第4話

それは突然の事だった。

「うーん…なんだか最近、体力が衰えてきた気がする。」

昼間、誰も居ない公園のベンチで黒猫に言われ久しぶりに調達した食事を頬張りながら少年は首を傾げる。本ばかり読んでるせいかなあ、と黒猫に尋ねたが、目の前のご馳走に夢中になっているかれには聞こえなかったらしい。既に食べ終わった少年が次はどの本を読もうかと考えていると、ふと自分の前に誰かが立っているのに気づきその人物を見上げた。少年よりも上背がある体に、意地の悪い笑顔。__少年をいじめていた奴らだった。黒猫をさりげなく逃がして立ち上がる。しばらく此処に来ていなかったからすっかり忘れていた。

「何の用だ。」

「なんだいその態度は。僕たちは君に現実を教えに来てあげたのに、ねえ?」

くすくすと耳障りな笑い声が響く。思わず怯みそうになって、それでも相手を睨み返す。いつの間にかポケットに入れていた時計を強く握りしめていた。

「ねえ、きみは確か、魔法使いになりたいんだっけ?」

「…それが何?お前達には関係ないだろう。」

「ああ怖い!でもそうやって意地を張ってられるのも今のうちだよ。そうでしょ?先生」

かれらが少年のすぐ隣に目を向ける。不思議に思い隣を見ると、子供くらいの背丈しかない、落ちくぼんだ眼をした老人が立っていた。

「うわあっ!?」

おもわず後ずさると、彼らがまた笑った。

「うわあ、だって。間抜けなやつ」

「馬鹿だなあ」

くすくす笑う彼らには目もくれず、老人はその表情を一切変えずに言う。

「驚いた。祝福の気配を一切感じない。」

「…え…?」

老人がこちらに目を向ける。その気だるげな仕草はどこかあの店の店主に似ていたが、彼の目には光が宿っていなかった。この目は知っている、と少年は思う。__死人の目だ。

「きみ、まほうつかいになりたいのかい?」

死人の目をした老人が言う。その目をどこで見たのか、思い出したくもなくて少年は目を背けた。

「__まず無理だろうね。魔法使いどころか、一般人が使えるような基礎的な魔法も使えないだろう」

その言葉に、少年の頭は真っ白になった。__魔法が、使えない?でもあの時、魔法使いの青年がきっとなれるって、こんな僕でも彼のようになれるって、奇跡を起こせるって、言って、

「ほらな!俺たちの言ったとおりだ!わかったらさっさと諦めて陰気な生活でも送ることだな!」

より一層大きくなった笑い声が直接頭に響いてずきずきと痛んだ。

「うそだ!!」

笑い声を振り払うように少年が言う。

「嘘じゃないさ」

応えたのは老人だった。反射的にそちらを見る。目が合った。

「君は魔法使いにはなれない」

その瞬間、嫌でも思い出してしまう。そうだ、あの目を見たのは__彼が独りぼっちになった時だ。

「嘘だ、嘘だ、うそだ!!!」

全てをかき消すように放ったその声は、厚い雲に覆われた灰色の空に虚しく響いた。


気が付けば、路地裏の一角にいた。足元の黒猫が心配そうに彼を見上げる。少年は弱々しく黒猫に笑った。

「…戻ろうか。」

少年はまだふらついている足でいつもの方角へと向かう。そうだ、本を読もう。そうすればきっと忘れられる。この感情も無かったことにできる。そうすれば、また__

しかし、そこで悪夢は終わらなかった。

路地裏には何やら人が集まっていて、いつにもなく騒がしかった。

「何だろう…」

なんとなく嫌な予感がして、人と人の間を縫うようにして少年は進む。どうか何もありませんようにとただ願いながら走っていると、ふと人が途切れた。そこには紺色のローブを着た者が数名集まっていた。__魔法使いだ。彼らは皆一様に杖を一つの方向に向けている。確かそこは、あの店のある場所だった。猛烈に嫌な予感がして、魔法使いに気取られぬよう後ろから覗き込む。

__そこには、跡形もなく壊された建物と囲まれ動けなくなった店主の姿があった。

「得体も知れない禁術を我が国に持ち込むとは、どうなるか分かっているのだろうな。」

魔法使いのひとりの声が響いた。それをあざけるように彼女は笑う。

「得体も知れない禁術?ハッ、よく言うよ。魔法とやらのほうがよっぽど気味が悪いね!」

「なんだと!?」

魔法使いが杖の先を一斉に彼女に向けた。近づくことも出来ぬまま魔法使いの後ろで立ち尽くしていると、ふと店主と目が合った。何か言いたげに目をすがめた店主と少年の間に、誰かが割って入る。

「この子に手を出すな!」

__あの青年だった。店主が諦めたように目を閉じ、少年から目を逸らす。

「あ…」

違う、あのひとは悪い人じゃない。思わずそう言おうとしたその瞬間、低い鐘の音が辺りに響いた。辺りがざわめく。観衆も、魔法使いも皆一様に時計台を見上げたなかで、少年と店主だけが瓦礫の中に埋もれたぼろぼろの時計を見た。

16時00分。時計はいつものように三度鐘を鳴らし、何かを憂うように調子はずれな音をもう一度小さく鳴らして、沈黙した。

「__おい、居ないぞ!どこへ行った!?」

誰かがそう叫ぶ。ハッとして辺りを見渡すと、店主の姿はいつの間にか消えていた。何やら集まって話しだす魔法使いたちに、興が覚めたのか鐘の音に不安になったのか人々は散り散りになって消えていく。やがて魔法使いたちも去ってゆき、路地裏はいつも通り静かになった。

「__大丈夫かい?」

突然、後ろから声をかけられ少年は振り返る。魔法使いの青年だった。少し疲れたように栗色の瞳が揺れている。

「僕も突然呼ばれたんだ。まさかこんなことになるとは」

魔法使いも大変だねと青年が笑う。

「君もいつか魔法使いになったら__」

そう言いかけた青年の言葉を遮って、少年は言う。胸が苦しい。一度に色んなことが起こって、思考がごちゃついている。頭が痛い。子供たちの笑いが頭から離れない。

「僕は魔法使いにはなれない」

「…どうして?」

青年が驚いたように言う。その瞳の中に罪悪感のようなものがちらりと見えて、目を逸らした。

「ほんとは、分かってたんでしょ?おれに魔法を使う程の才は無いって」

「それ、は…でも…」

悲し気な目をした彼を押しのけて、言う。

「分かってたなら夢を見せないでよ!嘘つき!」

「…!」

ごろごろと低い音を鳴らして、ついに雨が降り出した。

__青年が悪くないことは分かっていた。あれが優しさから来た嘘であることも。けれど、何も持たぬ少年にはそれは眩しすぎた。


少年はこの日、すべてを失った。


「…。」

「にゃあ」

「……。」

路地裏の固い地面に横たわったまま、少年は動かない。何も考えたくなかった。何も、思い出したくなかった。

「にゃー…」

黒猫が心配そうに彼を見つめる。すっかり瘦せこけた少年はゆっくりと手を動かし、黒猫を撫でた。

「ほかのところへお行き。このままではおまえも死んでしまう。」

人は三日ほど水を飲まないと死ぬらしい。このまま寝ていれば永遠に夢を見られるだろうか。

「にゃあぁ」

黒猫は動かない。

「どっかいけって。ほら、しっしっ。」

手で追い払うと、黒猫は諦めたように去っていった。それを見て乾いた声で笑い、目を閉じる。低い鐘の音がした。もうすぐ星が降るのだろう。どうでもよかった。深く絶望していたはずなのに不思議と今は何も感じない。感情もどこかに置いてきてしまったのだろうか。本当にすべてを失くしてしまったな、と少年は笑った。

目を閉じたままうっすらと聞こえてくる人々の慌てたような足跡をただ聞いていると、ふと何か重い物が近くに置かれる音がした。のろのろと目を開けてそちらを見やると、それは一冊の本だった。どこか見覚えのある暗い赤色の背表紙が目に入る。恐らく、あの店の本だろう。まだ残っていたのかと感心していると黒い影が近づいてきた。黒猫だった。

「おまえ、にげなかったのか…いてっ、おい、やめろっ、いだだだだ」

かなり強く引っかかれ、なんてことするんだと口を尖らせて少年は身を起こす。読めということだろうか。黒猫の有無を言わせぬような強い視線に、放っておけばまた引っかかれるのだろうなと少年は渋々本を開いた。古い紙と埃のにおいがなんだか懐かしい。前書きには、こう書かれていた。

『奇跡は、案外すぐ近くで眠っている。

もしもそれを起こしたいと願うのなら、目を凝らし辺りを見回してみろ。多くの人が気付かぬだけで、それはすぐ傍にある。貴方が強く望めばきっと目を覚ますだろう。易い道ではない。しかし、希望はある。

この本がその道標となりますように。』

「奇跡は、案外すぐ近くで眠っている…。」

頁を捲り、そこに描かれていたものに少年は目を丸くした。

「そうか。そういうことか…!」

__そこには、見慣れた光の雨の絵があった。

星が降り始める。キラキラと光を振りまくものに包まれた街の中で、少年は立ち上がった。

魔法使いになどなれない。魔法の力など、これっぽっちも持っていない。それでも__

青年の言葉が脳裏によみがえる。

『それでも負けず、全てを打ち砕く覚悟で前に進めたなら__その時君は、君自身の手で奇跡を起こすことになるだろう』

ああ、あれは本当だったのかと、少年は思う。

魔法が無くても、それでも__奇跡を起こせるとしたら?

こたえはひとつしかない。

「この手で奇跡を起こして見せる」

見上げた先には、長年雨風に晒され色褪せた時計台。星の光を浴びて少年は不敵に笑った。


『この世界は魔法で出来ている。しかし、それは祝福などではない。人が偶然手に入れた力に過ぎない。』

誰も居ない時計塔の前、少年はその内部への扉を蹴り飛ばす。

「うわ、本当に古びてたんだな…」

『魔法を使えば、使われた力はやがて天に還る。力はやがて空に溜まり、行く当てもないまま固まって光の粒と化す』。

少年は時計台の中の螺旋階段を駆け上がる。手には、辛うじて残っていた部品や道具たち。

『それらの光の粒が雲に混じると、雨水は魔法の力に呑まれ実態を失くしたまま地に降り注ぐ。これが星が降る現象の正体である。』

「はあ、はあ、はあ…」

ついに時計のてっぺん、鐘のすぐ下まで登り切った少年は古びた頁を一瞥し、静かに笑った。

『尚、稀に劣化した時計台は誤作動で鐘が鳴ることがあり、その際、漏れ出した魔力が星の雨を呼ぶ可能性がある』

少年に魔法の才は無い。ただ__計算や道具を扱う技術…魔法以外に於いては、紛れもなく天才と言えるほどの才能を有していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る