんて呼ぶんだ、ハニー?


「みんなダーリンって呼ばないの?」

「呼ばねぇよ!」

「そ、そんな……」


 何故かショックを受ける桧木。反応を見るに、案外桧木が理想とするカップル像なのか? いや俺は絶対乗らないけれど。

 その後もしばらく何かをぶつぶつ呟いていた桧木。騙されたとか何とか聞こえたが、どう言葉をかけるべきか分からなかったので、俺はベンチに腰掛けて鞄から弁当を取り出した。

 桧木もふらふらとついてきて隣に腰かける。手にしていた彼女の鞄を手渡すと、ゆっくりとした動作で彼女も弁当を広げ始めた。


「じゃあ、なんて呼べばいい?」


 手元で三段重ねの大きな弁当箱を展開しながら、桧木はおずおずと訪ねてくる。凄い量だ。


「普通に元のままでいいんじゃないか? 呼び捨てぐらいは全然大丈夫だけど」

「えー、やだー! 彼氏を名字呼びなんて」


 呼び方なんて重要なんだろうか。駄々をこねる桧木の顔を見ながら、俺は自分の弁当を口に運ぶ。我ながら美味い。

 桧木も一旦黙って食事を始めた。手の込んだ料理が並んでいるが、親び作ってもらっているんだろうか。本人お手製だったら尊敬するし、なんでも卒なくこなす桧木ならあり得る。

 真剣な顔で食事をかきこみながらうんうん唸っている桧木。何を考えているのかと思っていたら、彼女が俺の方へぐわっと視線を向ける。


「伊久里くん、あだ名とかないの?」


 まだ呼び方の話をしている。

 名字呼びがお気に召さないらしいが、そう言われてもなあ。少しだけ記憶を遡ってみるが、大して過去のあだ名バリエーションは多くない。というか友達との思い出が極端に少ない。


「小学校の時はあったかもしれないけど、最近は特に……」

「じゃあたとえば、イガグリくんとか、くり坊とか!」

「全然殺す」

「こ、言葉が強いよ!?」


 小学校の時に呼ばれて心底嫌だった愛称が出てきたので、反射的に怒ってしまった。もちろん本気ではないが、強い語気にしゅんと萎む桧木は正直ちょっと面白い。

 それでもめげずに何か呼び方を考えているらしい彼女に、逆に聞いてみる。


「なんで呼び方にこだわるの?」

「ん? なんでって……なんでだろう」


 問われた桧木は、また考え込んでしまった。

 つまり、明確な答えはないわけか。たぶん桧木の中にある恋愛観というか、カップルとはあだ名で呼び合うものだという固定概念みたいなものがあるのだろう。

 そこで桧木が何か閃いてズイッと顔を近づけてきた。この子、いきなり無防備に迫ってくるので色々困る。


「あだ名が駄目ならさ、下の名前は?」

「名前呼び!?」


 本人は気にしてなさそうだが、女の子に下の名前で呼ばれることなんて殆ど無いので俺がどうしていいか分からない。

 しかもそれって、流れ的に俺も桧木を下の名前で呼ぶことにならないだろうか。桧木千央。ちお。


「ハードル、高くない……?」

「え、そう? 恵人くん」


 まったく躊躇なく呼ばれて、俺の心臓が跳ね上がる。こういうのも彼女のコミュニティでは普通なのかな。

 いや、そもそも。


「桧木さん、俺の名前知ってたんだ」

「ふふーん。記憶力には自信があるんだよね。クラス委員を決めた時、黒板に書かれてたでしょ?」


 自慢げに彼女が言う。

 確かにそんなこともあったかもしれない。出会って早々クラスの代表なんてやりたがる人もいないだろうということで俺が手早く立候補して、押し付け合いが発生するのを未然に防いだのだ。一ヶ月前の話だが、よく覚えていたなあ。

 不意に名前を呼ばれて驚いてしまったが、彼女はその反応を想定していたらしい。悪戯を成功させた子どものようにニヤついている。

 純粋無垢な表情の桧木。ペロりと舌を出すおどけた仕草は、有り体に言って――可愛い。


「どう? 恋人っぽくない?」

「こ、恋人っぽさとか俺には分かんないって」

「えー? なんでよー」


 あまりに眩しい彼女の態度に思わず目を背ける。視線を外されたことでむくれる桧木が視界の端に見えたが、動揺して直視できない。

 なんなんだこいつ。同級生に告白されて困っていた癖に、こんな距離感で異性と接するとか警戒心が無いのか。

 そして案の定、彼女は俺が危惧していた提案を出してくる。


「ほら、恵人くんも呼んでみてよ。千央って」


 桧木は明らかに陽の人種だ。下の名前で呼び合う友達もいるのだろうし、男友達でも気にせずそうしている可能性がある。

 しかし、呼ぶ側のこちらはそんなこと一切ない。女の子を名前で呼ぶ? できるのか、俺に。


「ち……千央」


 音量を最低限まで下げてボソッと呟いてみる。

 小さく試しに言ったつもりだったが、桧木の耳にもきちんと届いたようだ。こちらに視線を向けたまま大きく目を見開いたかと思うと、今度は顔を真っ赤にして俯いてしまった。


「なんで桧木さんがダメージ受けるんだ!」

「う。……この恋愛マスター千央ちゃんにも、この恥ずかしさは分かんなかったんだよ」


 恥ずかしがられると俺も余計に照れるんだが。

 やっぱり、その距離感は無理だ。他にオーディエンスのいないこの場でも駄目なのに、今後クラスで接する際にこれでは話しかけられなくなる。

 むず痒い気持ちでいっぱいになっていると、桧木も同じ気持ちだったのだろう。新しい提案を出してきた。


「し、下の名前はまた今度ってことにして! とりあえず、さん付けは止めない? なんか距離を感じるし」

「それぐらいなら……。じゃあ、桧木で」


 満足げに頷く桧木。

 俺が名字呼びで桧木からは名前で呼ばれるのはアンバランスだが、本人が了承したのでしばらくそれでいかせてもらおう。

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