第2話
「にゃ~ご」
「ぅ…ん」
友人の声に、薄く沈んだ意識を浮上させる。路地裏、辛うじて風が避けられる狭い場所で少年は目を覚ました。固い地面に横たわっていたせいで体中が痛かったが、もうそれにも慣れてしまったので気にもせず起き上がる。
「にゃあ」
急かすようにもう一度友人が鳴く。少年はその頭を撫でて立ち上がった。
「ああ、ごめんな。おなかすいたよな。すぐなにか調達してくるから」
残念ながらこの世界の残飯や食料のごみは魔法の力のお陰でほぼ発生しない。食物を腐らせない魔法も道具もそれなりにはある。働くにしても大抵魔法を使えることが大前提であるこの世の中でまだ魔法を使えぬ少年を雇ってくれるものなどいない。仮に魔法が使えなくても出来る仕事があったとして、それでも少年のようなぼろぼろの身なりでは追い返されてしまうだろう。…となればお金のない少年が食事を得るためにはどこかでくすねてくる以外方法は無いのだ。
日はまだ上ったばかりで、市場はまだ空いていない。ならば少し遠いが畑からくすねてきた方がいいか__などと考えていると、突然大きな鐘の音が聞こえてきた。…時計台の鐘の音だ。りいん、ごおんと何かを知らせるように繰り返し鳴り続けるその音に少年は頭を掻き、ため息をつく。
「ああ…まずいな、星が降る。」
この町では時折特殊な雨が降ることがある。それは普通の雨とは違い僅かに光を帯びており、地面に触れる前にふっと消えてしまう。それを誰かが星と揶揄して星が降る、と言い始めたのだ。植物や建造物にそれといった影響は無いが(稀にちょっとだけ発光するようになることもある)、生物が触れると健康に多大な影響が出る__らしい。名前によらず大変近所迷惑な雨だ。言い伝えでしかその内容を知らぬ少年にとっては疑わしいことこの上ないが、もし本当であれば体調を崩しても誰も看病する人はおらずおまけに食料も調達できないので、最悪そのまま動けなくなり、もしかしたらそのまま冷たくなってしまうかもしれないので一応浴びないように気を付けてはいる。前住み着いていた場所にはちょっとした雨除けがあったので特に困ったことは無かったが、ずっと前に神経質な近隣住民に見つかり追い出されてしまった。やむを得ず移動してきた今の場所は風が防げるものの雨除けは無い。どこか雨宿りできる場所を探さなければならないのである。
「なあ、お前は…」
ふと足元を見れば、そこに黒猫は居なかった。中々ずる賢い奴なので恐らく少年を見捨てて既にどこかで雨宿りしているのだろう。
「薄情な奴め」
少年はそうこぼしながら駆けだす。狙い目は人の多い通りではなく路地裏の奥だ。盗人の彼を迎え入れてくれる建物などまずないし、もしかすれば逆に放り出されてしまうかもしれない。それなら人気のない場所を探す方がよいだろう。
「どこか…少しでもいいから屋根になっているところは…」
通り過ぎて行く建物をひとつひとつ確認する。足の速さには自信があるのですぐに見つかるだろうと思っていたが、運悪くその日は見つからなかった。
鐘は依然として鳴り続けている。少年はさらに足を速めた。星が降るのは鐘が鳴り始めてから五分後だと誰かが言っていた。時計など見たことは無いが、感覚的に恐らくそろそろ降り始める頃だろう。頼む、どこか、どこか…。屋根のある場所は見つからない。まずい、本当に降り始める__!
その時ふと少し先に古びた店が見えた。普段ならこんな路地裏にあるなんて、と疑問に思う所だが、今は気にしていられない。開いててくれと藁にも縋る思いで少年は扉に飛びついた。
ちりん、と軽やかな音が鳴り、思わず身をすくませる。店の中は明かりも灯っておらず薄暗くひっそりとしている。息が荒いままガラス製のドアから外を覗き込めば、ちょうど降り始めたところだった。
「あ、危なかった…」
膝に手をつき、上がった息を整える。心臓がまだ大きく脈打っていた。膝が重く、体が火照ったように熱い。しっかりしろと自分に言い聞かせ何とか体勢を戻した頃には、随分と暗闇に目が慣れていた。ガラスの外はまだ光の雨でいっぱいで出られそうにはない。仕方なく辺りを見渡すと、ぼんやりと店内の様子が浮かび上がってきた。
「うわぁ…。」
少年の四方の壁は大きな本棚で埋め尽くされており、びっしりと重たげな本が詰まっていた。どうやら書店か何からしい。見たこともない文字ばかりで少年には読めそうもなかった。異国語だろうか。市場によく出入りしている少年はこの国の外から入ってくるものは大体見たことがあるはずなのに、ここにあるものはどれも見た覚えがなくて首を傾げる。しかし本なんて食えないし興味も無かったからなとすぐに目を逸らした。どちらにせよ文字もまともに読めない少年には縁のないものだ。早く降りやんでくれないものかと思っていたその時、少し動かした拍子に足の先に何かが触れて少年は立ち止まる。何か小さくて奇妙な形をしたものが転がっていた。不思議に思い、手を伸ばして拾おうとして
「おい。それに触るな」
突然降ってきた声に止められ少年はびくりと肩を震わせた。
「だれだ!?」
それはこちらの台詞だとため息をつくその声は何だか気だるげで、商人らしからぬ態度に眉をひそめる。この町では屋台や商店街のような、扉を開けずに出入りできる店が一般的だ。硝子の窓のついた扉のある店なんて都会にしかないし、あったとしても宝石やドレス、装飾品と言った貴族が好みそうなものが売られている店ばかり。だからこそそんな店の店主は客にはとても愛想がいいし少年のような貧乏人が入り込めばすぐにつまみ出す。少なくともこんな気力のない声をした店主など見たこともない。そもそも先程まで気配すら感じなかったから少年はてっきり無人だとばかり思っていた。
その時、しゅっと何かをこするような音がして店内が明るくなった。暗闇に慣れていた目がちかちかして、何度か瞬きを繰り返す。なにか明かりのようなものが近づけられ少年は思わず顔を背けた。
「大人しいから放っておけば…ただの子供か。子供は好きじゃない。出ていけ。此処はお前の来る場所じゃない」
すぐに明かりが遠ざけられ、少年はやっと声のするほうを見る。店の真ん中あたり、四方が少年の背丈ほどの棚に囲まれたカウンターで椅子に腰かけ何やら作業をするその姿は、どうにも店には似つかわしくなく、そのくせやけに馴染んでいる。棚の上には見た事もない形をした小さな何かがいくつも転がっていた。思わず手に取ろうと数歩、近づいてその人…この店の店主でいいのだろうか…に何かをぶつけられる。
「聞こえなかったか。出て行けと言ったんだ。」
少年は窓の外を指さして言った。
「でも外には出られない。星が降ってるから」
店主はまるで少年が奇妙なことを言ったかのように首を傾げる。後ろで適当に束ねられたうすい珊瑚色の髪がすこし揺れた。しばらくして、何かを思い出したようにああ、とこぼした店主は再び手元の何かに視線を向ける。
「関係ない。行け。」
「なんだよそれ!?」
思わず声を荒げた少年に、店主はもう見向きもしない。それが絶妙に悔しくて立て続けに言葉を放った。
「この人でなし!無慈悲!鬼!妖怪!悪魔!ひとごろし__!」
息を荒くする少年の前で、店主はやはりびくともしない。仕方がないから意地でもここにいてやろうかと考え始めたその時。ふと、この明かりのもとが目に入った。てっきり魔法の明かりだと思い込んでいたが、それは何やら硝子でできていて、中に小さな火がともっている。
「なにあれ」
気付かれないようそっと近づき、少年が辛うじて届きそうなカウンターの端に置かれたそれに手を伸ばそうとしたら、すぐに店主に叩かれた。
「何するんだ、危ないだろ!」
突然大声で怒鳴られ、思わず身構える。叩かれた手がじんじんと痛んだ。思わず涙目になっていると、店主が呆れたようにため息をついた。
「何だお前、ランタンも知らんのか」
「らんたん…?」
ああ、そうかと気だるげな口調で店主が言う。
「この世は魔法でできているんだったか」
まるでそれが異常であるかのような言い方に少年は首を傾げる。
「なあ、それって…」
その時、店主の手がカウンターの上からにゅっと出てきた。
「うわっ!?」
少年は慌てて飛びのく。手が何かを投げてきたので思わず受け取った。
「ほら、それやるからとっとと帰れ。」
それは、何もついていない小さなぎんいろの時計だった。
「でも__」
何か言いかけた少年の声を遮るように店主が言う。
「雨なら上がったぞ。ほら、行け。」
それ以上そこに留まる理由も無くて、少年は仕方なく店から出た。
「なぁご」
いつもの路地裏に帰ると、何事もなかったかのように黒猫が待っていた。
「おまえ…」
乾いた目線を送り、少年はそのまま通りに出る。今なら市場も開き始めたところだろう。今日の食事を調達しなければ。ポケットに時計をしまい、黒猫を少しだけ撫でて走り出す。あの場所から外を見るのは難しいだろうにどうして降りやんだのが分かったのだろう、と頭の片隅で考えながら。
__そう、ぼんやりしていたのが悪かったのだろうか。
「おら、返せ!」
「ああっ…!」
いつものように手に取った果物を奪い返され、少年は情けない悲鳴を上げてしりもちをつく。すぐさま立ち上がって睨みつけたが果物は返ってこなかった。
「1つぐらいいいじゃねえか…けちなやつめ。」
仕方なく市場から出る。運が悪いことにほかの店や客にも見られていたし、しばらく下手な動きはしない方がいいだろう。すこし人通りは少なくなるが通りに出ている店をまわってみるか、それとも…。
「まあ、数日食べなかったくらいで死にはしない、よな」
くるりと踵を返して路地裏へ向かう。生きるためとはいえ危険は冒したくなかった。捕まれば何をされるかわかったもんじゃない。それなら空腹に耐える方がまだましだ。黒猫の奴にはどう言い訳しようかと考えていると、ふと目の前に何かが差し出された。
「…?」
それは、一切れのパンだった。驚いて手の主を見上げる。__昨日の魔法使いの青年だった。
「やあ、昨日振りかな。魔法使いの少年君」
青年が優し気ににこりと笑う。差し出したパンはそのままで、少年がおずおずと受け取ると満足したように手を引っ込めた。
「なんで」
「ちょっと買いすぎちゃって。僕だけじゃ食べ切れないから、誰か貰ってくれる人を探していたのさ」
その言葉は妙に芝居がかっていて、少年にはすぐに嘘だと分かったけれど。それが優しさから来るものだと知っている少年は何も言わず不器用に笑って見せた。
「ありがとう」
「いいえ。」
目をきゅっと細めて青年は笑う。子供のような無邪気な笑い方だった。
「受け取って貰えてよかった。」
方向が同じだからという彼と路地裏に入る曲がり角まで一緒に歩き、そこで立ち止まる。
「じゃあ、また。元気でいてね、少年君?」
「…うん」
パンを抱えたまま少年は俯く。足元がふわふわして落ち着かない。このまま逃げ出したいのを我慢して、ぎゅっと手を握りしめて何とか前を向く。今なら言えるような気がした。
「あの、さ__あんたみたいな魔法使いに、おれもなれるかな。」
青年が驚いたように目を見開く。そのまま押し黙ってしまった彼に、少年は何だか恥ずかしくなってきてそっぽを向く。
「やっぱ、今の…」
「__なれるさ。絶対に」
取り消そうとして、ふと暖かな声が被さった。青年だった。彼は少年と目線を合わせるようにしゃがみ込む。まっすぐこちらを見る琥珀色の瞳に、まだ幼い少年の姿が写っていた。
「予言しようか」
青年が言う。
「きみはこれからいろんなものに出会うだろう。それらはきっと君に優しいものばかりじゃない。寧ろ、君の行く手を阻むもののほうが多いかもしれない。何度も挫けて、立ち止まり、迷うことになる。それでも負けず、全てを打ち砕く覚悟で前に進めたなら__その時君は、君自身の手で奇跡を起こすことになるだろう。」
それから先の事は、よく覚えていない。なんだか信じられなくて、地に足がついていないようなそんな気持ちだった。紺のローブをはためかせ去っていく彼の背と、本当に久しぶりに食べたパンの優しくてほっとする味だけが、妙に脳裏にこびりついていた。
「奇跡を起こす、か…」
気がつけば夜になっていて、まだ暖かい夜の空気の中で寝っ転がり、空に手を伸ばす。
奇跡を起こせるようになったなら、あの青年の隣に並びたいと淡い思いを馳せながら。
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