第2話:アイスコーヒー

春の初め、不意に空を切り裂く初雷が響く中、僕は帰国した。空港に着いた頃は晴れ ていたが、地元に帰ってきた僕を待っていたのは、予期せぬ雷雨だった。桜が散る前 に一目見たい、そんな願いを胸に抱きながら、僕は雨を避けるようにして最寄り駅近 くのカフェに駆け込んだ。


扉を押し開けると、なんだか懐かしい香りが僕を包み込む。焙煎をしているときの香 りだろうか。そのうち晴れることを願って、僕は窓際の席に腰を下ろし、コールドブ リューを注文する。しかし、その日の分は既に売り切れていた。


僕は少し残念に思いながらも、提案されたアイスコーヒーに同意した。もちろんシロ ップを三つ添えて。コーヒーが運ばれてきた時、その深い色合い、弱まった苦さ、そ して引き立つ華やかさが、ふと僕を過去へと誘った。


2019 年 07 月中旬


「おまたせしました、アイスコーヒーになります。本日の豆はエチオピア産のものを 使用していまして…といった味わいになります。」


僕のクランベリージュースが届いて から程なくして、彼女のアイスコーヒーが届いた。ジュースにはなかった説明のよう なものがコーヒーにはある。クランベリージュースはこだわりからではなかったのか な。甘酸っぱくておいしいし、別にいいか。


「○○くんのジュースを分けてもらったし、私のコーヒーも飲む?」


そう言って彼女 は僕の前にグラスを置いてくれた。僕は苦いものが苦手だ。カフェにはよく行くから、 大学ではコーヒー好きだと思われるが、厳密には好きなのはカフェラテだ。それもシ ロップを三つ添えてもらう。とはいえ、こだわられたコーヒーだし、ここには初めて 来る。苦手、では好奇心を抑え込む理由にはならない。僕はグラスを口に運び、その まま一口飲んだ。


僕がクランベリージュースを飲んでいた時に見せていた怪訝な面持ちと違って、今は 口元がほころんでいる。綺麗な人だ。なんというか、こう、もっと笑顔にしたくなる。 そう思わせるような口元だった。


そこからは時の流れが早くなった。大学では学科は違うが学部は同じであり、共通の クラスがあること、実は大学外で共通の友人が存在していたこと、彼女もよくカフェ 巡りをすること。彼女の好みはコーヒー、僕のはカフェラテだが、この際こんな些細 な違いはいいだろう。僕は色々な話をして、彼女について知ろうとした。気が付けば おなかがすき始めている。もうそんな時間か。


「ラーメン?いいよ、いこっか。」


僕が晩御飯に彼女を誘うと、こう返事をしてくれた。 何故か僕はアイスコーヒーが飲みたくなった。ほころぶ彼女の口元を見ながら、僕は また、アイスコーヒーを分けてもらう。氷が解けて苦味は弱まっていたが、鼻から抜 ける華やかさは強くなっていた。


現在


「お客様、差し支えなければ、こちらのホットドリンクをどうぞ。」


店員がそう言うと、 僕は我に返った。雨に打たれた僕に見兼ねての提供だろう。こういう些細な優しさに は、相手がだれであっても心が惹かれるものだ。かく言うあの子もそうだったなと、 アイスコーヒーに引き続き、不意に思い出す。あの子とは 3 年と少し付き合い、様々 な場所に訪れ、色々な話をした。でも、家族の話はしなかった。いつまで経っても家 族の話をしない僕に、不審がるそぶりも見せず、何も聞かなかった。父子家庭で父と 仲が悪かった僕が、突然、彼女の家を訪ねても、何も聞かずに迎え入れ、一緒にご飯 を食べてくれた。そういった些細な優しさが僕は好きだったのかもしれない。と同時 に、肝心なことに限って、はっきり言わない僕は重荷になっていたのではないかと、 今では思う。あの時に「絶対に帰ってくるから。」と、はっきり伝えておけば何か変わ っていたかもしれない。思いにふけていると、雨が止み始めた。これも春らしいと言 えば春らしい。シロップをたくさん入れたアイスコーヒーは苦さよりも甘さが勝つ。 桜が見たい僕は、急いでアイスコーヒーを飲み干した。

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